先日、ある若い方がこう尋ねてきました「神がいるのになぜこんな不公平が世界にはあるのですか」。自分は問題なく寝食が与えられているのに、世界にはそうではない人がたくさんいる。これは不公平じゃないか。誰もが心に思うことです。なぜ、あんないい人がこんな目にあって、なぜ、ああいう悪人が罰せられることがないのか。このようなことを思いますと、私達は世界が様々な疑問と不確かさで満ちている暗闇に思えてくるのです。いいえ、確かに私達の世界にはこのようなことが右を見ても左を見てもあるのです。

私はその方に言いました・・・。
今日、お話したメッセージです。
よかったらどうぞ↓
言葉と命と光がなければ・・・
①初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。②この言は初めに神と共にあった。③すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。④この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。⑤光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった(ヨハネ1章1節-5節)
植物が育つためには水・酸素・太陽が必要だと言われますが(そしてそれは人間もそうなのですが)、人間にはさらに必要なものがあります。今日、読みました短い聖書の言葉の中には私達にとってとても大切な三つのキーワード「言葉」「命」そして「光」が記されています。そして、これらは全てクリスマスにお生まれになったイエス・キリストを表すものなのです。
クリスマス前ですので、この二週間は「あなたは何を観ていますか・メッセージ・シリーズ」から離れてクリスマスに備えたメッセージを皆さんにお届けします。そこで、その最初として今日の聖書のみ言葉から三つのことをお話します。まず第一に「初めに言葉があった」ということです。
初めに言葉があった 私達日本人は温泉が大好きです。頭にタオルなんかを乗せて、温泉に入った瞬間に私達は「フッー」とか「アぁー」とか何とも言えない言葉にならないことを言います。そして、それこそが温泉の正統的な入り方であり、その湯船に浸かりながら「さすがにこのナトリウム24%、硫黄38%の温泉はいいですなー」などとウンチクを言う人はいません。
でも、私達の生きる指針とか、私達の心に関わる事、私達の年間の標語にありますように「オフィスでもキッチンでもイエスを知るために」私はここに立って「ウゥーン」とか「ハァー」とか言っているわけにはいかんのです。そんなことをしていたら、この礼拝に来る人は誰もいなくなります。また例えば、日曜日にこの礼拝堂だけを空けておいて、中は薄暗くロウソクの火だけを灯しておいて、後は皆さん、この静かな雰囲気の中、各自心を静めて帰って下さいというのであるならば、同じく日曜の朝にわざわざ車を運転してここに来る人は誰もいなくなるでしょう。なぜですか?なぜなら、そこには「言葉」がないからです。
そうです、私達は具体的な言葉によって語られなければ、それを明日からの生活の指針としたり、そこから励ましや戒めを知ることができないからです。ですから、ヨハネがここで「はじめに言葉があった」と書いていることはすごいことなのです。
明らかにこれを書いたヨハネの頭の中には創世記の一章の言葉があったに違いありません。神が世界を創造した時、その時に神はまず「光あれ」と言われました。そうすると「光があった」と創世記は書いています。ヨハネが3節において「すべてのものはこれによってできた」と言っているとおりです。このことから分るように神の言葉というのは特別なものでありまして、そのことを聖書はいくつも記しています。
詩篇33篇6節には「もろもろの天は主のみ言葉によって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」とあります。これは神の言葉には新しい世界、新しい状況をクリエイトする力があるということです。
詩篇107篇20節には「そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された」とあります。これは、今日、世の中が言っている「ヒーリング」とか「ホッとリラックス」ということではありません。これは実際に私達の傷ついた魂が癒されるということで、私達の心の破れがそして、それが神のみ心であるならば、私達の肉体までもが文字通り癒されるという力が神の言葉にはあるということです。
イザヤ55章11節には「このようにわが口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。わたしの喜ぶこところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす」とあります。これは神の言葉が私達に語られ、私達がそれを信仰をもって受け止めていくなら、その言葉がむなしいものにはならない、その送られた先で大いなることを成すというのです。
これらをして神の言葉というのです。故にこの聖書の言葉が語られない日曜日の礼拝はないのです。そして驚くべきことに、さらにこの後の14節などを見ていきますと(そのことに関しては来週詳しくお話しますが)「この言葉が肉体となった」というのです。言葉が肉体となるとはどういうことか?と思いますが、その肉体とはイエス・キリストのことなのです。
すなわちイエス・キリストがお生まれになられたということは、そのキリストご自身が神の言葉を表すということであり、キリストはその行いと具体的な言葉によって父なる神について、人間について、死について、命について、愛について、恵みについて語られたということです。
先月、死海写本を観に行きました。エアポートに匹敵するようなセキュリティ・チェックが展示されている写本の重要性を意味していました。そこでは爪きりをはじめ、小型のフラッシュライトまでが取り上げられました。言うまでもなく、いかに小さなものでも鋭利なものは写本を傷つけるからです。また、これらの写本は断片的にしか残っていない2000年前の羊皮紙に記されていますから、朽ちています。ゆえに光によってもその保存に影響があるだろうという誠に細かい注意がそこにはあります。
確かに2000年前にその写本を写し取った人間がいて、その写本に見入っているならば、一字一句を誤ることなく写し取ろうとした人間の息づかいと、張り詰めた空気というものが伝わってくるように感じました。それらのことを思う時に私達はこの神の言葉なる聖書が本当に神によって守られているのだ、その保護のもとに今、私達の手元にこの聖書があるのだと感動するのです。もし、この聖書が今、私達の手元になければ、私達は「あぁいい感じー」「あぁー癒される、あぁー神々しい」ということを言っているにすぎなかったのですから。私はここで皆さんに語ることは何もないのですから。
ですから、私達は「み言葉、み言葉」というのです。なんで毎週、一日一生という聖書通読表をお配りしているのでしょうか。お分かりですね、私達の人生を、私達の生活を変え、私達を祝福に導いてくれるのはこの聖書の言葉なのです。
二つ目のことをお話しましょう。ヨハネはさらに驚くべき事にこの言葉には命があると書いています。二つ目のポイント、「言葉には命があった」ということを見ていきましょう。
言葉に命があった 今日、私達の回りには言葉が溢れています。それこそ「焼肉食べ放題」という言葉から「土足厳禁」という言葉までありとあらゆる言葉が満ちています。しかし、その中でその言葉に命があるということになると私達は首をかしげてしまいます。そもそも、言葉に命があるということはどういうことなのでしょうか。
先ほど、お話しましたヨハネは「イエスは言葉」であり、私達の内に宿ったと言いました。すなわちこの言葉に命があったということは、「イエスの内に命があった」ということであり、聖書はそのイエスの命は私達にも与えられるというのです。そして、このキリストにある命は私達が世の中で使っている命とは全く違うというのです。
沢木耕太郎という作家が「深夜特急」という本を書いています。その本は彼が若い頃に香港から飛行機を使わず路線バスや汽車でロンドンまで貧乏旅をした実際の旅日記となっています。その彼がおもしろいことを書いています。いつも彼は訪ねる町々で10ほどの簡易ベッドが無造作に並べられているような安いドミトリーを使っていました。そのような宿には世界中からのバックパッカーが集まってくるのです。
今日、海外旅行を楽しみに、励みにして働いている人達が多くいます。その方々はきっと思っているに違いありません。リタイアして余裕ができたら時間を気にせずに世界中の国々をめぐってみたい。
沢木さんもそうでしたが、彼が出会った多くの若者達はその大人の夢を「社会の安定」というものと引き換えに実現していました。ガイドブックには載っていないところまで世界の隅々を観て回り、いつまで本国に帰らなければならないということもなく、その日の予定も何もないから、朝はのんびり街の食堂でチャイを飲んで、店員を冷やかしながら夕方までノンビリしていても誰も文句を言わないとうような生活を彼らはしていたのです。そんな気楽な一日をいつかは過ごしたいと多くの人達は思って今、一生懸命働いています。彼らはそんな多くの人達の夢を叶えてしまっていたのです。
沢木さんはある時、母国を出て数年もたつという若者が朝、死んだ魚の目のような眼(まなこ)でボンヤリと天上を眺めているのを見ました。それを見て、沢木さんは「ここにジッとしてはいけない、まずい」と思ったというのです。なぜなら、その目は確かに死んでいるかのように見えたからです。実際にその若者は死んでいないのです、確かに心臓は動いていましたし、おそらく健康にも問題はなかったことでしょう。ですから彼は確かに命を持っていたといえます。聖書が取り扱っている命とはこのような類の命ではないのです。
特にこのヨハネはこの「命」ということを数多く挙げておりまして、その数は実にこのヨハネ伝の中だけでも35回以上あるのです。その一つ、ヨハネ6章30節ー40節を特に見てみましょう。
30彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。31わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。32そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。33神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。34彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。35イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。36しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。37父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。38わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。39わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。40わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
ここに書かれている「パン」とは私達の口から入り私達の肉となり血となる食物です。人々はかつてイスラエルの民が荒野において、神からマナと呼ばれるパンが与えられ、それによって養われたということを知っていて、そのような肉の糧をイエスに求めたのです。しかし、イエスは興味深いことに35節において「私こそが命のパンだ」と言われたのです。そして、こう言われたのです「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」。
先にお話した沢木耕太郎さんの見た若者は生きていました。しかし、このイエスが言っている命という意味においては生きてはいませんでした。彼はおそらくその目をもって世界のあらゆる国々を見て回ったに違いない。私達がよく心に留めなければいけないことは、彼の生き方こそ私達がいつかしてみたいと願っているような生き方だったということです。しかし、そのようなことをしても心の中の飢え乾きは消えることがなかったのです。もはや、何を見ても感動はなく、ただボッーと天上を眺めていたというのです。
皆さん、神の言葉にはこのような人間を本当に生かす命があるのです。この命なるキリストはヨハネ5章40節において言われたのです「あなたがたは命を得るためにわたしのもとにこようともしない」。この若者も最初は見たことのない世界をこの目で余す所見てやるという気持ちで母国を旅立ったのでしょう。しかし、彼はどこに行っても自分の心の渇きを満たすことはできなかったのです。どこに行っても本当の命を見いだすことができなかったのです。
あなたはこのキリストが与えると約束してくださっている命をお持ちでしょうか。この若者はこの命を見いだすために深夜特急に乗る必要はなかったのです。地球の裏側に行く必要はなかったのです。イエス・キリストは馬小屋でお生まれになりました。なぜですか、私達が神のもとに行くことなどは決してできないのですから、神が人が手を伸ばせば届くこの世界にお生まれになったのです。しかも近寄り難い身分立場や私達が住むのとは全く場違いな王宮ではなく、誰でも近づくことができる馬小屋で赤子という姿をとられて。
だからイエスは嘆いたのです。「私はこの地に来たのに、真の命を得るために私の元にこようともしない」。この青年は一番、身近にある本当の命に気がつかず、世界を廻り、途方に暮れていたのです。
クリスマスは私達が誰でもイエスの元に行く事ができることを宣言している日です。キリストの命は今、あなたの目の前にあります。今日、それをいただきたいのなら「在庫はありません」と追い返されることはありません。今日、あなたはそれを手に入れることができるのです。3つ目のことをお話しましょう。それは「命は光であった」ということです。
命は人の光であった ヨハネはこの命は人の光であったといいます。この福音書だけでも21回以上、「光」という言葉が出てきます。「あなたこそ日本、もしくはアメリカの希望の光です」と言われる人が時々います。しかし、やがてその人達の名前は人々の間から忘れられていきます。ましてや、その人自身がお亡くなりになれば、もはや「その人が光です」と言われることはありません。その光は極めて期間限定的なものなのです。
ここでヨハネが名指ししているその光はイエス・キリストです。今日、このキリストをピ-ターパンのように想像上の人物と考えている人はいません。確かにこのお方は2000年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そして、その2000年前にお生まれになった方が今日も私達の光となっています。
これは普通ならありえないことです。先ほども申し上げましたように「あなたこそ私達の希望で、光です」というのは普通、今も私達と共に生きている人に言う言葉だからです。でも、今日もこのキリストを光として絶望の淵から立ち上がる人が後を絶ちません。
今日見ていますヨハネ伝を含め福音書の中で一つ見落とすことができないことは、多くの人々がイエスのもとに来て「私は何をしたらよいでしょうか」と問うているということです。そうなのです、イエスを取り巻く人々は自分は何をしたらいいのかという疑い、不確かさ、推測、迷いの中に生きていたのです。なぜなら、彼らは暗闇の中を歩いていたからです。そして、それは今日の私達の姿でもあるのです。
先日、ある若い方がこう尋ねてきました「神がいるのになぜこんな不公平が世界にはあるのですか」。自分は問題なく寝食が与えられているのに、世界にはそうではない人がたくさんいる。これは不公平じゃないか。誰もが心に思うことです。皆さんもそう思った方いませんか。なぜ、何も罪もない子供が悲惨な目に合わなければならないのか。なぜ、ああいう悪人が罰せられることがないのか。このようなことを思いますと、私達は世界が様々な疑問と不確かさで満ちている暗闇に思えてくるのです。いいえ、確かに私達の世界にはこのようなことが右を見ても左を見てもあるのです。
私はその方に言いました「確かに世界は不公平に見えます。そして、そうなると神は何をやっているのだ。神こそが不公平の源ではないかとも思えます。でも、結論を急いではいけないのではないでしょうか。今は不公平に見えるけれど、必ずその帳尻を合わせてくれるお方が神なのですから。帳尻とはてんでバラバラの長さのものが最終的には皆、その長さが整えられるということです。ですから本当に不公平な世界とは、その帳尻が全くないことです。すなわち最終的に帳尻を合わせて下さる神がいない世界です。
私達の過去・現在・未来において私達が経験することだけが私達の全てであるなら、確かにそれは不公平です。徹底的に不公平だ。その不公平さに大きなため息をつき、無礼講で暴れてしまってもいいとさえ思う人達が世界にはたくさんいます。でも、そうじゃーありません、まだ全ての決算はされていないのです。そして、その決算が神のみ手にあって必ずなされるのなら、世界は決して不公平ではないのです。そのことを知る時に、私達の推測と模索の時は終わり、疑いと不確かさと迷いは過ぎ去るのです、まさしく暗かった小道は照らされ、不安の暗闇に光が照らされるのです。
先に言葉には命があったということについてお話しました。でも、この命について一つ大切な命のことを触れませんでした。その神がキリストを通して私達に与えてくださる命について先ほど開きましたヨハネ6章38節ー40節にはこんなことも書かれています。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
ここにはキリストの命とは永遠の命であり、私達の父なる神のみ心は私達がこの言葉なる、命なる、光なるキリストを信じて、永遠の命を得ることなのだというのです。
そして、この「永遠の命」は私達は誰一人として不公平な取り扱いを受けないということを約束しているのです。私達が生きたこの地上でのことは全て余すところなく必ず帳尻を合わされる時があるのです。
町に繰り出せば夜でも昼のように明かりが照らされています。でも、それは私達の現実の暗闇を躍起になってごまかそうとして光っているようにさえ思えることがあります。未だ私達の心の中には暗闇があります。様々な疑問や諦め、疑い、失望が私達を包み込みます。死ということを考えればもう絶望的に思えます。しかし、この光は今もそんな闇の中に輝いているのです。そして「闇はこれに勝たなかった」と聖書は私達に強く語りかけているのです。キリストは私達に光を照らすために、ご自身「光」としてこの地に生まれてくださったのです。
皆さんの生涯にこの光は照らされているでしょうか。今日お話した言葉が皆さんの生活の土台となっているでしょうか。今日お話したキリストの命を受け取っておられるでしょうか。
最後にヨハネが記した二つの言葉をもってこのメッセージを終えましょう。
ヨハネ12章46節 「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、闇のうちにとどまらないようになるためである」
ヨハネ12章36節「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。
お祈りしましょう。