ユーモアとは自分の愚かさ、みっともなさをさらけだす笑いのことであり、自分自身の小ささや愚かさを認めることによって生まれるものです。そして、そう考えると一つの真理に気がついていくのです。それは、実に信仰を持つということは、神の前での自分の小ささ、限界、いたらなさを知ることなのですから、信仰とはユーモアと隣り合わせであるということです。
ということは、私達が神との関係を見失う時、すなわち神の前での自分のいたらなさとか無力さというものを忘れる時に、私達はユーモアを失います。自分の小ささ、愚かさ、みっともなさを見ることをやめ、神の権威や力を、自分のものであるかのように考え始める時に私達の心には怒りがたまり、それはやがて抑えきれないものとなります。
自分を笑うことができること。

それはきわめて高度な信仰のかたちです。
マック
今日、お話した礼拝メッセージです。
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怒りを笑いに!(ユーモアの勧め)
ヨナ4章1節ー11節 2008年8月3日
「キレる」という言葉があります。私が子供の頃はこの「切れる」という言葉は「包丁が切れる」とか「頭が切れる」というようなことに使われたのですが、最近は違った意味を持つ言葉としてすっかり日本社会に定着しています。最近の国語辞書にはこの「キレる」ということは「突然怒ったり、見境がなくなること」と書いてあり、それに関連する言葉として「ブチ切れ」とか「マジ切れ」「逆ギレ」などか記されていました。
よくこの「キレる」ということが巷では起こり、誰かを怒鳴りつけたり、誰かを殴ってしまったり、誰かを刺してしまったりということが新聞記事に出たりします。すなわち、そのキレるということは単純に言いますと「怒る」ということであり、それは私達誰もが持ち合わせているものです。
聖書の中ではこの「キレる、怒る」という言葉がいつ出てくるかといいますと、最初の人、アダムとイブの間に生まれたカインという息子が「大いに憤って」(創世記4章5節)、その弟アベルを殺したと書いています。すなわち、怒りとは初めの人間達が既に持ち合わせていたものであり、私達は確実にその性質を受け継いで今日を生きています。
どうでしょうか、皆さんの中に怒りやすい自分が好きだ。自分は自分の短気さに感動しているという方いますか?怒りには色々な影響が出てきます。肉体的影響としては、怒りはアドレナリンを急上昇させ、血圧があがる原因となり、心拍数もあがり、脳卒中または心臓発作につながります。精神的影響としては、怒りは罪責感、敗北感、憂うつ、常に動揺し、激しい怒りに駆られ、ついには自分を壊し、回りの人間関係も破壊します。あの日、あの時の怒りによって、人生が全く変わってしまったという人達が世界にはどれだけいるのでしょうか。
ですから、私達はこの怒りをどうにかしたいと願っているのです。怒りによって言ってしまったこと、書いてしまったこと、あとで血の気が引くような事を私達は経験します。怒りによって鉄格子の向こう側で生活をしなくてはならなくなった人はどれだけいるのでしょうか。
アメリカでは「Anger Management」というクラスが盛況です。多くの人が自分の怒りを抑えられないでいるのです。そこでは色々なテクニックが教えられます。どれもこれも有効的な方法だと思います。しかし、今日はそのようなことはお話しません。ただ、今日は聖書に出てくるヨナという人の姿を通して、聖書からのメッセージに耳を傾けたいと願っています。
このヨナについて聖書はヨナ書の4章を割いて書いています。かいつまんで話しますと、このヨナは神の言葉を受けて、それを人々に語る預言者でした。ある時、このヨナに神様は「大都市ニネベに行って、神の怒りが臨んでいるということを警告しなさい」と言われるのですが、彼はそれを望まず、ニネベ行きの船には乗らずに別の方角に向かう船に乗り込んだというのです。しかし、そのことが原因でこの船は嵐に遭い、このヨナが嵐の原因となっているということで海に投げ入れられてしまうのです。そうしましたら確かに嵐は止みました。そして、ヨナはこの魚の腹の中で悔い改めつつ三日三晩をその腹の中で過ごし、最終的に陸に吐き出されるのです。
そんなヨナに神様は再び「ニネベに行き、命じる言葉を伝えるように」と言うのです。彼はその町で「40日を経たらニネベは滅びる」と巡り語りました。そうしましたら、このニネベの人達は、王を含めて神の前に心から悔い改めたというのです。それを見られた神様はニネベに起こそうとしていた災いを思い返された止められたというのです。それはニネベの人にとっては、とてもよい事でした。滅亡が預言されていた一つの町がその破壊から免れたのですから。しかし、ヨナの心の内には違った思いがあったようです・・・。
そのところを聖書本文、そのまま読んでみましょう(ヨナ4章1節ー11節)。
①ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、②主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。
③それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。④主は言われた「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。⑤そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
⑥時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。⑦ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。⑧ やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
⑨しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。⑩主は言われた「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。⑪ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
この箇所から私達は二つのことを見たいと思います。「怒りがわく時に神は私達に大切なことを教えようとされる」そして、もう一つは「ユーモアのすすめ」ということです。
「怒りがわく時に神は私達に大切なことを教えようとされる」
この箇所を読みます時にヨナは怒っています。自分が預言したようにニネベが滅びなかったことに怒っています。面目を失ったということに怒っているのです。その怒りは大きく彼は「非常に不快として、激しく怒り」と書かれています。
そんな怒り、不快を感じているヨナを神様は憐れんで、灼熱の暑さから彼を守るためにとうごまを生えさせ、彼に日陰を与えました。彼はそれを非常に喜び・・・、このあたりを読んでいきますと、このヨナの子供のような様をうかがい知ることができます。かつては駄々をこねていた彼、しかし心地よい場所が与えられたら大喜びする彼、しかし、話は続きます。翌日の夜明け、神様は虫をもってこのとうごまの木を枯らしました。彼は再び照りつける太陽の暑さに死ぬことを願い言いました「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
皆さん、私達はこのヨナの姿を読む時に、その幼稚さに笑ってしまうのです。しかし、よくよく考えたら、私達とてヨナのような怒りを共有するのです。多くの私達が怒ることの一つに、私達の面子がつぶされることがあります。特に日本人を含め、アジアの人たちというのはこの面子というものをとても大切にします。故に私達は物事の段取りといいましょうか、根回しというものを大切にするのです。そうすることによって互いの面子を保つためです。
また、私達は自分の心地よさが奪われると怒ります。それまでスイスイ走っていたフリーウェイが渋滞となると、人々はだんだんと寛容さを失い、時に些細な事で路肩で喧嘩を始める人もいます。日本の満員電車の中で、身動きできない中にいる時に叫びたくなったことはないでしょうか。ましてや、暑い日にその電車のエアコンが壊れていたら、私達は互いにいつ爆発してもおかしくない怒りをため込むことになります。
ヨナはニネベの町で「滅びる」と伝えなさいといわれてそうしました。しかし、彼らはそれに反応して悔い改めた。だから、滅ぼされることはなかった。一本のとうごまが枯れた。それによって彼は激しく怒ったのです。
しかし、このことに対して神様は言われているのです「あなたの怒るのは、よいことであろうか」(ヨナ4章4節)「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。まして私は12万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか」(ヨナ4章10、11節)。
皆さん、この箇所で興味深いのは、神様が生えさせたとうごまを神様が虫をもって枯れさせたと書いていることです。ヨナはとうごまを非常に喜んだのです。それなら、喜ばせておけばいいのにと思いますが、神様は翌日、火に油を注ぐかのようにして、このとうごまを枯らしたのです。神様はなんて意地悪なのだろうか。ヨナを挑発しているのではなかろうかと思いませんか。I
いいえ、この「とうごま」には大切なレッスンが込められていました。すなわち、とうごまを生えさせ、枯らすことによって、神様は大切な真理へとヨナを導かれたということです。すなわち、一夜にして滅びたとうごまによって、神様はたとえそれが悪質な人達であっても、どんなにかニネベの人を愛しているかということを教えられたのです(ヨナ4章10、11節)。
ヨナは枯れてしまった一本のとうごまの木を見て、怒り狂ったのです。しかし、神様はその一本の木から、大きな一つの町に対するご自身の思いを明らかにされたのです。
私達の怒りはいつも何かに向けられていきます。怒っている時に私達の感情はほとんど全てその怒りの矛先だけに向けられており、他のものを見る余裕などありません。しかし、その怒りの背後に私達にとってとても大切な神様からのメッセージがあるのです。それは、枯れたとうごまの前に一人立ち尽くす小さな人間ヨナに対して、ヨナの生涯全てを見通すことができる神からのメッセージなのです。
私達がそれがいかなる理由であっても、心の中に憤りを感じている時、怒りが沸いてくる時、その時、神様は私達にとても大切なことを教えようとされます。一本のとうごまが枯れたことに激怒していた、ヨナはとてつもない真理をその時に示されたのです。もし、私達がその怒りの時、我が心に手を置いて神のみ声を聞くならば、私達は今まで考えたこともない大切なメッセージを受け取ることになります。そして、それは私達にとても大切なことを気づかせてくれるものなのです。
しかしです、怒りが沸いている時、私達はその真理に目を向けるためには、湧き上がってくる怒りをまず静めなければなりません。そのマグマを一度、冷却する必要があります。どうしたらこの怒りを冷ますことができるのでしゅうか。一つの方法をお話したいと思います。
「ユーモアのすすめ」
このヨナ書を読みます時に、私達はその全体がどこかユーモアに包まれていることに気がつきます。いくつか理由が挙げられますが、先に触れましたようにヨナという主人公があまりにも人間臭いから、そこに私達はユーモアを感じるのです。そして、このヨナ書を書いた著者もまた、またその背後におられた神様もそのユーモアというものを持っておられたのではないでしょうか。
そもそもユーモアとは、英語で人間を言い表すHuman(ヒューマン:人間)が変化してHumour(ユーモア)になったと言われているそうです。In the first place, the word, “Humor” comes from the word, “Human”.
だからユーモアには、単なるおもしろさではなくて、そこには人間的な滑稽さやおかしさの意味が込められているというのです。つまりユーモアには、人間の生活のなかにある矛盾や失敗というものを、寛大な態度で、笑い、楽しむような側面が含まれているのです。
さて、それではこのヨナ書にあるユーモアとは何なのか。それはヨナという人が自分の我を通そうとするのですが、ことごとくそれが通らないということです。そして、そんな現実をすねている彼の姿に私達はおかしさを禁じえないのです。
しかし、ヨナはこのことに気がつかずに怒りました。確かにそうです、誰であっても自分の姿というものを客観的に見ることは難しいのですから。しかし、もし彼が「駄々をこねていた自分」「魚に飲まれて、べっとりと魚の匂いが体に染み付いてしまった自分」そして、「自分の警告によって危険が身に迫るのではないかと恐れていたにもかかわらず、ニネベの人達があっさりと悔い改めてしまった」ということ、「たった一本の木に右往左往している自分」を笑うことができたら彼は怒ることはなかったのではないでしょうか。
ユーモアとは自分の愚かさ、みっともなさをさらけだす笑いのことであり、ユーモアとは、自分自身の小ささや愚かさを認めることによって生まれるものです。そして、そう考えると一つの真理に気がついていくのです。それは、実に信仰を持つということは、神の前での自分の小ささ、限界、いたらなさを知ることなのですから、それはユーモアと隣り合わせであるということです。
ということは、私達が神様との関係を見失う時、すなわち神の前での自分のいたらなさとか無力さというものを忘れる時に、私達はユーモアを失います。自分の小ささ、愚かさ、みっともなさを見ることをやめ、神の権威や力を、自分のものであるかのように考えはじめた時に私達の心の怒りは抑えきれないものとなります。
そもそもこのヨナ書が書かれた時代背景というのは選民と呼ばれたユダヤ人達が、神と自分達の間の区別というものを忘れ、あたかも自分達が神のように振舞っていた時に書かれたものであるともいえます。この著者は「選民」と言っても、俺たちの姿はしょせんこのヨナのようなものではないかと伝えているようです。そのような傲慢な時代に、神様はフッと肩の力がぬけるようなこのヨナ書を記したのです。
このヨナの物語は、今もわたしたちに問いかけている。わたしたちの信仰は、はたしてユーモアに耐え得るものだろうか。ユーモアを失ったきまじめな信仰は、「正しい」裁きと「正しい」怒りに満ちたものになるだろう。しかし主は、ヨナの物語を通して、その「正しい怒り」にむかって問うのだ。「おまえは怒るが、それは正しいことか」と。
怒りと笑いというものは対極的なものです。しかし、沸騰した湯に氷を入れると冷めるように、怒りにはその対極にあるものと向き合わせることが有効なのではないでしょうか。
世界の民族の中で一番、このユーモアのセンスがある民族をご存知ですか?ユダヤ人です。なぜユダヤ人にユーモアが多いのか。彼らが迫害の歴史を追っていたからである。それこそ、その抑圧を受ける彼らが怒ってしまってもおかしくない。しかし、彼らはユーモアを発することによってその狂気から免れてきたのです。そして、その聖書の民達のユーモアとは、全知全能の神の前に立つ、神に愛されている一人の人間としてのおかしさというものなのです。
ユーモアなどといいますと、キリスト教には関係ないものだと思われる方いるかもしれません。しかし、そうではありません。皆さん、両隣にお座りになっている人をよく観察してください。いいえ、人だけではなく自分自身をよく見つめてみてください。私達を造られた方は、それだけでなんとユーモアに満ちている方かと思いませんか。
自然界を見てください。このお方のユーモアは際立っています。私達はもっともっと、この神のユーモアについて語らなければならないと思います。
皆さん、私はこのようなお話をするのははじめてです。しかし、私達信仰者はユーモアが分かる人だということです。そして、ユーモアは下品な笑いや芸のことをさすのではなく、ユーモアは神様が人間に与えられた素晴らしいギフトなのです。社会に道徳や法律があるように、ユーモアにも、ルールというものがある。どんなに自分がユーモアと思っても、それを受け取る人間が、不機嫌になるような内容のユーモアでは、ユーモアとは言えない。つまり悪い冗談や下品な言葉は、「ジョーク」ではあっても「ユーモア」とは呼ばれない。ユーモアの基本は自分の滑稽さを小ささを神の視点から笑うことです。
神様はヨナに言いました「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。「ちきしょー」「むかつく!」、そう言って、怒鳴り込む前に、受話器を取る前に、何かを蹴飛ばす前に、物を投げつける前にそんな自分を笑ってください。いったい、俺は私は何をそんなに怒っているのだと笑って下さい、そうしますと神様の細き声が聞こえてはきませんか「こんなことのためにあなたの怒るのはよろしくない」。私はあなたに笑みをもって見つめているだ。あなたの憤りを私に委ねて、私の笑みに答えてはくれないだろうかと。
お祈りしましょう。
月曜日の夜に無事LAに戻ってきました。日曜日の礼拝はとても素晴らしかったです。礼拝に出られただけでサンディエゴに帰って来て本当によかったと思いました。また帰った時には行かせていただきますね。ありがとうございました。
野球小僧くん
野球小僧くんと言えば、このカリフォルニアにはSくんしかいないでしょ。
日曜日は共に礼拝を捧げることができて嬉しかったよ。アメリカの故郷、サンデイェゴにいつでも帰っておいで。
Sくんがメジャーにあがった際には、「号外一面フォント最大太文字」でブログに載せます!(って、そんな大げさなブログではないのですが)。
一日一日、コツコツとがんばれ!