環境が変わる時。肉体に変化が起きる時。願っていないことを強いられる時。愛する者と別れる時。
私達の生活に起きる様々な変化。前向きな変化ならいいけど、耐え難く辛い変化もある。そんな時、どうしますか?

マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ!
変化がチャンス!
2008年6月1日
私達は3月から「ストレスからの解放!」というシリーズで今まで「人間関係をほぐす」「神の帳簿について」「心身の管理について」「競走社会に生きるにあたって」「将来の心配」等について見てきました。そして、いよいよ今日がそのシリーズの最後の「変化がチャンス」ということについてお話します。
多くの私達はとても平凡な毎日を過ごしています。水戸黄門やチャングムのように毎日、何か劇的なことがあるかといいますとそんなこともありません。でも、しばしば私達自身や身の回りに色々な変化が起こります。これらの変化というのは、私達が経験して分かっていますように、なかなか避けられないものであります。この変化が心地よいもので、いい刺激になるならいいのですが、その変化があまりにも大きなものであったりすると、時にそれは人生の危機的な日々にもなるのです。
皆さんが日本という国から文化も言葉も違うアメリカに来た時、いかがでしたか。思春期や年をとるということにより、体に変化が起きる時、いかがでしょうか。結婚という血族ではないパートナーと暮らし始めた時、いかがでしたか。子供がティーンネージャーになったり、彼らが巣立っていた時はいかがですか。リタイアーした時、いかがでしたか。愛する家族や友人を亡くした時の私達はどうでしょうか。これらのことが起きた時、私達はどのようにその変化と向き合ってきたのでしょうか、また向き合っていくのでしょうか。
人生の節目となるような変化の時(誰しも経験します)、私達がどのようにその変化と向き合うかということは、とても大切なことではないでしょうか。私達がその変化と共に気持ちをふさいでしまうのか、それともその変化をしかと受け止めて、新たなる希望を見出して、新しい一歩を踏み出していくのか、それによって私達の人生は天と地の差がでてきます。
今日は 実際にその人生に大きな変化を経験した幾人かの聖書中の人物を見ていきながら、私達もそこから生きる指針をいただきましょう。まず、最初に登場していただくのはアブラハムという人です。彼が直面した変化、それは「環境の変化」でした。
環境の変化
創世記12章1節‐2節 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」。
多くの皆さんがご存知のようにこの言葉が神様からアブラハムに語られた時、彼は75歳であったということが続く4節に書かれています。彼はその年で神様からの言葉を聞き、そしてそれに従い、自分の妻サライと弟の子ロトと全ての財産をもって、親戚や友人がいる住みなれた地を離れて神が示す地に出て行ったというのです。
一般的にアメリカに住む人達は、もちろん例外はありますが、一つ家に長く住まないようです。私の住む地域でもしょっちゅう家が売りに出されていますし、ここ数年2、3度、住人が変わっている家もあります。でも、それもさすがに高齢になる前のことであって、70歳を超えても3年ごとに引っ越している人というのはあまりいないのではないでしょうか。私達はどちらかというと年をとればとるほど、「変化」に対応することがシンドクなるからです。そして、それはアブラハムだって同じだったでしょう。もうその住みなれた土地で余生を過ごす計画であったに違いありません。
どうでしょうか、ここに75歳の方もいると思います。70歳以上の方、これから全てのものを持参して、他州に居を移したいという方いますか。これからアルゼンチンやブルガリアに引っ越したいという方いますか。それとももう地に根が生えていて、その根を抜くことは不可能でしょうか。
アブラハムは驚くべき事に神の言葉に従ったのです。実は後に彼らが体験する変化を考えたら、居を移すということすら小さなことだったのかもしれませんが。なぜなら、アブラハムがおよそ100歳の頃、その妻サラが90歳の頃に彼らの子供が生まれたのですから。そりゃ嬉しいでしょうが、そりゃ大変だったに違いありません。穏やかで静かな余生を暮らしている夫婦の環境は小さな小さな赤子によって激変したということを想像することはたやすいことです。
人によっては引っ越した先で環境に適応できずにふさぎこんでしまうことでしょう。さらに移った先で、思い描いていたものとは全く異なるライフスタイルにほとほと参ってしまうでしょう。
アブラハムとサラは、聖書を見ますならば色々な失敗を繰り返しましたが、この変化を乗り越えていきました。どのようにして?聖書のどこにもアブラハム夫婦は特別好奇心があって、健康でというようなことは書かれていません。彼らは普通の老夫婦だったのです。しかし、彼らには変化を乗り越えることができる力の源がありました。それは何でしょうか?
それは、神が彼らに使命を与えておられたということです。すなわち、彼らは「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われた後に「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」という使命をも神からいただいていたのです。
皆さん、私達も環境の変化を経験します。ある意味、ここに来ている私達は皆日本からアメリカに来て、ここに住んでいるということでその劇的な変化を体験しているのです。中にはその変化によってほとほと疲れきってしまった、いや今、そのただ中だという方もいるかもしれません。
しかし、私達はその環境の変化が想像を超えるようなものであっても乗り越えることができる一つの秘訣があります。それは、私達がアブラハムのように、この地に暮らしている使命を知ることです。それは、私達が自分でたてる人生の目標ではありません。それは、私達の神があなただけに与えている使命です。あなたがサンディエゴに住んでいる神様から与えられている使命、その使命が私達が経験する度重なる試練を伴う変化を乗り越えさせる力となるのです。
次に私達が経験する「肉体的変化」ということについて、そのことを体験したパウロの姿を見てみましょう。
肉体的変化
第二コリント12章7節‐10節
7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
今年も既に2009年の新車が販売されています。まだ一マイルも走っていない車です。ゆえにそんな車の走りは快適でしょう。メーカーの致命的なミスがなければトラブルもなくしばらくの間はよく走ってくれることでしょう。反対に20万マイル走った車はどうでしょうか。言うまでありません、そのマイレージにいくまでにバッテリーやタイヤを変えたり、色々なトラブルも起きたことでしょうし、これからもその古さゆえに色々なケアーが必要となります。
私達の肉体もそうです。よく40代になる時にガクッと体力の衰えを感じると聞きますが、私達は確かにこの肉体に乗って(変な言い方ですが)、今日まで人生の旅路をドライブしてきたのですから、あちこちに色々な不具合が出てくるわけです。歩くことが遅くなったり、老眼鏡が必要となったりする体の変化は必然なのです。
今、読みましたコリント書においてパウロは自分の体にある肉体的なとげについて触れています。そして、それは色々な解釈がありますが、彼の視力の弱さや“てんかん”であったと言われます。そして、そこに書かれているように彼はその弱さが取り除けられるように三度神に祈ったと言うのです。それは朝昼晩祈ったと言う事ではなくて、本当に魂を注ぎ込んで祈りに祈ったということが三度はあったというのです。彼はなぜそれまで祈ったのか。その肉体の弱さが本当に彼にとって辛いことであり、また彼の宣教の働きの大きな障害になっているように思えたからに違いありません。
私達もまた年齢とは関係なく、たとえば怪我とか病気によって私達の体に変化が生じることもあります。車を後から追突された首の痛みがそれ以来消えないとか、大きな手術の後、かつての私よりも弱ってしまったということも誰にでも起きることです。もしかしたら明日、あるいはやがていつか必ず迎えなければならないこれらの肉体的なその変化の時、私達はどうしたらいいのでしょうか。パウロはどうしたでしょうか。
実は聖書には法則があるのです。それはこの後にパウロが言っていますように「私達が弱い時にこそ強い」という法則です。言い方を変えれば聖書は「私達は強いと思っている時は私達は実は弱いのだ」ということです。
子供は無垢なものです。彼ら(特に男の子)は時に自分とテレビのヒーローを重ねる事により自分が一番強いと思っています。でも、明らかに彼らは心身ともに弱いのです。でも彼らがいったん本当にその弱さをあらわにしたらどうでしょうか。彼らの親や大人たちが本気で動き出して、彼らを守り支えるでしょう。幼子が自分はスーパーマンだって言っていても、そんな子供を力づくでねじり伏せることはたやすいことです。しかし、その子供の周りに大人がいるならそれはできません。子供には全く何の力もないのですが、彼らが弱い時に、実は彼らは一番強いのです。
私達もそんな幼子のような者です。自分が強いと思っていても、しょせんそれは“人力”なのです。しかし、私達が弱さの中にあるならば、その足りないところを神の力がおおってくださるのです。これ以上、強いことはありません。私達の肉体は弱る時があるのです。でも、私達が弱さを感じる時に、実は私達は弱いのではなくて、神様の力が注がれているのだから強いのだと聖書は言っているのです。本当に「感謝」と「神の恵み」を知っている人は(聖書はそのような人を強い人といいますが)、得てして、自分の弱さを知っている人達なのです。肉体的な変化を経験する時、そこに注がれている神の恵みを見出していくなら、私は強いのだと言いうることができるのです。3つ目のこと、「強制的変化」ということを見ていきましょう。
「強制的変化」
時に私達は自らの願う願わないに関わらず強制的に変化を強いられる時があります。ヨセフという人がそうでした。彼は自ら何も悪い事はしていないのに、自分の兄たちの策略によって奴隷となりエジプトに売られていくのです。
その売られた先の出来事について創世記39章1節‐6節が記しています。
1さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。2主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。3その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。4そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。 5彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。6そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。
ここに記されていますように兄弟に捨てられたヨセフはエジプトにてポテパルという人に買われました。そこで、彼はポテパルから信頼を得ていくのですが、その生活の中で主人ポテパルの妻がヨセフを誘惑して彼と寝ようとしたということがこの後に書かれているのです。しかし、ヨセフはそれを拒み続け、そのことによりポテパルの妻は怒り、ヨセフが自分を襲うとしたという虚偽の話をポテパルにでっち上げ、怒ったポテパルはヨセフを獄屋に投じたのです。せっかく落ち着きつつあった、エジプトにおいても彼は強制的に鉄格子の向こうに閉じ込められてしまうのです。
その時のことが創世記39章19節‐23節に書かれています。
19主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。20そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、21主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。22獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。23獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。
ヨセフは自らは何もしていないのに獄屋につながれというように自分の意志に関係なく辛いところを通りました。かつては家族と一緒に過ごしていた彼が、奴隷の身、また捕らわれの身という変化に見舞われたのです。
皆さん、私達はどうでしょうか。自分の意志を超えて、このような変化を飲み込まなければならないことはありませんか?自分は願っていないのに、誰かのために、私達が辛い変化を強いられることあるでしょう。そんな時、私達はどうするのでしょうか。もしかしたら、私が自分で選んだのではなく、半ば強制的に海を渡ってこの国に来たという人もいるかもしれません。その時に、私達は己が運命を嘆くのか。その人を恨んで生きるのか。投げやりに生きるのか。どれも私達ができることです。
ヨセフはどうしたのでしょうか。創世記に記されているこれらヨセフの身に起きたことに対して、聖書はヨセフの心の内をほとんど記していません。ただ、このような変化の中にあっても、その日に出来ることに最前を尽くして真実に生きている彼の姿を見るだけなのです。私達はそのヨセフの生き様の中にあの箴言3章5節‐6節に記されているみ言葉に生きた彼の生涯を思うのです。
「心を尽くして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3章5,6節)。
先ほど読みました聖書の箇所、とても大切なことが記されています。すなわち、「主がヨセフと共におられた」(2) そして「その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」(3)「主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」(5)と主が常にヨセフと共にいたのです。また、獄の中においても「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた」(21)。「主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」(23)のです。
このヨセフが受けたこの地上での諸々の仕打ちから目を離して天を仰ぐならば、そのヨセフの生き方に対して、確かにこのような強制的な変化に追いやられているヨセフに注がれている眼差しがあり、それだけではない先ほどアブラハムの人生というところでお話しましたようにこの強制的に連れてこられたヨセフにも実は神は使命を与えられていたのです。
このヨセフ、これら様々な理解不可能な試練を通りながら、最後にはエジプトの宰相となりました。それは王に次ぐ、その国のナンバー2になるということです。そして、そのことにより、かつて自分を売り渡した兄弟をはじめヨセフの一族は皆、エジプトに逃れ飢饉から救われていくのです。
そして、これらのことを全て思い起こし、強制的に変化を強いられたヨセフは自分を売り渡した兄弟建ちにこう言うのです「わたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく神です」。(創世記45章8節)
ヨセフの生涯は誰かの手によって自分の人生が強制的にコントロールされているように思えました。自分ではどうしようもできない強制的な、理不尽な、策略的な変化。でも、その中で二つのことが確かでありました。ヨセフはその中でも己が置かれている道を一歩一歩、歩きました。そして、そのヨセフと共に片時も離れずに神は共におられたのです。最後です。「離別による変化」ということを見てみましょう。
「離別による変化」
聖書は「離別」という事に対してどんなことを言っているのでしょうか。そもそも、人が人と別れるということ、特にそれが死ということによる別れであるならば、その変化というのは私達にとってとてつもなく大きなことです。
イエスはかつてその弟子たちにこんな意味深な言葉を語りました(ヨハネ13章33節)「子達よ、私はまだじばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろうが、すでにユダヤ人達に言ったとおり、今、あなたがたにも言う、「あなたがたは私の行くところに来ることはできない」
よく親しい友や家族が自分を尋ねてきたり、こちらから家族を訪ねる時に、駅や空港で別れます。そんな時、私はいつもあることを心の中で考えています。それは「私は見送る方がいいのか」、「見送られる方がいいのか」ということです。
ここでイエスは私はあなた方がついてくることができない所に行くと言っています。すなわちそれは弟子達がイエスを見送るという側につくということです。そして、このイエスの言葉が何を言っているかと言いますとイエスは十字架にかかり死ぬということを言っているのです。
弟子達にとってイエスと離れることは辛いことでした。その気持ちを今読みましたイエスの言葉にリスポンスして答えたペテロの一言が代弁しています「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには命も捨てます」。ペテロはイエスを見送りたくなかったのです。もうそのイエスと二度と会うことができないと思ったのです。あなたがいない自分は考えられない。このイエスはその命を失おうとしているに違いないと思ったのです。ですから、私はあなたと一緒に死にますと願っているのです。そして、このペテロの気持ちを私達も時に共有するものです。その人が愛しい人であればあるほど、私もあなたの後を追っていきたいとすら私達は思うことがあるのです。
離別は苦しいものです。私達はそれによりどん底に落ちます。しかし、イエスはこのペテロとの会話の中で言われました「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになって、ついて来ることになろう」(ヨハネ13:36)。
ここではっきりとイエスが言っているのは、それが最後の別れではないということです。今は別れる。しかし、後になってまた私達は共にいるのだということです。イエスは言われました。
よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変わるであろう。女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみを覚えてはいない。ひとりの人がこの世に生まれた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない(ヨハネ16:20-22)。
皆さん、この会話は直接私たちに語りかけられている会話ではありません。しかしです、実はこのイエスの言葉は私達一人一人に語られている言葉でもあるのです。すなわち、私達は今はイエスと共に生きることはできませんが、いつか私達がこの地上に別れを告げる時がきたならば、私達はこのイエスに合間見えることができるというのが聖書の約束なのです(この約束は一度、イエスがペテロをはじめ弟子達と別れることがなければ、実現しない約束であったのです)。
そして、この約束にはさらに驚くべき約束が込められていまして、私達は離別という悲しみを経験した私達の愛する者ともまた天国で再会することができるということが含まれているのです。
この聖書の言葉は語りかけます。今、私達には離別による寂しさや悲しみがあります。不安があります。しかし、その悲しみは必ず喜びに変わる時がくる。確かに私達には不安がある。あたかもそれは女性が子供を産む時に感じる不安のように。しかし、その不安も子供が誕生した時に大きな大きな喜びに変わる。
私達の悲しみも不安も必ず喜びに変わる。それがこの地上の喜びであるなら、誰かがきてそれを奪い去っていくこともある。しかし、その時の喜びを私達から取り去る者はいないというのです。おそらく私達にとって、この誰かとの別れという変化は最も悲しく、最も辛いことでしょう。しかし、必ずそんな私達も喜びに見たされる時がくるというのが聖書の約束なのです。
今日は幾つかの変化についてお話しました。そして、今日のメッセージタイトルは「変化がチャンス」ということなのです。「環境の変化、強制的変化、肉体的変化、別れによる変化」とどれも私達の人生に大きな影響を与えます。時にそれが私達の人生の歩みを止め、その歩く力を失いさせます。
しかし、私達がその変化の中に神様を見出すなら、その変化すらチャンスと変えられる、驚くべき事が起きるのです。このような生き方に招かれているのが私達の信仰生活なのです。私達の変化の中におられる神が、私達の変化を祝福と変えてくださいますように。
お祈りしましょう。
非常にタイムリーな話で助かるよ。ちょうど6月から転職したんだ、あまり希望していたようにうまく事が運ばず目先のお金(ボーナスとか)は減ることになるんだけど、環境は良くなると思っている。長い目でみれば絶対にいいと思うけど、目先の金が減るとちょっと落ち込む!ヨセフには到底およばないけど、見習って目の前にある事を一つ一つ頑張るよ!
さんぼ
そうかー仕事を変えたんだね。その決断が最善となることを信じて祈っているよ。
コツコツコツコツ、勝つコツ!さんぼらしくがんばれ!