電気も水もないようなアフリカの僻地に住んでいるある民族を、先進国から来た人が訪ね、村の村長さんに聞いたそうです「こんな何もない所でよく生活できますね」村長さんは答えたそうです「あなたたちこそ、どこに行ったら本当に満足できるのですか・・・」。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです↓。 よかったらどうぞ。映像は音声がよくないのでアップしませんでした。ご了承くださいませ。
闇を光が照らす時に 2011年1月30日
ヨハネ4章にはイエス様とサマリア人の女との会話が記されています。それはスカルという町にある井戸辺での出来事でした。ヨハネによる福音書4章はこのように書いています。
1イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、2(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった) 3ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。5そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、6そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。7ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。8弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。9すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
このところからまず最初に「人に向き合うお方」ということを見ていきましょう。この出来事には当時の常識から外れた二つのことが記されています。まず、第一に面識のない男と女が二人だけで公共の場所で何かを話すということです。またユダヤ人であるイエス様がサマリア人である女に話しかけられたということです。なぜなら、この二つの民族には過去の歴史により互いを隔てる壁があり、それは憎悪に近いものでありました。それゆえにこの二人が接点をもつということはおよそ考えられないことでした。ですから、この女は驚いてこう言ったのですす「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに飲ませてくれとおっしゃるのですか」(ヨハネ4章9節)。
今もある中東の国に行きますなら女性達の顔は黒いベールで覆われ、彼女達を町で見かけることはなく町は男たちばかりだといいます。また今も民族間の嫌悪を乗り切ることが出来ない人達が大勢います。この国でも「HATECRIME」の発生率が例年多くなってきていると聞きます。
イエス様は男性でありユダヤ人。ユダヤ人とし生まれユダヤ人として育ちました。なぜ、イエス様はその自分の性別や民族を超えることができたのでしょうか。なぜ、人目を気にせずに真昼間にこのサマリアの女性に話しかけることができたのでしょうか。なぜなら、イエス様にとってこの女はサマリア人であり、女性であるという前に一人の「人間」だったからです。パウロが言っていますように、神の前に「ユダヤ人もギリシア人もない」ように「ユダヤ人もサマリア人もない」のです。
わたしは最近、木曜集会で開かれた使徒行伝10章に記されているペテロの言葉に心が捕らえられました。すなわちペテロの足元にひれ伏し拝そうとした人に向かって彼は「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」(使徒行伝10章26節)と言ったのです。イエス様がこの女性と話している時に、ペテロをはじめ弟子達は町に行っていたようですから、この出来事を見聞きしたわけではないでしょう。しかし彼はイエス様の弟子として3年半にわたり、そのイエス様の姿を間近に見てきた人ですから、そのイエス様の内に民族や文化の違いを超えて、人間として相手を見つめる眼差しというものをいつも垣間見ていたに違いありません。
どうぞ覚えてください。イエス・キリストの前には私達がどこの国の者で、どんな人種であるとか、どんな文化、生活背景をもっているとか、年齢とか性別、問題ではないのです。二つ目のことをお話します。それは「人の心を知るお方」ということです。
人の心を知るお方
さてこのなんとも不自然な状況に置かれたイエス様とサマリアの女ですが、その関係の口火を切ったのはイエス様の一言でした。イエス様は女に「水を飲ませてください」と言われたのです。当時の女性の地位というものはとても低かったのです。ですから、先ほども申しましたように、ただでさせ男女が二人きりで話しをすることがない時代に、女性から男性に話しかけるということはまずありませんでした。ですから、この場面でイエス様とこの女性の間に会話が生まれるとしますならば、それはイエス様から語りださなければならなかったのです。
さらに驚くべきことは、ここでイエス様は「私はあなたに話がある。よく聞きなさい」とは言わなかったということです。「大変そうだな。助けてあげようか」とも言いませんでした。イエス様はそこで彼女に「水を飲ませてください」と言われたのです。
その前には「イエスは旅の疲れを覚えて」とあります。ですから実際にイエス様は疲れ、喉が渇いていたのでしょう。その人間イエスは自らの身体的な渇きに対して「ちょっと助けてくれないか」といわれたのです。もちろん、イエス様は疲れてはいたでしょうが、自分で井戸から水を汲むことはできたでしょう。しかし、あえてこの女性に助けてもらったのです。
天地万物を造られたお方、もちろん水すらもその創造のみ手によって造られた方が、本来ならば、渇くことのない命の水を与えるお方が、私たちと同じように肉体の渇きを持つ者として「水を飲ませて下さい」と彼女に接するのです。
時々「誰の助けにもならないように」と言われる方がいますが、もしかしたらそれは人間関係というもの半分しか見ていないことなのかもしれません。時に私達が助けてもらうことによって、相手の心が開かれたり、そのことによって相手が励まされることもあるのです。私達は助けてもらうということにためらいはありませんか。今日の落穂にも書きました。
ある雪の降る日にお腹を空かせて屋台で出されたご飯に豚汁をかけた丼ものをあっという間にたいらげてしまった青年がいました。ところがあまりにも空腹で、彼はもう一杯食べたかったそうです。しかし、彼にはお金がありませんでした。その様子は屋台のおじさんにも一目瞭然でした。あなたがこの屋台のおじさんだったら、この青年に何と言いますか。
これはカウンセラーになりたいという人のためにある先生が必ず出す問題だそうです。 A)「今日は私がおごるから遠慮しないで食べていきな」 B)「出世した時に返してくれれば良いから今日はきがねなく食べていけば良い」 C)世の中の厳しさを教えた方が良いと考え「お金がないひとはだめです。またどうぞ」
この問題をカウンセラー志願の人に出した先生は、ABC全部だめだと言うのです。実際にこの青年は屋台のおじさんのある言葉を聞いて泣きながら帰っていたというのですが、その言葉はこんなものだったそうです。「書生さん、あいにく今日は大雪で、客が少なくて困っていたのだ。すまねえけど一杯、助けてやってくれないか」
もちろん、自分でできることをせずに、いつも助けてもらうことだけを望んではいけません。しかし、私達には相手のために、この親父さんのように、イエス様のように自らを謙らせて助けてもらうことを願うことが必要なこともあるのです。イエス様とはこのような人間の心の細かさというものをよく理解しておられたお方です。三つ目のこと、「人の必要を知るお方」ということをお話します。
人の必要を知るお方
この水からイエス様は「渇き」というものについて話を変えていきます。
10イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。11女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。12あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。15女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。
イエス様は「水をください」と女に助けを求めることによって会話を始めました。その一言によって彼女の心は開かれ、イエス様と同じ土俵で話ができるようになりました。イエス様は、この「水」ということがこの女性にとって大切な意味をもつものとなることを知っていたのでしょう。自らを「渇く者」として示すことにより、彼女の心の中にある渇きというものに気がつかせたのです。そして、その渇きとは何もこの女に限ったことではないのです。それは全ての人間に共通するものなのです。
私達人間は水分がなければ決して生きることができません。それと同時にこのお方は人が持ちうる心の渇きというものをここで指摘しているのです。すなわちイエス様が言われたとおりです「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(13,14)。
ここでイエス様は「この水」と言われました。それは、まさしく二人の目の前にある飲み水です。言うまでもなくその通りなのです。水をガロン飲んだとしても、私達は一日もたたずに再び喉が渇くのです。
しかし、イエス様はここでその水だけを言ったのではないのです。この「水」には色々なものを当てはめることができます。子供が欲しがっていたゲームはやがて見向きもされなくなります。大人にしてもあんなに欲しかったものはやがて関心のないものとなります。私達の人生はとめどもなく心の内に起ってくる「あれされあれば、これさえあれば」という思いに支配されます。私達はよくそう思います。「結婚さえすれば、この仕事さえ持てば、環境さえ変われば」この渇きは癒される。
電気も水もないようなアフリカの僻地に住んでいるある民族を、先進国から訪ねた人が村の村長さんに聞いたそうです「こんな何もない所でよく生活できますね」村長さんは答えたそうです「あなたたちこそ、どこに行ったら本当に満足できるの」。
皆さん、もし私達の心というものが創造者によって、私達が日ごろ思う「あれがあれば、これがあれば」というようなことでは、満たされないように設計され、造られているとしたら、どうでしょうか。それはいつまでたっても、私達の心の渇きはなくならないということです。
ですから、この朝は皆さんにお勧めしたいのです。もし、皆さんの中で「あれがあれば、これがあれば」とあたかもそれをの得れさえすれば、自分の渇きはなくなるだろうと思案している方がいますならば、このキリストが言われた約束をよくよく考えてみてはいかがでしょうか。
イエス・キリストによれば、それらを得てもまた渇くよというのです。そんなこと言ったってというようでしたら、お気の済むまでお試しになられたらいいと思いますが、何度か試みてやはりキリストの言葉は本当だったとお分かりになりましたら、どうぞ、こ言葉にいつか、立ち返ってみてください。四つ目のことをお話します。それは「人の核心に触れる方」ということです。
人の核心に触れる方
15女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。16イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。17女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。18あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
聖書は彼女が水を汲みにきたのは正午だったと書いています。これは当時の生活習慣に反するものでした。真昼の太陽が照りつける時に水を汲みに来る人はいないからです。でも彼女はその時間にやって来ていたのです。それは明らかに人目を避けた行動です。なぜ人目を避けたのでしょうか。
イエス様は彼女に尋ねました「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。17女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。18あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
イエス様はこの女に突拍子もないことを言われます「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」(16)。イエス様は私達を変える時に、私達の表向きの言動ではなくて、その核心を問います。この女性が誰もいない昼下がりに一人で井戸に来ていたこと。彼女は常に人の目や言葉を気にしていたということ。それは表面的な問題なのです。そこには巨大な闇があるのです。
私が中学生の時に金八先生というドラマが流行りました。その後も時々、放映されていたようですが、その時代、時代の教育の現場というものをそのドラマは見せてくれました(その金八先生もいよいよこの春には引退するそうで、そんな番組が放映されるようです。時の流れを感じます)。
さて、そのシリーズの中にこんなストーリがありました。一人の男子中学生がいます。彼は学校では成績、生活態度共に優等生です。しかし、背後では自ら、また人を使って陰湿ないじめを繰り返すのです。金八先生も経験豊かな教師です。その事実を突き止めます。しかし、先生はただ表面的ないじめの問題だけを見るのではなくて、なぜ彼がそのようなことをするのか、その奥底にある何かを突き止めようとします。そして、分かったことは彼の家庭には、部屋に何年も引きこもって出てこない兄がいるということでした。親は医者で、その見栄から近所の人にその兄は海外留学しているという嘘をついているのです。この兄弟は親の見栄のために育ってきたのです。表向きはいいのですが、背後ではいじめを繰り返す。その根本的な問題は誰もうかがい知ることのできないその家庭内の闇が原因となっていました。
イエス様はこの女に対して「あなたの服装が悪い、言葉使いが悪い、態度が悪い」とは一言も言っていません。それを指摘したとしても彼女自身は変わりませんから。ですからイエス様はそのようなことを全てスキップして単刀直入にその核心を持ち出して言ったのです「あなたの夫をここに連れてきなさい」。それこそが彼女の心を塞ぐ最も大きな岩だからです。
イエス様はその外傷にバンドエイドを貼るのではなくて、その心の中にある根本的なものをピンポイントで問われたのです。なぜなら、そこに神の光が照らされなければ彼女は本当にその心に解放と勝利を得ることができないからです。
皆さん、神様の前に出るということはこのようなことなのです。私達の心の一番、闇に包まれているもの、もしかしたらそれは恐ろしくて手つかずのままのものかもしれません、しかし、それを神の光のもとに差し出すのです。
いかかですか、あなたの心にまだ解決されていないことはありませんか。もし、それがあるのなら、神様の前に差し出そうではありませんか。今日の箇所を読んでいただき分かりますように、イエス様はそれを咎めようとはしません。ただただ、そのことによって人目を避けるような、いつも何かに恐れや負い目を感じているような人生から解放してほしいと願っておられるのです。最後に人を解放されるお方ということを見ていきましょう。
人を解放されるお方
25女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。26イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。27そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。28この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、29「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。30人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。
この心の闇が神の光の前に出されていく時に、何が起ったかということがここに書かれています。この女はどうしたのでしょうか。彼女は水を汲みにこの井戸に来ましたのに、その水かめをそのままそこに置いて町に出て行き、人々に行ったのです。「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。そうしますと人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへやってきたというのです。
この女は最初の男性と結婚することによって、自分は幸せになれると思ったのでしょう。しかし、何かしらの理由でそれが破局しました。そこでまた次の男性に期待しました。しかし破局、それもどこかで歯車がずれてしまったのでしょう。そのようなことを五度繰り返し、彼女の心にも、このようなことでは自分の渇きは癒されないのだということに対する気づきがあったでしょう、かといって何をすればいいのか分からない。その心のあらわれが、もう籍は入れずに一時の寂しさを紛らわしてくれる男性との暮らしになったのかもしれません。これらの事実がやがて彼女の言動をコントロールするようになったのです。
しかし、この女性はイエスと出会うことにより、その目をそむけたくなるような闇が光の前に照らされたのです。そのことによって彼女はかつての負い目から解放されたのです。飲んでも飲んでも渇くというその心から泉が湧き出したのです。その泉は瞬く間に彼女の心から溢れ出たのです。溢れ出てしまった彼女はもはや自分の負い目によって支配はされません。
彼女は人目をさけて水を汲みに来たのに、その水がめをそのままそこに置いて町に出て行き、イエス様のことを伝えたのです。溢れ出るものは抑えることができないからです。
皆さん、いかがですか。先々週、私達は墓場を住みかとし、日夜叫びながら生きていた悪霊に取りつかれたレギオンという男がイエスと出会うことにより、このサマリアの女と同じようにイエス様のことを伝える者に変えられたということをお話しました。
私達がたとえ今、どんな人間であっても、その人間である私達を愛して、私達の心を縛る鎖を解き放ってくださり、新しい人生へと導いてくださるのです。そればかりか、このお方と歩むことによって私達は、それまで考えもしなかったような方法によって私達の幕を綱を広げることができるような生涯へと導かれていくのです。お祈りしましょう。
本日のお持ちかえり 2011年1月30日
1)ヨハネ4章1節から9節を読みましょう。当時の時代背景から考えて、なぜイエス様はユダヤ人の男性でありながらサマリアの女に話しかけることができたのでしょうか。イエス様にとって性別とか人種の違いはどのような意味をもつものだったと思いますか。
2)なぜイエス様はサマリアの女に「私はあなたに話がある。よく聞きなさい」とか「大変そうだな。助けてあげようか」と言わずに彼女に「水を飲ませてください」と言われたのですか。その言葉を聞いた女はどう感じたでしょうか。あなたは誰かに助けてもらうことによって、助けた人の心を開いたことがありますか?
3)あなたは心の渇きを感じたことがありますか。それはどんな状況で起きたのでしょうか。私達の心の渇きを満たすことができるものは何でしょうか。あなたは13節、14節のイエス様の言葉をどのようの受け止めますか。
4)イエス様はサマリアの女に最も触れて欲しくない「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」(16)というような質問をしました。なぜ、イエス様はそのような核心的な質問をしたのでしょうか。私達の言動を突き動かしているものは、私達の心のどんな問題ですか。
5)この女は人目をさけて水を汲みに来たのに、その水がめをそのままそこに置いて町に出て行き、イエス様のことを伝えたのです。溢れ出る喜びは抑えることができないからです。あなたはこのような生活をおくりたいと思いませんか。