1972年、民主党選挙対策本部に不法侵入して盗聴器を仕掛けたウォーターゲートという事件がありました。覚えている方もいることでしょう。この事件によって、時の人ニクソン大統領は辞任へと追い込まれました。その時、この事件に関わった、ホワイトハウスの特別顧問であった、チャールズ・コルソンは、彼がこの陰謀を試みようとした経験から、こう告白しています。「隠ぺい工作は加担者全員が自信と力量をうかがわせる態度を一丸となってもち続ける時にのみ成功する」。
かつてのジーザスの弟子達の姿というものを聖書の中に見る時に、彼らは恐れに支配されていた様がうかがい知れます。しかし、その彼らが奮起一転、でっちあげの事実を自分達で練り上げ、ジーザスが復活したという隠蔽工作を全うさせ、その隠蔽工作がなんと2000年後に生きる私達までも騙すことができるほどの自信と力量とチームワークを彼らが持っていたとは決して思えません。しかも、彼らの多くはその復活を力強く宣べ伝えるだけではなく、それと引き換えに自分の命まで失っていったのです。
人間は自分で創作した嘘に命はかけません。自分ででっちあげた作り話が、震えている体からその震えを取り去り、恐れと共に隠れていた一室のドアの鍵を開け、その足で命危うい場所へと向かわしめることはありません。
ということは、ジーザスは確かに復活して、弟子たちに現われ、語られた以外には考えられないのです。そして、その復活が事実であるなら、私達はこの朝、次のことにも確信をもつことが出来るのです。それは、ジーザスは今日も私達と共におられるということです。目には見えませんが、ジーザスは今も生き、私達と共におられるということです。
マック

追伸:今日という喜びの日に洗礼式がもたれました。
Nさん、おめでとうございます!
ご家族の皆さんも輝いていました!
今日、お話したメッセージです。
↓よろしかったらどうぞ↓
キリストの復活が開く心の扉
ヨハネによる福音書20章19節
2008年3月23日
ここに二つの光景があります。両方共にイエスの弟子達の姿が描かれています。背景は彼らの師であったイエスが捕えられ、十字架につけられ、そして墓に収められた直後のことでヨハネによる福音書20章19節にその時の状況というものが書かれています。
その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると・・・・
ここを見る時に、明らかに分かることはこの弟子達はユダヤ人、もっと具体的に言いますならばイエスを十字架に架けた者達を恐れていたということです。そして、彼らはそれ故に自分達のいる部屋の戸をみな閉めていたというのです。新共同訳を見ますとその家の戸に鍵をかけていたというのです。なぜでしょうか?なぜなら、イエスの身に起きたことが、今度は自分達にも起きるかもしれないと彼らが考えたからです。彼らはそのことを恐れて、自分達のいる部屋に鍵をかけ、息を殺して隠れていたのです。
もう一つの光景です。その出来事は今、読みました出来事から数週間後に起きました。その光景は使徒行伝3章1節-8節に書かれています。
1さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。3彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。7こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、8踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
この一連の出来事は繋がっております。かつてユダヤ人を恐れ、戸に鍵をかけて恐れ震えながら隠れていた弟子達、そのうちのペテロとヨハネが数週間後にエルサレムの街路地に姿を現し、宮に向かっているというのです。宮とは数週間前に彼らが恐れていたユダヤ人達がたくさん集まっている場所です。彼らが絶対に会いたくない人達です。しかし、この度、彼らはその会いたくない人達がたくさんいる場所に向かっていたのです。
そして、その行く途中で足のきかない男に会ったというのです。彼は歩く事ができないゆえに、宮に向かう人達からの施しを生計としていたのでしょう。2節を見ますと彼はその所に「置かれていた」と書かれています。彼は足が不自由ゆえに、誰かに運んでもらわなければならず、まるで物のように扱われていたのでしょう。そして、きっといつもしているようにヨハネとペテロにも施しを求めたのです。数週間前を思えば、このペテロとヨハネは、誰かに呼び求められるだけでビクッとしていたことでしょう。しかし、その時ペテロは確信をもって力強くこういったのです「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」
こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、男は踊りあがって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行ったというのです。
この男はもう一度立ち上がることができたのです。そして、その喜びようといったら、その辺りを歩き回り、踊り、賛美をしたというのです。それは、それは大変な喜びようだったことでしょう。そして、私達は、そうしている彼の気持ちを理解するのです。私達も彼と同じことを体験するならば、人目をはばからず踊り出すでしょう。
あぁ、しかし、なんということでしょうか!この箇所を見ると、この男はペテロとヨハネと共に宮に入っていったというのです。ペテロとヨハネは彼らが恐れて鍵を閉めて隠れていたユダヤ人達がたむろする宮に、気づかれないようにビクビクしながら入ったのではなく、喜び踊る男と共に入っていったのです。すなわち、この三人が宮の入り口をくぐる時に、中にいた人達は皆彼らに注目したに違いありません。もう一度、申し上げますが、彼らは数週間前、その場に集まっている人達を恐れて戸に鍵をかけて隠れていた人達です。しかし、この度、彼らの心には「見つからないように」という思いはなく、「見つかっても何ら、恐れない心」が与えられていました。
そして、私達が想像するように、また彼らもおそらく覚悟をしていたことでしょう、彼らはこの後すぐに留置されてしまうのです。そして、翌朝には彼らが一番、恐れていたユダヤ人の役人、長老、律法学者、大祭司たちに取り囲まれて、尋問を受けることになりました。その時の様子が使徒行伝4章16節- 20節に詳しく書いてあります。
16(その場にいた人達は)言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。17ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。18そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。19ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。
彼らのかつての姿はどこにいったのでしょうか。いったい彼らはなぜかくも変わってしまったのでしょうか?何が彼らに起きたのでしょうか。この二つの場面にヒントになる言葉があります。すなわち、それは、足のきかない男性に向けてペテロが言った言葉、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう」という言葉と尋問を受けた時に答えたペテロとヨハネの言葉、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」という言葉です。
これらの言葉を見る時に、かつて恐れていた彼らは、その後「私にあるもの」と言える何かを手に入れたようです。また、たとえ命を失っても、「自分達が語らずにはいられないことを見た、聞いた」というのです。
それでは彼らは何を手に入れたのか、何を見たのか、何を聞いたのか。それはあれもこれもではありません。ただ一つ、彼らは十字架に架けられて殺され、それから葬られたイエスに出会い、そのイエスの言葉を聞いたということです。すなわち、彼らは復活したイエスと出会ったと聖書は記録しているのです。
いつも、私は言っているのですが、人間は自分で創作した嘘に命はかけません。自分ででっちあげた作り話が、震える体からその震えを取り去り、その手でドアの鍵を開け、その足で最も危険な場所へと向かわしめることはありません。
1972年、民主党選挙対策本部に不法侵入して盗聴器を仕掛けたウォーターゲートという事件がありました。覚えている方もいることでしょう。この事件によって、時の人ニクソン大統領は辞任へと追い込まれました。その時、この事件に関わった、ホワイトハウスの特別顧問であった、チャールズ・コルソンは、彼がこの陰謀を試みようとした経験から、こう告白しています。「隠ぺい工作は加担者全員が自信と力量をうかがわせる態度を一丸となってもち続ける時にのみ成功する」。
かつての弟子達の姿というものを聖書の中に見る時に、あんなに恐れに支配されていた彼らが奮起一転、でっちあげの事実を自分達で練り上げ、イエスが復活したという隠蔽工作を全うさせ、その隠蔽工作がなんと2000年後に生きる私達までも騙すことができるほどの自信と力量とチームワークを彼らが持っていたとは決して思えません。しかも、彼らの多くはその復活を力強く宣べ伝えるだけではなく、それと引き換えに自分の命を失ったのです。
ということは、イエスは確かに復活して、弟子たちに現われ、語られた以外には考えられないのです。そして、その復活が事実であるなら、私達はこの朝、次のことにも確信をもつことが出来るのです。それは、イエスは今日も私達と共におられるということです。目には見えませんが、イエスは今も生き、私達と共におられるということです。
もう一つ、特別な出来事をお話しましょう。それは、ぺテロというイエスの弟子に起きた出来事でした。彼は単純であり、そして情熱的な男でした。故にかつてイエスのためなら「私は命も惜しくない」というような威勢のいい言葉をイエス当人に誓った事があるのです。しかし、彼はその舌が乾かないうちに、自らの保身のために「イエスなど知らない、関係ない」と三度もイエスを拒むのです。そして、そのことは明らかにペテロが嘘つきであり、裏切り者であり、小心者であることを証明していたのです。
しかし、このペテロのために復活されたイエスは彼だけのために時と場所を備えていました。かつて漁師であったペテロの仕事場でもあり、イエスとのたくさんの思い出がつまったガリラヤ湖の湖畔。イエスはペテロのために焚き火をたき、魚を焼き、ペテロを待っていてくださったのです。
イエスはその所で大言壮語したペテロを「裏切り者」と叱責することはなさいませんでした。ただ、彼の弱さを受け入れ、もう一度、イエスと共に生きるために三度、彼に聞かれたのです「あなたは、私を愛するか。私の羊を養いなさい」。このイエスとの時間はペテロにとって特別な時となったに違いありません。
イエスの弟子達は戸の向こうで震えていたのです。戸を開けることができないでいたのです。ペテロはもしイエスに出会って、イエスから赦されて、受け入れられていることを確認することができなければ、その心の戸を生涯、開けることができずに人生を終えたに違いありません。
そして、皆さん、これらのエルサレムやガリラヤ湖畔で2000年前に起きたこの出来事は、ひるがえって今を生きる私達に向けられるのです。それは、彼らの姿が今日の私達の姿だということです。
私達の心も一つの部屋にたとえることができます。その部屋には一つの戸があります。私達はその戸を通して、その部屋に出入りができるのです。その部屋を開けることができるのは、自分自身だけなのですが、私達はその部屋を開けることができないのです。その部屋の中には「疑い」「恐れ」「不安」が満ちています。弟子達がそうであったように、戸の外で聞こえる物音に不安と恐れを感じているのが私達です。それを開けることによって、拒絶されることを恐れるのです。
しかし、彼らがイエスと出会った後に、彼らは自分の手で戸を開けて、外に出たのです。その時の彼らの足どりはどのようなものだったと思いますか。彼らは回りをキョロキョロして歩いていましたか。下ばかり見て、何かに躓かないかと心配して歩いていましたか。いいえ、その足取りは軽いのです。その足取りは力強いのです。ただ、上を見上げ、前を見据えて歩き出したからです。なぜですか?
これから後、いつまでもイエスが彼らと共にいるということを彼らは確信していたからです。
ここ最近「引きこもり」という言葉をよく聞くようになりました。この「引きこもり」とは、自室に閉じこもってしまって、部屋から出てくることができない、学校や会社に行くことができない状態にいる人達を指します。今日、日本にはこのような人が80万人から120万人いるといわれています。日本国の厚生省は引きこもりを「6ヶ月以上自宅に引きこもって社会参加しない状態」と定義し、20代以上が60%、5年以上の引きこもりが25%、数は増加傾向にあると発表しています。
今朝、この礼拝に集っている私達は自宅からここに来ているのですから、引きこもってはいないはずですが、ある専門家達は日本人の6割は潜在的なひきこもりなのだといいます。ですから、この数字を受け入れるなら、ここにいる私達の半分以上は潜在的に引きこもりだというのです。
そして、その主な原因として特に日本の社会が「本音と建前」で成り立っているからだということを挙げています。すなわち、嫌われたくないから、変だと思われたくないから、愛想笑いをして、いつも人の目を気にして、心にもないお世辞を言いながら、人と違っていてはならないと右に習えの社会構造がその原因だというのです。そのような社会に対して、心の奥底に人と自分への疑いと恐れと怒りがあるというのです。それゆえに、そんな鼻持ちならない、信頼できない社会に身を置くよりも、人と関わって傷つく必要のない、自分を守ることができる部屋にこもってしまうというのです。そして、潜在的なひきこもりとは、確かに自室から出て、社会生活はしているのですが、その心の戸を開くことなく、暮らしている人達のことなのです。時に何十年も共に暮らしている家族にですら、見た目はそのようでなくとも、自分の心の戸を開くことがないということもあり得るのです。
皆さん、弟子達は復活のイエスに出会って、あんなに堅く閉ざしていた、自分達の隠れている戸を開けたのです。そして、そのことは実は彼らの閉ざされた心の戸も開かれたということです。
イエスの弟子たちはかつてイエスに対して、「自分達は命をかけて、どこまでもあなたに従います」と言っていた人達です。でも、実際の彼らはイエスが捕らえられたことを知るや、逃げてしまったのです。彼らの心には色々な複雑な思いがあったに違いありません。
特にペテロの心は複雑であったに違いません。彼の心の中には、後悔と後ろめたさと恐れがない交ぜとなっていたことでしょう。彼はイエスと同じように異端者と思われたくないから、捕らわれたくないから、「あなたはイエスと共にいた」と自分に問い詰めてきた女達に愛想笑いをするかのように、それでいて背中は冷や汗をかきながら、どうにかこうにかその場を逃れたのです。この屈辱的な出来事により、彼は生涯、自分の心の戸を開くことができなくなったかもしれません。
しかし、弟子たちもペテロも復活したイエスに出会い、自分達と共に生きているそのイエスに語りかけられ、赦され、受け入れられ、そして期待されることによって、全く驚くべき生涯を歩み始めたのです。彼らの心は全くイエスによって解放されたのです。ですから、ペテロなどは人を恐れてイエスを裏ぎったのですが、今度は人への恐れから解放されて、心を開き、本当の自分の姿をあらわすことができたのです。
皆さん、クリスチャンになるということは、この弟子達と同じように歩く事ができるということです。確かに私達の住む社会を見れば、どこかに引きこもりたくなる時もあるでしょう。一番、身近な人に対しても一度も自分の心を開いたことがないという人もいることでしょう。
しかし、私達が今も生きておられるこのキリストに出会うなら、私達の心の戸を開く勇気が与えられるのです。なぜなら「あなたが私にどんなに悪態をついても、あなたは私があなたを嫌うようにすることはできないよ」というのキリストの私達に対する思いなのですから。そして、このお方は世の終りまで、私達と共にいて下さるのですから。心の戸から出てきた私達は一人ではないのですから。このお方がいるのですから。
皆さん、いかがですか。あなたの戸は開いていますか。この問いは自室にこもっている人達だけに語り掛けているのではありません。あなたしか知りえない、あなたの心の戸は開かれていますか。
イエスは戸口にたっています。その戸には内鍵しかないのです。すなわち、開けられるのはあなただけなのです。イエスを心の内に招き入れましょう。そして、部屋から外に出ましょう。その瞬間から私達は世の終りまで、イエスから離れることはないのですから。ですから、私達は今日、互いに挨拶を取り交わすのです。ハッピー・イースター!!
お祈りしましょう。
ナザレ人って何?
さんぼ
いつも読んでいてくれて嬉しいよ。
「ナザレ人イエス」というのは、イエスの父母ヨセフとマリアが住んでいた町のことで、この町でイエスは成長したんだ。
さんぼが「藤沢のサンボ」と言われるのと同じようなことだよ。
また、いつでも聞いてくださいませませ。