こだわりからの自由

本来、イエス・キリストのことを知れば知るほど(その存在が自分の内で大きくなればなるほど)、それまでガチガチの「こだわり」というものがどんどん小さくなり、それに縛られていた自分というものが解放されるのではなかろうか。でも、どういうわけかキリストを知れば知るほど、ガチガチのこだわりに縛られて身動きがとれなくなってしまうというケースも多い・・・。

「だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」(コリント第一の手紙8章13節)

「もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたはもはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも死なれたのである。それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい」(ローマ14章15節‐16節)。

「食物」や「肉」は色々な物に置き換えることができるだろう。命の通わない物(もの)へのこだわりのために、人の心を犠牲にすることほど愚かなことはない・・・(その物は私達の熱愛的なこだわりを何とも思っていないし、当然、感謝もしていない)。

マック

追伸:キリストは私達を不自由にするために来られたのではなくて自由にするために来られたのです。

 

 

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