私達は多くの失敗を犯す者です。自分でも呆れるほどに失敗を繰り返してしまうこともあります。でも、それが何かに対するチャレンジによる失敗であるならば、その一回一回の失敗は尊いものとなるでしょう。一万回もの失敗を繰り返したという発明王のエジソンは言いました「私は失敗したことがない。ただ、一万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ。この方法ではうまく行かないということを発見してきたのだ」。

彼にとって「失敗」というものはなく、それは「うまくいかない方法の発見」であったというのですから、私達はその前向きな気持ちに驚き、励まされます。
また失敗というものを信仰という眼鏡をかけて見るならば、そこには神のみ手が働いていることを、すなわち無益と思われる失敗を神が有益なものへと変えてしまうことに私達は気がつきます。ましてやその神は「私達を敗北者とはさせない」という確固たる思いをもっていてくださるのですから、このお方の力に寄り頼みながら、自分を通して神の栄光が現されるように色々なことにチャレンジしたいものです。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」イザヤ書第41章10節
マック
追伸:今日は大海原の前で素敵なカップルの結婚式がありました。Hさん、ブログを見ていてくださること、驚きつつも、嬉しかったです。とても素晴らしい式でしたね。今日は最後にご挨拶できずに申し訳ございませんでした。お二人の新しい門出の祝福をお祈りします。
今日お話した礼拝メッセージです。
よかったらどうぞ!↓
敗北のままでは終わらせません!
2008年8月17日
よく聖書の中で私は誰々が好きだということを聞く。ある人はパウロ、ダビデ、ヨハネ。それは、アメリカにおける人名にも表れている。私は個人的にはペテロが一番、好きだ。その一つの理由として、彼が雲の上の人ではなく、そのパーソナリティがあまりにも人間臭いゆえに、親近感を覚えるのです。彼が自分も犯してしまうような失敗をしているがゆえに親しみを覚えるのです。
実はこのペテロは新約聖書において160回以上名前が出てくる人物である。細かいところを見るとキリがないが、色々な彼の姿を見ることができる。その中で今日はペテロの身にきわめて短時間におこった出来事を見ていきたい。
イエス様は十字架にかかる数時間前にゲッセマネにおいて苦闘の祈りをしていた。その祈りとは自分が十字架にかかるべきなのか、否、それを回避することができるのかという祈りであり、その苦しみ、悲しみがあまりにも大きく私は死にそうだとイエスは血の滴りのような汗と共に祈ったのです。そして、そのような場にイエス様は共に祈るべく3人の弟子を連れていきました。しかし、彼らはイエスに対する理解も同情もなく眠りこけていました。彼らは2回もイエス様によって起こされ、3回目にも彼らは眠っていたのである。その中にペテロがいました。
その後、すぐに12弟子の一人、イエスを裏切るユダを先頭に祭司長、民の長老達がこの園にやってきた。ユダの接吻を合図にイエスを捕えるという手はずが整っていたのである。この時、イエスの側にいたペテロは剣を抜き、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落とした。ペテロはイエス様の側に3年間つき添い、そのイエス様の姿を見てきたはずだった。しかし、彼の性格は荒削り、頭に血がのぼると何をしでかすか分からないものだった。
その後、すぐにイエス様が捕らえられた。弟子たちは皆、我が身の保身のために、イエス様を見捨てて逃げ去ったと聖書は書いている。そんな中、ペテロはかろうじて遠くから、イエス様の後について来て、大祭司の中庭にもぐりこみました。イエス様の回りには不正な偽証を得ようと、祭司長、律法学者、多くの偽証者に囲まれていた。イエス様の回りにはイエス様を弁護してくれる人が一人もいなかった。
中庭にてペテロは一人で焚き火にあたっていた。季節はまだ寒い時、息も白くなるような時であっただろう。
●そんな彼に一人の女中がこう聞いた。「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」
■ぺテロは皆の前でそれを打ち消して言った「あなたが何を言っているのか分からない」と答えた。
●そう行って入り口の方に出て行くと、他の女中が彼を見て、そこにいる人々に向かって「この人はナザレ人イエスと一緒だった」といった。
■ペテロは再びそれを打ち消して「そんな人は知らない」と誓って言った。
●しばらくして、そこに立っていた人達が近寄ってきて言った「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことが分かる」
■ペテロは「その人のことは何も知らない」と激しく誓った。すると、すぐ鶏が鳴いた。ペテロは外に出て、激しく泣いた(以上マタイ26章69節以降から)。
なぜ、彼は激しく泣いたのか。実はこの彼の3度の否定のわずか数時間前に彼はイエス様に向かって、大胆にもこう言っていた「主よ、私は獄にでも、また死にいたるまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22章33節)。そして、それに対してイエス様は言われました「ペテロよ、あなたに言っておく。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないというであろう」。
こんなやりとりがイエスとあったから、だから、彼は激しく泣いた。さっきの勇ましい俺の言葉はどこにいってしまったのか、俺はイエスが言っていた通り三度もイエスを否んだ。三度ということは、一度否定しても、あとのニ度はその否定を打ち消していくチャンスがあったというだ。しかし、俺はそのチャンスを全てことごとく逃して、イエスを知らないと言い続けた。俺はいったいなんという人間なのだ!
こうなってしまっては、もはやペテロは「イエスの弟子」ではなく「かつてイエスの弟子だったペテロ」として、裏切り者、笑われ者として隠れるようにその生涯を終えるしかなかったことだろう。当然、その姿が聖書中に出てくることはないだろう。彼の後の人生に最後までつきまとう思いは、ただ過去の自分に対する悔いだけである。そんな生涯なら彼は何度も思い続けたに違いない、「あの時のあの失敗がなければ。もう一度、あの時に戻ってやり直すことができたら」と。
話しは少し変わりますが、ヨハネによる福音書という書が新約聖書の中にあります。このヨハネによる福音書は21章まであるのですが、ある学者達の間では、このヨハネ21章は20章につけ加えられたものだと言われています。なぜなら、この20章の最後には、まさしくこの福音書がそこで終わってもいいような言葉で結ばれているからです。すなわち、こう書いてあるからです。「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子であると信じるためであり、また、そう信じてイエスの名によって命を得るためである」この言葉と共に、このまま著者、ヨハネは筆を置いても、何も問題がないからです。しかし、あえて21章をヨハネはつけ加えたのです。なぜでしょうか?21章に書かれていることを知る時にその理由が明らかになります。そこには何が書かれているのでしょうか。
今、お話しましたペテロの大失敗の直後、イエスは十字架にはりつけにされます。その時、イエスの弟子達は四方八方に逃げてしまいました。かろうじて大祭司の中庭まで入り込んだペテロも、三度イエスを否んだという事実の前に、ボロボロになった心を抱えて、どこかに潜んでいたことでしょう。
しかし、その後キリストは、かねてから弟子達に話していたように復活なさり、ガリラヤ湖において再びこのペテロの前にその姿を現しているのです。そして、本当であるならば恥と悔いと共に人生を送らなければならなかったであろう、このペテロをもう一度勇気づけ、新しい使命と共に彼を送り出しているのです。
そのことがこのヨハネ21章には書かれているのです。すなわち、著者ヨハネがなぜこの21章を書き加えたか、それは一言で言うならば「キリストにあって人生、もう一度やり直せる」「キリストにあって、失敗は失敗で終わらない、いやイエスはそのことを良しとなさらない」ということを伝えたかったからに違いないのです。
今、イエスはガリラヤ湖で、ペテロに出会ってくださったと申しました。ガリラヤ湖があるガリラヤとはどんな土地なのでしょうか。この湖には地名以上の大切な意味があります。イエスの誕生750年前に生きた預言者イザヤはこう預言しました(イザヤ9:1,2)「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の地に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に光がのぼった」
このイザヤの預言はガリラヤという地が決して、霊的に恵まれた地だとは言っていません。いいえ、反対にそこは死の地、死の陰があるような土地なのだというのです。すなわち、そこでは人々が何の希望なく生きていたということです。生きてはいるのですが、神なく、善悪の判断もなく、人と人との間に闇があったということです。そして、そこはペテロを含め多くのイエスの弟子達の出身地であり、またそこはイエスの宣教活動の主な舞台だったのです。そのガリラヤでイエスはペテロや他の弟子達に会われたのです。
なぜ、ガリラヤなのか。イエスはかって、ご自身が十字架にかかられる前、最後の晩餐の席上でこう言っていたのです「あなたがたは皆、わたしにつまづくであろう。わたしは羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう。と書いてあるからである。しかし、わたしはよみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」(マルコ14章27節)。
そして、それはイエス様のみならず、神様のご計画においても、この場所の設定というのはとても大切な意味があったようです。墓に収められたイエスの体に香油を塗るために来た女たちに対しても、御使い達はこう言っているのです。「イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」と。(マルコ16:7)
ペテロと他の弟子たちはイエス様の言われたとおり、この「暗黒のガリラヤ」にやってきたのです。そして、先ほど申しましたようにその「暗さ」がガリラヤという土地を指すように、ペテロ自身の心も深い暗闇に包まれていたに違いないのです。とりかえしのない失敗を彼は犯したのですから。どんなに言い訳を見つけようとしても、何も見つからず、ただ自分を責める以外にはないのですから。
心身ともに疲れきった彼、もう自分の人生をかけたお方は共にいない。希望が失われ、これからどうしたらいいのかということも見当がつかない日々。しかし、それが人間の定め、これからの現実の生活に向き合わなければならないことにも気がついていったことでしょう。彼は生活の糧を得るために、このガリラヤにあるガリラヤ湖で仲間達と漁に出ました。船を一漕ぎする旅にイエスと共に、このガリラヤ湖の沖に出た日々を思い出したに違いありません。
彼らは自分達が知り尽くしているガリラヤ湖に網を投げ入れました。何度も何度も。しかし、その日はなんの獲物も捕らえることが出来ませんでした。なんという虚しさであろう。かつてはそれを生業としていた者達がガンバッタにもかかわわらず、小鮒一匹も収穫がなかったのです。彼らの心身には、ただ深い疲労だけが残されました。
と、その時、岸にて声をかけられるお方がおられました。「何か食べる物がありますか」と(他の聖書には「獲物がありませんね」と書かれている)。彼らはその質問に対して「ありません」と答えました。すると、この岸に立つ者は言うのです。「舟の右の方に網をおろしてみなさい。そうすれば、何か捕れるであろう」疲れていた弟子たちはその通りにしました。これまで何時間もあたり一面に何度も網を下ろしてきたのです。それが、ここにきて船の右側に網を下ろして、何かいいことが起こるはずはありません。しかし、彼らはその言葉に従いました。すると、おびただしい数の魚が捕れたのです。捕れ過ぎて、それを引き上げることすら出来なかったのです。
彼らは網をおろし、引き上げるために最初の力を入れた瞬間に、それまでとは状況が違うということに気がついたに違いありません。握りこぶしから全身に伝わる網の重さ、そして、それと同時にたった今、自分達に声をかけた方のことを思ったに違いありません。皆の心にあることを代表してヨハネが言いました「あれは主だ!」。
皆さん、鳥肌が立つという言葉がありますが、この弟子たちの頭からつま先まで、まさしく電流が流れたのではないかと思うのです。もう、ペテロなどは、船の上などにはいられない。何を考えたのか、上着をまとい海に飛び込みイエスの元に泳ぎだすのです。他の弟子達も、全力で岸へと船を漕いだに違いありません。
その時のペテロは失敗者、敗北者、裏切り者。これらの汚名を挽回することは自分ではできませんでした。しかし、神様は彼がその失敗と共に生涯を送ることを願ってはいなかったのです。だからあらかじめ言われたのです。「あなたがたより先にガリラヤに行く」。お前たちは、私を訪ね探さなければならないとか、ガリラヤに先に行っててくれではなく、私はお前たちより先に行って、お前たちを待つぞというのです。そして、実際にイエスこのガリラヤ湖畔でペテロと親しく会い、彼をもう一度立ち上がらせてくださったのです。
かつてのパテロは思っていたことでしょう。自分はマンザラでもなくて、ほどほどの人間で、この師であるイエスにも生涯、従っていけると思っていたにもかかわらず、このお方を裏切ってしまったペテロ。彼は罪責感、自己嫌悪、そんなまさしく暗黒の中に過ごしていたに違いない。しかし、イエスはその彼の真っ暗な心の中にもう一度、ご自身が光として輝いてくださったのです。ヨハネ伝の著者、ヨハネはこのことを記すがためにこの21章をつけ加えたのである。
皆さんにとって、ガリラヤはどこですか。あの時、あの場所、あそこからもう一度やり直したい。あの時から私の人生は変わってしまった。あの日以来、私の人生は闇に包まれてしまった。聖書のメッセージはその暗闇からの解放を伝えるメッセージなのです。キリスト御自身がそのあなたの心の暗闇に来てくださり、そしてあなたの生涯の決して消えることのない光となってくださるのです。そして、それだけではありません。
ペテロは大失敗を犯しました。それこそ、もうセカンドチャンスはないと思われるような致命的なものです。しかし、イエス様はこのペテロがその失敗を犯すであろうことを、あらかじめ知っていて下さり、彼に向けてこう言われていました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」
イエス様は気づいておられました。これから、ペテロがしでかしてしまうことを。まさしく、それはサタンによってふるいにかけられることだということを。不思議なことにサタンはそれを願い、そして、それは許されたとある。なぜ、許されたのか、イエスはペテロがそのふるいにかけられ、揺さぶられ、試みられても、彼は立ち直ることができると信じておられた。否、それだけではない、彼は一度、そのようなところをとおって、自分の自信と力というものが根底から崩される必要がありました。それなくしては、彼は用いられることはないということを知っていた。あたかもそれはプロの漁師である彼が自分の経験と勘に頼って漁をしていたが何の成果もなく、イエスの一声で大きな収穫を得たように。
そして、その試みによってペテロに信仰がなくならないようにという、イエスの取り成しの祈りがそこにはあったのである。聖書はイエスが度々、朝早く起きて祈られていたことを記しています。彼らが朝、目覚めるとイエスは、既にその寝床にはいなかったのです。何かあるたびに寂しいところに行かれて祈っていたのです。誰のために?彼は自分の弟子のため、そして、この荒削りのペテロのために祈っておられのです。その信仰がなくならないようにと。
そして、そんな彼にイエスは言われた。「あなたが立ち直った時には、兄弟を力づけてやりなさい」
私達は心に刻みたい言葉があります。それは「つまづいた者でなくては、つまづいている者は助けられない」のです。イエスはこの法則をペテロに当てはめたのです。ペテロが大祭司の中庭で3度イエスを知らないと言ったこと。あの出来事をペテロは、秘密にしておくことが出来たのではないだろうかと。そんな自分の恥をあえて言う必要は無かったのではないだろうか。それは自分のプライドに関わる問題です。実際、それを見ていた弟子はいなかったでしょうし。
しかし、彼の失敗は福音書に記されている。なぜか?彼の失敗は、自分に対する失望をイエスがその愛と恵みによって包み込んでくださったということを彼は知っていたからです。だから、彼は何かあるたびに、この自分の失敗を仲間に話したのであろうと思います。
特にペテロは使徒たちの間でリーダー的な存在だったろう。彼のメッセージにより3000人が一度に救われたと使徒行伝には書かれている。その彼が、語る自分の失敗。その体験は、そして、それを包みこむ神の愛は、聞く者を励ましたことでしょう。そして、その証拠に現に今、2008年を生きる私達もこの朝、このペテロとそのペテロの暗闇を光を変えたイエスに希望を見出しているではないですか。彼の証言を通して、今日もイエスは私達の間ではたらいて、私達のためにとりなしの祈りをし、私達の暗黒に閉ざされているような心の扉を開き、そこにキリストにある光を届けてくださるのだということを私達は知り、内かわ湧き出る力を受けているのですから。
皆さん、神様は私達が失敗多き者であるということなど、重々承知しているのです。そして、この神様はあなたの失敗をも放っておくことができない方なのです。あなたの人生の失敗を失敗のままで終わらせたいとは願っていないのです。あなたの人生、後悔と罪悪感に押しつぶされるように歩んで欲しくはないのです。
もし、あなたがキリストに個人的に出会い、その人生を明け渡していくならば、あなたの人生は必ず変わります。失敗と思われていたものすらも、輝いてくるのです。そして、それだけではありません、その時からあなたにはとてつもないやりがいのある使命が与えられます。それはイエスがペテロに語られた言葉、「あなたが立ち直った時には、兄弟を力づけてやりなさい」という言葉がそのまま私達の人生の生きがいとなっていくのです。
お祈りしましょう。