心の空白はどうしていますか?

あれか、これか、それとも・・・。私達は己が心を満たすことができるものは何かと探し求める。富、知恵、快楽、労苦、異性、名声・・・。聖書の中にはこれらのものを全て桁違いに手中にした王が出てくる。その王が言っている。

「私はわが手のなした全てのこと、およびそれをなすに要した労苦を顧みた時、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである」(伝道の書2章11節)。

j0403640.jpg
じゃーどうしたらいいのだろう?

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ!↓

心の空白はどうしていますか?
伝道の書1章2節
2008年6月29日

時々、動物を見ていて彼らは何を考えているのだろうかと思うことがあります。彼らが喜んでいるということ、悲しんでいる、恐れているということなら、どうにかうかがい知ることができるように思えます。でもやはり彼らと私達の間には違いがあり、人間には人間だけにしか与えられていないものも数多くあります。

たとえば伝道の書3章11節には「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」とあるように永遠ということに対する思いは私達人間だけに与えられているのではないでしょうか。動物が退屈だという仕草を見せることはあっても(特に子犬や子猫)、彼らが日々の生活に虚しさを感じているかどうかといいますとそうとは思えません。虚しさという思いも私達人間に特有のものであり、この思いは性別・人種・文化を超えて誰でも持ち合わせているのではないでしょうか。

今日はその虚しさということについて「伝道の書」からいくつかのみ言葉を見ていきたく願っています。この伝道の書の著者はソロモンという人で、彼はイスラエル王国の第三代目の王でした。彼は家庭をもち、仕事に熱中し、多くを学び、神殿と自分の家を作りました。この彼の人生は今日の人間にとって真新しいことではなく、私達が経験することでもあり、また見聞きすることでもあります。しかし彼の場合、少しその程度が違っていました。

聖書によりますと、今から3000年前に生きた彼は誰よりも多くの知恵を得、神殿と自分の家を建てました。でも、それは私達の家には部屋が4つありますというような代物ではなくて、その神殿に関して言えば、18万人もの労働力を使って7年を費やし、それが完成した時には2万2千頭の牛、12万頭の羊を神にはん祭として捧げました(牛一頭の丸焼きすらも私達は見たことがありません)。そして、彼はさらに13年をかけて自分の家を建てました(列王記上6章38節、7章1節、9章10節)。

また、ソロモンの財宝について聞いたことがあるでしょう。彼の王宮には世界中から集められた財宝で満ちていました。彼に仕える兵士の盾やすべての器具は金、王座は象牙、銀は『いやしめられて床に敷かれた』といわれます。「これは純金のネックレスなのよ。本物の真珠よ」というのとは桁が違います。また彼の周りには歌うたう男女がはべり、彼の王妃の数は700人、妾が300人いたと聖書は書いています(列王記上11章3節)。また興味深いことに彼は外国から金、銀、象牙などと共に、猿や孔雀をも連れてこさせたと書いています。彼の肩には小猿が座り、彼のリビングルームには孔雀が優雅に羽を広げていたのかもしれません(列王記上10章22節)。皆さんの中でリビングの中に猿と孔雀を放し飼いにしている人いますか?

このソロモンの名声と繁栄は人々の噂となり世界の隅々にまで広まっていきました。神様は彼に驚くべき知恵も与えられたので、彼は多くの問題をその知恵によって解決していきました。彼が解決した「一人の赤ん坊を奪い合う二人の母親」の問題は日本の時代劇、大岡越前にまで出てきます。もちろん、ソロモンが大岡越前の知恵を拝借したのではなく、大岡越前がソロモンをまねているのです。

しかし、皆さん、そんなソロモンは終始一貫、この伝道の書において「全ては空だ!」と言っているのです。ソロモンも同じ人間、私達と同じことを求めたようです。すなわち、自分の心を本当に満たす者は何かと考えたようです。そして、彼は私達がそうするように、「これがそれじゃないか、いやあれなのか」と自分の願うものを一つ一つ確実に手中に治めていきました。

今日は最初にその彼が「これじゃないか」と思ってかき集めたものを6つ見てみましょう。それらは今日の私達が「これじゃないか」と追い求めているものでもあるのです。

① 富

時代は変わってもこのことは今日も変わりません。ソロモンが求めたもの、そして獲得したもの、それは富でありました。その富については先にお話したとおりです。しかし、この富についてソロモンはこう言っているのです。

「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。財産を増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし、飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない」(5章10節-12節)

13 わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。14 またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。(5章13節-14節)
彼は開口一番言っています。「金を好む者は、富を好む者は、金、富で満たされることはない。そして、この富を増せば、その管理も必要で、その富ゆえに思わぬ危険に会うこともある。しかも、その富とは目で見て楽しむだけで、なんの益が自分にあるというのか。飽き足りる富と共に、私は心地よい眠りを奪われている」。

皆さん、多くの人達がその人生にこの言葉を知っていたら、そして深くこの言葉をその心に刻むなら、その人生を棒に振る事がなかったかもしれません。私達の心は「あれがあれば」「これさえあれば」と飽きることがありません。果てしなくその願望は広がるのです。

イエス・キリストは言いました「この水を飲む者は誰でも、また渇くであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命にいたる水がわきあがるであろう」(ヨハネ4章13節、14節)。

キリストが言うところの「水」とは、この富もそうですし、これからお話させていただきますソロモンが求めたもの、私達が今日、求める全てのものを含んでいます。ソロモンがそうであったように、私達はこれらのものを求めても渇くのです。しかし、キリストが与えてくださる命の水を飲む者は渇くばかりか、その心で泉となり、永遠の命にいたる水が湧きあがるのです。2つ目のこと、それは知恵ということです。

② 知恵

今日、賢くなることをやめなさいと言う人はいません。親達は子供に出来る限りの教育の機会を与えようとしています。しかし、必ずしも最高の教育を受けている人が幸せかと言いますと、そういうわけでもなく、かえってその知識がその人にとって足かせとなっていることがあります。もう随分前に、ソニーはその履歴書の中からその人の学歴を記す項をなくしたと言いますが、その真意も分かるようなきがします。ソロモンは言いました。

「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである」(伝道者の書第1章第18節)

この言葉はこの21世紀に何とあてはまる言葉でしょうか。今日、この「知恵」とか「知識」ということを私達は「情報」と置き換えることができるかもしれません。すなわち、情報が多ければ悩みが多い、情報を増す者は悲しみを増すというのです。今日の溢れんばかりの情報の中には私達に害となるものが多くあります。その中で必要な情報だけ得ていればいいのですが、私達は余計なものまでインプットして苦しんでいるのです。また、この情報に振り回されて、自分を見失っている人達がたくさんいます。

ソロモンはまた言いました。「16 わたしは心をつくして知恵を知ろうとし、また地上に行われるわざを昼も夜も眠らずに窮めようとしたとき、17 わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。人はこれを尋ねようと労しても、これを窮めることはできない。また、たとい知者があって、これを知ろうと思っても、これを窮めることはできないのである」(8章16節-17節)
「今あるものは、すでにその名がつけられた。そして、人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか」(5章10節-12節)

どんな優秀な科学者であってもその先は進めないという領域にぶつかると言います。それを人は神秘の世界と呼びます。極め尽くすことができない知恵の限界を彼は感じていました。また彼は言います。たとえどんなにたくさんの知恵を頭に蓄えても、どうして私は何が正しいのか、正しくないのかを知ることができようか。私の人生ははかないもので、影のようなものなのだ。また彼は言います。

「今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い」(2章21節)

この現実的な虚しさ。自分の知恵と知識によって得たものが、そのために何の苦労もしなかった者達に残していかなければならないむなしさ。その自分が得たものをいつまでも保持していることができない虚しさ、そしてそれらが誰の手に行くのかも分からない虚しさ。

しかし、そのソロモンは自らが書いた箴言の中で「知恵」ということに対して、光りを見出したようにこう書いています。「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1章7節)。知恵自体は虚しいものではありません。私達が蓄える諸々の知恵の土台に神に対する畏れを持ち合わせて、その知恵を正しく使うのならということをソロモンはここで言っているのです。3つ目のこと、快楽というものを考えてみましょう。

③ 快楽

1 わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。2 わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。3 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。4 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、5 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、6 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。7 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。8 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。9 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。10 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。11 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。 (2章1節-11節)

ここには私達が追い求める快楽が書き連ねています。すなわち私達の五感を喜ばせるもの、今日の言葉で言うならば連日の飲めや歌えやの「どんちゃん騒ぎ」とも言えるでしょうか。そして、興味深いことに彼はこれらの「何が虚しいか」ということは書いていません。ただ、これらの快楽が自分の労苦の報いだったと思った時にそれは何と虚しいだろうかと言っているのです。

イエスの譬として有名な「放蕩息子」の弟はその名のごとく父の家を離れ、放蕩という快楽に身を委ねました。しかし、それらは彼らを本当に満たすことなく、彼はある時「我にかえって」父の元に帰るのです。

パスカルは「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることが出来ないのだ」と言いましたが、この息子は快楽によって、その空白を埋めようとしたのです。しかし、それは失敗に終わりました。いいえ、というよりも快楽によってその空白を埋めようという考え自体がもう間違っていたのです。なぜなら、その心の空白はそのようなもので満たされるようにもともと造られているのではなくて、神しか埋めることができないように造られているのですから。4つ目のことです。

④ 労苦

私達には労働が課せられています。これにより私達は日毎の糧を得、家族を養う。今日、多くの若者達は約3年で職を変えるといいます。その仕事に本当に生きがいとやりがいを見いだす人は少ないといいいます。格差が広がり、先日、秋葉原で起きた事件の犯人は自分の仕事に対する鬱憤と怒りが一つの動機となっていたという。ソロモンは書きました。

「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰っていく。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。人はまったくその来たように、また去って行かなければならな。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者にはなんの益があるか。人は一生、暗闇と悲しみと多くの悩みと、病と、憤りの中にある(5章15節-17節)

ある野球殿堂入りをしたほど有名な野球選手が、野球をやりはじめたばかりの頃に何を知っていればよかったですか?と尋ねられました。彼は「誰かが、最高点に達した時、そこには何もないという事を教えてくれればよかったのに」と答えました。多くのゴールはそれに到達した時、ただ時間を浪費しただけだったという空しさをもつことがあるのです。また、私達はそれらの報酬をいつまでも携え持っていることができないものです。よくお話しますが、私達はお墓に向かう霊柩車の後にアメリカならユーホール、日本ならクロネコヤマトやペリカン便のトラックがついて走る光景を見たことがありません。ソロモンはまた言いました。

11 わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨む。12 人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。(9章11節-12節)

自分の努力が報われるならいい。でも世の中そうではない、コネとか妬みというものが、それらの公平さを奪っており、働き者がいつも評価を受けることもない。また、いつどこで私たちは災いに襲われるか分からないというのです。さあ、これから自分の汗と涙で獲得したものを楽しもうという時に、私達は健康を損ねるかもしれない、誰かの陰謀によって全てを失うかもしれません。私達の報いが無になってしまうようなこと、これはなんと虚しいだろうかとソロモンは嘆くのです。

これに対してコリント第一の手紙15章58節でパウロは書きました。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

パウロは私達には労苦がむだにならないことがあるというのです。そして、それは私達が主のためになす諸々のことなのだと言っているのです。私達の労苦がどこに向けてなされているかということがはっきりしてくる時に私達は労働の虚しさから解放されるのです。それがどんな職業であっても、それを主の栄光のために成していくなら、それは私達のまさしく天職となるのです。

⑤ 異性

8わたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。(2章8節)
ソロモンには王妃としての妻700人、そばめが300人いたと列王記11章4節には書かれています。私達は人生のどこかで、自分に恋人さえいれば、結婚さえすれば、この虚しさから逃れられるのではないかと思うことがないでしょうか。しかし、事はそう簡単にいくわけでもないことを私達は知っています。

この恋すら実れば私は幸せになれる、、いいや実らなくとも一夜の恋を楽しもうとか、伴侶はいるけどちょっと火遊びをしちゃおうとか、そりゃ最初はスリルがあって、しばしその火は燃えるかもしれない。でも、やめときましょう。ソロモンには妻が700人、妾が300人いたのです。毎日、順番に一人づつの女性と会うとしたら、次に同じ女性に会うのは約2年と半年後なのです。名前はおろか顔すら覚えていません。その彼が虚しいと言っているのですから、そこいらの半端なプレイボーイの言葉ではないのです。筋金入りの男が言っているのですから、私達は彼の声に耳を傾けなければなりません。

といってもソロモンは結婚の虚しさを言っているのではありません。聖書は神のみ手の中に育まれていく結婚を大いなる祝福であり喜びであるということを位置づけています。6つめ、それは名声ということです。

⑥ 名声

「そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には、皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう」(2章16節)。

皆さん、ラスベガスに行きますと世界のトップテンに入るようなホテルがいたる所に建っています。中にはマンハッタンやベネチアをそのままもってきてしまったものから、ピラミッドまで選り取りみどりです。でも、それらのホテルのオーナーの名前を皆さん、全て挙げることができますか。私は申し訳ないけど、ここから一マイル先にある我らがパドレスのぺトコ・パークのオーナーの名前すら知りません。名声は永遠のものではなく、それは日々忘却の彼方に消えていくものです。

ルカ10章17節‐20節 17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。 18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。20 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

イエスのもとに自分達がイエスの名のもとに難悪霊までも服従する力が与えられている事をイエスに報告しました。それは驚嘆すべきことで、この弟子たちの名前はたちまちその地方に広まったことでしょう。彼らもイエスと共にいるということでよく知られる人となったかもしれません。しかし、イエスはそのようなことで喜ぶなと言われたのです。本当の喜びは決して消されることのない天にあなたたちの名前が記されていることを喜びなさいと言ったのです。名声をこの地に残すことには虚しさがあります。しかし、天に刻まれている我が名を日々私達は喜び暮らすことができるのです。

それではどう生きるか

さて、これまで私達も共有できるソロモンの虚しさについてお話してきましたが、それでは私達はどう生きればいいのでしょうか。ソロモンはそのヒントになるようなことを幾つか書いています。

24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。25 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。 (2章24節-26節)

18 見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。19 また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。20 このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。(5章18節-20節)

皆さん、今読みました言葉は、虚無について延々と書き連ねてある殺伐とした言葉の中に、突如あらわれるオアシスのような言葉です。その中でソロモンは神という言葉を計6回も書いています。そして、今まで読んできました虚しい言葉の中には見出すことがなかった言葉がこの二つの書の中にはある。それは「喜び」ということです。赤松の木のある所に松茸が生えるように「喜び」は「神」という名のもとだけに出てきていることを私達は心に刻みたい。

また、ここに私達は「オッ」と言うような言葉を探すのです。それは「楽しみ」ということです。ここには5度も書かれています。皆さん、クリスチャンライフは何ですかと言われて何と答えますか。「み言葉に親しみ、祈りをし、礼拝にやすむことなく行く事です」。何も間違っていません。しかし、私達は今日のソロモンの言葉に目からウロコが落ちるのです。ソロモンは神から賜った人生を楽しむと書いている。ただその楽しみは神にあってはじめて本当の楽しみとなる。彼は言っている「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう」(2章25節)。「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である」(5章19節)

誰が神を離れて楽しめるのか。神は楽しむ力を与えていて下さる。皆さん、私達は神から離れては楽しむことができないという。私達が本当に楽しむためには神様からいただく力が必要なのだというのです。それがないから、私達は楽しもうと願っていながら、虚しさに支配されてしまうのです。神は私達に富と宝を与えられる。そして、それを楽しむ力を与えてくださるというのです。富と宝は神によって与える楽しむ力によって、はじめて私達の喜びとなるのです。

神様は私達の人生を喜んでほしいし、楽しんでほしいと願っているのです。これがクリスチャンライフです。

私はカリフォルニアに来て10年となりますが、自分の信仰姿勢と生活形態が変わりました。どういうことかといいますと、どこかそれまでのクリスチャン・ライフというのは、どこかで自分に制限をして、そこからはみ出さないで生きていくということであり、それゆえに自分の足が線から出ていないかということばかり、気にしていたと思うのです。でも、そうではない、もちろん神様が定めてくださっているその線から出ようとすまいというのは今も変わりませんが、それは私が私の人生を喜び楽しむための必然であり、それが全く窮屈なものではないのです。そして、私にはこの人生を楽しむ力が神様から与えられているのだということを知ったのです。その力をいただかなければ、私は自分だけでは人生を楽しむことなどできない者で、常に虚しさにつきまとわれる者なのだということを知ったのです。思えば確かに神から離れていた時に私の心は常に虚しさと同居していました。しかし、今は違うのです。

今は非常に大胆な言い方になりますが「クリスチャンになるということは、本当の意味で人生を喜び楽しんで生きていくことができる」と確信しながら生きることができるようになったのです。そして、ソロモンもそのことをこの伝道の書の中で言っているのではないでしょうか。

ですから皆さんがご存知のように彼はこの書の最後に、その結論として、虚しい人生を送ることがないようにとこういっているのです「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に・・・」。(伝道の書12章1節)。

「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に・・・」。

「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である」

お祈りしましょう。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村 ↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

心の空白はどうしていますか?」への2件のフィードバック

  1. アーメン! ああ、本当にパスターマックのメッセージには恵まれます!
    この週末、うちの教会でリーダーシップセミナーがありました。その中で語られたことの一つに、「霊的成長の4段階」というのがあり、それは、「(1)信仰を持っていない→(2)「クリスチャンはこうあるべき」といった形式的・律法的なものによって支えられている信仰→(3)荒野・壁→(4)「ルール」よりも「関係」によって動機づけられ、内側にキリストのいのちが形作られることによって支えられる信仰」というものでした。
    マック先生が、「私はカリフォルニアに来て10年となりますが…」の段落でおっしゃっていることは、上記の4段階の、2番目と4番目の信仰生活の違いを見事に言い表していると思いました!なんとタイムリーなことでしょう!
    セミナーでも、2番目と4番目の人たちは、どちらも聖書を読み、教会へ行き、祈り、主の戒めを守り…と、やっていることは外からみれば同じかもしれない、しかしその背後にある動機、パースペクティブが違うのです、と言っていました。確かにそうなんですよね。rule-driven ではなく、神様や人とのrelationship-drivenで、そこには喜びと楽しみがあるのですよね!
    とても励まされました。ありがとうございます!

  2. はちこさん
    大切なことを整理して教えてくださり、ありがとうございます。はちこさんのブログも読ませていただいていますが(いつも)、本当にその通りですよね。
    今回、伝道の書の;
    「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう」(2章25節)。
    「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である」(5章19節)
    を通して神様は「私達の一度きりの人生を楽しんで歩むように」と願っておられることを確認しました。そして、その「本当の楽しみは神を離れてはもたらせられないこと」、また本来、私は自分の人生を楽しむものすら持ち合わせていないもので、その「楽しむ力」を神様からいただかなければならない者なのだということを知りました。
    そして「この楽しみと喜びに加わりませんか」ということが伝道なのではないかと思うようになりました。これは私にとって、心の旅で行き着いた大きな変化だと思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください