聖徒の交わりを信じる

子供を育てるということのイメージというものがあります。こんなクリブを置いて、こんなかわいい服を着せて、いつも子供は私に微笑みかえてくれて・・・。しかし、現実は全く違う。悲しいほど違う。きれいに整えたクリブはすぐに汚れ、そもそもそのクリブで子供は寝ないで夜通し泣き続ける。いつも私に微笑みかけてくれる可愛いわが子を思い描いていたけれど、それどころではない、夜通し泣き続ける子供に疲労困憊する、まったくそんな無垢なイノセントな子供を怒鳴りつけてしまう衝動にかられる、そのようなところまでいってはじめて、私達は親とは何なのだろうか、人とは何なのだろうか、神の愛は何なのだろうかということを知るのです。

それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものであるエペソ人への手紙の3章10節ー11節)。



 



 

今日、礼拝でお話ししたメッセージです↓ 礼拝プログラムはこちら。

聖徒の交わりを信ず

2011年8月28日

 

先週は「教会の不思議」というメッセージ・タイトルで神様が教会に対して、どんな思いをもっていらっしゃるかということをお話しました。すなわち、「教会を信じる」という使徒信条に書かれております信仰の告白は、教会が自分の信仰生活に便利だから、ほどよい社交の場だから、それを大切にしているということではないということであり、神様はその一人子イエスを教会にお与えになるほどに教会を愛しておられるということをお話しました。ですからカルバンの言葉を借りて言いますならば、天地万物の創造者なる神を父とする者は教会を母として生きるのだということをお話しました。

 

そして、今日は続く使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」という言葉から私達はクリスチャンと呼ばれる者同士の互いの交わりというものを欠かせないものとしているということをお話ししたく願っているのです。

本来、信仰をもつということは極めて個人的なことです。なぜなら信仰の決断とはあの人、この人の顔色をうかがってなされるものではなく、それは全く神様と自分との関係においてなされるものだからです。しかし、そのように信仰を持つものとされた私達に対して神様は、教会を中心としたクリスチャン同志の交わりの中に入ることをよしとされているというのです。

しかし、ここに私達が考え込んでしまうことがあります。それは人と関わるということは私達の人生に最高の喜びと生きがいを与えるものであると同時に、その関係は同時に私達を悩まし、痛みを与えるものでもあるからです。このようなことはあえて言わずとも誰でも知っていることであり、またそれは2000年前のイエス・キリストの時代の人々も知っていたことであるに違いありません。しかし、それであっても神様は私達に教会におけるキリストにある者達の交わりというものは不可欠なものなのだということを語っているのです。

そこで今日はエペソ人への手紙より、この「キリストにある者達の交わり」ということについて見ていきたいと思います。このエペソ人への手紙はローマにおいて投獄されていたパウロによって書かれたものでありまして、その名のごとくエペソにある教会の人々に宛てて書かれた手紙であると同時に、アジア地域にある教会にて回覧された手紙であるといわれています。その内容はアジアという土地柄、特に内外から多種多様な人間を受け入れる教会であり、それゆえに多くの可能性と祝福を受ける場所であると同時に、様々な人間的な試みを受けるということを踏まえて、パウロはこの手紙を書いて、諸教会を励まし諭しているのです。その中で今日は特にエペソ人への手紙の三章1節から21節から見ていきたく願っています。少し長いのですが、読んでみましょう。

教会をとおして知る

1こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ―2わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。3すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。4あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。5この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。6それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。7わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。8すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、9更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。12この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。13だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。14こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。16どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。20どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

よく「わたしは聖書の教えは好きだけれど、教会という組織には馴染めない」と言われる方がいます。そのような方たちにとって、今日、多くの教会が放映している礼拝の生放送というのはとても便利なものかもしれません。実際に私達の教会でも放映していますが、それは教会まで来なくても各自、家庭で礼拝を捧げるこことができるというような皆さんの便利さのためにそうしているのではなく、止む無く教会にこれない人のための礼拝の生放送なのです。

なぜこのようなことを言うかといいますと、教会に来ることなく礼拝を守るということは、残念ながら、その礼拝のメッセージや賛美や祈りから何か得るものはあったとしても、それ以上のものにはならないことが多いからです。先にこのエペソ書をパウロはローマの獄中で書いたと言いましたが、人とはとかくそのような隔離された所に一人静かにおりますと、色々なことを悟らされるのでしょう。彼はこのところに驚くべきことを記しているのです。すなわち、彼はこう記しています。10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

イエス・キリストが天に戻られる前と後の違いの最も大きなことは、イエス様が天に戻られた後に、この世界には「教会」というものが生まれてきたということなのです。そして、このような「新しいもの」についてパウロは獄の中で祈り、黙想していたのでしょう。その時点で彼はその全てをこの教会の開拓と形成に注ぎこんでいたからです。そのような中で神様は彼に示されたのでしょう。これまで神は「イスラエル」という国を媒介として、そのはたらきを示してこられた。しかし、これからは「教会」を通してその多種多様な知恵を授けると。そして、それは単なる自分の閃きということではなくて、それこそが「わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものなのだ」ということをパウロは知ったのでしょう。

キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的とは何か。キリストにあって実現されたもの、それは言うまでもないイエス・キリストの十字架の愛です。その神の愛という永遠の目的にそうために、私達は教会を通して、その教会を通してという言葉の意味は、そこで教えられることと同時に、そこに生きる聖徒の交わりの中から、私達は神の多種多様な知恵を得ることができるのだとパウロは言っているのです。

だからパウロは自身がこの教会のために、現に今受けている患難ということについても、自分の覚悟を記しているのです。

3だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。14こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。16どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

皆さん、このところでパウロが教会というものについて私達に伝えようとしていることがお分かりになるでしょうか。ぜひ、この御言葉を今日は心に刻んでお帰りください。神様は教会を通して多種多様な神の知恵に私達を導こうとしている。それでは神の知恵とは何か。あの有名なコリント第一の手紙一章によれば、その知恵はキリストの十字架なのです。人が愚かな行為だ、十字架に磔にされるなんてなんと恐ろしいという、あの十字架にイエス・キリストが私達の罪の身代わりとなられ、十字架にかかってくださったということなのです。そして、それは神の私達に対する、パウロの言葉を借りて言いますなら、「人知をはるかに超えたキリストの愛」なのです。

パウロはこれらの言葉が向けられる者達を「あなたがた」と呼んでいます。すなわちこれは個人に向けられた言葉ではなく、教会に向けられた言葉なのです。ですから、これらを全てまとめていいますならば、私達は教会における聖徒の交わりを通して、神の多種多様な知恵を知り、さらに人知をはるかに超えたキリストの愛の奥義の広さ、長さ、高さ、深さを理解するのです。パウロは教会を通して、私達がこの神に満ちているすべてをもって、あなたがたが満たされるようにと祈るというのです。

今日の世界のキリスト教の力強いはたらきというものを見ますときに、かつては欧米がその中心にあったものが、今はアジアやアフリカ諸国に移ったといわれています。ヨーロッパにおいて毎週、教会の礼拝に出席している人の数は激減しています。その中でかろうじて大国のこのアメリカはかつてほどの様はありませんですが、今も目に見える教会のはたらきがあり、そのような意味においては欧米諸国の最後の牙城ともいえる国なのかもしれません。

この国では、どの町に行っても教会があり、おそらく皆さんの住むコミュニティーにも10も20も教会があるでしょう。ですからクリスチャンで新しい土地に引っ越した人はまず、その地域の教会をウィンドーショッピングするように一通りまわって、自分にとって一番、合う教会に属すのです。ある国では息を殺して地下にこもって礼拝を捧げているということを思えば、これは大変、恵まれた環境なのです。

しかし、同時にそれはこのパウロが言っているようなキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さというものを本当に知ろうという時に、それを阻んでしまうことにもなるのです。すなわち、この環境は、ある教会で何か気にいらないこと、自分にとって不都合なことがあると、面倒くさいことがあると、簡単にその教会を離れて、次の教会にまぎれこみ、またそこで誰かに何かを言われたと言っては、次のところに行く、中にはそんなことを繰り返して、またここに戻ってきましたというように、教会を回遊することができる環境だからです。

それを「止めなさい」とは言いません。しかし、私は「もったいないなー」と思うのです。神様は教会を通して、そこで語られる聖書の言葉を通して、多種多様な神の知恵を私達に教えようとしてくださる。そして、同時にその所にある兄弟姉妹の交わりを通しても神の多種多様な知恵を教えようとしていてくださる。私達が聖書の言葉に耳を傾け、それを心に止めます、しかし、それは止めておくものではないのです、それをまず教会にて実践しようとする、しかし、そうこうしている内に、自分の内には愛というものがないということに気がつく、そんな自分と向き合い、最後にキリストの十字架に立ち返っていく・・・。これこそがパウロが言っている言っている「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって満たされる」ということなのです。

先に言いました、「気に入らないこと」「不都合なこと」「面倒くさいこと」、これらにより、聖徒の交わりから離れるということは、本当の深みをしるチャンスを失っているということなのです。

このように、私達が交わりの中で体験していく時に、自分はそこそこいい人間だとか、あいつはダメだというようなことも突き抜けて、パウロがいうところのキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さというものを初めて理解することができるのです。それは周りにちらつくあの人この人への思い煩いから始まり、あなたはどうなのだという自分自身の心が明るみにされるようなことであり、自らに失望するような経験かもしれません。しかし、そのようなところからしか、私達はキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さというものを本当に知ることはできないのです。

礼拝は素晴らしい。聖書の言葉の時証や、賛美の中で神の愛を感じることは素晴らしいことです。しかし、そこにさらに深さを広さを高さを長さを加えるのは、その愛が自分にあるのだろうかと自らが悩み、キリストの愛を仰ぎ見る以外にはありません。そのことを実践していくのが教会なのです。

私達は自分に不都合なことがあると家族を変えるでしょうか。家族の間柄がぎくしゃくしているので、家族を変えたい、仮に実際に家族を変えることができたとしても、また同じような問題に直面することでしょう。しかし、そのような「とっかえひっかえ」を繰り返しても私達は人として学ぶべきことを学ぶことはありませんし、人間の深さというものを知ることはないのです。都合のいいこと、心地よいことばかりを追求することが本当の幸いとはならない、人間というものはもっと深いものであることを私達は知っています。

子供を育てるということのイメージというものがあります。こんなクリブを置いて、こんなかわいい服を着せて、いつも子供は私に微笑みかえてくれて・・・。しかし、現実は全く違う。悲しいほど違う。きれいに整えたクリブはすぐに汚れ、そもそもそのクリブで子供は寝ないで夜通し泣き続ける。いつも私に微笑みかけてくれる可愛いわが子を思い描いていたけれど、それどころではない、夜通し泣き続ける子供に疲労困憊する、まったくそんな無垢なイノセントな子供を怒鳴りつけてしまう衝動にかられる、そのようなところまでいってはじめて、私達は親とは何なのだろうか、人とは何なのだろうか、神の愛は何なのだろうかということを知るのです。ここまでお話してこのパウロの言葉がご理解いただけたでしょうか。

10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

私達は教会で世の処世訓を学ぶのではないのです。ここに記されているように私達は教会を通して神の多種多様な知恵を知る」のです。

箴言を書いたソロモンは実に含蓄に富んだ言葉を残しました。「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」(新改訳聖書:箴言14章4節)

牛がいない飼い葉おけはきれいです。そこでは床に頬ずりすることも、横になることもできるでしょう。しかし、そこには何の収穫もない。牛がいてこそ、そこから何かが生まれる。そして、当然生きている牛がいるということはその場所は汚れます。しかし、牛の力によって収穫は多くなるのです。同じように私達の教会に人と人との関係がなければ、問題は何も起こらないでしょう。しかし、同時にそこには何もありません。神から天来の力、十字架の愛によって築き上げられるものは皆無となるのです。

どういうわけか神様はその存在を人を通して明らかにすることを良しとされています。それは私達の目には、とてつもない非効率的なことに思われます。しかし、神はそれを良しとされている。今日、見てまいりましたパウロはコロサイ1章24節で自身の率直な思い、彼の覚悟というものをこう書いています。

「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」

なぜにパウロはそれまでして教会に全てを注いだのでしょうか。先週、開きました御言葉二つと共に今日のメッセージを終えましょう。使徒行伝20章28節 「どうかあなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」 

 

エペソ5章24節‐27節。「そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

また、しみも、しわも、そのたぐいのものが、いっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会をご自分に迎えるためである」  

 

主にある兄弟姉妹。私達、この朝のこのメッセージに耳を傾けた者一同、もう一度、教会ということ、また私達互いの交わりというものに対して神様が願っておられるということを、心に刻もうではありませんか。そして、私達はこの使徒信条を今日も明日も告白します。「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」。

 

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり

2011年8月28日

 

1)時々、「わたしは聖書の教えは好きだけれど、教会という人の集まりには馴染めない」と言われる方がいます。あなたはそのように思ったことがありますか。そのような思いから何を知り、学び、今日にいたっていますか?

 

 

2)なぜ、聖書は教会におけるクリスチャン同士の交わりというものを大切にしているのでしょうか。聖書のどこかに「各々がしっかりとCDやインターネットで礼拝を見聞きすれば、それでOKだと聖書は語っているでしょうか。

 

 

3)エペソ人への手紙3章1節から21節を読みましょう。10節には「教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって・・・」と「世の多種多様な知恵」ではなく「神の多種多様な知恵」であると書かれています。私達は教会を通して、神のどんな多種多様な知恵を得ることができると思いますか。それは礼拝メッセージやバイブルスタディーだけで得られることですか。

 

 

4)17節には「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」とあります。この広さ、長さ、高さ、深さを知る機会が与えられている第一の場所はどこですか。私達は礼拝やバイブルスタディーだけで神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができますか。

 

 

5)箴言14章4節(新改訳)にあります「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」という言葉をあなたはどのように解釈しますか。

 

6)コロサイ1章24節でパウロが記している彼の強い覚悟の背景にはどんな思いがあるのでしょうか。使徒行伝20章28節、 エペソ5章24節‐27節からそのパウロの決意の理由を見出しましょう。一人一人が神様に託されている度合いは異なるでしょうが、あなたはパウロと同じような心構えがありますか?

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