競争社会

私達の生きる世界には多くの競争があります。日本やアメリカを含め多くの国々ではその競争が幼稚園入学からその子にとっての教育が終わるまで続きます。いいえ、言い直さなければなりません、最後の教育課程を終えて、それで競争は終わるかといいますと、実はそうではなく、そこからが本番であり、後40年、新しい競争のスタート地点に立つのです。

この競争は自分の出世のことでもあるでしょうし、ライバル会社と競い続けることを意味するでしょうし、またまた、自分の親が自分にしたことを見ていますので、今度は自分の子供にも同じようなことをすることもあります。さらに、もっと細かい心を描写すれば、あの人はあんなものを持っているとか、あの家族はあそこに行ったとか、こんな暮らしをしているとか、そんなことで自分で勝手に競争相手を作り出している人もいるかもしれません。

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そして、その勝敗はどうつくのでしょうか。今年はオリンピックがありますが、オリンピックはとても分かりやすいのです。金・銀・銅のメダルが用意されていて、それぞれの勝者は金が一番高いところに、銀と銅がその脇にへと一目瞭然の勝敗を私達は見ることができるのですから。でも、私達の競争の勝敗はどうなのでしょうか。どなたかご存知ですか?

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何せ私達はその競争の渦中で、人生をかけてそのレースに挑んいるのですから気になるところです。そのために自分の時間も、健康も、家族も、全てを捧げることもあるのですから。ゆっくりと波の音を聞いたり、満点の星空を見上げたりすることもなく、自分の五臓六腑にメスを入れたりしてまで、夫婦や子供との関係がギクシャクしたりしてまでこの競争に臨んできたのですから。これらの犠牲を考えたら、私達は想像をはるかに超えた報いを受けるべきです。

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いったい、それだけの犠牲を払って勝ち取ることができるものは何なのでしょうか。

マック

今日、お話した礼拝メッセージです。
よかったらどうぞ!↓

競争社会を生きるにあたって                              2008年5月11日                                 

マタイ20章20節‐28節
20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。24十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

競争

私達は今、2000年前に実際に起きた生々しい裏口入学の現場を読みました。聖書は「Holly Bible」とも言われますが、この箇所を見ます時に人間の表も裏も包み隠さずに書かれていることに驚きます。ここにはゼベダイの子らの母、すなわちイエス様の弟子であったヤコブとヨハネの母が、イエス様に直に「あなたの御国では一人をあなたの右に左に」と願う様が書かれています。同じ出来事をマルコ伝も記録していますが、そこではヤコブとヨハネが直々にイエス様に同じことを願っている様子が描かれています(マルコ10章35節‐45節)。

今日も裏口入学なんてことを聞きますし、コネなどということもよく聞きます。このようなことは人間の歴史と共にいつの時代でもどこでもあることのようです。そして、これらの思いの根底には何があるのか。そこには誰彼よりも自分は偉くなりたい、もっといいますとあいつには負けたくない、勝ちたいという願望があることを意味しています。

ですからヨハネやヤコブもイエスの外の弟子達よりも自分達こそがイエスの脇を固めるナンバー1とナンバー2でありたいと願っていたのです。そして、興味深いことに24節を見ますと、外の弟子達にもどういうわけかこの親子の計画がばれたのでしょうか、このことを聞いた弟子達は「このことで憤慨した」(24)と書かれています。なんだかんだいって人は皆、同じことを考えているです。競争の背後にはこのような妬み、怒りがうごめいています。

そして、これは今日も変わらないのです。私達はこのマタイ伝に記されていますように、ヨハネとヤコブの母のような大人たちが子供達に同じように何が何でも勝ち上がって行くように仕向ける様を、そして、そのためなら大人達はいかなる犠牲を払おうとしている意気込み、手段を選ばない姿というものをあちこちで見ることができます。日本やアメリカを含め多くの国々ではその競争が幼稚園入学からその子にとっての教育が終わるまで続きます。

いいえ、言い直さなければなりません、最後の教育課程を終えて、それで競争は終わるかといいますと、実はそうではなく、そこからが本番であり、後40年、新しい競争のスタート地点に立つのです。この競争は自分の出世のことでもあるでしょうし、ライバル会社と競い続けることを意味するでしょうし、またまた、自分の親が自分にしたことを見ていますので、今度は自分の子供にも同じようなことをすることもあります。さらに、もっと細かい心を描写すれば、あの人はあんなものを持っているとか、あの家族はあそこに行ったとか、こんな暮らしをしているとか、そんなことで自分で勝手に競争相手を作り出している人もいるかもしれません。

そして、その勝敗はどうつくのでしょうか。今年はオリンピックがありますが、オリンピックはとても分かりやすいのです。金・銀・銅のメダルが用意されていて、それぞれの勝者は金が一番高いところに、銀と銅がその脇にへと一目瞭然の勝敗を私達は見ることができるのですから。でも、私達の競争の勝敗はどうなのでしょうか。どなたかご存知ですか?

何せ私達はその競争の渦中で、人生をかけてそのレースに挑んいるのですから気になるところです。そのために自分の時間も、健康も、家族も、全てを捧げることもあるのですから。ゆっくりと波の音を聞いたり、満点の星空を見上げたりすることもなく、自分の五臓六腑にメスを入れたりしてまで、夫婦や子供との関係がギクシャクしたりしてまでこの競争に臨んできたのですから。これらの犠牲を考えたら、私達は想像をはるかに超えた報いを受けるべきです。いったい、それだけの犠牲を払って勝ち取ることができるものは何なのでしょうか。

一流大学を出て、大きな仕事をして、家に帰る時間を惜しんで、お金を稼いでいる30代の友に、定職につかず、勝手気ままに暮らしている同年代の男が聞きました「お前、一生懸命、働いているけど、何のためにがんばっているの」「俺の目標は55歳で退職して、後はそれまでに貯めたお金で一日、ゆっくりのんびり過ごすんだ。もう時間に追われることもないし、好きな時間に寝て、好きな時間に起きるんだよ」それを聞いていた友は言いました「おいおい、それは俺が今、30代で毎日、満喫している生活だぜ」。

40年間、まじめに働き、昇進し、退職しました。でも、その時、家庭に帰ってみたら家族がばらばらで妻から一枚の紙を手渡されました。欲しい家も車も全てを手に入れました。しかし、伴侶の浮気が見つかりました。管理職を終えました。家族もよくまとまっています。40年、がんばった自分への褒美に家族で海外旅行に行こうという矢先、受けた健康診断で大変な病気が見つかりました。

皆さん、競争を走り続けるということは何なのでしょうか。それに勝つとは、負けるとはどういうことなのでしょうか。何をして勝ちと呼び、何をして負けというのでしょうか。

私達はこの辺りをしっかりと確認しておくべきではないでしょうか。でないと私達はこの競争が終わった時に、はたと自分のこれまでの人生は一体、何だったのかと呆然となるかもしれません。もしかしたら、その時、一番大切にすべきであったものを失っているかもしれません。何を第一として、何に向かって歩むのか。果たして私達にとって競争とは何なのか。聖書が言っていることは何なのかということを今日はお話したいと思います。

基準は何か?

私達はこれらのことについて考えることを手ぬきをしてはいけません。なぜなら、後で私達は後悔するからです。何を考えるのか。それは「勝利の基準は何なのか」ということを考えるのです。

私達は、どうしてまわりの評価が気になるのでしょうか? それは、自分の中で勝ち、負けの確固たる基準を持っていないからではないでしょうか。自分はその人生、何を目指していけばいいのか、何をすれば自分の人生の勝利者となることができるのか、それが分からない、それを考えないから、皆がやっているからという理由で、自分や子供達に過度なプレッシャーをかけたりする。自分の基準がないから、まわりを気にする。他人と比べるから、勝ち・負けの発想に傾いてしまう。しかもその際、他人の基準を自分に当てはめようとするから、どうしても心身共に無理がある。さらにさらにこの規準、日毎にシーズン毎に年毎にコロコロと変わってしまう。それに自分を合わせていくということ、これは大変なことです。

ここに記されている親子は追及すべき価値観というのは偉くなることだ、人の上に立つことなのではないだろうかという基準には立っていたのです。でも「人の上に、偉く」ということは、いつも変動しますので、この価値観に生きる限り、私達の心に平安が訪れることはありません。

ですから、そんな親子にイエスは言ったのです「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

このメッセージの準備をしていてあることに気がつかされ、本当に教えられました。それは、私達の多くが「かき集める」ことが勝敗を決めると思っているということです。すなわち力を集め、財を集め、名声を集め、そして、それをどれだけ保持しておくことができるかということに私達は熱中しており、それが私達の勝ち負けの基準になっていることが多いのです。そして、そんな人の姿がルカによる福音書12章16節‐21節に書かれています。

「ある金持の畑が豊作であった。17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。 20すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。21自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

しかし、聖書の言っている勝利はここに書かれている金持ちの思いとは明らかに違うのです。それは、どれだけのものをかき集めるかということではなく、どれだけのものを天に蓄えることができるかということであり、私達が地上で宝を蓄えるということは私達が「何かを獲得すること」を意味するのですが、天に宝を蓄えるということは反対に私達が「与えること」によって、天に蓄えられていくものなのです。

そのためにキリストは「仕える者」「僕」となりなさいと言われたのです。「仕える者」「僕」とは「自らを与える者」と言うこともできるでしょう。そうすることによって、誰も侵害することができない天国に宝を積んでいるのだというのです。

そして、キリスト自身がこう言われた通りに生きたお方なのです。あの有名なピリピ2章6節‐8節に書かれています「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。

そして、続く言葉が、そのように生きたキリストについて神がどのように取り扱ったかということを一言書いています「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼にたまわった」。

ゆえにこのキリストは大胆にもこういうことができたのです「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。

またかつては裏口入学を試みて、どうにか人を出し抜いて、人の上に行こう、そのことによって俺は勝利者になるんだと思っていたヨハネは晩年、自分のそのような勝利の基準を全く変えられた者としてこう言ったのです「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネ第一の手紙5章5節)
私達は常に心のどこかに聖書が約束する勝利の基準を刻んでいる必要があるのです。でないと時に私達はこの世の勝ち負けに心を奪われてしまい、自分を見失い、それだけではなく大切なものを失ってしまうかもしれないからです。

また、この聖書の基準に生きる時に私達は魂の解放をこの地上で体験するのです。多くの人はその魂の解放を求めて莫大なお金をそのために注ぎ込んだり、体にムチ打ってそれを得ようとしますが、それはお金や努力によって得られるものではないのです。しかし、天に宝を積むことを知る者達には、私達が蓄えている天の宝から与えられる利子のようにその魂の解放が現在も与えられているのです。これは私達にとってとてつもない祝福です。その祝福についてお話しましょう。まず、それは「比較からの解放」ということです。

比較からの解放

ヨハネによる福音所21章20節‐22節に復活したイエスと共にいたペテロについて書かれています。
ペテロは振り返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食の時イエスの胸近くに寄りかかって「主よ、あなたを裏切る者は誰なのですか」と尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った「主よ、この人はどうなのですか」イエスは彼に言われた「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。

ペテロは自分と同じ弟子であったヨハネのことが気になってしまったのです。自分の人生に対して彼の人生はどうなるのだろうと彼は自分とヨハネを比較したのです。ヨハネとは先にお話したように、汚い方法で裏からイエスに近づき、仲間を出し抜こうと思っていたあの男です。そして、そのヨハネを見て憤った仲間の中にこのペテロもいたと思うのです。故に、ペテロにとって、まだこのヨハネのことは気になっていたのかもしれません。俺の人生とこいつの人生、どうなるんだろうか。しかし、それに対してイエス様はペテロに言われたのです「あなたは、わたしに従ってきなさい」

私達がこれまでしてきたこと、学んできたこと、手に入れてきたもの、行った場所、もしかしたら就職や結婚相手や結婚生活、子育て、果てはリタイア後の生活にいたるまで、その中に私達はどれだけのことを他者と比較して決めてきたのでしょうか。その比較には勝ち負けの匂いがするのです。あの人に負けてはならない、私はもっとこうしよう、ああしようというように。

そして、その結果、私達に残るものは何ですか?

皆さん、私達は一日も早くこの私達の性質に気がつかなければなりません。でないと、私達の生涯は幼稚園入学から棺を決めるその時まで、あの人はこの人はという基準で決めることになります。曽野綾子さんは言ったのです「いつも他人と比較ばかりしている人は、本当に魂の自由を味わったことがない」。

私達の心からいつも平安を失いたいのなら私達は比較する毎日を続ければいいでしょう。いつも不自由でいたいならこれからも比較して生きていけばいいでしょう。でも、そのようなことから解放されて、全く自由に自分らしく人生を歩みたいと願うならば、今日から私達は聖書がいうところの基準に生きるべきです。すなわち、天に宝を蓄えることを大切にすることです。それは神様と私の関係であって、他者には関係ないことです。私達に与えられる二つ目の解放と祝福、それは「人目を気にしない」ということです。

人目を気にしない

人の目を気にするということ、これは私達、日本人は特に強く持ち合わせているものです。以前、ある方がこの日本人が強くもっています常に周りの視線を気にして、それに合わせようとするような精神状態は欧米の心理学者の診断では精神的な病気の範疇にあるということを聞いて驚きました。

ルカ23章18節-24節にはイエスが十字架に架けられる前にユダヤの総督、ポンテオ・ピラトと群衆の前に立たされた時のことが書かれています。 

18ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。19このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。20ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。21しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。 23ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。24ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。

イエスを十字架につけるのかつけないのかということを決定する力のあるピラトに群集は詰め寄りました。ピラトの本心としてはイエスを釈放しようという思いがあったのですが、彼は群集の声、群集の目に屈してしまったのです。彼には自分の考えがあったのです。しかし、イエスを釈放することによって、自分がどのように思われるのか、それから先の自分のユダヤ統治はとても困難なものとなり、自分の地位に悪影響があるのではないだろうか。自分はこの地位を失い、その後にはアイツが俺の変わりにここに遣わされてくるだろうなんてこともまで、考えていたかもしれません。故に、この人目を気にした故に、今朝も使徒信条で唱えましたように「ポンテオ・ピラトのゆえに十字架につけられ」という人間にとって最悪の汚名を彼は受け、その汚名は何千年も今日も世界中の人々によって唱えられることになったのです。

イソップ物語に「ろばをかついだ親子」という有名な話があります。あるところに行商のために遠い地に商品を売りにいく親子が旅をしておりました。親子は父と小さな息子ひとりで荷をかついでロバをひいておりました。ある村に着くと村の人は言いました。 「あの親子を見てごらん、もったいないよね」「ほんとうだ、せっかくロバをひいているのになぜロバに荷を乗せないのだろう。」「そうすれば楽なのにねえ」それを聞いた親子は「ほほう、まったくそのとおりだ。よし荷物をみんなロバに乗せよう」と荷をロバに乗せました。そして、また次の村に着くとその村の人は言いました。「あの親子を見てごらんよ、知恵がないねえ」「ほんとうだ、荷物をロバに乗せているよ。」「あれではロバがもたないね、乗せるなら小さな子供を乗せるべきだよね」すると親子は「これはまたいいことを聞いた、よしそうしよう。」

そして次の村に着くなり村人がこぞって言いました。「あの子を見てごらん、なんて親不孝者だろう」「普通は親を乗せてあげて若くて元気な子が歩くよね」父親は言いました。「そりゃあそうだ、おまえ降りなさい。私が乗っていこう」また次の村に着きましたが今度は村の人がこう言いました。「ひどい親もいたもんだ、あんな小さな子を歩かせて自分はロバに乗っているよ」「子供の足を見てごらん、かわいそうに。」

父親は深く反省して「息子よ、かわいそうなことをしたな。しかし、どうしたものか」「父ちゃんも、ぼくも乗ればいいんだよ」「そうだな二人が荷物をしょって二人で乗ればいいのだろう」ところが次の村で親子はさんざん言われてしまいました。「なんてひどい親子だ、あれじゃロバがかわいそうだ」

次の村で最後の旅になっていた親子は困ってしまいました。「いったいわたしたち親子はどうすればよいのだろうか」「もうこれいじょう、方法がないね父ちゃん」「いや、一つだけしていない方法があったぞ!」そうして親子は自分たちの荷物をしょってそれからふたりでなんとロバをかつぎあげました!

最後の村に到着したらさあ、大変です。「なんだあの親子、ロバをかついでいるぞ?」「馬鹿な親子だ、近よるのはやめよう」そう言ってだれにも相手にされずに商売もできなくなってしまいました。おまけに慣れないことをされたロバも具合が悪くなってしまい、親子はロバまで失ってしまいました。

確固たる基準がないと私達は人目が気になるのです。「あの人にどう思われているのか」「この人はどう思うのか」。「自分の会社は、子供の学校はどう思われているのか」。さぁ、私はどうしたらいいのか。そして、人の基準に自分を合わせようと無理をするのです。無理をしているから、この親子もロバまでも参ってしまったのです。そこには問題が起きてくるのです。

皆さん、このことからの解放はバイブルの示す基準に私たちの心をセットして人生を歩くことです。どうでしょう、これら二つから解放されるだけで私達の肩の荷がどれだけ軽くなる事でしょうか!特に私達日本人は時にこの二つの奴隷となってしまう傾向があります。私達は奴隷となるために生まれてきたのではありません。

3つめ、神様が私達に与えて下さる祝福です。それはこの基準に生きる時に私達は今、さらに祝福された生涯を送ることができるということです。  

               
祝福された生涯  

   
今日は勝利の基準として天に宝を蓄えるということをお話ししましたが、皆さんの中にはそんな先まで待っていられるかというせっかちな方もいるかと思います。実は聖書は私達が神の基準に生きる時に、私達はこの地上においても祝福されるということを約束しています。すなわち、天に宝を蓄える、すなわち「かき集める人生」から「与える人生」に私達が変えられていくならば、とても不思議なことなのですが、私達はさらに与えられる、祝福されるというのが聖書の約束なのです。ルカ6章38節に書かれています「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたの懐に入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」

以前、お話しました人間関係のことでも『エコーの法則』というものをお話したと思います。与えるということは何か物を与えるということだけではないのです。私達の言葉、笑顔、時間、これらを私達が与えるならば、私達は自分が与えたもの以上のものをこの地上で受けるというのです。これは私達がかき集めている時には経験することのないことです。

皆さん、セールスマンは自分の商品の素晴らしさを勧めるでしょう。牧師もある意味、バイブルの基準に生きることをお勧めするものです。そして、今、お話してきましたように、その内容はすごい。これを買ったら、あれもこれもついてくるなんているテレビ・ショッピングがありますが、バイブルが約束する勝利の基準に生きるなら、私達は天に宝を確実に蓄えることができる。そして、そこから溢れる祝福は私達を比較する人生、人目を気にする人生から解放する。そしてさらに自分が思い描いていた以上に祝福された生涯へと私達は導かれるというのですからこんないい話はないのです。

これからの世界、本当に不透明です。あの人は勝利者だと言われていた人達が、翌日、全てを失うことがあるのです。私達はせっかく一生懸命、人生を注いでやってきたのに、それと引き換えに失ったものに愕然とすることがあるのです。そして、それらの動機が「あの人もこの人もあれをしているから」、「これをかき集めているから、私もとりあえず」「でも、あっちも良さそうに見えるし」「あの人に比べて私は」「体裁が悪いから」というようなことであるということ、皆さん、その時、私たちはどこにいるのでしょう。実体のよく分からないことによって私たちのかけがえのない人生が支配されている、本当にそれでいいのでしょうか。

私達は心の底に聖書がいうところの本当の勝利という基準をもっていなければなりません。そのことによって、私達の人生は解放され、私達は最も私達らしく、あなたは最もあなたらしく、自分の人生を歩むことができるのです。そして、神様はその人生を自分が思い描いていた以上に祝福してくださるのです。

お祈りしましょう。

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競争社会」への2件のフィードバック

  1. そうですね 大倉先生、今年は 北京オリンピックが開催されるのですね、 ところで パラリンピックはご存知ですか? 私の友人でもある国枝選手と斉田選手が2回連続の金メダルを目指しています、彼らはサンディエゴで開催される US Open車椅子 テニストーナメントに 毎年 参加しています、http://www.tennis-navi.jp/blog/shingo_kunieda/ 

  2. yazさん
    いつもパラリン・ピックも楽しみにしています(メディアがあまり伝えないことが残念です)。テニスの国枝さんと斎田さん、お名前を記憶しました。ご活躍を祈っています。

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