「家造りらの捨てた石は、隅のかしら石となった。これは主のなされた事で、我らの目には驚くべきことである。これは主が設けられた日であって、我らはこの日に喜び楽しむであろう」 (詩篇118篇22節‐24節)
「見よ、わたしはシオンに、つまづきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終わることがない」イザヤも28章16節。
捨てられた石、つまづきの石、さまたげの岩、隅のかしら石・・・。それにより頼む者は、失望に終わることがない。
この石は何なのよ?
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓
人間世界の構造を知る
マタイ21章33節-46節
2010年8月15日
33 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。38 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。39 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。41 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。45 祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、 46 イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
今日、開かれている聖書箇所はイエス・キリストによって語られました例え話です。ある所に一人の主人がいました。この主人はブドウ園を造り、その回りに垣根をめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを建てて、それを農夫に貸して旅に出かけたといいます。そして、収穫の時がきたので、その分け前を受け取ろうとして、自分の僕をこの農夫のもとへ送ったというのです。実際にこのようなことは当時のその辺りの国々ではよくなされていたことで、主人は金銭ではなく収穫の3分の1、もしくは4分の1を受け取ることができたといいます。
さて、主人から送られてきました最初の僕を見ました時、農夫たちはその僕を捕えて、一人を袋だたきにして、もう一人は殺し、もう一人は石で殺してしまったというのです(マルコ12章に記されていますこの記事の平行箇所によりますと、季節になったので、一人の僕を送ったところ、その僕は袋だたきにされ、空手で返され、他の僕はその頭を殴って侮辱され、また送った他の僕は殺されたというのです。他にもたくさんの僕を送ったが打たれたり、殺されたりしてしまったというのです)。
このようなことがあり、この主人は我が子ならいくらなんでも敬ってくれるだろうと思って、自分の子を農夫のもとに送りました。しかし、彼はどうされたでしょうか。丁重に取り扱われたでしょうか?いいえ、農夫たちは彼を見て「あれはあと取りだから、あれを殺してしまえば、その財産は我々のものだ」(38)と言って、彼を捕まえてブドウ園の外に引き出して殺してしまったというのです。
私達はこのような話をとても奇妙な思いで聞きます。一体、この譬えは何を意味しているのでしょうか?この譬えは端的に言いますとこう解釈されます。すなわち
ブドウ園とは当時、イスラエルの民達が住んでいた場所、家の主人は神様、
農夫たちはイスラエルの民(特に宗教指導者)、僕たちとは預言者達、息子はイエス・キリストであります」。
つまり、神様は聖書がそう記録をしているようにイスラエルが正しい道を歩むことができるようにと、多くの預言者を何度も遣わして、彼らの誤った道を指摘し、そこから離れ、神と共なる道に立ち返るようにと伝えてきたということです。イザヤ、エレミヤをはじめ、その数は両手で数えることができません。しかし、この譬にあるように彼らの言葉にイスラエルの民は耳を貸すことがありませんでした。これらの預言者は嘲笑され、打たれ、本当に大変な目にあいました。中には譬にありますように本当に殺されてしまった者達もいました。そこで神様はこの者だけは敬ってくれるだろうと思って、最後に自分の愛する一人子、イエス・キリストを送られたのです。
ここで私達が気がつかされますことは、この譬話がイエスによって語られました時は、まだその最後の息子が送られ、殺されたということは成就していなかったということです。しかし、イエスがこの譬えを語られた数日後、実際に自らの死によってこの譬話は完結したのです。その死というものがイエスの身に起きたのです。そうです、それは神のひとり子としてこの地に送られてきたキリストの十字架の死を示しているのです。今日はこのところから幾つかのことをお話したいと思います。まず最初に「何も他につけ加えられないほどの愛」ということについてお話します。
何も他につけ加えられないほどの愛
主人は農夫たちが働きやすく利益を上げ得るように、全ての施設を整えて農夫達に託したのです。つまり、ブドウ園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねを造り、やぐらまで建てて、まさしく、その後、この農夫たちがブドウの収穫にだけ携わることができるようにと主人は全てを整えたのです。
実はイエス・キリストによって語られました、この「ブドウ園の譬え」はイエス様が、それを語られました750年前に預言者イザヤによって記された言葉がモチーフとなっています(聖書はある書と別の書の間に何百年もの隔たりがあったとしても互いに関連しあっているのです)。イザヤ5章1節-6節を読んでみましょう。
1わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。2彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。3それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。4わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。5それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。 6わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。
このところで、「イスラエルの民達」は「ぶどう」として例えられています。その彼らを神様は十分に準備した土地に植えたというのです。このところに記されているように、その場所は土肥えた小山の上であり、それは掘り起こされ、石は除かれ、物見やぐらが建てられ、酒ぶねが掘られたというのです。そして、その成したことを自ら顧みられて、神様は「わたしが、ブドウ畑になしたことのほかに何かなすべきことがあるか」(4)とまで言われたのです。これ以上、何を?というほどに神様はイスラエルの民たちに真実を尽くしたというのです。しかし、イスラエルの民達は神様の保護のもとに大きな恵みと祝福が備えられていたにも関わらず、そこに植えられた彼らは甘いぶどうを実らせず、とても食べることの出来ないような野ブドウを実らせたというのです。
天地万物を造られた神様は私達が生きやすいように、否、ただ生きるということだけではなくて、その生活の中に喜びと潤いがあるように十二分に私達が楽しめるものとして、この天地万物を創造されたのです。創世記2章9節に「主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」とあるとおりです。
私達のために整えられた世界は素晴らしいものだったのです。それはただ機能的によかったというのではなくて、そこには美しい、食べておいしいものが備えられたのです。そのことを実際に気がついているか否かということが大切なのですが、まさしく私達の暮らすこの世界の環境というのは地球規模のぶどう園であり、それは神様がこれ以上なすことがあろうかというほどにその愛と配慮に満ちている恵みの世界なのです。私達は本来、そのような場所に生きているのです。しかしながら、このようなことを聞いて「その通りだ!」と頷く人はほとんどいません。なぜなら、実際に私達の生きる世界は様々な苦痛で満ちているからです。そのカラクリをお話しましょう。二つめのことです、それは「この大きな神の愛の中にありながら」ということです。
この大きな神の愛の中にありながら
神様はこのような素晴らしい世界を私達に託されました。それはたとえ話の中の主人が十二分に整えられたブドウ園を農夫たちに任せて旅に出たのと同じです。このブドウ園の農夫には自由が与えられ、その自由を神様は信頼されたのです。同じように、神様は我々にも自由を与えられました。「愛」というものは常に「自由」と共存するからです。「束縛」と「強制」の中に愛は存在しえないからです。誰かを愛するということは、相手に自由を与えるということです。
それゆえに、神様は創世記に記されておりますように、エデンの園において禁断の木というものをそこに生えさせ、「それを食べてはならない」と命じながらも、アダムとエバにそれを食べる自由、食べない自由をお与えになりました。それは神が人と愛の関係をもつことを願っておられたからです。
しかしながら、ご存知のように彼らは食べてはならないと言われている実を、その自由意志により食べてしまったのです。そして、今日の私達もこの歯止めのきかない自由意志により、恐るべき問題をいくつも生み出して生きています。
実際、ここに記されています農夫達もそのぶどう園を任されているという自由を逆手にとって、主人が送りました人達(それはイスラエルに送られた預言者達を意味します)に対してことごとく不義を尽くしました。しかし、主人はそんな彼らに忍耐して、何度もチャンスを与えるべく、人を送り続けました。しかし、彼らの心はいつも神に対して頑なで反逆的な姿勢を選んだのです。
皆さん、この例えは奇妙なもととして聞こえるかもしれないと先ほど、お話しました。しかし、今度はそれが私達の心に突き刺さるものとして語りかけられるのです。すなわち、今日の私達も自分の自由意志によってこの世界に生きているということです。ここに先ほど申し上げました人間社会のカラクリがあります。神様が私たちに与えられた世界は素晴らしかったのです。しかし、それを自由に管理する者達の心に問題がありました。私達は善良なる人間になる自由も、邪悪な人間になる自由も与えられているからです。イザヤ書によれば私達人間が神を離れて、自分が正しいと思うことに従い生きる世界に対して神様がどのように向き合っているかということがかかれています。
5それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。 6わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。
私達の世界において、私達のすぐ身近なところでも、悪がのさばるような状態を私達は見ます。「神はどこにいるのか」というような世界です。まさしく諸悪が私達の身近なところにいくらでもうごめいているのです。そして人事ではなく、その状況の中で私達は色々な災いに自らも直面するのです。否、人事ではない、自分の心の中にも時に、どす黒い思いがあるということに私達も気がつくことがあるのです。
人は隣人に対して、家族に対して、そして究極的には神に対しても、いつも自分が中心になろうというエゴをもち生きています。神を神として認めない、そこに人の最大の傲慢があると聖書はいいます。この思いは神をも排除しようとします。実際にそのように人はイエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。
私達は彼らはなんとひどいことをしたのだろうかと思います。しかし、私たちも自分の心に問う必要があります。まさしく、この農夫たちと同じことを現代を生きる私たちもしているのです。そして、その状態に関して神様は「そのまがきを取り去って、食い荒らされるにまかせ、そのかきを取り去って、踏み荒らされるにまかせる」というのです。
これが私達、人間社会の構図です。私達はこの神の側の意図を知り、その目をもってこの世界を見る時に、何が起きても私達は心構えをもって、それを観察することができるのです。神の子をも十字架にかけて殺したのが人なのですから、人は考えつく、いかなる邪悪なことをもすることでしょう。今までもそうでした、これからもそれは起こり続けることでしょう。私達は根拠のない安易な楽観主義に生きるのではなく、この現実を心に刻まなければなりません。
最後のことをお話しましょう。それは「捨てられた石にある希望」ということです。
捨てられた石にある希望
それでは、このような世界を神様は見捨てておられるのでしょうか。ある意味、見捨てられてもおかしくない様です。しかし、神様はそのような世界に生きる私達にあいも変わらず自由意志を与え、希望を与えているのです。今日のテキストの最後の部分を読みましょう。
42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
今、読みましたところを見ます時に「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」という不思議な言葉が書かれています。
それは捨てられたかのように見られている石なのです。それは誰も振り返ることのないような石です。しかし、その石が頭石になるというのです。すなわち、家を建てる時に最も大切な土台となるというのです。
キリストはこの言葉を読んだことがないのかと言われました。すなわち、それは聖書のどこかに書かれている言葉なのです。それは詩篇118篇22節‐24節からの引用なのです。そこにはこう書かれています「家造りらの捨てた石は、隅のかしら石となった。これは主のなされた事で、我らの目には驚くべきことである。これは主が設けられた日であって、我らはこの日に喜び楽しむであろう」
また預言者イザヤも28章16節に、この石についてこう預言しています「見よ、わたしはシオンに、つまづきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終わることがない」。
この詩篇を書いた記者とイザヤの間に面識はありません。彼らは数百年の時をはさんで違う時代を生きた人達ですから。しかし、この二人がある「石」について語ったのです。
説明するまでもありませんでしょう。この石はイエス・キリストご自身なのです。この石は捨てられたのです。誰も見向きもしないのです。その石はつまずきなのです。それは私達をさまたげる石だというのです。今日も多くの人達はキリストを見ようともせず、このキリストにつまづく人達もいるのです。私達人間はこのキリストに対して「誰だ、お前は!」と言って、彼を捨てるのです。このようなことは十二分に承知していると予め、聖書は書いているのです。
しかし、同時にその捨てられたかに見える石が頭石となると聖書はいうのです。それが全ての事柄の土台となるというのです。詩篇記者はこの石を見て「私達はそれを喜び楽しむ」といいました。イザヤは「その石により頼む者は失望に終わらない」と言ったのです。これらは人の目には不思議なものとして見えるだろうというのです。
「あなたの杭を強固にせよ」という標語を私達はあげています。私達の土台を堅固にして、その堅固な土台にこそ杭を打ち込みましょうということです。今日、お話したことと杭を強固にすることと何の関係があるのでしょうか。今日、なぜこのイエスの例えを話したかといいますと、私達がこの世界の構造というものをしっかりと心に刻むためです。
私達は今日も明日も世の中の醜聞を見聞きすることでしょう。時にそのようなものの力が神様よりも大きく見えてしまい、狼狽してしまうのが私達なのかもしれません。しかし、私達は神様の御手の中にある、この世界の構造というものをしっかりと土台に据えようではありませんか。
人の間には何が起きてもおかしくありません。人は自由意志が与えられているのですから。そして、その心には罪があるのですから。罪の根源は自己中心ですから、それがぶつかり合えば、いかなることも起こりうるのです。私達はその罪が起こす事柄をこれかも見続けることでしょうし、実際にそれによって苦しむことでしょう。今日、お話しましたようにそれはこの世界の真実な有様なのです。
しかしながら、同時に私達は失望してはなりません。落胆してはなりません。否、どうして失望しましょうが、落胆しましょうか。なぜなら、神はそのような私達に隅のかしら石、イエス・キリストを既にお与えになられたのですから。このお方に寄り頼む者は決して失望に終わることがないと聖書は約束しているのですから。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2010年8月15日
1)あなたはこれから10年、20年、30年後の世界はどうなっていると思いますか?楽観的ですか?悲観的ですか?世界で起きていること、私達の身の回りで起きていることは、あなたにとって想定内のことですか?あなたは人の理性というものはどれだけ信頼に足るものだと思いますか?私達の理性・感情・知性は将来の希望となりうるでしょうか。
2)マタイ21章33節-46節を読みましょう。神はなぜ人に自由意志を与えたのでしょうか。なぜ人は神から送られた預言者やイエス・キリストを排除しようとしたのでしょうか。
3)イザヤ5章4節には「わたしがぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか」と書かれています。神様は私達に真実を尽くしておられますが、私達の周りでは色々な問題が起きます。その問題の根本的な原因はどこにありますか?その問題は神様の落ち度によるものでしょうか?
4)あなたにとって罪とは何でしょうか。人は誰しも罪人ですという聖書の言葉についてあなたはどう思いますか。なぜ聖書は人の罪というものを一貫して取り扱っているのでしょうか。
5)詩篇118篇22節‐24節、イザヤ28章16節を読みましょう。何にも役に立たないと思われ捨てられた「石」が、実は頭石になったとイザヤは預言しております。そして、その石とはキリストを指します。なぜこの石は捨てられ、人のつまづきとなったのでしょうか。今日、キリストは人々のつまづきとなっていますか?なぜ、この石は頭石となったのでしょうか。