あなたは私に従いないなさい。

一つこんな考えができるかと思います。男性が女性にプロポースをする時に(その逆も、もちろんありますが)、「僕と結婚してください」と言って「この結婚により、自分達はどれだけ幸せになれるのか」と得々と話すことがあります。このようなカップルには第3者はつけ入る余地はありません。しかし、結婚後に「こんなはずじゃなかった。こんなことを聞いていなかった」とはよくある話しです。

こんな言い方もあります。「僕と結婚してください」とプロポーズする前に「僕たちはこの結婚によって色々な苦労をするかもしれない。僕たちの場合、あのことも、このことも降りかかって来るかもしれない。それでも僕についてきてくれないか」

前者と後者の違いはなんでしょうか?こう思います。前者のお嫁さんは結婚後の困難を何も聞かずに、ただ幸せになれることだけを聞いて彼と結婚しました。ただバラ色の生涯を夢みて結婚しました。それに対して後者は、これから起こるであろう困難というものを全て予め聞きながらも彼と結婚しました。そうです、彼女は「それでも、僕について来ないか」という彼の言葉を信じたのです・・・。

マック

 今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓

あなたは私に従いないなさい。                                                      ヨハネ21章18節‐22節                                                              2011年2月6日

18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 

私たちにとって「自由」とは何でしょうか。国語辞典によると心のままにすること。思うとおりにすることと書かれていました。私たちはこの言葉を愛します。この言葉を嫌う人はいないと思います。

 年末にブッシュ元大統領とリック・ウォーレン牧師の対談を聞きにいってきました。その時にブッシュ氏は度々「フリーダム」という言葉を使い、聴衆もそれに強く反応していました。この国ではこの「フリーダム」はまず第一に国民が共有されるべき権利とされています。皆さんにとって「フリーダム」のイメージとはなんでしょうか。

 今日の聖書個所には「ペテロの自由」というものが語られています。それは  18節にイエス様がペテロに言われた「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた」という言葉に凝縮されています。

 これこそ、私達が求めている生き方です。自分で自分の帯をしめる。帯が自分の腰にまかれる。腰には要という字がそこにあるように、そこは私達の力の源であります。物を運ぶにも、歩くにも腰の力が重要です。その人間の力の源を自分で締めることができるとは、まさしく、自分で自分の欲することを何でもするということでありましょう。まさしく、ペテロはそれまでの人生を、そのように生きてきたのです。

 思えば、彼がイエス様の言葉に従ってついて来たというのも、それはイエス様の強制ではなく、すべてはペテロの自由な選択でありました。彼はいつでもイエス様を離れ、昔の仕事、漁師に戻る自由もあったのです。彼はまさしく、自分で帯をして思いのままに動くことができたのです。

 これらのことを踏まえて、今日はイエス様がペテロに言われた、とても似かよった二つの言葉、19節の「わたしに従ってきなさい」と22節の「あなたは、わたしに従ってきなさい」ということを皆さんと一緒に見ていきたいと願っています。

 わたしに従ってきなさい

 「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた」とイエスはペテロに言われました。しかし、これからは違うよともイエス様は彼に言われたのです。すなわち、これからは「自分の手を伸ばし、そして、他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くだろう」というのです。

 皆さん、この言葉は、よく考えると私たちの生涯にも当てはまるような気がします。確かに私たちはどちらかといいますと、若い時には自由に生きることが出来ました。自分の時間が自由にとれて、好きな所にもたやすく行けることが多かったのです。しかし、年齢を重ねる度に、自分一人で自由に行動できる範囲が狭まってきたのです。

 そして、それは多くの私達の日常生活にも当てはめるものです。家庭をもったり、仕事をしたりしていますと、言うまでもなく、私達は自分の願いというものを後回しにする毎日を送ることになります。それこそ誰かが私達に帯を結びつけ、願っていないところに連れていかれるようなことも経験します。

 それでは家庭からは子供も巣立ち、仕事をリタイヤしたらどうだろうか。多くの場合、その頃から体のあちこちに無理がきかなくなってきます。明らかに自分の自由というものが限られてくるように思われます。今まですたすたと行けていた所が、そうたやすく行けなくなってきたということは、誰しもが体験することでありましょう。その思いというのは、もしかしたら自分ではなくて、誰かによって腰に帯をされることに甘んじていくというような思いなのかもしれません。

 そう考えますと「他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行く」という言葉は私達にも理解できそうです。そのような意味においても、ぺテロもこれからは他の人が彼の腰に帯を巻くことになるということも確かにあったでしょう、しかし、それ以外にもっと重要な意味が彼にはありました。

 それはこの後の言葉を見る時に分かります。すなわちここには「このことはペテロがどんな死に方で神の栄光をあらわすかを示すためにお話しになった」という言葉がつけ加えてあるとおりです。

 ペテロは伝説によるとイエス様に従い続けるということを理由に十字架に逆さにはりつけられて、殉教したと言われています。それは、まさしく彼の生きる自由というものが他者によって阻まれたということです。イエス様はそのことをペテロに言われたのです。そして、イエス様はここで、これらを話されてからペテロにこう言いました。「わたしに従って来なさい」

 ここで、一つのことに気がつきます。それは「こう話してから」、「わたしに従ってきなさい」とイエス様が言われたということです。「こう話してから」ということです。皆さん、自分に誰かを従わせようとする時に、さんざんそれによって最悪のことが起こると述べてから(ペテロの場合は不本意な死に方をあなたはするだろうという)、「我に従え」と言うでしょうか。

 一つこんな考えができるかと思います。男性が女性にプロポースをする時に(その逆も、もちろんありますが)、「僕と結婚してください」と言って「この結婚により、自分達はどれだけ幸せになれるのか」と得々と話すことがあります。このようなカップルには第3者はつけ入る余地はありません。しかし、結婚後に「こんなはずじゃなかった。こんなことを聞いていなかった」とはよくある話しです。

 しかし、こんな言い方もあります。「僕と結婚してください」とプロポーズする前に「僕たちはこの結婚によって色々な苦労をするかもしれない。僕たちの場合、あのことも、このことも降りかかって来るかもしれない。それでも僕についてきてくれないか」

 皆さん、前者と後者の違いはなんでしょうか?こう思います。前者のお嫁さんは結婚後の困難を何も聞かずに、ただ幸せになれることだけを聞いて彼と結婚しました。ただバラ色の生涯を夢みて結婚しました。それに対して後者は、これから起こるであろう困難というものを全て予め聞きながらも彼と結婚しました。そうです、彼女は「それでも、僕について来ないか」という彼の言葉を信じたのです。

 私はこう思うのです。この後者の場合、この男性の言う「それでも僕について来ないか」という言葉は、実はそれで完了はしていないのです。その後には「これから色々な困難に直面するだろうけれど、僕は君を愛している。そして必ず君を守る」という言葉が必ず伴うはずなのです。それがなければ、そんな無責任なプロポーズを受ける人はいないでしょう。

 あなたが私に従うことにより、色々な困難に直面することだろう。私と共に歩まなければ受けることのない困難すらもその中にはあるだろう。しかし「私に従いなさい」と主は言われる。そして、その背後には「必ず私があなたと共にいるから」という言葉があることを私たちは忘れてはならないと思います。

 私達はあの詩篇23篇の美しい歌を知っています。主は私の牧者であり、私達を緑の牧場に伏させ、私達を憩いのみぎわに伴ってくださる。しかし、その歌の中には、たといわたしは死の陰の谷を歩むことがあっても、あなたが共にいるから、災いを恐れませんというのです。

 イエスを主として生きる者達の人生は常に緑の牧場、憩いのみぎわにいるわけではありません。時には死の陰の谷を歩こともある。聖書は悪徳セールスのように、そのようなことを隠して、いいことばかりを私達には語っていません。私達には死の陰の谷を歩むようなことが必ずある、しかし、そのような時にでも主は私達と共にいてくださるのです。

 皆さん、ご存知のようにペテロはこのイエスに従っていきました。ペテロは前もって、自分に起こるべきことを聞き、それでもイエスに従ったのです。自分で自分の帯を締めて、思いのままに歩き回ることを放棄してイエスに従ったのです。そして、彼は人間的に見れば決して心地よい生涯を送ることはありませんでした。時に迫害され、投獄され、そして彼は殉教しました。しかし、彼の心には常にそのような時にもイエスが共にいてくださるという確信があったのです。

 さて、ここで最初の言葉にもどります。彼は自分の腰の帯を他の人に握られました。その彼には自由がなかったのでしょうか。いいえ、彼は人間的自由を失ったように見えましたが、彼はそれと引き換えに、キリスト者の自由というものを獲得したのです。人間が使う自由は先に話したようにそれは、心のままにすること、思いのままにすることでした。しかし、今やペテロの人生は神の御心と合体されることにより、彼は本当の自由を得たのです

 そんなこと本当にあるのかいと思われる方がいるかもしれません。ペテロは自分が記した手紙の中(Ⅰペテロ2章)で、自分の差出人たちに言っています。この手紙はペテロにより、今日、見ていますイエスとの会話から30年あまり後のAD63年頃に書かれたと言われます。そして、その時というのはローマ帝国のネロによるキリスト教徒に対する迫害が強くなってきた時であり、彼はそのような緊迫した時にⅠペテロ2章16節に不思議な言葉を記しています。「自由人にふさわしく行動しなさい」。

 おかしいではありませんか、彼は30年前にイエス様により、あなたは他の人によって腰に帯をつけられる、すなわち自由を失うと言われたではありませんか、そして、この時に彼はそのイエスの言葉が成就しているような不自由な状況を生きていたのです。

しかし彼はここで「自由人にふさわしく行動しなさい」と勧めているのです。この彼の言葉は言うまでもなく「自分は自由人である」ということを確信した、前提とした言葉です。そう、彼は強がりでもない、キリストに従う自分こそがまさしく「自由人」なのだとここで言っているのです。

 そして、その後に彼はこうも記しています。「あなたがたは羊のようにさ迷っていたが、今はたましいの牧者であり監督である方のもとにたち帰ったのである」(25)そう、彼はさとったのです。自分が若い時に感じていた自由はその時には自由に見えたけれど、それは神の側から見れば、「羊のようにさまよっていたことなのだ」「自分は自由に生きていたと思っていたことは実はさ迷っていたことなのだ」と。

 彼はイエスに従うことにより、たとえその両腕に縄が縛られても、自分は自由人なのだということを悟ったのです。もし、私達も本当に自由に生きたいと思われるならば、自分の人生を全て神様に委ねるべきです。その時に私達は本当の自由が分かるのです。

 あなたは私に従ってきなさい。

 こんな大切なことを言われたペテロですが、その後を見る時にペテロの人間らしさが出ます。まことに彼は愛すべき人です。彼は言いました「主よ、この人はどうなのですか」

 ああ、彼の言葉はなんと私たちの心の思いを代弁するものでしょうか。彼は「分かりました」と言う前に「この人は」と言うのです。私達は回りの人のことが常に気になります。いつも、あの人、この人と人を気にしています。人のプライベートのゴシップ誌が多数、売れていき、人が集まる所では、いつも誰それのことに関心が向けられていく。

 子供が叱られますと、その口から出る言葉は「誰々ちゃんは・・・」という言葉です。そして、成長するにつれ、隣の何々ちゃんは、とても優秀らしいわよとか、あのだんなさんは部長になったわよとか、そんな思いから逃れられないかのようにして、私達は人生を送ります。

 「この人は一体、どうなるのだろう」ここに記されている「この人」とは、このヨハネ伝を書いたヨハネのことを示すのですが、ペテロにとって同じ12弟子の一人、ライバルのような思いもあったのではないかと思います。「自分はこれから自由を失うらしい、なんかそれはただ事ではないな、じゃー自分だけではなくてこいつも同じように苦しいところをとおるのだろうか、いや、通るべきだろう」。しかし、それに対して主は言われたのです。「あなたとは何の関わりがあるのか。あなたは、私に従ってきなさい」

 塚本訳はこの箇所を「あなたの知ったことではない」と訳しています。イエス様に従うということは個人的なことです。隣の人を見て、自分のポジションを確認することでも、自分を評価することでもありません。ただただイエス様だけを見て、自分の人生を歩むということです。

 皆さん、私達の不自由さは、この人への思い煩いです。ペテロがとっさに感じたような思いにとらわれますと、私達は確実に自由を失います。自分の心に思うことにより、自らを身動きとれない不自由人としているのです。かといって

このイエスの言葉は、人のことなど関心を寄せずに、自己中心で生きなさいということではありません。

 主に従うということは、それは誰それがああしているから、こうしているから、いないからということではなく、あなたは私に従いなさいということなのです。なんとシンプルで分かりやすいのでしょうか。まさしく、これがキリストにある自由への入り口なのです。ペテロはまさしく誰それはどうするだろうか、ああだろうかこうだろうかというようことから解放されて、この自由と共に、思いきり、自らが託された幕を広げていったのです。

 皆さん、いかがですか。私達は誰しも自由を求めます。ある方は自由を求めてこの国に来たという人もいるかもしれません。しかし、まことの自由というのはキリストに従う時に、私達を神に全く委ねる時に与えられるものなのです。

ですから今朝、あなたの心に語りかける細きみ声「あなたはわたしに従いなさい」というあなたのこれからの人生を解放するみ言葉を心に刻み、主のために綱を長く、幕を広く、日々を過ごそうではありませんか。お祈りしましょう。

 本日のおもちかえり

 1)ヨハネ21章18節‐22節を読みましょう。あなたにとって「自由」とは何でしょうか。イエス様がペテロに対して言われた「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた」(18)という言葉にはどんな意味がこめられていると思いますか。

 

 2)上記の言葉の後にイエス様は、これからは「自分の手を伸ばし、そして、他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くだろう」と言われました。あなたはこの言葉のような経験をさせられたことがありますか。

   

3)これから起こる良い事ではなく、試練について触れてから、なぜイエス様はペテロに「私に従ってきなさい」と言われたのでしょうか。

 

  4)実際にペテロは腰に帯を結びつけられ、行きたくない所に連れていかれるような人生を歩みました。しかし、そのペテロがその只中で「自由人にふさわしく行動しなさい」(Ⅰペテロ2章16節)と言っています。ペテロにとって自由とは何だったのでしょうか。

 

 5)ペテロはイエス様と上記のような会話をしながら「主よ、この人はどうなのですか」と言っていますが、私達はどれほど自分以外の人のことが気になっているのでしょうか。神に従うということは、他の人を気にしながら生きるということなのでしょうか。

 

 6)5のペテロの問いかけに対して、イエス様は「あなたとは何の関わりがあるのか。あなたは、私に従ってきなさい」と言われました。このイエス様の言葉はあなたにどんな思いを抱かせますか。自分の心を静かに探ってみましょう。

 

 

 

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