こだわりからの自由2

Manger-cross キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2章6節‐11節)

キリストが人の姿をとられたということを “神と等しくあるべきこだわり” を捨てたと言うことはできませんが(この出来事を「こだわり」という言葉だけで表現することなど到底できません)、確かにそこには私達のために自らが有していたものを放棄した神の子の姿があります。 マック

 

 

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