皆さん、覚えていますか。スーツケース、あるいはみかん箱一つもってこの国にきたあの日、あの時のことを。初めて自分一人、異国の地で床に着いた時。この国で今、東西南北どこを見回しても自分の家族は一人もいないんだと思った時。今、自分に何かが起こっても、親兄弟が飛んできてくれるような距離にもはやいないという現実に気がついた時。そして実際に幾たびも家族のありがたさを実感させられる生活。
しかし、どうでしょうか、この中のどれだけの人が、そのような生活であったからこそ神様を知るようになったのでしょうか。「こうしてちょうだい」「ああしてくれない」とすぐに頼る家族がいないということが、実は私達自身が神を己が父とする、己が助けとする、私達の信仰を強めていたのか、現に今も強めているのかということを私達は否定できません。
マック
礼拝の映像はこちら。今日、礼拝でお話したメッセージ原稿です↓
我ら、この国にて 2010年11月7日 創世記12章1節‐2節
私達が今朝見ようとしています創世記は聖書の一番最初に記されている50章からなるものです。この創世記の1章から11章までは創世記全体の序論となっています。すなわちまず初めに、神様が天地万物を創造され、最初の男と女、アダムとイブを造られる。彼らは人類最初の夫婦となりますが、彼らの間には不信感が生まれ、その二人に与えられた息子達の間では兄が弟を殺すというような悲惨な出来事が起こります。
その後、この家族から人は地に増えますが、人々の心は荒れ廃れ、暴虐が暴虐を生むような世界となり、神様は大洪水によって人間を一度、滅ぼされますが、先週お話しましたように、その洪水を逃れたノアとその家族計八名からまた人は地に増え広がります。しかし、またしてもその人間は天に、すなわち神に届くように、神の座に自らが座るかのごとくに巨大なバベルの塔を築きあげます。
それは人が神のごとくに振舞おうという罪の根源ともいうべきことで、それゆえに神様は脆くもその塔を崩し、それから人間同士は互いに話す言葉が通じない者となったというのです。それは実際に言語自体が異なるものとなったということと同時に、同じ言語を使っても互いに心と心が通じ合わない、理解し得ないものとなったということを暗示しています。実際、私達は同じ言語を用いつつ裁判の席につき互いを非難し合いますし、そのような争いは私達の家庭でも職場でも日常的に起きています。同じ言葉を語り合いながら、互いに 全く心が通じ合わないのです。
このようにお話しますと分かりますように、この創世記の一章から十一章の中に、私達が生まれてからこの方、経験する人間の問題が凝縮されているのです。私達が見聞きするドラマや小説の人間模様はこの創世記一章から十一章に既に記されている人間の心の複雑さというものを色々な手法で表現しているものであるといっても過言ではありません。そして、今日、見ていこうとする創世記12章が始まるのです。この箇所はこのような言葉で始まります(創世記12章1節-2節)。
時に主はアブラムに言われた「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
天地創造・人間の創造・人の広がり・罪の広がり・滅亡・再出発・再び堕落・・・。これらの諸々の出来事が起こり「時に」という言葉と共に神様は一人の人に目を留められました。彼の名はアブラム。その年、高齢75歳になる人です。神様はそのアブラムに自分が住み慣れた地を離れるようにと語りかけました。その語りかけですが、この創世記12章を見ます時に「あなたは今、住んでいる土地を離れて私が示す地に行きなさい」というシンプルな命令でもよかったと思います。しかし、神様はあえて「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」と言われたのです。なぜ、そのようにねんごろに彼が別れるべきこと、離れるべきことについて神様はアブラムに語られたのでしょうか。このところから二つのことを見ていきたいと思います。第一に「生まれ故郷を出る」ということです。
生まれ故郷を出る(国を出る、親族に分かれる):
私達が見ています口語訳聖書には「あなたは国を出て、親族に別れ」と書かれています。これが新改訳聖書になりますとこの国と親族を一つにまとめて「生まれ故郷を出る」と書かれています。生まれ故郷を出るということは、アブラムが住んでいた風土、習慣、文化、特権から離れるということを意味します。具体的に言いますと、あなたの家を吹き抜けていたあの夏の夜風を離れ、自分が話していた言語を離れ、年毎になされていた秋の収穫の祭りから離れ、その土地であなたが与えられていた役割や特権から離れなさいというようなことです。そして、もはや夜風も祭りも、気心知れた者同士の寄り合いもなく、あなたの役割も特権も言葉も通用しない土地に行けということです。
そして、このことはアブラムや私達に限ったことではなくて、そもそも聖書は一つの民族、すなわちユダヤ人達が生まれ故郷を追われて生きる様を描いている書物なのです。聖書によりますと、彼らにとって異なる文化や言語は時にエジプトであり、バビロンであったりするわけですが、彼らは複数の文化の中に生き、母国語以外の言語を用いて生きたというのが、この聖書に記されているユダヤ民族の歴史であり、その民族がそのような経験をして再び自分達の国を建国していくということが聖書の物語なのです。
ここまでお話しますと皆さんはおそらく私が感じている思いと同じものを心に描いているのではないかと思います。すなわち、多くの皆さんはこの創世記12章に現在、米国に暮らす日本人(かつて日本人だった)の自分というものを重ね合わせているのではないかと思うのです。自分で言うのもなんですが、あの日本の唱歌「ふるさと」を歌う時に私達ほどに心に迫るものを感じる日本人はいないのではないかと思います。
また当然、それは日本人に限らず、それが台湾や韓国、世界中どんな国であっても、その方々がもつ思いと私達の思いは共有できるものです。さらに、それは米国外のことのみならず、ある人は米国中西部の町から、ある人は東海岸のあの町、この町からサンディエゴに移り住んでいる、そのような人達も同じような思いをもつことでしょう(この巨大な国、米国は各州がそれぞれがユニークで独立した一つの国のように思われることがあります)。そのような意味でこのアブラムに語られた言葉というものは私達にも強く語りかけてくるものであり、聖書を学ぶということは、私達自身のことを学ぶことなのです。私達自身に神様が与えられている使命ということを見出すことなのです。
さて「故郷を離れて」と言われ、それに従ったアブラムは自分の国を出てすぐに困難に直面したということが、すなわち深刻な飢饉に直面したということがこの12章の直後に書かれています。そこでアブラムはその飢饉ゆえにエジプトに逃れていくのです。その後も、彼は民族に異文化と向かい合い、時には崇高な生き方をし、時にはこれがあのアブラムかと思われるような大失敗をしながら生きていくのです。覚えてください。これらのことは神様から示された地に出て行くということは、すなわち安定を保証されるということではないということを示しています。
それどころか、もしかしたらアブラムは神のみ声を聞くことなく、自分の住み慣れた地に住んでその余生を過ごしていれば、しなければならない苦労とか醜態をさらさなければならないような状況に直面することなく過ごせたのかもしれません。そして、それは私達とて同じです。日本の自分の故郷にいれば、この国で私達が体験した、今も体験している諸々の苦労をすることはなかったかもしれません。
しかし、聖書を見ます時に、神様は度々、人を一つ所に留まることをさせず、あえて苦労が多い旅路へと導かれるのです。モーセはヘブル人でありながら異国エジプトで生まれ、そのエジプトの王子として育てられました。いわゆる外国で生まれた二世です。しかし、彼はそのエジプトでの王宮生活を捨てて、逃亡生活に入り、ミデアンの荒野でそれこそ乾拭き屋根から星が見えるようなところで暮らす生活をするのです。そこで40年を生き、再び神様によってエジプトで奴隷となっている数百万の同胞の仲間達を救い出すようにと命を受け、後さらに40年、彼は開放されたそのおびただしい数のイスラエルの民と共に住所不定、荒野を移動しつつ、困難の極みを経験します。
これらのことは出エジプト記に詳しく書かれていますが、それらを読みます時に、モーセにしてもヘブルの民達にしても彼らの生活はまさに一つ所に留まらない生活で、そのような生活を通して神様は繰り返し彼らにあることを教えるのです。何を神様は彼らに教えたのでしょうか。それは「神は確かに彼らと共にいる」ということです。そして、それはモーセに限らず、アブラハムも生まれ故郷を出てから繰り返し繰り返し体験を通して学んだことは「神は確かに私と共にいるのだ」ということだったのです。
このシンプルかつ最重要な一つのことを教えるために神様は最も彼らを生まれ故郷から切り離し、自らが拠り所とするものがない生活に導かれ、神こそが寄り頼むに値するお方であることを彼らに教えられ、そして私達にも教えてくださっているのです。二つ目のことをお話しましょう。それは「父の家を離れる」ということです。
父の家を離れる:
創世記において神様は最初の男と女アダムとイブについてこう言われました「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2章24節)。この言葉は聖書における結婚の定義となっています。短い言葉ですが、この一節に結婚というものの本質が語られています。興味深いことは神様はまだ「父親と母親」というものが存在しない時、父と母と言う言葉を使われたのです。このことを、もしアダムとイブが聞いていたとしたら、彼らは思ったに違いありません「父と母?なんだ、それは?」
神様は言われたのです。結婚するということは、男と女とが一つとなることだ。そのことを生涯かけて学び、知っていくことだ。そして、そのためにはその夫と妻は父と母と離れなければならない(ここから先を話すと時間がありませんので、やめます)。そして、この創世記2章の言葉と繋がっているかのように今日の箇所においても神様はアブラムに「父の家を離れなさい」と命じられました。
私達の多くは日本で生まれ、日本で育った者であり、「父の家」とは日本的に言いますならば私達の生まれ育った家、実家ということになります。実家とは私達と血縁のある者達が共に暮らす場所のことです。神様がここで父の家を離れなさいと言った意味はその肉的な交わり、血のつながりだけを自らの避け所、避難所とするなということです。自らの助けや慰めを血縁の中だけに見出すのではなくて、私を信頼しなさいということです。
私達の多くが経験しますように何かあった時に、身内というものは心強いものです。特に親兄弟というものの存在は大きいものです。神様はアブラハムにその自分達にとって心強いものから離れよと言ったのです。よく「かわいい子には旅させよ」と言いますが、その真意は親兄弟もいない所で、直面する問題を自分の力で解決することを体験させよ。もっとストレートに言うならば苦労させよということだと思います。旅先で熱を出す。物を盗まれる。家にいれば「ちょっと」家の者が助けてくれます。その「ちょっと」がとてつもなく大きいのです。しかし、それらから離れて彼らを一人、旅にだしてごらんなさい。このような経験をして帰ってくる子供達の表情が別人のように凛々しくなっていることに驚くことがあります。
皆さん、あのヤコブのことを思い起こすでしょう。彼は自らの失敗と傲慢さゆえに父の家を追われたのです。あの時以来、自分を溺愛してくれた母親との再会はなかったのです。彼はただ一人、全く頼るものない世界に放り出されたのです。家を飛び出して、最初の晩、聖書は彼が石を枕にして眠ったと記していますが、その時の石の硬さ、冷たさは、自分が本当に父母の家を出てきたのだということを実感させたことでしょう。そして、その晩に彼は生まれて初めて個人的に神と出会うのです(創世記28章 10節ー17節)。
ヨセフはどうですか。彼は兄弟達から憎まれ妬まれ奴隷として売られていくのです。全く頼る身のない世界です。彼がたった一人、奴隷として異国の地に着いた時、雇い人として、ポテパルの家に暮らした時、彼はどんなにか神様により頼んだことでしょうか。冤罪を受けて、異国にて獄屋に投じられた時、彼には神様しか寄り頼む方がいなかったのです。
皆さん、覚えていますか。スーツケース、あるいはみかん箱一つもってこの国にきたあの日、あの時のことを。初めて自分一人、異国の地で床に着いた時。この国で今、東西南北どこを見回しても自分の家族は一人もいないんだと思った時。今、自分に何かが起こっても、親兄弟が飛んできてくれるような距離にもはやいないという現実に気がついた時。そして実際に幾たびも家族のありがたさを実感させられる生活。
しかし、どうでしょうか、この中のどれだけの人が、そのような生活であったからこそ神様を知るようになったのでしょうか。「こうしてちょうだい」「ああしてくれない」とすぐに頼る家族がいないということが、実は私達自身が神を己が父とする、己が助けとする、私達の信仰を強めていたのか、現に今も強めているのかということを私達は否定できません。
生まれたばかりの子供のことで悩む。ストレスがたまる。ちょっと大変なら実家に帰ればいい。子供を預けて息ぬきをすればいい。しかし、こちらにいるとそれはできない、だから自分でどうにか知恵をはたらかせる、祈る、兄弟姉妹に祈ってもらう、聖書の言葉にしがみつく。日本にいる家族が病気になる。しかしながら飛んで帰れない。どれだけの人が詩篇121篇4節の「見よ、イスラエルを守る者は、まどろむことなく、眠ることもない」という御言葉を握り締めて、全てを委ねることを学んだのでしょうか。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれていますが、その所以がもうお分かりでしょう。それは、彼が「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」という言葉に従ったことによるのです。彼の信仰は神以外に頼むところのない異国の地で獲得したものです。そして、その同じ体験を今、私達もしているのです。その体験を通して、私達は神が生きておられることを知り、私達の信仰は骨太なものへと変えられていくのです。
そして、神様はこれらのことを言われてから「わたしが示す地へ行け」と言われました。皆さん、この言葉に私達はチャレンジを受けるのです。それは信仰のチャレンジです。この言葉をアブラムに語られた神様の言葉として「へぇー、アブラムも大変だったのですね~」と言っているのではなく、それを自分に言われている言葉として信仰を持って受け入れるのです。それはこういうことです。
皆さんの多くはサンディエゴに来る前にクリスチャンではなかったという人も多くいるでしょう。またこの地でクリスチャンになったという人もいるでしょう。しかし、今、この地に暮らしているということには、神様が私をここに遣わされているのだ、ここが神が私に示された地なのだということを信じて受け止めるということです。この土地に、ここに共に暮らす家族に友人に、教会に自分は遣わされて、あの国、あの故郷を出てきたのだという使命に生きるということです。
示され移り住んだ土地を信仰をもって受け止める。そのことで神様が私達にチャレンジします。私のためにあなたの幕を張り広げ、あなたの綱を長くせよと。私達が米国に来たということはどういうことなのか。その決断は私の人生の最大の失敗でしたと受け止めるのか、そのことによって私は生ける神を知りました、この国は、この土地は神様が私に遣わされた特別な地です。この地で私は主のために地境を広げますと思うのでは、雲泥の差があるのです。皆さんはいかがですか。最後のことをお話しましょう。それはあなたは祝福の基となるということです。
既にお話していますように、聖書は当時の人間達にのみ語られたものではなくて、2010年を生きる私達一人一人に語られている言葉なのだと受け止めることが大切です。時に図々しくも、それを遠慮せずに信仰をもって、受け止めることが大切です。そうです「あなたは祝福の基となる」と言う言葉を文字通り信じて受け止めるのです。そうする時に神様は確かに私達をして祝福の基としてくださいます。それを遠慮して、こんな自分が、そんなことできるはずない、そんなことになるはずがないと思うのなら、その祝福は確かにその人の前を素通りしてしまいます。
神様からみ声を聞いた時、アブラハム夫妻は家族会議を開いたに違いありません。「あなた、私達の老後、いくらなんでも今からこの土地を出て行くなんて、それは無理よ。あなたは最近は杖を引いているじゃない。やめましょうよ」「でもなサラ、わしらが無理だと思っているそのことは当然、神様もご存知なことなのだ。それらを全て承知で神様はわしらに声をかけられたのだ。だからわしは最後に、もう一度神様が示されることに従いたいんじゃ。行けという所に向かって一歩を踏み出したいのじゃ。それを神様のためにすることができるのなら本望じゃよ」「そうね、神様がいうのなら、信じて出て行きましょう」。
皆さん、もしこの夫婦にこの決断がなければ、聖書は創世記12章から先には進まなかったのです。この夫婦が荷物をまとめ、その一歩を歩み始めなければ彼らは神様が約束された祝福の基とはならなかったのです。
グランドキャニオンの美しさを一番楽しんでいる人は誰がかご存知ですか。グランドキャニオンに行っている人です。行くのみならず、その大自然の中に抱かれようと、谷底も歩いてみようという人です。彼らはそのために靴を履き、家を出るのです。そのためには周到な準備が必要であり、しんどいことすらあります。しかし、一歩前に出ない限り、その楽しみ、喜びを知ることはできないのです。野球を一番、楽しんでいる人は誰ですか?スパイクを履き、グラウンドに立つ者です。誰かがイエス様のもとに立ち返るのを一番、喜んでいる人は誰ですか。その人のために日々祈り、伝道をしている人です。
神様によって祝福の基とされる人は誰ですか。その約束を信じ、それに従い、神様のために一歩前に出る人です。今朝、神様は私達に語りかけてはいないでしょうか。私があなたに示したこの国で、あなたは私こそがあなたの神であるということを学んだはずだ。私はあなたと共にいるということを何度も経験したはずだ。それなら、私のためにさらにあと一歩を踏み出さないか。あなたの不足を私はあなた以上に知っている。しかし、私はそのあなたを必要としているのだ。あなたは祝福の基になれるのだと。私はあなあをしてそのような者となってほしいのだ。お祈りしましょう。
本日のお持ちかえり 2010年11月7日
創世記12章1節-2節を読みましょう。あなたにとって「生まれ故郷を出る」(国を出る。親族に別れる)ということをどんな意味を持ちますか。あなたがアブラハムだったら75歳で生まれ故郷を離れて、他国へ移住しますか?
あなたが自分の国(故郷)を出てきた時のことを思い起こしましょう。あなたはどんな覚悟でアメリカにやって来ましたか。その時の家族の反応は?米国に移住したことによってどんな苦労をしましたか。もし、あなたがアメリカに来ていなかったらあなたは信仰をもっていたでしょうか(こちらで信仰を持たれた方の場合)。
「父の家を離れる」ということはあなたにとってどんな意味があるでしょうか。あなたは実家を離れることによってどんなチャレンジを受けるようになりましたか。そのような状況を通るときに、あなたの信仰は強くなりましたか?
あなたは神様がアブラハムになさった「あなたは祝福の基となるであろう」という約束を自分に語りかけられている言葉として受け止めていますか?
私達の多くは自分の国(故郷)を離れ、色々な土地を転々として、今、サンディエゴに導かれています。あなたはこの土地は神が私達に示されている土地だと思いますか。そのことを信じて受け止めましょう。あなたがこの地で神様に託されていることは何でしょうか。示されたら一歩前に踏み出しましょう。
この日、TBSテレビでアメリカ日系人のドラマ「99年の愛」をやっていました。国を越えてゆく人々は、イスラエルの民を追体験しているなーと思いました。
KOBAKEN先生
何人かから「99年の愛」のことを聞きました。いつか見てみたいですね。
先生は今、北森先生の本をよく読まれているようですね。興味深いです。