力・数・量への隷属から救われる方法     

神様は私達に大切な気づきを与えようとされる時に、私達を一時、チャレンジングな状況におかれることがあります。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓

力・数・量への隷属から救われる方法                                         士師記7章1節~8節、16節~23節                                 2010年6月20日

私達は今、「信じて仰ぐ」というシリーズからへブル人への手紙に記されている信仰の勇者達を一人一人見ております。今日はその中に記されておりますギデオンという人を見ていきたく願っております。彼については聖書の士師記がその生涯を記録しているのですが、彼が登場しますこの士師記の6章はまずこのような言葉で始まっています。

イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された」(6章1節)聖書の中にはこのところ以外にも「主(すなわち神)の目に悪とされることが行われた」という言葉が多く出てくるのですが、このところに書かれています主の目に悪であったこととはいったい何なのでしょうか。この士師記を読む時に、それはイスラエルの民達がバアルという神々に仕えたということが、主の目に悪とされたことであったということが分かります。バアルの神とは豊穣の神です。すなわち多産と豊作の神です。

イスラエルの民はもともとは遊牧民族だったのですが、彼らがカナンという場所に定住し始め農耕を始めますと、豊作と繁栄の神に心が惹かれていったのです。この事実はとても示唆に富んでいます。彼らが移住を続けている時にはなかった問題が、定住する時に、すなわち落ち着いて生活を始めると生まれてきたというのです。もちろん、今日私達は遊牧民ではありませんが、聖書、へブル11章13節にあるますように、一つ所に住んで いながら、この地上では旅人なのだ、寄留者なのだという心構えをもって生きるということは、実は私達の生活を様々な問題から守ることになっているのかもしれません。

多産であるように、豊作であるようにと、そのような欲と願いをもって神々を拝み始めますと、その社会は確実に一つの方向に向かっていくようになります。そうです、その社会はやがて豊かになること、数が増えること、強くなること、大きくなることが人にとって、社会にとって最も大切なものとなっていくのです。そのような社会では裕福な人、力がある人が尊ばれるようになり、皆がそのような人になることを願い求めるようになります(あえて言う必要もないかもしれませんが、このような願いや欲をもって祈り、拝む神々とは、私達の益のために担ぎ出されているものにすぎません)。

そして、そうなっていくということはこのイスラエルの民達がかつてはエジプトの奴隷であったこと、そのかつての身分から神様が憐れみによって救い出してくださったのだということを忘れ、これらの豊かさ、数の多さ、強さ、大きさというものに寄り頼んでいくことになるでしょう。このような状態に陥っていき始めているイスラエルの民に対して神様は何をしたのでしょうか。

神様はイスラエルを弱くしたのです。貧しくしたのです。危機的な状況に彼らを置かれたのです。そうです、神様はその具体的なこととして、イスラエルの民を「ミディアン人の手に渡された」と聖書は記しているのです。

このミディアン人は同じ遊牧民であるアマレク人と大挙して、イスラエルの民に襲来します。その彼らの様を聖書はこう記しています「イスラエル人が種をまいた時には、いつもミデアン人、アマレク人および東方の民が上ってきてイスラエル人を襲い、イスラエル人に向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの付近にまでおよび、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もロバも残さなかった。彼らが家畜と天幕を携えて、いなごのように多くのぼってきたからである。すなわち彼らとそのラクダは無数であって、彼らは国を荒すためににはいってきたのであった」(士師記6章3節5節)。このようにおびただしい数の敵の脅威に取り囲まれたイスラエルの民達について、今、読みました士師記6章の続きにはこのように書かれています「こうしてイスラエルはミデアン人のために非常に衰え、イスラエルの人々は主に呼ばわった」(士師記6章6節)。 彼らはここにきて繁栄の神ではなく、主に助けを求めたのです。ここに神様が願っておられたことの始まりがあります。彼らはミディアン人によって悩まされることにより、主に目を向け始めたのです。

皆さん、それまで色々なことがうまくいっていたというような時に、徐々に、あるいは突然、色々な問題が起きてくるというような経験を私達がします時に、後になってそれらを振り返りますと、その時に私たちは自分の思いがまず第一に神様に向かずに、自らの力で何とか成功しようということだけに向いており、神様のことを忘れていた自分の姿ということに気がつかされることがあります。そのような時に、神様は私達にもう一度、神様を思い起こさせ、そこに立ち返えさせるために、ミディアン人のような存在を私達に送ることがあるのです。実にイスラエルの民はそのために七年もの間、自分達の弱さ、貧しさというものを心に刻むことになったのです。

神様はそのような思いでイスラエルの民達に臨まれましたが、彼らをその苦境に置き去りになさることはせずに、彼らの叫びに答え一人のリーダーを選ばれました。彼の名前はギデオンといいます。今日、ホテルや病院等においてある無料の聖書にはすべて「ギデオン協会」からのドネーションであるという印刷がプリントされていますが、その名前もこのギデオンからきています。大挙して襲いかかってくるミディアン人から民を守るべく選ばれたリーダーですから、さぞかし勇ましい人を選ばれただろうと私達は思いますが、このギデオンはイスラエル民族が危急存亡の中にあった時、何をしていたかご存知でしょうか。

士師記6章11節にはこう書かれています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」

皆さん、情景が想像できませんか。酒ぶねに隠れるようにして背を丸め、ミディアン人を恐れ、ビクビクと辺りを見回しながら小麦を打っている彼の姿を。この男に対して神は御使いを用いて「大勇士よ!主はあなたと共におられます」と呼びかけたのです(士師記6章12節)。

そして彼に言われたのです「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアン人の手からイスラエルを救いだしなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」(士師記6章14節)しかし、ギデオンはその言葉に対してこういいました「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」(士師記6章15節)彼は自分の一族はマナセという部族の中で最も貧弱であり、その中の一家族の中でも彼は最も年下の者なのだというのです。

神様がギデオンを「大勇士」と呼んだのは、彼が強いからでも勇敢であるからでもありません。大事なのは、その呼びかけの後の一言です「主はあなたと共におられます」(士師記6章12節)。主が共におられるゆえに、彼は勇士となるのです。14節にありますように主は「わたしがあなたを遣わすのではないか」と語りかけていてくださるのです(士師記6章14節)。

このような会話は、私達には聞きなれたものです。そうです、かつて神様はモーセに語りかけました「わたしはエジプトにいる私の民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている・・・。・・さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導きださせよう」(出エジプト記3章10節)。それに対してモーセはこたえました「わたしはいったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」」(出エジプト記3章11節)。神は言われました「わたしはかならずあなたと共にいる」(出エジプト記3章12節)。

しかし、まだモーセは神様に弱音をはきます「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが僕に語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト4章10節)

主は彼に言われました、「誰が人に口を授けたのか。話せず、聞こえず、また、見え、見えなくする者は誰か。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」(出エジプト4章11節‐12節)

かつてエレミヤに主は臨まれて言いました「わたしはあなたをまだ母の胎につくらない先に、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」(エレミヤ1章5節)それに対してエレミヤは言ったのです「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(エレミヤ1章6節)それに対して神様は言われるのです「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。誰にでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(エレミヤ1章7節‐8節)。

彼らは神様から自分の力量を超えた使命を与えられた人達です。彼らはそれぞれがその語りかけに対してエクスキューズしました。はたして神様にとって、その彼らの返答は驚きであったでしょうか。いいえ、神様は彼らがその使命にあたる力量がないことを十分に承知していました。それを承知して、彼ら全てに神様は同じことを言われて励ましているのです。それは「わたしがあなたと共にいるから」という約束です。

もともと力のある者が、それなりの結果を残すときに人々は彼らの功績を褒め称えるでしょう。そして、彼らもそれは自分の力によったのだと思うようになるでしょう。ですから、神様の人選はいつもこうなのです。聖書で思いつく人達を思い浮かべてください。皆がこのような選びによって、選ばれ神様が彼らと共にいるゆえに彼らは驚くべきはたらきを成していくのです。

ギデオンは最初は弱気でした。しかし、遂に主が共にいるということを心に刻んで立ち上がりました。かの敵であるミデアン人、アマレク人が結束して今や彼らに近づいているのです。その総数たるや135000人だというのです(士師記8章10節)。太刀打ちできるような数ではありません。彼の心臓の音は人に聞こえるほどに激しく鼓動していたに違いありません。しかし、彼は主が共におられるということを信じて、多くの武将がするように、まずこの大軍に向き合うべきこちらの戦力を集め始めました。北から南から色々な部族をかき集めます。そしてやっと32000人が集まりました。しかし、それでもその数は相手の四分の一にすぎないのです。

しかし、そのような時に耳を疑うような言葉が神様から彼に語られます。「主はギデオンに言われた。『あなたと共にいる民はあまりにも多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアン人をわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と言うであろう。それゆえ、民の耳に触れ示して「誰でも恐れおののく者は帰れ」と言いなさい。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうちに帰った者は22000人あり、残った者は10000人であった(士師記7章2節‐3節)。

ギデオンが必死で集めた人達が三分の一以下となりました。しかし、それだけではないのです。さらに主は言われました「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて、この人はあなたと共に行くべきだと言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて、この人はあなたと共に行ってはならないと言う者は、誰も行ってはならない」(士師記7章4節)。こうして神様は民達が水辺に下った時、常に戦える用意をしながら水を手にすくってすすった者だけを残し、膝をついて水を飲んだ者は家に帰らせるようにギデオンに命じるのです。そして、このことで残された人の数はたったの300人。ギデオンが最初に集めた人の100分の一以下となりました。この数で135000人と戦うのですから、比率としては1人で450人を相手にすることになります。

ギデオンは当初、勇気をふりしぼってその使命を受け止め、神様が共におられるということを信じて、すなわち自分の力を見つめて肩を落とすのではなく、神様を仰いで、自分の出来る限りをもって、その大軍にあたろうとしたのです。この不完全ではありながら、神様に寄り頼んでいこうとする信仰ゆえに、彼は今日も信仰の勇者と言われているのです。

しかし、その彼の計画は全て神様の一声によって、ことごとく変えられていきました。ギデオンから言わさせてもらえば、神様が彼の計画を全て滅茶苦茶にしてしまったとさえ思われたかもしれません。なんでそんなことをするのですかということを思ったにちがいありません。

これらの常識を超えた出来事の理由はただ一つ、もし「あなたががんばって、がんばって、人をかき集めて、あなたが武具を備えて、あなたが民の士気を挙げて、この戦いを乗り越えたのならば、あなたの心は驕り、自分の手では勝ちとったと思うだろう。そして、それは結局のところ、かつて皆が寄り添っていた考えに逆戻りするだろう。すなわち、やっぱりモノを言うのは最後は数だ、富だ、力だ。それによって我々は勝ちを得たのだと。しかし、それでは結局、彼らはバアル崇拝の域から出ていないのです。彼らは再び、繁栄の神しか求めなくなるのです。

その三百人はどうしたのでしょう。彼らは夜中に三つの小隊に分かれ、ラッパと空の壷と壷の中にたいまつを灯させて、敵陣に近づきました。そして、一斉にラッパを吹き、携えていた壷を打ち砕き、『主のための剣、ギデオンのための剣』と叫んだのです。敵はこの奇襲攻撃により、大混乱に陥り、彼らは大声をあげて逃げ去ったというのです。かのいなごのようにおびただしい数の大軍は三百人の前に敗走したのです。

私達は今日、みてきましたところから何を学ぶのでしょうか。明らかに分かりますことは神様は私達がどのような生活を送っているかということをよく知っていてくださるということです。そして、その私達の歩みが今日のメッセージタイトルにもなっております「力・数・量への隷属」へとなっていくのであるならば、神様は私達の生活の中に、介入し、私たちが今一度、神様に目を向けるように導かれるということです。現在の私達にもミデアン人を送られることがあるということです。

そして、そのことが成される時に神様は徹底的に私達の力をそぎ落とすということです。その徹底振りは神様がギデオンという人を選んだという人選の中に、イスラエルの軍隊の人数の徹底的な減らし方の中に明らかに示されていました。私達は少しでも自分の力で、それが成されるのであるならば、すぐに私達はそれは自分の力によって成し遂げたのだという勘違いを起こすからです。しかし、このことは神によってなされ、私達が本当により頼むものは、力ではなく、数ではなく、量の多さではなく、神のみなのだということを神様は私達に示そうとなさっているのです。

皆さん、このようなことがかつてありましたというような心辺りはありませんでしょうか。いや、実は今、私はミデアン人と格闘していますという方もいるかもしれません。自分の力が全くそぎ落とされてしまいましたという方もいるかもしれません。それは、時にとても辛いことです。しかし、実はそのところから神様のみわざは始まるのです。私達が神様を信じ、その全能の力に寄り頼んでいく時、主は私達の思いもしなかったことをなしてくださるのです。お祈りしましょう。

本日のお持ちかえり                                         2010年6月20日

申命記6章1節には「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された」と書かれています。ここに記されているイスラエルの悪とは彼らが豊穣の神(多産と豊作の神)、バアルに仕えていたことを意味します。人が神々に豊穣を求めるということは、その社会がどのようなものになることを暗示していますか。

なぜ、神様は主の目に悪とされることを行ったイスラエルの民をミディアン人の手に渡されたのですか(士師記6章6節)。 そのことによってイスラエルの民は何を回復することができますか。

イスラエルの民の声に応えた神様は一人のリーダー、ギデオンを彼らのために立てました。ギデオンはどんな人でしたか(士師記6章11節)。ミディアン人からイスラエルを救うために彼を遣わすと神様がギデオンに言った時に、ギデオンは「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」(士師記6章15節)と応えました。なぜ、神様はこのような人を選んだと思いますか(Ⅰコリント1章26節-31節)。

上記の姿勢はモーセ(出エジプト記3章10節―12節、4章10節-12節)にもエレミヤにも通じます(エレミヤ1章5節―8節)。彼らに共通していたことは何ですか。

ギデオンが対峙していた敵の数は135000人だというのです(士師記8章10節)。それに対して彼は32000人を集めましたが、神様はそれを10000人に減らし(士師記7章2節‐3節)、最終的にはそれを300人に減らしました。私達には常識外れとも思えるこの神様の御心は何だったのでしょうか。

あなたは今日の礼拝メッセージから、神様のどんな個人的な語りかけを聞きますか?

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