「主の山に備えあり」
もし私達にこの信仰がありますとフッと肩の力がぬけます。なぜなら、何から何まで全てを自分の力でする必要がなくなるからです。神を第一として、その日にできることを精一杯して、あとは神に委ねて、仕えていくのなら、神自らが私達の必要を満たしてくださるのですから。
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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「主の山に備えあり」
へブル11章20節
信仰によってイサクはきたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
今日、お話ししたく願っている人はイサクという人です。このイサクは先週、お話したアブラハムと妻サラが26年もの間、待ちに待ってやっと与えられた神様からの約束の子供です。彼の父アブラハム、そして彼の息子エサウとヤコブの間にいるこの人は、彼らに比べますと際立った聖書記事はありません。しかしながら、このイサクからも私達は偉大なことを学ぶことができるのです。今日はそのあたりを見ていきたく願っています。
まず、このイサクには決して忘れることができない光景があったということを確認したいと思います。それはどんな光景であったのか、その出来事を記す聖書箇所を読ませていただきます。創世記22章1節‐8節をお開きください。
1これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。2神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。3アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。5そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。6アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。7やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。
彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。10そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、11主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
12み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
13この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。14それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
歯医者に行く人は必ずリクライニングのチェアーの上に寝かされます。そして、その時に私達の視点は普段と異なるものになります。すなわち、私達の視点は下から見上げるものになるのです。その時に、まず目に飛び込んでくるのは眩しいライトです。そして、私達の顔を覗き込む歯医者さんの顔です。このような状況に耐えがたい痛みなどが伴いますと、それは私達にとって忘れ得ない思い出となります。
この記事によりますと、イサクもこの時に祭壇のたきぎの上に縛って寝かされたようです。そして、その彼に向かい、父アブラハムが剣をもって近づいてくるのです。いよいよ、その剣を振り上げる。その時、イサクが目を開けていたのかは、分かりません。しかしながら、このような出来事を忘れてしまうことはないでしょう。それは一部始終、生涯、彼の心に刻まれたに違いありません。
そのアブラハムが剣をまさしく降り下げようとした時に、神様は彼に声をかけられました「アブラハムよ、アブラハムよ、わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。そして、アブラハムは角をやぶに掛けている一頭の雄羊を見つけたというのです。彼は息子イサクの変わりにこの雄羊を燔祭として捧げたのです。この出来事は多くの人達の知ることになったのでしょう。ですから、人々はこのことをして「主の山に備えあり」という言葉を互いに言い合うようになったというのです。イサクも人々から「あなたが“主の山に備えあり”のイサクですか」と言われたに違いありません。
そして、それは当時だけの話しではありません。もう10年も前に三浦綾子さんのご主人である三浦光世さんがサンディエゴに来られた時に、色紙に書いてくださった言葉もこの言葉で、今もそれは私達のリビングルームのテレビの上に飾られています。私達の多くにとってもこの言葉は身近なもので、生活の時々に、神様は私達の必要を知っておられるお方であり、最も必要な時に、それを備えてくださるということを信じて、日ごとに起きる出来事に向きあって生きています。
同じように、イサクもこの出来事から何年も経って、家庭をもち、どんな人間も直面するように人生の色々な問題に直面するようになりました。そして、今日、見ていこうとすることも彼が直面したチャレンジの一つでした。創世記26章12節‐23節を読んでみましょう。
12イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、13彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、
14羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。15またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。 16アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。 17イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。 18そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。19しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、20ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。21 彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナと名づけた。22イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。 23彼はそこからベエルシバに上った。
この所には何が書かれているかと言いますと、イサクを神様が祝福したということ、そして、彼はそのことによって妬まれ、一つの土地を去っていくことになること、行く先々でまずその土地で暮らすために必要な井戸を掘るのですが、掘る度にクレームやら争いが起こり、その度に彼はそれらの申し出に対して争い、相手を打ち負かすというようなことをせずに、自らがその土地を離れて別の場所に移って行ったということです。
聖書は私達とかけ離れたことを話しているのではありません。ここで家畜や井戸の話が書かれていますが、それらを自分の功績とか、会社とか、役職とかと置きかえれば、また家庭の色々な状況にあてはめれば、私達にも思い当たることが大いにあるでしょう。
庭先にスイカ大の穴一つを掘るのに「腰を痛めた」と言っている私たちにとって、深い深い井戸を掘るということの労働というものがどれほど大変なものだったのだろうかと思います。しかし、イサクは井戸が争い奪われても、また別の井戸を掘りました。この個所の文脈で想像できますことは、彼がせっかく堀った井戸を争った際に、おそらく、それを求める者に彼は最終的に譲ったであろうということです。
そんなイサクをずっと見ておられた神様はその晩、イサクに語られました(創世記26章24節―25節)。「24その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。25それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクの僕たちはそこに一つの井戸を掘った」。
神様はせっかく掘り当てた井戸が奪われてしまい、移住が続く不安定な彼の生涯に対して、「恐れるな」とイサクを励ましたのです。彼がおちいった出来事を人間的に見ると、なんとも惨めな、敗北者のようにも思えますが、そんな時にイサクの心の中にはどんな思いがあったのか。彼はきっと、これら一つ一つの出来事に対して、自ら一切を神様に委ねること、そして、そのことに対して神様が必ず良きに導いてくださるという信仰があったのではないかと思うのです。そして、その信仰はある出来事からきていたに違いありません。どんな出来ことでしょうか。
そうです、それはあのモリヤの山の出来事です。父、アブラハムが自分を神に生贄として捧げるように、モリヤの山に登って行った時、自分の上にまさしく刃物が振り落とされようとした時に、神様はそれに代わるものを全て十分に備えていてくださったということを。イサクの心には雄羊がその角を藪にかけていた、そして、その雄羊を父アブラハムが神に捧げている光景が鮮明に浮かび上がってきたに違いありません。主の山に備えありということを彼は自分の命をかけて知りましたから、自分のみならず、その家庭の命がかかる諸々の出来事に対しても、確信があったのでしょう。たとえ、何を奪われたとしても、何を失ったとしても、主が最善を備えてくださるに違いないと。
皆さん、もし私達にこの信仰がありますと、私達はフッと肩の力がぬけます。なぜなら、何から何まで全てを自分の力でする必要がなくなるからです。神様を第一として、その日にできることを精一杯して、あとは神様に委ねて、仕えていくのなら、神様が私達にその手の伸ばしてくださるのですから。
私達はあたかも神様が存在していないかのように、自分の努力に100%かけて猛進していることがありませんか。確かに何もしないというのは問題ですし、聖書はそれがよろしいとは言っていません。しかし、私達の果てしない努力と引き換えに私達は神様により頼むことを忘れていることはないでしょうか。「主の山に備えあり」という信仰を見失ってしまい、あれもこれも抱えて、背負って、その山に登ってはいませんか。
実際にこのイサクに対して神様はイサクが思いもしなかったようなところへと導かれました。26節以降にこう書かれています。
26時にアビメレクがその友アホザテと、軍勢の長ピコルと共にゲラルからイサクのもとにきたので、27イサクは彼らに言った、「あなたがたはわたしを憎んで、あなたがたの中からわたしを追い出されたのに、どうしてわたしの所にこられたのですか」。28彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。29われわれはあなたに害を加えたことはなく、ただ良い事だけをして、安らかに去らせたのですから、あなたはわれわれに悪い事をしてはなりません。まことにあなたは主に祝福されたかたです」。30そこでイサクは彼らのためにふるまいを設けた。彼らは飲み食いし、31あくる朝、はやく起きて互に誓った。こうしてイサクは彼らを去らせたので、彼らはイサクのもとから穏やかに去った。32その日、イサクのしもべたちがきて、自分たちが掘った井戸について彼に告げて言った、「わたしたちは水を見つけました」。 33イサクはそれをシバと名づけた。これによってその町の名は今日にいたるまでベエルシバといわれている。
これはイサクにとって考えもしない、思いがけないことでした。「時に」と言う言葉でそれは始まっていますが、つまり、25節までと26節の間には時の流れがありました。それが一年だったか、5年だったかは分かりませんが、しかし、ある程度の年月が流れた後のことだったのでしょう。
かつて自分とその一族を追い出したぺリシテの王、アビメレクとその仲間達がイサクのもとに来たというのです。かって自分を迫害した者が何しにきたのか。イサクは彼らに言いました「あなたがたは私を憎んで、あなたがたの中から、わたしを追い出されたのに、どうしてわたしの所に来られたのですか」
それに対して彼らはこう答えたのです「我々は主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、今、我々の間、すなわち我々とあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。我々はあなたに害を加えたことはなく、ただ良い事だけをして、安らかに去らせたのですから、あなたは我々に悪いことをしてはなりません。まことにあなたは主に祝福された方です」。
彼らの口から出た言葉は「我々は主があなたと共におられるのをはっきりと見ました」ということでした。つまり、彼らは自ら追い出した者たちが、またゼロから新しい地で生活を始めた、色々井戸のことでもめている事も見聞きしていたにもかかわらず、時がたつにつれて、彼らは、神がイサクを常に祝福し、神がイサクと共にいるということを認めたのです。
詩篇84篇11節には私達にとって大きな慰めとなる約束が記されています「主なる神は日です。盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです」ここで神様は良い物を拒まれることはないといわれている。しかし、その対象はある人に限るという。それは「直く歩む者」です。
イサクは悪に対して善でそれに打ち勝ちました。そして、それは神によみせられることでした。ゆえに、かっての敵とも言える、仇とも言える者たち自らが、彼のもとに来て、「主があなたと共におられるのを、はっきりと見ました」と言ったのです。皆さん、これはおそらく神を信じる者がなしうる最高の生き方ではないでしょうか。彼らはイサクを不遇へと導いた人達であり、その後の諸々の試練をも知りつつも最後には「まことにあなたは主に祝福された方です」と彼らに言わしめたのです。
皆さん、私たちの平凡な、時に忍耐の必要な日常生活は、ここにいたるまでの地道な一歩一歩なのかもしれません。イサクは妬まれ、疎まれても、神を仰いで歩みました。求めてくる者と争わずに、それらを与えました。イサクはあのモリアの経験を通して、神様はいかなる時にも神を信じ、心からその神に従う者の必要を備えていてくださるということを知っていたからです。否、備えるばかりか、それを私達の思いを超えたことによって祝福してくださるということです。
皆さん、どうでしょうか。私達の日々の生活にも色々なことが起こります。自らの思い通りにいかないことは多いでしょう。特に他者との関係というようなことにおいては、「自分の心」と「相手の心」は異なるものですし、相手の心をコントロールすることはできませんから、色々な問題や葛藤が起きてきます。そのようなう時に、私たちの姿勢はいかなるものでしょうか。イサクのように自分であれこれ、全てを解決しようとするのではなく、神の前に直く歩むことだけを考え、神様が解決して下さるその最善の方法に寄り頼んでいるでしょうか。
イエス・キリストはヨハネ14章27節において「わたしは平安をあなたがたに残していく。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」と言われましたが、イエス様がここで言われている「平安」とは、「自分の力ですべての事を備えました、だから大丈夫です」というようなことからくる平安ではありません。もし、そうであるならば、その平安は日々の状況の変化と共に、揺れ動くことでしょう。しかし、イエス様がこのところで世とは異なると言われた平安とは、人々に「主の山に備えあり」と言わしめた神様により頼んで生きていくところからくる平安のことなのです。お祈りしましょう。
本日のお持ちかえり
創世記22章1節‐8節を読みましょう。あなたがアブラハムだったら、このか場面でどうしますか。あなたがイサクだったらどうでしょうか。3節にはアブラハムが「朝早く起きて」イサクを捧げるべく出かけたと書かれています。なぜ、アブラハムは神様のこのような命令に即、従うことができたのでしょうか。
まさしくアブラハムが刃物を振り上げた時に、神様の声がかかりました(12)。そして、アブラハムの前には神様が備えていてくださった一頭の雄羊がいました。あなたはマタイ6章33節にあるように、神様を第一として従ったゆえに、必要が満たされ、祝福されたということがありますか。
創世記26章12節‐23節を読みましょう。ここにはその後に成長して家庭をもったイサクが体験したことが記されています。あなたは、ここに記されているような理不尽な経験をしたことがありますか。そのような時、あなたはどのようにその問題に対処しましたか。イサクはどう対処しましたか。
なぜ、イサクはこのところで相手を打ち負かして、納得させるようなことをせずに、かえって自ら身を引いたのでしょうか。イサクの心にその時あった信仰はどんなものだったでしょうか、かつて彼が命をかけて「主の山に備えあり」ということを体験したことは、この時の彼の言動に影響したと思いますか。
このイサクに対して、驚くべきことが起きました。(創世記26章26節―33)。なぜ人々は28節に「我々は主があなたと共におられるのを、はっきり見ました」というような思いにいたったのだと思いますか?私達が「主の山に備えあり」という信仰にたっていく時に、私達の日々の生活はどのように変わっていくでしょうか。