あなたの心は・・・・

垣根で囲まれていますか?
それとも

有刺鉄線で囲まれていますか?
今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ↓
「わたし」と「あなた」
ガラテヤ6章1節‐5節
2008年4月6日
「ストレスからの解放」をテーマとして、私達は五月の終りまでのメッセージ・シリーズを毎週、見てきておりますが、今日はその中の三回の「人間関係をほぐす」シリーズの最後のメッセージとなりました。これまで、第一回では「私達は人を変えることはできない、それなら自分が変わりましょう」ということについて、二回目はその具体的なこととして「私達から声をかけましょう、微笑みましょう」ということを見てきました。そして今日、お話しすることもとても大切なことであり、このことに気がついているか否かということは、大げさではなく、私達のこれからの生涯に大きな影響を与えることになるのです。
初めに個あり
聖書の中でイエス・キリストは度々、ご自身を羊飼い、そして私達を羊として譬えを話されました。たとえばマタイによる福音書18章12節-14節にはこんな言葉があります。
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたらな、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみ心ではない。
ここには100匹の羊を飼う者が迷い出てしまった一匹の羊を捜すために、他の99匹を山に残して、探しに出かけると書かれています。そして、その一匹を見つけたら喜ぶというのです。もし私達の目の前に100匹の羊がいたとしても、私達には全ての羊が全く同じに見えるでしょう。しかし、この羊飼う者にとってはその一匹は他の99匹とは違うかけがえのない一匹であるということがここには書かれています。そして、それはたとえ私達が代わり映えのない一人の人間であったとしても、神様にとって私達はかけがえのない一人の人間であるということなのです。
さらに、この「羊飼いと羊」ということ、すなわち「イエスと私達」について、ヨハネ10章1節‐5節などを見ますとこうも書いてあります。
よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いに入るのに、門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は、羊の羊飼いである。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。5他の人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである。
ここに記されている羊飼いは、柵の中にる羊の名前を呼んで柵から羊を連れ出すというのです。もう一度申し上げますが、私達にはどの羊も同じに見えるのですが、この羊飼いには、それぞれの羊はそれぞれが区別されるものであるというのです。すなわち、この羊飼いにとって、そこにいる羊は「お前達」ではなくて、「太郎」であり「花子」なのです。
皆さんの中に自分の兄弟姉妹と生まれる前に話し合って、互いに誰が先に生まれるとか、あるいは双子、三つ子として一緒に生まれようねと話し合った人はいますか。くだらない質問でごめんなさい。そんな人はいないのです。皆さんは一人の人として神に選ばれて生まれてきましたと聖書は書いています。たとえそれが一卵性の双子であっても、その二人は二人で一人なのではなく、それぞれが独立した個として、神様は私達に命をお与えになったのです。
そして、この「個」というものは、私達が私達と同じ人間の集団の中にいると失われてしまうことがあるのです。本当の「個」というものは私達人間を超えた神という存在と一対一で向き合って「あなた」と「わたし」という関係に入らせていただく時に確立されていくものなのです。
イエス・キリストはかつて「(わたしの元に来るためには)狭い門から入りなさい」(マタイ7:13)と言われました。その門は皆で手をつないで「せーの」といって入るものではないのです。私達、日本人はそんなグループ行動が好きな傾向があるのですが、その門は一人でくぐりぬけるものなのです。無理心中という命の失い方がありますが、その言葉が示しているように、それは本来してはいけない「無理」なことを強引にした結果なのであります。とても現実的なことですが、人は一人で生まれ、一人で死んでいくのです。
この地球上で一番、自分と付き合いの長い人は自分自身なのです。そして、この自分は一人なのであり、この世界にこれまで私達と全く同じという人はおらず、これからもそのような人は一人もいないのです。なぜ人間関係という人と人と関係をお話しするのに、このようなことをお話するのでしょうか。それは「私達が神の前に尊い一人の個である」ということは、これからお話することの前提となることだからです。
個には境界あり
この個である私達には境界が、英語でいうところのバウンデリーというものがあるといわれています。そのことを一番、実感するのが私達の肉体です。今、私は皆さんと何メートルも距離をおいてお話をさせていただいておりますが、もし、私がここから皆さんの側に行き、互いに20センチまで顔を近づけて話しをし始めたら、おそらく皆さんは逃げていくでしょう。私達の肉体は互いに境界を必要としています。そして、その境界を互いに越えて、相手側に入ると不快を感じたり、時に痛みを感じるのです。
このように私達が見たり、感じたりする肉体のことなら分かりやすいのですが、実は私達の心にも境界線があるということを私達は知っているでしょうか。とかく、この心の境界線を私達は目で見ることができませんから、時に私達はこの人と人との境界線を見失ってしまうことがあるのです。さらに、そこに人間の感情というものが入ってきますゆえに、そこからは多くの問題が起きてくるのです。
私達の教会図書にもありますが「境界線」という本があります(ヘンリー・クラウド&ジョン・タウンゼント 地引網出版)。この本はそのタイトルが言っているように、私達には身体的境界線、精神的境界線、感情的境界線、霊的境界線というような自分自身の境界線があるのだということを分かりやすく書いています(ぜひ、読んでみてください。とてもためになる本です)。
そして、その著者は「私達が抱える鬱、不安障害、摂食障害、依存症、衝動障害、罪責感、恥、パニック障害、結婚や人間関係における葛藤など、臨床心理学的な多くの症状はその根底に境界線の問題があります」と書いています(拙者37)。どうやら私達の人間関係に生じる問題はこの私達が互いにそれぞれもっている境界線と関係があるようです。
境界線ということについて、この著者はその定義として「何が私であり、何が私ではないのか」ということを書いています。すなわち「私がどこで終わり、他の人がどこから始まるのか」ということです(P42)
皆さん、先ほど読みました聖書の言葉には私達、羊は囲いの中にいると書かれています。囲いとはすなわち、自分達のいる場所と外を区別するものです。囲いとは、その囲いを越えて誰かが自分の内に無許可で入ってこないためにあります。そして、言うまでもなくこの囲いは羊が造ったものではなく、それは羊飼いによって作られたものです。もう一度言います、この譬において、羊飼いはキリストであり、羊は私達なのです。
すなわち、神様は私達という人と人との関係において「私とあなた」という親しい関係を立て挙げることを助けて下さると同時に、私達一人一人に境界というものを定めてくださいました。しかし、この境界線がはっきりと示されていなかったり、分からなかったりすると、私達は人間関係において混乱してしまうのです。そして、最終的にはその関係が壊れてしまうことがあるのです。
ガラテヤ6章2節にはこう書かれています
「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。Carry each other’s burdens, and in this way you will fulfill the law of Christ.
私達が聖書そのものの意味を知ろうとする時に、日本語では見落としてしまうことがあります。このところに書かれている「重荷」という日本語は英語の聖書には「BURDENS」と書かれています。そして、それに対応るするギリシア語は「過剰な荷物」を意味します。すなわち、ここで書かれている「重荷」とは到底自分、一人では負いきれないものです。
それに対してこのすぐ後、5節にはこう書かれています
「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである」。For each one should carry his own load.
ここにも先の2節に書かれているように「重荷」という言葉がありますが、実はこちらの重荷は先の重荷とは違う意味があり、英語の聖書ではこちらは「LOAD」と書かれているのです。実際にギリシア語ではこの「重荷」とは「過剰な荷物」ではなく、「日々の労苦という荷物」のことを意味します。これは毎日の生活で私達が負わなければならないものであります。
すなわち、聖書は「過剰な荷物」に対しては互いに重荷を負いあいなさいというのです。もし、その「過剰な荷物」を一人で負おうとしているのなら、最初はなんとか踏ん張っていても、いつか無理がきて、行き詰ってしまうことでしょう。そうなる前に、私達は「助けてください」「何か助けが必要ですか」という言葉を互いに必要としています。
それに対して後者の「自分の日々の荷物」に対して聖書は、それらは各々が負うべきだと言っています。明らかにこれらの二つの重荷には区別があるのです。
そして、私達の人間関係に問題が起きるのは、この二つのことが区別できなくなってしまう時なのです。すなわち、私達が「日々、負うべき自分の荷」をあたかも「過剰な荷物」かのようにして負うことをしない時、そして、それを他者に負わせようとする時に問題が起こるのです(もちろん、これには健康とか、年齢とか、その時々の色々な事情や状況がありますし、私達が母国で住んでいて当たり前にできることと、海外であるが故に誰かの助けを必要とすることがあり、全てをあてはめることはできませんが)。
そして、この問題にクリスチャンは「誤解」をしてしまうことがあります。それは、聖書は「互いに愛し合いなさい」と言っているのだから、その荷がたとえ「LOAD」、すなわち個人個人が日々の生活の中で負うべき荷であっても、「自分の荷を負いたくない、負わない」と言っている人の荷は全て自分が負わなければならないのだ、それが愛なのだと思うということであり、それが神のみ心なのだと思い込むということです。そして、人間が複雑なのは、そのような時に自分の良心が責められるということが起きるのです。「なぜいい人が心を病むのか」というタイトルの本がありますが、その多くの理由はこのバウンデリーを見失ってしまっている時に起こるものです。
しかし、皆さん、どうでしょうか、聖書は本当にこのように人が負わない、負おうとしない、荷を全て負いなさいと言っているのでしょうか。そもそも、そのような荷を負われたことがある方にお聞きしたいのですが(大抵の人はそのような経験があるはずです)、あなたがその人の荷を負うことによって、彼、もしくは彼女は良くなりましたか。成長しましたか。自分で自分の荷を負うことができるようになりましたか。いいえ、大抵、そのようなことは起きずに「あなただけが苦しみ、その人はそんなあなたの苦労を知らずに暮らしているものなのです」。私達が出来ることは、それがいかなる人であっても、その人が自分で立っていくことができるようにイエス・キリストにあって手助けをしていくことなのです。
神様は私達一人一人に自由意志をお与えになったのです。自由意志をお与えになられたというその事実の背後には神様の大きな愛があります。私達は神の言いなりになるロボットではないのですから。そして、もう使い古された言葉ですが、自由の背後には常に責任が伴うのです。私達が神様から与えられたその自由意志は最終的にはその人自身の責任なのです。
よく何でもかんでも人のせいにする人がいます。確かにそのことが誰かからのせいであることもあるでしょう。しかし、多くの場合、自分の責任というものを人の責任に摩り替えて、かろうじて自分のエクスキューズとしているということ、それによってどうにか自分の面目を保っているということはないでしょうか。
このことをしかと私達が理解していないと、私達はいつまでもズルズルとこのエクスキューズの中に身を置いていくことになります。そして、時がくればそのことに怒りを感じて、でも自分のせいではないのだからと自分で自分を慰めたりして生涯を閉じて行きます。
でも聖書は私達には私達の責任があるということを明確にしているのです。それが聖書がいうところのメインメッセージである「罪からの救い」ということに明確に表されています。救いとは明らかにその人自身の心がどのような状態であるかということであり、それだけは他者がどうこうすることができないのです。
親が子のために悔い改めて子が救われることはないのです。牧師が誰かのために悔い改めることはできないのです。その人が自分で自分の囲いがあり、その中で自分のすべきことをしなければ、決してその生涯は変わらないことがあるのです。
私達は自分自身が負っているものがバーデンなのかロードなのかと問いかけなければなりません。私達は他者が負っているものが、バーデンなのかロードなのかを見分けなくてはなりません。そして、これを見分けることによって私達の人間関係はよく整理されるのです。
境界は低き垣根なり
とここまで聴きますと、私達はとても冷たい人間関係を思い起こすかもしれません。なんか、私達は互いを隔てる高い塀によって隔たれているのだと思われる方もいるかもしれません。私はあなたのことを気にしませんということにも、なりかねません。しかし、そういうことではなく、私達は一つのことを心に留めていなければなりません。
メキシコとの国境に行きますとそこには塀が境としてあります。そして、その塀はとても高いもので、中にはその塀の上に痛々しい針金が巻いてあります。なぜ?別に観光をしにボーダーに来ているわけでもありませんから、向こうを見せる必要はないし、何よりもその塀を乗り越えて行かれては困るからです。
しかし、私達が羊や馬を囲んでいる垣根を見るとそれは決して高い、中が見えないような塀ではありません。羊や馬の姿が見えるものであります。しかし、確かにそこには境界があるのです。
先ほど読みましたヨハネ10章には「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いに入るのに、門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は、羊の羊飼いである。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く」と書かれています。
なぜ羊は他の人にはついていかないのか。他の人とは門から入ってくる人ではなく、垣根を飛び越えてくる人だからです。そして、羊達はその人の声を知らないからです。
しかし、羊飼いのことなら羊たちも知っているというのです。だからその声に聞くのです。そして羊飼いは自分の羊の名前を知っているのです。なぜですか、それは羊飼いと羊は常に互いに合間見える関係にあったからです。
どういうことでしょうか?この羊を囲んでいる囲いは低くて互いを見やすいからです。私はこれまで国境にあるような塀と同じような塀で囲まれて育つ家畜を見たことがありません。たいてい家畜を囲うものは柵であり、それは私達の胸の高さほどであり、それは塀ではなく、木と木が重ねられたものであり、中からも外からも互いに見えるものなのです。また、この羊飼いがその垣根を飛び越えてくるのではなく、しかるべき門から羊の中に入っていくからです。
私達は互いに境界線を持つべきです。しかし、それは塀であってはなりません。それは互いの姿や表情を見合うことが出来る、互いの言葉を聞き合うことができる垣根であるべきです。そして、その相手の垣根を飛び越えていってはいけません。互いにしかるべき方法で垣根の中を行き来するのです。
ブラジルのサンパウロに行きました時に、互いの家を隔てる塀が高いことに驚きました。場所によっては私達の身長の2,3倍もその高さがあったり、そして、その塀の上には痛々しい針金が張り巡らされているのです。それでは、どうがんばってもお隣の気配を知ることはできないし、お隣同士の親密さを保つことは難しいのではないかと想いました。もちろんそこにはその国の治安の問題という現実があるわけですが。私達の境界線はこのような塀ではありません。
お隣さんとの垣根越しの会話というのがありますが、互いに顔の表情を見ながら、しかし、垣根が互いの間にあって話すことができる。そして、必要であればしかるべき入り口を使って、互いに垣根を越えて行き来することができる。必要であれば、そのようにして隣同士、互いに解決すべき問題に協力しあって取り組むのです。
私達の境界線は「バーデン」か「ロード」かを判断することができる低さの垣根であるべきです。互いの姿が見えないほどの垣根で垣根越しに話しているのでは、相手の表情も声の調子すらも聞き取ることができません。
私達の人間関係もこの境界というものを互いに意識している時に健全な関係が成り立ちます。特に私達、日本人は集団の中で個をできるだけ隠してでも、周りに同調することを良しとするような環境の中に(たとえ、それが本人の本心ではなくとも)生活していますから、その集団の中でうまく言っている間はいいのですが、個がない故に垣根も曖昧で、甘えの構造という本が指摘するように、互いになぁなぁと線を越えてしまうことがあるのです。
そして、それは一見「仲良し」だとか「いい人」という肯定的な言葉によって包まれてしまうのです。しかし、その中では色々な心の揺れ動きがあり、多くの場合、どちらかが過剰に自分を抑えていたりすることが多く、いつかその関係が壊れてしまうことがあるのです。
「わたし」と「あなた」は完全にそれぞれが独立しているものです。たとえそれが血を分け合った親子であっても、その子は父なる神の子であり、その親も父なる神の子なのです。たとえそれが生涯の契りを結んだ夫婦であっても、その妻は神の子であり、その夫も神の子なのです。
時に私達は自分の家を囲むフェンスをチェックします。時がたてば痛み、所々、朽ちてしまったり、倒れかかっている場合があるからです。それと同じように、どうでしょうか、かけがえのない皆さん個人の垣根はどうですか。塀ではありません、垣根です。「BURDEN」と「LOAD」を区別した垣根ですか。私達一人一人が互いにこの垣根に修繕をするということ、その時が私達の人間関係がもう一度、修復される時なのです。そして、その関係は互いを本当の意味でリスペクトした、互いの成長を心から喜ぶ関係なのです。
お祈りしましょう。