「人生は他者によって決められることがある」
「人生には不公平なことがある」
「人生は人の気まぐれで決まることがある」
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マック
腐らず、挫けず、主にあって最善を!
2010年11月14日
トーマス・マンという作家が「ヨセフとその兄弟」という作品を残しています。この作品は今日これから見ていこうとするヨセフとその兄弟たちを題材としたものですが、そのトーマス・マンがこのようなコメントを残しています。「ヨセフの物語の中には私たち人間のあり方とその状態が根本的に含まれている。その意味でヨセフ物語は人類の原型でもある」そんなヨセフ物語は創世記37章から50章に詳しく書かれており、これを詳しくお話しますと数ヶ月を要しますが、今回はこの朝の一時で彼の生涯の節目となる出来事をいくつか見ることにより、大切な真理に導かれたく願っております。まず最初にこんなことを考えてみましょう。それは「人生は他者によって決められることがある」ということです。
「人生は他者によって決められることがある」
創世記37章1節‐4節
1ヤコブは父の寄留の地、すなわちカナンの地に住んだ。2ヤコブの子孫は次のとおりである。ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。3ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。4兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。
ヨセフの父、ヤコブには12人の子供が与えられました。その内、11番目に生まれたのがこのヨセフです。父ヤコブはその12人の子供の中、他の兄弟が分かるほどに、このヨセフを偏愛しました。この聖書箇所の後には、それが原因となり兄達はヨセフを妬み、憎み、彼は殺されそうになり、最終的に銀貨20枚で奴隷としてエジプトへ売られていく様が記されています。それは明らかに彼が願っていたことでも、また当然計画していたことでもありません。ヨセフの人生は彼の思いや意志の届かないところで無理やりに導かれていったのです。
彼のような人生を私達も送ることがあります。すなわち自分の人生なのに自分以外の人によって決められていく人生です。私達の仕事における解雇や移動というものも、時に自分の選択の余地がない状況で取り決められることがありますし、そもそも私達自身の誕生ということから私達はそれを選ぶことができませんから、その始まりから既にその後の人生に対してある程度、自分の思いや願いではなく他者の影響を受けるものです。突如、私達を襲う事故や災害に対して被害者や被災者として巻き込まれるということ、このようなことも自分の願いではないところで、その人生がそれまでとは別の方向へと向き始める要因となるのです。もし、子供の将来について過剰に干渉してくる親に育てられたとしましたら、その人生はある意味、親によって決められてしまうことにもなるでしょう。
ヨセフが無理やりエジプトに連れていかれたように、もしかしたら、皆さんの中にも、まったく自分の思いではなく、自分はこのアメリカに連れてこられたのだと思っている方もいるかもしれません。
どうかご自身のこれまでの人生を思いめぐらしてみてください。あれこれと考えれば、私達の今は確かに自分以外の人や出来事によって今日導かれていることがあるものです。二つ目のこと、それは「人生には不公平なことがある」ということです。
「人生には不公平なことがある」
創世記39章1節‐6節
1さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。2主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。3その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。4そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。5彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。6そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。
売られていった異国の地エジプトで、奴隷の身でありながらヨセフは主人から全幅の信頼を得るようになり、全ての財産を委ねられるようになりました。異国に暮らすということは、生活習慣や言語、またツテとかコネというものがない故に、とても不利なことがありますが、彼の逆境の生涯にも光が見えてきたのです。
しかし、聖書が彼の「姿と顔が美しかった」と記していることが原因となったのでしょうか、今、読みました聖書箇所の後に、彼はその主人の妻に肉体関係をもつようにと誘惑され、それを拒み続けたが故に彼女の嘘の証言により、ヨセフは獄屋へと入れられてしまいます。せっかく主人に信頼されていたのに、ここにきて、またどん底の囚人となり、実にその年30歳になるまで彼は獄屋に閉じ込められてしまうのです。この出来事は明らかに冤罪(えんざい)なのです。そして、明らかにその背景には、この妻とヨセフの置かれている立場と身分というものがあります。奴隷がたとえ正しいことを証言しても、その証言が受け入れられることがないということです。
よく取り上げられる話題ですが、最近の日本の小学校の運動会では、徒競走の時に、走り出した子供達がゴール前では手をつないで皆一斉にゴールするということらしいです。足が速い遅いということで優劣をつけずに公平にということがその趣旨らしいのですが、私達の時代は明確に順位づけがなされていましたので、これを聞いた時は驚きました。
このことがいいことなのか、悪いことなのかに対しては人それぞれ色々な考えがあるでしょうが、一つ、子供達が知るべきことは「世の中は決して公平な場所ではない」ということです。いつも皆が同じ時にゴールインするということはありえない世界が私達の暮らす世界です。私達の世界とは、その人がどんな国やどんな家に生まれたのか、どんなコネをもっているのかということによって、隣のレーンの人が自分よりずっと前からスタートするなんてこともよくある話です。
そのように考えますならば、このヨセフの生涯の不公平さとは私達のすぐそばにもあることなのです。あなたはこの不公平を経験したことがないですか。その不公平が悔しくて枕を涙で濡らしたことはありませんか。三つ目のこと、それは人生は人の気まぐれで決まることがあるということです。
人生は人の気まぐれで決まることがある。
創世記40章1節‐8節
1これらの事の後、エジプト王の給仕役と料理役とがその主君エジプト王に罪を犯した。2パロはふたりの役人、すなわち給仕役の長と料理役の長に向かって憤り、3侍衛長の家の監禁所、すなわちヨセフがつながれている獄屋に入れた。4侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。5さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。6ヨセフが朝、彼らのところへ行って見ると、彼らは悲しみに沈んでいた。7そこでヨセフは自分と一緒に主人の家の監禁所にいるパロの役人たちに尋ねて言った、「どうして、きょう、あなたがたの顔色が悪いのですか」。8彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。
獄屋に投じられたヨセフでしたが、彼はその獄屋においても、獄屋番からの信頼を得て、獄屋にいる囚人全てをヨセフのみ手に委ねました。そんなある日、その獄屋に王の給仕役の長と料理役の長とが投獄されてきました。給仕役というのは古代エジプトの高級官僚であり事実上、王の相談役で、調理役とはエジプトの高官であり、調理の責任者でした。
彼らはその主君エジプトの王に罪を犯したというのです。具体的にはどんな罪かは記されていないので確かではありませんが、この彼らにヨセフは仕えることになりました。そんなある日、彼らがみた夢をヨセフは解き明かし、その解き明かしのごとく、給仕役の長は出獄し、元の職に返ることができました。しかし、彼は自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを忘れてしまい、ヨセフはそのまま獄にてさらに二年の時を過ごすことになったのです。一口に二年といいますが、その原因はヨセフの落ち度によるものではなく、給仕役の「ど忘れ」であったと思う時に、もし私達がヨセフであるなら、その口から出る言葉は「勘弁してくれよ、給仕役、もう、やってられないよ!」ということなのです。
今は就職難だといわれています。何十ものレジメを送りながらも、なかなか仕事が得られないというのです。私達はいったん送られたレジメがどのように取り扱われているのか分かりませんが、レジメを書きながらふと、考えたことありませんか。自分のレジメはそれを判断する人のデスクにどのように置かれたかによって決まっているのではなかろうかと。もし、会社のメールボックスからメールをしかるべき部署に送り届ける係りの人が途中で誰かと立ち話をして、その時に自分のメールをそこに置き忘れてしまって、そのことによって担当者の目にそのメールが届くのが三日遅れる。そのことが原因で自分は就職を逃していたのだということ、そのようなことが全くないとはいえないのが私達の世界です。また面接官がその日の朝、夫婦喧嘩をしてきたゆえに、機嫌が悪く面接が通らなかったり、反対に機嫌がよかったから通ったなんてこともあり得ます。
そう考えますと、私達の人生というものは人の何気ない気まぐれによって、大きく左右されることがあるのです。それが私達にとって良きことならいいのですが、そのような気まぐれによって何年もいや、何十年も不遇を受けるとするならば、それは何ともやるせないことです。このような思いをかみ締めている方はいらっしゃらないでしょうか。
このように私達もヨセフのように不本意で、不公平で、他者の気まぐれによって影響される人生を送ることがあります。私達はそのような人生をどのように生きたらいいのでしょうか。
今日のメッセージタイトルは「腐らず、挫けず、主にあって最善を!」です。今、ヨセフに起きたようなことが私達の人生にも起きますと、特にそんなことがヨセフのように連続して降りかかりますと、大抵の人は腐ります。挫(くじ)けます。「腐る」とはよく言ったもので、まさしく私達の気持ちはだんだんと新鮮さを失ってしまうのです。「挫ける」とは立ち上がることができなくなるということです。
腐って、動けなくなるのですから、もうそこから身動きがとれなくなります。そうなりますと、やがて私達は「俺の人生は、私の人生はもう終わった」と思うようになります。そうでしょう、ヨセフが兄達から売られてエジプトに連れて行かれる時、獄に投じられた瞬間、もうこのまま生涯、この獄からは出られないのではなかろうかという思いがふっとわく時、そんな時、彼の心にもそような思いが沸いてきたのではないかと私達は想像できます。そして、一度そのような思いに心が支配されますと、その後の人生はどうなるのでしょうか。
そうです、あれが悪い、これが悪い、俺がこうなったのはアイツのせいだ、生まれ育った環境のがよくなかったんだと日々を暮らすようになります。確かにそのことは事実でしょう、しかし、そこに捕らわれてしまってはそのところで足踏みを続けるだけで、先に進むことができません。
では、どうしたらいいのか。ヨセフはどうしたのでしょうか。彼が通らされたところに私達は同情心すらもちます。しかし、聖書の中に、このヨセフが腐って、挫けている姿を私達は見出すことができません。なぜ、彼はそのような歩みをすることができたのでしょうか。幾つかのことを見てみましょう。
まず第一にヨセフはいかなる状況になっても神様が自分と共にいるということを知っていたということです。このヨセフ物語を何度も読み、ここから話を聞いている方達はよくこのことを知っていることでしょう。創世記は何度も何度もそれがいかなる場所であっても「神がヨセフと共におられた」という一文を記録しています。
そして、そのことを知っていたヨセフがすべきことは、その与えられた状況の中で自分の最善を尽くしたということです。彼が陥った状況というものはどれも自分ではどうすることもできないことだったのです。すなわち自分ではコントロールできないものです。いつも私はお話しますが、ボート競技に従事する人は、ボートの外の風や波を支配することはできないのです。しかし、私達は時にそんな風や波すらもどうにかしようとして疲労困憊するのです(私達はこのような自分ではどうすることもできないことを、どうにかしようとしてバーンアウトすることが多々あるのです)。しかし、ボート競技者がすべきことは、いいえできることは、ただひたすらにオールを漕ぎ続けることです。そのことを全力でするだけです。
コリント第一の手紙15章58節においてパウロは書いています。だから愛する兄弟たちよ。堅くたって動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦はむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
ヨセフは売られていった先で、一生懸命に全力で主人に仕えたに違いありません。その誠実さが主人に伝わり、彼はその財産を全て委ねられたのです。もし、彼がなんで俺はこんなエジプトなんかに来てしまったのだ。あの兄達が憎らしい、やってられるかと腐っていたのなら、彼のその思いは態度に出て、彼はそこから先に進めなくなったことでしょう。しかし、彼はそこでその一日にすべきことに全力を注いで励みました。彼は環境を嘆かず、その場所で最善を尽くしたのです。
牧師は人前で話すのが一つの仕事です。人間的に言えば、多くの聴衆が目の前にいると話す言葉にも力がはいります。それに対して人間的に考えれば聴衆が少ないと言葉にも力が入らないものです。かつてまだ神学生だった頃、教会開拓をしている教会を助けるべく、地域の公民館の一室で三人の人を前に日曜の礼拝メッセージをしたことがありますが、ご丁寧にも全員が居眠りを始めました。虚しくて、やるせなくて、どうせ誰も聞いていないのなら、サザエさんの歌でも歌おうかとも思いましたが、今はそのような状況でも何百人を前にしても全く同じように、全力で話したいと主に願います。なぜなら、聴衆が三人であっても千人であっても、そこには主も必ずいるからです。私ができることはその時その時に自分のできることを全力で精一杯することだからです。主が共にいる限り、私達の労苦が無駄になることはないのですから。
二つ目のこと、それはヨセフがその逆境でどのように過ごしたかということです。特にヨセフが獄にいた年月のことを思いますときに、それはある意味、彼にとって自分の自由というものが最も制限された時だったと思います。しかも、精一杯主人に仕えていた結果、投獄されのですから、彼の失意落胆は大きかったことでしょう。獄屋での生活を順境か逆境かで分類するなら、明らかにそれは逆境です。
しかし、そのような時にどのように過ごすかで私達の人生は決まると聖書は記しています。伝道の書7章14節
まず口語訳聖書から読みましょう。「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである」次に新改訳です。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人に分からせないためである」そして、最後に英語でも読んでみましょうWhen things are going well, enjoy yourself; but when things are doing badly, consider that God made the one alongside the other, so that people would learn nothing of their futures.
神様が人間に与えてくださっている一つの特権は、私達が「考える」ことができる存在であるということです。ヨセフの体は自由ではありませんでした。しかし、誰も彼の頭の中の自由を奪うことはできません。彼は獄の中で考えたに違いありません。彼の波乱万丈の人生、それは不本意なものではあったけれども、自ら心に手をあてれば自分にも反省すべきことが多々あったことでしょう。兄弟たちに売られたこと、誘惑を受けたこと、忘れられたこと、一つ一つ思い起こせば、「ああしておけばそうならなかっただろうに」という反省もあったことでしょう。彼は獄でそんなことを考えたに違いありません。
「上へ上へと伸びないときは、下へ下へと根を生やせ」という言葉がありますが、植物の成長というのは地中から上、すなわち私達に見えるところで評価されるものですが、言うまでもない、さらに上に伸びるためには、さらに下に根を深く生やさなければならないのです。植物が高く高く育つためには、それを支えるためにその植物は深く深く地に根をはらなければならないのです。そう考えますと、このようには言えないでしょうか。目に見えて上に伸びる順境は、目には見えないけれど地中に根を伸ばす逆境あってのものであり、さらなる順境を得るためには逆境も必要、すなわちそのために、私達には考える時、自らを省みる時が絶対に必要だということです。
ヨセフは十二分にその考える時間をもちました。そのことにより、彼は下に下に深い根を伸ばしたのです。後に彼はエジプトのナンバー2に抜擢されますが、彼の獄中生活とは、そのようなポジョンに立っても倒れないために、地深くに根を張る時だったのです。
だから伝道の書は言うのです「これもあれも神のなさること。God made the one alongside the other…」神様は私達の人生に順境だけを与えないのです。順境と共に、私達のために、順境に寄り添うかのように逆境も与えるのです。
はたしてこのヨセフの生涯の結末はどんなものだったでしょうか。彼は獄から出、先ほども申しましたようにエジプトの宰となり、周辺各国が飢饉に覆われた時に、かつて自分を売った兄弟を許し、彼らをはじめ、その一族をエジプトから救い出し、自分を売った兄達に向かってこう言うのです。創世記50章20節 「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました」
繰り返される逆境の只中に身を置いていたヨセフはその先の自分の人生というものが見えなかったに違いありません。しかし、彼はその逆境にも腐らず、挫けずに神と共に歩んでいき、その時に彼の知りえない生涯の先にあったものは神様の大きな祝福でした。彼は逆境の連続の人生を送りながらも、気がつけば、いつの間にか、その幕が広がり、綱が伸ばされていたことに気がつくのです。
そして、このことは私達に対する約束でもあるのです。皆さん、あえて言うまでもなく、私達の人生には寄り添い合うかのように、追い風の日もあれば、向かい風の時があります。そして、この二つがあって私達の人生は形造られるのです。ですから、腐らず、挫けず、主を見上げ、その日、その日にできる私達の精一杯をなしていこうではありませんか。その時にかつての不本意なこと、不公平なことすらも良きに変えられ、そのことによって私達の根は深くはられ、気がつくと私達の幕も広がり、綱が伸ばされていることを私達は知ることでしょう。お祈りしましょう。
本日のお持ちかえり
2010年11月14日
1)創世記37章1節‐4節を読みましょう。あなたは「人生は他者によって決められることがある」と思いますか。ヨセフの人生を黙想し、自分の人生についても考えて見ましょう。それはポジィティブなものでしたか、それともあなたにとって困難なものでしたか。
2)創世記39章1節‐6節を読みましょう。あなたは「人生は不公平」だと思いますか。ヨセフの人生を黙想し、自分の人生についても考えて見ましょう。
3)創世記40章1節‐8節を読みましょう。あなたは「人生は人の気まぐれで決まることがある」と思いますか。ヨセフの人生を黙想し、自分の人生についても考えて見ましょう。
4)上記のような理不尽なことが私達の人生に降りかかる時に、あなたはどのようにそれらに向き合いますか。そこからすべてを諦めますか。それともそこから信仰と共に立ち上がり、前に進みますか。
5)創世記39章を読みましょう。そのところにはヨセフが売られていったエジプトで神様はどうしておられたのかということが書かれています。2節、5節、21節、23節を読みましょう。あなたはこれらのことを読むにつけ、どう感じますか。
6)伝道の書7章14節を読みましょう。あなたは順境の時にどのように過ごしますか。逆境の時には何をしますか。
7)ヨセフの生涯を見る時にたとえ私達が逆境の只中にいても、神様は共におられるということ。また、その逆境すらも私達のプラスになるということを知ります。ですからたとえ逆境の中に生きることがあったとしても一日一日、できる最善を尽くして日々、過ごしましょう。最後にコリント第一の手紙15章58節を読みましょう。