そうです、世の只中です。私達は 世から隔離するように命じられて いるのではなくて、それぞれが世 の只中で神様を指差して生きる のです。
マック
今日礼拝でお話ししました礼拝 メッセージです。よかったらどう ぞ↓。画像はトラブルがありまし てアップできませんでした。 申しわけございません。
世の只中で、幕を、綱を広げる
2010年12月26日
あれよ、あれよと今年最後の日曜礼拝となりました。この一年も皆さんと共に礼拝を捧げることができましたことを神様に感謝します。今週の金曜日には大晦日感謝祈祷会がもたれます。どうぞ一年のまさしく最後の日、一同神様をたたえ、感謝のうちに一年を終えましょう。
私達は二週間前に預言者エレミヤが腐敗した南ユダ王国の民に向かい、バビロンにあなたたちが降伏しなければ滅びるという預言をしたということをお話しました。自分の国民に向かい「他国に報復せよ」などという者はいつの時代でも喜ばれるはずがなく、彼は国中から、自分の故郷の知人・友人・親族から、そして家族からも疎ましい者となり、迫害を受け、その命すら危ぶまれたのです。今日、私達が見ようとしていますダニエル書は、まさしくそのエレミヤの預言が成就したことが記録されています。ダニエル書はまずこのような一文と共に幕が開きます。
1ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。2主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手にわたされたので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた(ダニエル1章1節-2節)。
南ユダ王国はエレミヤの言った通り、バビロンの捕囚となり、その宮に属する物が異教の宮の蔵に収められるという屈辱的なことが本当に起きました。神様は時に異教の国を用いて、イスラエルの民達を正そうとされたということです。このようなことは後のキリスト教史の中に何度も起こりましたし、今日も思い当たる節というものが多分にないでしょうか。私達はこのような人の歴史を見ます時にそこから今を生きるための知恵を得ます。続くダニエル書にはバビロンの属国となったイスラエルの民に対してその時のバビロンの王であったネブカデネザルが何をしたかということが記されています。
3時に王は宦官の長アシペナズに、イスラエルの人々の中から、王の血統の者と、貴族たる者数人とを、連れて来るように命じた。4すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に仕えるに足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語とを学ばせようとした。5そして王は王の食べる食物と、王の飲む酒の中から、日々の分を彼らに与えて、三年のあいだ彼らを養い育て、その後、彼らをして王の前に、はべらせようとした。6彼らのうちに、ユダの部族のダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤがあった(ダニエル1章4節-6節)。
そのような危急存亡の時に神様は経験豊かな人を用いられたのではなくて、四人の若者たちをお用いになられました。彼らは敵国の王の前にはべらせるために選ばれた若者達です。
この出来事はエレミヤのみならず、この時をさかのぼること100年も昔に既に預言者イザヤによってはっきりと預言されていたことなのです。「主は言われる。見よ、すべてあなたの家にある物、および、あなたの先祖たちが今日までに積み蓄えた物の、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。また、あなたの身から出るあなたの子達も連れ去られ、バビロンの王の宮殿で宦官となるであろう」(列王記下20章17節-18節)。皆さん、何度も言いますが、
聖書は驚くべき書物です。イザヤはまだ起きていない先から、南ユダ王国が属国となる国の名を名指しし、その国によってイスラエルの民は捕らえられ、その彼らの子達、すなわちかの四人の若者がバビロンの宦官となるべく連れ去れるということを預言をしているのですから。皆さん、私達はこのような驚くべき書と四つに取り組まなければなりません。この書を通して世界情勢を、そしてそれのみならず自分自身の人生というものを眺めることはどんなに有益でしょうか。そうします時に私達は一つ一つの出来事の背後におられるこの神様の心というものが見えてくるのです。そして、私達は今という時代をどのように生きたらいいのかということを知るのです。
国として最も屈辱的な時に神様は青年を備えられ、驚くべきことに彼らは揃いも揃って皆、信仰の厚い者達でした。なぜあのような堕落しきっていた南ユダ王国でこのような若者が育ったかは定かではありませんが、分かることは神様は暗闇と思われるような状況の中にも希望となりうる者達を整えておられたということです。このバビロン捕囚の背後にも神様のはたらきとご計画が確かにあったということです。そして、その神様が今日も私達の世界に、私達の私生活にもはたらいておられるのです。
超えてはならない一線
バビロンにおいて王のもとに連れてこられた若者達とはダニエル(その名の意味は神は我が裁き)、ハナニヤ(その意味は主の賜物)、ミシャエル(その意味は神の勇者)、アザリヤ(その意味は主はわが助け)でした。彼らは異国バビロンにおいて、まずその名前を強制的に変えさせられました。すなわち、彼らはそれぞれベルテシャツァル、シャデラク、メシャク、アベデネゴという、どれもバビロンの神々に関係する名前へと改名させられたのです。そこには何とかして彼らの神に対する信仰を奪い取ろうとする強制的な力がありました。
そして、郷に入っては郷に従えと彼らは敵国のネブカデネザル王の側に置かれた彼らは王宮にて最高の教育をその所で受けました。彼らはその英才教育を受けると同時に、その王の食事と同じものが与えられることになったのです。普通なら何の問題もなく、かえって普通の人は食べることができないものが与えられるのですから、ありがたいことのように思えますが彼らにはこの食事が大きな試みとなりました。
その試みとはネブカデネザルの用いる酒と肉は一度、偶像の神に捧げられたものであったということです。それゆにえ「ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めた」(1章8節)と心に決めたのです。王に対する無礼と思われる態度であっても彼らの決意は固かったのです
当然、彼らは捕らわれの身、そのようなことを言える立場ではありません。彼らを世話する責任をもつ宦官は頭を抱えてしまいました。なぜなら、その宦官の責任は王が与えられる食物を彼らがしっかりと食べて、その健康を保つことができるようにすることであり、もし、彼らの健康が同年輩の者達よりも悪いと自分の身が王の前に危うくなるからです。
私達は思うかもしれません、一杯の酒、一皿の肉です。それぐらいいいじゃないか。しかし、この小さいことに忠実な者達が後にとてつもないことを成し遂げていくのです。「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」(ルカ16章10節)とイエス様が言われたとおりです。皆さん、時間の関係上、今日、ダニエルの身に起きたことを全てお話することはできません。しかし、一言で言いますならば、この出来事ならず彼らはこの異国の地にあって、譲れないものはきっぱりとそれが大きなことでも、小さなことでもNOを言いあらわしていったということがこのダニエル書にはあちこちに記されています。
そして、それは今日、この国に住む私達にも語られているのです。確かに今を生きる私達の前にはパウロがコリント書に指摘していますように「汚れた食物」というものはありません。ですから私達はパウロがⅠコリント10章23節-24節で指摘している範囲、すなわち『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」ということにおいて、何でも食べることができます。しかし、このような時代に生きる私達は十戒を中心として、神様が私達に超えてはならないと定めてくださっている一線に関してはしっかりとNOを示しましょう。当時のダニエル達がその時代背景の中で神に忠実であったように私達もこの国で、この基準と共に生きるのです。
この世のただ中で
ダニエルと彼の仲間達は譲れないものにははっきりとNOとその意志をあらわしましたが、彼らは異郷の王に真実に仕えました。彼らは異教の世界から自分達を隔離して生きるのではなくて、そのただ中で神様と共に生きたのです。彼らはその環境の中にいること自体を拒むことはせず、そうではなく、彼らはその与えられている場所で証をたてたのです。
イエス様はかつて自らが十字架にかかられる数時間目にこのようなことを私達のために父なる神に祈ってくださいました「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」(ヨハネ17章15節‐16節)。
神様は全世界に教会というものを置かれています。しかし、その教会は世の中と断絶されたシェルターではありません。それはこの世界と繋がっているものです。また、どこかに教会村というゲートコミュニティーがあって、そこには多くの教会が軒を連ねていて、そのゲートに入るためには洗礼証明証を見せなければならないというようなものでもありません。
そうではなくて、否、そうであってはならず、神様はその教会を世の只中に置いたのです。また、そこに集う者達もその教会の中だけで生きるのではなくて、世俗世界の只中に暮らし、その只中で働き、そこに暮らすことを良しとされているのです。イエス様はその場所から私達を取り去ることを願わず、その所で当然直面するであろう諸々の問題から私達を守ってくださるようにと祈られたのです。
そして言われたのです「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17章18節)。先ほども申し上げましたように、よくぞあんな堕落した南ユダ王国にこんなに信仰に篤い青年達がいたと思います。神様はその青年をこの異教の国にまさしく遣わしたのです。イエス様の祈りをダニエルたちに当てはめますならば、彼らは捕らわれ身でありながら神様がバビロン帝国においてご自身を証しさせるべく遣わされた者達だったのです。
世の只中で、幕を、綱を広げる
さて、話を先の王からの食事に戻します。彼らはこのような王の好意をどのように受け止めたのでしょうか。彼らはこの王の食事を断り、ただ野菜だけを食べさせてくれるようにと料理長に頼んだのです。料理長は自分の首がかかっていますからビクビクです。しかし彼らの言うとおりに野菜だけを10日間、彼らに試しましたところ、どうなったでしょうか。彼らについてダニエル書はこのように記録しています。「十日の終わりになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べた全ての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた」(ダニエル1章12節‐15節)。
このことはどんなに宦官とこのことを知る者達の間では大きな驚きとなったことでしょうか。さらに神様はそんな彼らの従順に対してこのような祝福をもって応えられました。「17この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまた全ての幻と夢とを理解した。18さて、王が命じたところの若者を召し入れるまでの日数が過ぎたので、宦官の長は彼らをネブカデネザルの町に連れて行った。19王が彼らと語ってみると、彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかったので、彼らは王の前にはべることとなった。20王が彼らに様々のことを尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること十倍であった。21ダニエルはクロス王の元年まで仕えていた」(ダニエル1章17節-21節)。
食事の件、またそのずば抜けた賢さゆえに彼らはネブカデネザルの側に仕える者とされました。この捕らわれてきた若者達についてネブカデネザル王、およびそこに住む民達は目を見張るようなことを次々と見させられるようになります。
例えばある日ネブカデネザル王は不思議な夢を見ました。それゆえに王は心に思い悩んで眠ることができませんでした。そこで彼はその夢を解かせようと博士、法術士、魔術士を集めてその夢を解き明かそうとしました。しかし、彼らはそれができなかったのです。しかし、その夢をダニエルは解き明かしたのです。
それに対してこの異教の王はひれ伏して、ダニエルにこう言いました「あなたがこの秘密をあらわすことができたのを見ると、まことに、あなたがたの神は神々の神、王たちの王であって、秘密をあらわされる方だ」こうして王はダニエルに高い位を授け、多くの大いなる贈り物を与えて、彼をバビロン全州の総督とし、またバビロンの知者たちを統括する者の長とした(ダニエル2章47節‐48節)。
実に彼は並々ならぬ博士や法術士、魔術士がお手上げだった事柄に対して、その夢を解き明かし、そのことによってこの異教の王はダニエルの神を崇めたというのです。
現在の日本人社会では、それが日本国内であっても諸外国であっても、クリスチャンの話をすすんで聞こうとする人はほとんどいません。しかしながら、その従事している仕事に誠実に取り組み、そのところで立派なことを成し遂げる人がクリスチャンであるならば、人はあちらから話を聞きにきます。それがビジネスマンであっても、接客業であっても、医師であっても、私達クリスチャンはまず社会人として、そのフィールドで最善を尽くしその責任を果たし、証を立てようではありませんか。日本人宣教に近道はなく、このような地道な働きが最も大切なことです。今日ダニエルは自分が課せられたことに対して忠実にその任務を果たしたのです。
ダニエルはこのネブカデネザル王の後もバビロンに仕え、その治世がダリヨス王になった時には全国を治めるための120人の総督の上に立つ三人の総監の一人としました。彼はその総督、総監の仲でもぬきんでていたために、ねたみからでしょうか、彼らはダニエルを訴えようとしましたが、何も落ち度をみいだせません。そこで、彼らは巧みに近寄り、バビロンの民達が王以外に願い事をすることがないように、もしこれを守ることができない者がいたら、その者はししの穴に投げこむというような禁令を王直々に発布させます。
しかし、ダニエルはそのような禁令が発布されても何ら取り乱すこともなく、エルサレムに向かって開かれた窓の前でいつもしているように一日三度の祈りを神に捧げ、禁令のとおり、ししの穴に投げ込まれるのです。ダリヨス王はダニエルの忠実さと賢明さというものを知っておりましたので、自ら発した禁令でありながら、ダニエルのために憂いました。当然、それは彼の死を意味したからです。しかし、後の祭り、ダニエルは約束どおりししの穴に投げ入れらたのです。しかし、神様は彼と共におられました。ししの口は閉ざされ、ししは彼を害することがなかったのです(ダニエル6章)。
この出来事を目の当たりに見ていました異教の国バビロンのダリヨス王は全世界に住む庶民、諸族、諸国語の者にこのような詔を書き送って言ったのです
「どうか、あなたがたに平安が増すように。26わたしは命令を出す。わが国のすべての州の人は、皆ダニエルの神を、おののき恐れなければならない。彼は生ける神であって、とこしえに変ることなく、その国は滅びず、その主権は終りまで続く。27彼は救を施し、助けをなし、天においても、地においても、しるしと奇跡とをおこない、ダニエルを救って、ししの力をのがれさせたかたである」。28こうして、このダニエルはダリヨスの世と、ペルシャ人クロスの世において栄えた。(ダニエル6章25節‐27節)
ダニエルは異教徒のただ中にいました。しかし、その中で人々は彼を見て彼の神を崇めたのです。
私は神学校を卒業して奄美諸島の離島に遣わされました。遣わされてから二ヶ月後、大きな事故が起きました。教会も自分もそのことによって大きな悲しみを担うようになりました。そのために私を送り出した教団からも責任者が来てくださいました。私自身、誰も知り合いのいないこの小さな島でこの先、どうなるのだろうという日々を送りました。
当時、その神学校の舎監をしていた母からも手紙がきました。母というよりも同労者であり、牧師としての大先輩です。その手紙の中に書かれていた言葉を今でも忘れることができません。そこにはこんな一文が書かれていました。「このような時にあなたが信仰者として、どのように生きるのかということを島の人達は見ています」。つぶされてしまうような時にその言葉によって、背筋が伸ばされ、またその状況に向き合うことができました。そして、神様は不思議と一つ一つのことを最善へと導いてくださり、その後も島の方たちとの関係が良きものとして保たれたのです。
皆さん、今年最後のメッセージがこのようなダニエル書からのメッセージであったことを感謝します。なぜか?なぜなら私達もこの一年間、世俗世界の只中に生きたからです。この一年間もそうでしたら、来年も私達はその世界に生きるからです。そんな私達は迎える2011年へ向けて新たなる決意をもって歩み出したいのです。それは私達がそれぞれに与えられた世界において、ダニエルのように神の民として生きていくという決意です。その所で私達の幕を広げ、綱を伸ばす決意です。
私達は主イエスが言われた言葉、「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17章18節)をもって、今日もここから出ていきましょう。来年も日々、この主からの言葉に送り出されるかのようにして毎日を最善を尽くして生活しましょう。私達の世に対する証しはその只中にいなければできないことなのですから。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2010年12月26日
1)私達はこれまでエレミヤの預言を見てきましたし、今日はその彼の預言が成就した歴史的事実を知りました(ダニエル1章1節-2節)。このようなことが記されている聖書をあなたはどのような書物として受け止めていますか。
2)イスラエルの民はエレミヤの預言どおりバビロンの捕囚となります。その時に、神差はダニエルと三人の若者をバビロンの宮殿において用いられます(ダニエル1章4節-6節)。年若く弱いエレミヤにしても、これらの四人の若者にしても、神様は聖書中、度々、何の力もない者達を用いられます。その神様の真意はどこにありますか(参考:Ⅰコリント1章26節‐31節)。
3)四人の若者はバビロンにおいて、王の食べる食事を取らないことによって、超えてはならない一線に踏みとどまりました。あなたには超えてはならない一線がありますか。その線は誰によって定められたものですか。
4)四人の若者は異教の国の只中、しかも王の膝元で暮らしました。神様は今を生きる私達がこの世界と隔絶された場所に留まることを願っていると思いますか。あなたはイエス様の以下の祈りをどのように受け止めますか。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」(ヨハネ17章15節‐16節)。「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17章18節)。
5)四人の若者は異教世界の只中で神様を証しました(ダニエル1章12節‐15節、17節-21節、2章47節‐48節、6章25節‐27節)。あなたはどのようにしてこの世俗世界の只中でで神様の証人として生きることができますか。