わが生涯、主の御翼のかげで  

はからずも、色々なことが起きる私達の人生。しかし、神は私達をそのみ翼の下に置いてくださる。その温もりを感じながら、歩むことができる生涯、たまるか 

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マック

わが生涯、主の御翼のかげで                                                  2011年1月9日

聖書の中には人の名前となっている書がいくつかあります。そのほとんどは「サムエル」や「ヨシュア」というように男性なのですが、その中に二つだけ女性の名前の書があります。その一つがルツ記であり、もう一つはエステル記です。今日はそのルツ記から聖書が語りかける私達へのメッセージを見ていきたく願っています。

ルツが生きた時代といいますのは、今から3000年も前の話で、聖書中の士師の時代でした。士師の時代というものはどんな時代であったかということを聖書は的確にこう記しています「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記17章6節)。この言葉は聞こえはいいですが、一言でいいますならば何でもし放題、ある意味、無政府状態の時代で、士師記が記録しているように多くの血が流されるような時代だったということです。そのような混沌とした時代にあってこのルツは生きたのです。

またその時代というものはまだまだ女性の地位というものが全くといっていいほどになく、まさしく女性が「物」のように取り扱われていた時であったことを考えますと、これは驚くべきことであります。また、それだけではなくルツはイスラエルの民とは異なる異国、モアブの女性であり、申命記23章4節などを見ますと「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない」と書かれていたことを思います時に、そんなモアブ人である彼女の名前がこの聖書の中に出てくるということ自体、本来あり得ない話なのです。

このルツにはイスラエル人のエリメレクという夫がいました。彼の母、すなわちルツの姑はナオミといい、この家族は彼らの国に飢饉があったので、故郷のベツレヘム(後にイエス・キリストが誕生する町です)からモアブの地に行き、その外国でエリメレクはモアブ人、ルツを嫁にしたのでした。ある意味、今日でいう国際結婚です。

ルツの姑、ナオミの夫は彼女より早く死に、彼女は未亡人となりました。さらにその 10年後には彼女の二人の息子も死に、ルツおよびもう一人の嫁も姑と同様に未亡人となりました。ナオミはその嫁たちの姿を見るにつけ、まだ若くして自分と同じような未亡人となってしまった二人の嫁に、それぞれの故郷に帰り、新しい人生を歩むように勧めるのです。そして一人の嫁はナオミの言葉を受け入れ故郷へと帰っていきます。しかしルツは「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言い(16 節)、この夫の母と共に人生を生きることを決意するです。

 

こうしてこの二人の姑と嫁は、ナオミにとっては自分の国へ、ルツにとって異国の地へと向かうのです。外国で夫も息子もなくしたナオミは自らの故郷ベツレヘムに着いた時にこう言いました「わたしをナオミ(その意味は楽しみ)とは呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら、全能者がわたしをひどく苦しめられたからです」(ルツ記1章20節)。

先ほども申し上げましたように、このルツ記は今から3000年前に書かれた書物です。言いますならばとても古い書物なのです。しかし、その時に起きた出来事を私達が知っていきますと、それが私達の生涯にも重なりあうところが多々あることを私達は知るのです。否、もしかしたら男、女、年齢関わらず、私達自身、これからルツのような、ナオミのような人生と向き合うことになるかもしれないのです。全く個人的なことですが、私もこの米国という国で今、暮らしていますが、もし私がこの国において妻よりも早く死去したら、彼女は日本に帰ることになるかもしれません。またその逆もしかりです。その時に息子娘がどうなっているかは分かりませんが、そのようなことを考えますと、このルツ記を通して私達はナオミとルツの心に私達の心を重ねあわせるのです。

 はからずも

ナオミとルツは二人とも女性、とても弱い立場でナオミの故郷に帰りました。女性である彼女達ができる仕事というものはありません。なぜなら、当時は女達は男に仕え養われる立場だったからです。しかし、その彼女達も食べていかなくてはなりません。特に老齢のナオミのためにもルツは何とか日々の糧を得なければなりません。ルツはある決断をしました。

『「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。誰か親切な人が見当たるならば、わたしはその方の後について落穂を拾います。」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、3ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた』(ルツ記2章2節‐3節)。

彼女が決断したことは人が所有する畑において落ちている穂を拾うということでした。この落穂拾いということについて神様がイスラエルの民達に与えられた驚くべき律法を残しています「穀物を収穫するときには、畑の隅まで切りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘みつくしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記19章9節-10節)。

まさしく強い者が弱い者を搾取することがまかりとおるような、まだその社会制度も整っていないような時に、このような律法が民に与えられていたということは驚くべきことです。人の福祉というものが長い時間をかけて歴史の中で成熟していくことを考えますならば、このような高貴な律法を我欲をもった人間自らが自らに課すということは当時まだ考えられないことで、そのような意味でまさしくこのような律法は神が人間に与えたものであったと思います。ルツもこの律法によってどうにか日々の糧を得ようとしていたのです。そこで、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑に来たのです。

はからずも」とは「自分の計画ではなく」ということです。すなわち彼女がボアズの畑に来たのは彼女の計画ではなかったのです。しかし、その畑に彼女は導かれました。そして、ご存知のようにこの後にこのルツはこのボアズの妻となるのです。このような出来事を私達は神様の深い摂理として信仰をもって受け止めます。思います時にルツがナオミと共に生きようという決断をしなければ、そして彼女達がベツレヘムにやって来なければ、このボアズの畑に行くこともなかったのです。時に神様は私達の思惑とは異なる方法で私達の人生を導かれることがあるのです。

最近、自分の人生を思うことがあります。昨年、私は米国市民になりましたが、そんなことを私は考えたこともなかったのです。でも、よく考えましたら私の母も今から42年前に日本国籍を失くして韓国籍を取っているのです。ですからこれは遺伝かなと最近ふと思ったのですが、彼女が日本国籍を離脱したのは1968年で、日韓基本条約が締結されてから三年後のことでしたから、彼女の場合、韓国はまだまだ当時、近くて遠い国、私が今の時代にアメリカ人になるよりも、はるかに大変な決断だったと思います。まさしく自分が渡った橋を再び戻れないかのようにして壊し、不退転の気持ちで韓国へと嫁いでいったのだと思います。しかし、そのところで私が生まれ、夫は亡くなりました。これらは全て彼女にとっては“はからずも起きた”ことでした。まさか自分の夫が結婚してすぐに子供を残して亡くなるだろうなどとは考えもしなかったことでしょう。

しかし、これは後になって分かることですが、これら全てのはからずも起きた出来事こそが、後の彼女にとって大きな力となっていくのです。傍からその彼女の生涯を見させていただいた者として、その時の出来事がなければ(それがたとえ願ったとおりのものではなく、悲しい出来事であったとしても)、彼女の牧会は全く異なったものとなったことでしょう。彼女にとって生涯で最も悲しく辛い出来事が、彼女にとってなくてはならない最も大切な牧会の力と確信となったのです。神様は私達の人生においてこの「はからずも」から新しいことを、私達にとって益となることを始めてくださるお方です。

さて、ナオミとルツの日々の生活はどうなったのでしょうか。彼女の生活に必要な日ごとの糧はどうなったのでしょうか。神様はボアズを通してこのルツに恩恵を注ぎました。ボアズはルツにこう言いました「娘よ、お聞きなさい。他の畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女達を離れないで、ここにいなさい。人々が刈り取っている畑に目をとめて、その後について行きなさい。わたしは若者達に命じて、あなたの邪魔をしないようにと言っておいたではありませんか。あなたが渇く時には水がめのところへ言って、若者達のくんだのを飲みなさい」(ルツ記2章8節‐9節)

ルツはそのような身に余るボアズの言葉に対して聞きなおすのです「どうして、あなたは私のような外国人を顧みて、親切にしてくれるのですか」(ルツ記2章10節)。ボアズはそれにたいして彼女にこう答えました。

11「あなたの夫が死んでこのかた、あなたが姑につくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。12どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」(ルツ記2章11節‐12節)。

ルツはまさしくは異国の地でボアズの善意によって生きるのです。先ほど言いました、このボアズの畑に導かれたのは「はからずも」だったのです。すなわち、その背後には神様がおられたのです。そのことはボアズも言っているのです。

「どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」

このルツ記を読みつつ、あらためてその生涯が自分の人生とも重なり合うので、さらにお証しをさせていただきます。おそらく皆さんの多くも形こそは異なりますが、同じようなことを体験して、今日にいたっているのではないかと想像します。

私の母は、父が亡くなり一年ほどして、再び戻ることはないだろうと思っていた日本に帰国します。手のかかる子供がいながら未亡人を遣わすことができる教会はなかったのではなかったのかと想像します。しかし、その時に都内にある、ある韓国系の教会が私達親子が暮らす一間を与えてくださいました。そこから母の日本での牧会は始まりました。母子家庭、しかも日本という国で牧師家庭であるという状況でしたが、主は行くところ行くところで、まさしく私達をその翼の下に入れてくださるかのようにして守り、祝福してくださいました。

皆さん、この国に来た過程は私達それぞれ異なることでしょう。しかし、きっと皆さんもその中で神様がその翼の下に入れてくださるかのようにして守られてきたということを体験なさっているのではないでしょうか。神様の愛と守りの御手、そして私達の回りにいる人達の善意によって私達は今日あるのではないでしょうか。そして、この神様は今日も明日も変わらず私達を守り導いてくださるお方なのです。

大きな祝福 

今日は詳細をお話しすることができませんが、解決すべき事柄を乗り越えてこのルツはボアズの妻となり子を宿します。そのことについてルツ記はその書を閉じるにあたってこのように書き記しています。

13こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。14そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。15彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。16そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。17近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。

ナオミが最初に故郷に帰った時に彼女は自分に起きたことを思い「わたしをナオミ(その意味は楽しみ)とは呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら、全能者がわたしをひどく苦しめられたからです」(ルツ記1章20節)と言ったのです。

しかし、そのナオミは最後に祝福を見ることができました。否、その祝福の驚くべき全容というものをこのナオミもルツもその時は知りえませんでした。それは何か。このルツ記はナオミに生まれた子、オベデがダビデの祖父となったというのです。そして言うまでもなく、このダビデの家系からイエス・キリストはお生まれになったのです。はからずも神様はこの異邦の女性の名をキリストの系図の中に入れられたのです。

あの誰もが新約聖書を開いた時にまず目にするマタイ一章に記録されているイエス・キリストの系図が書き記すとおりです「サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった」(5、6節)。そして、この系図の続きにイエス・キリストがお生まれになったのです。

まさしく神様は社会的に見たら、この最も弱い二人の女性を通して、その神様の壮大なご計画を進められたのです。こうしてルツがイスラエルに受け入れられていくということは、イスラエルだけが神の特別な恵みの中にあるとする、歪んだ偏狭な選民意識を突き破るものなのでした。そしてイスラエルの英雄である、あのダビデの血に、呪われるべきモアブの血が流れていることを包み隠さずに明らかにするのは、他でもない、神様の恵みは弱き私達に注がれているということなのです。神様はルツとナオミをその翼の下に寄せ、そのところで彼女達をはからずも引き上げられ、祝福されたのです。

 

今朝、ここに集いました皆さんに「今朝の話はいい話だったなー」ということで終わって欲しくないのです。聖書のメッセージはその語られたことが私達の人生にも起きるということを信じて受け止めるところに、その大切さがあるのですから。

すなわち、神様は私達をもその翼の下に引き寄せ、はからずも、すなわち私達の人生に思いがけなく起きた出来事から、私達の生涯を祝福へと導いてくださるお方なのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり                                    2011年1月9日

1)今から3000年前のイスラエル社会で、ルツという人が女性で、しかもモアブ人という外国人であったということには特別な意味がありました。士師記17章6節の言葉と照らし合わせて、あなたはこのルツの名前が聖書中、一つの書名となっていることに何を感じますか(それを「よし」としている神様に対してどんなイメージをもちますか)。

 

 

2)ルツ記2章2節‐3節には「はからずも」ルツがボアズの畑にきたことが書かれています。「はからずも」とは「自分の計画ではなく」という意味です。あなたは自分の人生「はからずも起きた出来事」の背後に神様がいたのだということに気がつかされたことがありますか。しばし思いめぐらしてみましょう。

 

 

3)ルツ記2章8節-12節を見てみましょう。はからずもボアズの畑に導かれたルツはその所でボアズの善意によって生かされていきます。あなたはルツがボアズに「どうして、あなたは私のような外国人を顧みて、親切にしてくれるのですか」(ルツ2章10節)というようなことを米国で体験したことがあります。ボアズが言っているように、あなたは「神様の翼の下に身を寄せるかのように守られた」(12節)という経験がありますか。

 

 

4)ルツ3章13節-17節においてこのルツとボアズの間に生まれた子、オベデはダビデの祖父になることが記されています。そして、その系図の中でイエス様はお生まれになりました(マタイ1章1節-17節)。このような大きな祝福がルツに与えられたということは私達にどんなメッセージを語りかけていますか。

 

 

 

 

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