ピスガに立ちて

日本では九月第三月曜日は敬老の日ですね。私達の教会でも毎年、その前日の日曜日に祝会をもっており、今日がその日でした。この日のために教会のご婦人達が80歳以上の方達のために、祈り心と共に50個のお弁当を準備し、大変喜んでいただきました。また、サンデースクールの子供達が長い間、練習してきた「海と空」を手話で賛美しました。皆の笑顔がはじけている一日となりました!

本日は礼拝メッセージ原稿のみの掲載です。よかったらどうぞ↓

マック

ピスガに立ちて                                                日英合同礼拝 (敬老祝会の日)                                           2011年9月18日                                                       申命記34章1節‐8節

ある方によりますと敬老会は当初60歳から始まったといいます!しかし、その年齢の方達がとてもお元気でありますゆえに、その年齢は何度か引き上げられ、今は80歳となりました。しかし、80歳以上の方達もお元気であるということが確認されますと、これが85歳、90歳に・・・。この先は誰にも分かりません。神のみぞ知るです。

今日は聖書中に出てきます120歳を迎えた一人の人について見ていきたいと願っています。彼の名前はモーセです。彼は今、ある山の頂に一人立っています。そのことを申命記はこのように記しています。

1モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、2ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、3ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された(申命記34章1節‐3節)。

彼の立っていた山を私達はピスガと呼びます。彼はその生涯の最後の時に、その山に上るように導かれました。その頂きに立ったモーセの前方にはかつて神様がアブラハムに約束され、モーセが夢にまで見たカナンの地があります。

人生は一つの山を登るようなものだと言うことがあります。詩篇121篇には「わたしは山に向かって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。我が助けは天と地を造られた主から来る」(1,2節)という聖書の言葉がありますが、私達はその頂きに立つまでに幾つもの険しい山々を乗り越えて、やがて自分の人生を全て展望できるような頂きに立ちます。そこで私達は「これまで自分が歩んできた道のり」と、「現在、山頂に立っている自分」と、「彼方に広がる世界を見渡す」ことになるのです。そこでまず今朝は最初に「これまでの道のり」ということについてお話させていただきます。

これまでの道のり

80年前の1931年に世界で何が起きたのかを調べてみました。色々なことがありましたが、その中には満州事変やエンパイヤーステイトビルディングが完成したなんてものがありました。その時代、もしくはそれ以前にお生まれになった方達の人生を私達は今日、お祝いします。皆さんはそのような長い人生を歩んでこられ、今にいたっています。もし、皆さんが今、ピスガの頂に立っているとして、その頂から今日までの道のりを眺める時に、そこで何を見るでしょうか。

モーセの人生は三つの区分に分けられます。彼にとってそれはエジプト王宮での40年であり、ミデアンの荒野での40年であり、またイスラエルの民たちと共に過ごした荒野での40年でした。そこには多くの楽しみや喜びがあったことでしょう。モーセとて私達と同じ人間です。ですから私達もモーセと同じような感情をもち、これまでの道のりを歩んできました。

このように長い年月を経て、自分の人生というものを全てまとめて見る時に、私達は神様が私達に対して抱いておられたご計画というものを知ることができるようになります。モーセにとってエジプト王宮で積んだ経験はイスラエルの民をエジプトから救出する時に大きな力となりました。王宮の組織を知り、その時には彼と共に育ったエリート達がきっとエジプトの官僚となっていたことでしょう。ミデアンの荒野の40年で彼は「荒野に暮らすこと」のプロになっていました。この経験はイスラエルの民と共に40年、荒野に生きる時に不可欠な体験となりました。

これらのことを思いますときに、彼の最初の80年はイスラエルの民と過ごした荒野での最後の40年の準備だったと言えましょう。その40年はまさしく困難の連続でした。そんな年月についてモーセは自分の死期が近づいた時にイスラエルの民に向かって何と言っていたでしょうか。

申命記29章2節‐6節 2モーセはイスラエルのすべての人を呼び集めて言った、「あなたがたは主がエジプトの地で、パロと、そのすべての家来と、その全地とにせられたすべての事をまのあたり見た。3すなわちその大きな試みと、しるしと、大きな不思議とをまのあたり見たのである。4しかし、今日まで主はあなたがたの心に悟らせず、目に見させず、耳に聞かせられなかった。5わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。6あなたがたはまたパンも食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知るに至った。

皆さんのこれまでの歩みはどんなものでしたか。私達もモーセのように多くのことを目の当たりに見てきました。大きな試みやしるしと思われるもの、中には不思議というものも体験したことでしょう。そして、今我にかえります時に、わが衣は古びず、くつも古びなかったということ、すなわち、その時は気がつかなかったけれど、神様の恵みがここあそこに注がれていたではないかということに気がつくようになった。こうして今、わが神こそが、わが主であられたということを確かに知るようになった。そうではないでしょうか。二つめのことをお話します。

現在、立っている場所

先ほど読みました申命記をもう一度、読み、その続きに書かれていることに目を留めましょう。

1モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、2ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、3ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。4そして主は彼に言われた「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。5こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。

彼はその頂きにおいて一つのことを覚悟していました。それは彼の最終的な目標となった約束の地に入ることができないということです。その厳しい現実は一つの彼の過ちによる結果でありました。しかし、彼はそれを受け止めなければなりませんでした。モーセに何が起きたのでしょうか。民数記20章1節から13節はモーセとアロンが、チンの荒野で民の求めに応じて水を出す時、神が岩に命じよと仰せになったのに、怒りを込めて岩を杖でたたいてしまったというたった一度の違反によるものでした(民数記20章1節~13節)。水はその結果として湧き出たのですが、神様はモーセがその命令どおりにしなかったことをお咎めになり「あなたはカナンには入れない」と言われたのです。

私達は思います。たった一度の過ちによって、その全生涯をかけて目指してきたものが閉ざされてしまうと言う事、神様、それはちょっとあんまりではないですかと。同じように、私達がピスガの頂きに立つ時に、モーセが通ったようなことを経験することがあります。それは自分がこれまで体験したことの中に、自分が計画したこと、願ったようにはならなかったことがあるという発見です。

ヘブル人への手紙11章には信仰の勇者たちの名前が列挙されており、彼らは皆「信仰によって歩んだ」と記されており、その中にモーセの名前も出てきます。そうです、モーセの生涯はまさしく神を信じた信仰の生涯でした。その信仰とはたとえ自分の願いが叶わずとも神を信じるという信仰です

 ヨハネ1章17節においてヨハネは「律法はモーセによって与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストによって実現した」と記しています。律法とは言い方を替えますならば「自分の力によって義となろうとする」ことです。この律法に従って一生懸命に生きようとした人達の姿が旧約聖書には記されており、その律法のはじまりに生きたのがモーセだったのです。しかし、この律法ということに対してガラテヤ2章26節にに「律法の行ないによって義と認められる人はだれひとりいません」とあるように、「律法は自分の力で義となることはできない」ということが明らかになってきました。

 神様の壮大なご計画の中でモーセはその律法のはじまりとなり、恵みとまことはイエス・キリストによってもたらされたのです

 ルカによる福音書9章28節から31節にはとても興味深いことが書かれています。28これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。30すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、31栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。

 モーセがピスガに立ち、亡くなってから約1500年後、彼はイエス様と出会うことにより、なぜ自分があの時、カナンに入ることができなかったかということが分かったことでしょう。すなわち、彼は神様の計画の中では「律法を代表する人物」だったということ、その神様のご計画において大切な役回りを生きた彼はイエス様とこれからエルサレムにおいて成し遂げられることについて、すなわち、その時、彼は律法の代わりになるキリストの十字架について話していたのです。

 ですから、その時、モーセはイエス様にこう言ったかもしれません「主よ、あなたにお会いできて光栄です。あなたなき時代に生きた私は自分の過ちに対して自らが蒔いたものを自らが刈り取らなければなりませんでした。神様はそれゆえに私を約束の地に入れることをお許しになりませんでした。しかし、今、あなたの十字架によって神が私に託したつとめは終わりました。今、私の目に全てのことが明らかになりました。あなたのご計画の深さに私は圧倒されています」ということです。

 皆さん、このことを知る時に、私達は信仰によって私達の人生に起きてくる様々な出来事にも私達には知り得ない主の深い計画があるのだということを知るのです。そして、そのことが分かってきます時に、あのローマ8章28節の御言葉が言うところを理解できるのではないでしょうか「神は神を愛する者達、すなわちご計画に従って召された者達と共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8章28節)。最後に「この先にあるもの」についてお話ししましょう。

この先にあるもの

モーセは約束の地に入れませんでした。しかし、彼には優った場所が用意されていました。へブル11章13節-16節はそのことをこう記しています。

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

モーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、彼は神自らが天に備えたもう都に行きました。確かに行きました。そこは約束の地とは比べようもないほどに、はるかに勝った場所でした。そして、私達もその彼が行った同じ場所に行くことができると聖書は言っているのです。私達にとってこの先にあるものは漠然としたものではないのです。ですから私達はさいわいです。その先にあるものを知り、そこに必ず行くことができるということを知っているからです。

これら今日お話しました三つのことをまとめて私達はこういうことができます。私達のこれまでの人生の歩みは神の恵みで満ちている、そして、今の私達にもこの神の恵みはあますところなく注がれています。たとえ今、自分には理解できないことがあったとしても、そのところにも神様の支配はおよんでおり、主は私達がこれから行き着く先をも備えていて下さるのです。

今日、敬老の日を迎える兄弟姉妹、皆さんの日々がこの神様によって支えられますようにお祈りします。そして、皆さんお一人お一人のお名前もあのヘブル人の手紙11章に記されている信仰の勇者達の名前に加えられていることを信じています。神様の恵みが豊かにお一人お一人の上にありますように。最後に私達の神様への信仰の応答として「恵みの高きね」を賛美しましょう。

恵みの高きね(新聖歌339、1番、3番)

 

 

 

 

 

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