「私はこれから年を取って、どこに行くのだろう」「終ぞの住処はどこなのだろう」「私達は、私達夫婦は、私達親子は、これからどこに向かうのだろう。その行く手には何が待ち構えているのだろう」「いつ、たどり着くのか」「いつ、それが起きるのか」「いつ、この試練は終わるのか」「いつまで待てば、報われるのか」「なぜ、私はこのような目に遭うのか」「なぜ、あの人は変わってしまったのか」「なぜ、自分ばかりがこうなのか」
こんな問いかけに対する答えをお持ちですか?
マック
今日、お話しましたメッセージです。
よかったらどうぞ(生放送はただ今、準備中です)。
2010年4月25日
「どこへ・いつ・なぜ」に対する答え
へブル人への手紙11章8節-20節
8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。11信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。 13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 17信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。18この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。20信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
私達はヘブル人への手紙11章に記されている信仰に生きた人達を一人一人、見ています。その中から今日はアブラハムという人について見ていきたく願っています。私達は一言でアブラハムといいますが、聖書は多くのページをこの人に割いており、とても一回の礼拝メッセージでは語りつくせないのですが、今回、どうにか彼の生涯のポイントというものをまとめました。願わくば、今朝、生まれて初めてこのアブラハムという名前を聞いたとい人も、このメッセージを通して彼が歩んだ生涯に自身の人生を重ね合わせることができたらと願っています。
新聞記者がその記事を書く時に、必ず心がけることがあります。それは、取材対象の出来事は「いつ」「どこで」「なぜ」起きたかということであり、これらのことが失われた文章は記事となりえません。なぜなら、これらのことは、その記事を読む読者達がまず知らされるべき情報だからです。
そして、それは新聞記事に限らず、私達自身に起きる事柄についても私達は常にこれらのことについて、常日頃から知りたいと願っている者なのです。そのことは、今日、お話しますアブラハムの生涯においても同様でした。彼もその生涯において「いつ」「どこ」「なぜ」ということに対して考え、悩み、生きた人なのです。まず、最初にその彼の「どこへ」ということを見てまいりましょう。
「どこへ?」
アブラハムの生涯はまず創世記12章から始まります。「1時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。4アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった(創世記の12章1節‐4節)。
そして、このことについてヘブル人への手紙11章8節には「 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」と記しています。
アブラハムがその年75歳の時に神様は「わたしが示す地に行きなさい」と言われました。しかし、その時、具体的な地名は明かされず、アブラハムはそれが「どこ」なのかも知らずに出て行ったのです。
先日いただいた休暇中にデスバレーを訪れました。長男と長女はどこに行くのか分かっているのですが、末っ子はどこに行くか分からずに車に乗っているのです。なんともお気楽なものです。しかも、既にその公園に着いて、その園内にいるのに相変わらず「どこに行くのか」と聞いてくるのです(子供と旅行に行く時にはこの辺りが理解できる年になってからでないと、脱力感にみまわれます)。
普通、これが私達でしたら、ミステリー・ツアーじゃありますまいし、どこに行くのか知らされずに、車中に何時間も乗せられているということは不安ですし、耐えられません。しかし、実際のところ、このようなことは私達も体験するのです。私の母は私を韓国で生んでくれましたが、直後に夫、すなわち私の父を亡くしました。私は幼く、その時当然、何も分かりませんでしたが、異国にて乳飲み子を抱えて、彼女の心に去来した思いはまさしく、「これからどこへ」という思いであったに違いありません。
そして、それは彼女のみならず、皆さんも人生のどこかに体験なされた、もしくは今、体験なされていることではないでしょうか。ですから、この「どこへ」という問いかけは時代を超えて、私達が共有するものです。「私はこれから年を取って、どこに行くのだろう。終(つい)ぞの住処はどこなのだろう」。「私達は、私達夫婦は、私達親子は、これからどこに向かうのだろう。その行く手には何が待ち構えているのだろうか」ということを考えます時に、私達は漠然とした不安に包まれてしまうことがあり、夜も眠れなくなることがあります。
日本に行きますと、あちこちに「占い師」がいるのを見かけます。私はそこで話を聞いている人達を横目に「冗談で楽しんでいるんだろ」と思っていたのですが、実際のところ、皆、真剣らしいのです。彼らは例外なく、占い師にこう尋ねます。「私の将来は、どうなるのでしょうか」。それはすなわち、私はどこに向かって歩んでいるのでしょうかということです。このことは人間の本質的な問いであり、私達の不安の根本原因です。アブラハムもまずこの「どこ」ということについて、それが全く見当もつかない状況に置かれていたのです。しかし、彼はとにもかくにも信仰をもって、その一歩を踏み出したのです。
二つ目のこと。それは「いつ」ということです。
「いつ?」
どこに行くか分からずとも、信仰とともに歩みだしたアブラハムとサラに神様は一つの約束を与えました(創世記13章14節‐17節)。
「14目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。15すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。16わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。17あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
アブラハムとサラは年老いていました。そして、子供はいませんでした。しかし、神様のこの言葉は明らかに彼らに子孫が与えられる、そして、その子孫が地のちりのように増え広がるという約束がなされています。そうです、この後にも創世記は神様が度々、彼らに子供が与えられるということを語っていることを記しています。
しかし、ここで一つのことが分かります。それは、彼らは当初、その子が与えられる時が「いつ」なのかということを知らされていなかったということです。皆さん、子が宿ったと分かった時、すなわち女性が妊娠したと判明した時、私達はその子が生まれる予測がたちます。しかし、この時のサライは妊娠もしていない、実際にいつ、その子が生まれるのか分からない。一年後か、一年が過ぎる。何もない。五年後か、五年が過ぎる。何もない。その「いつ」は結局24年もの間、きませんでした。私達は24年後に起きることについて、あまり誰彼と約束はしません。しかも、それが子供が与えられるなどということに関してはなおさらです。
再び、先ほどのデスバレーへの道のりです。ラメサの牧師館を出てからエスコンディドあたりに来ますと、末っ子が「もう着くか、。いつ着くのか」と聞いてきます。またしばらくすると、今度はタマキュラあたりで、「もう着くか。いつ着くのか」と聞いてきます。そんな所からその質問にはつきあっていられないので、私達も適当に受け流しますが、定期的にその質問はなされ、それは実に目的地に到着するまで、到着しても続きました。
そして、それは子供のみならず、私達も常に「いつ、たどり着くのか」「いつ、それが起きるのか」「いつ、この試練は終わるのか」「いつまで待てば、報われるのか」。と自らに問いかけることがあります。しかし、その「いつ」には明確な答えが与えられないことがしばしばです。
このことはアブラハムとサラにとっても、とても大変なことのようでした。数ヶ月ならまだしも、待てど暮らせど、その日はこない。彼らは日ごとに老いていく。当然、そこには苛立ちや焦りというものが出てくることでしょう。しかし、彼らは信仰をもってその時を待ち続けました。
そして、いよいよ彼らに「その時」がきました。妻サラは男の子を産み、その子をイサクと名づけました。彼らはどんなにか嬉しく、喜んだことでしょうか。その成長をどんな思いで見守ったことでしょう。しかし、ある時、神様はその一人子を犠牲として捧げるようにと言われるのです。犠牲として捧げるということは、このイサクの命を捧げるということで、アブラハム自らが彼に対して刃を向けるということを意味しました。ここにおいてアブラハムはさらなる自問をするようになります。それが三つ目の問いかけ、「なぜ」という問いかけです。なぜ、神はそのようなことを言われたのかということです。
「なぜ」
くどいようですが、最後までけじめをつけましょう。私達が目的地であるデスバレーへの道中、末っ子は車の中で相変わらず色々な質問をしました。私達は彼にデスバレーに着いたら、塩の平原や砂丘があるよと話しました。そうしましたら、こう聞いてきました「そこで何をするの」。「・・・・」あまりにも本質的、かつ酷な質問で、それを聞いてくれるなという質問です。別にそこでゴザをひいてお弁当を食べるわけでもないし、野球をするわけでもない。ただ行って、その景色を見るだけなのですから。彼の問いの言い方を変えれば、それは「なぜ、そこに行くのか」という質問です。
私達は常に「なぜ」という質問と共に生きる者です。「なぜ、私はこのような目に遭うのか」「なぜ、あの人は変わってしまったのか」。「なぜ、自分ばかりがこうなのか」。その「なぜ」のいくつかに対して、私達は解答を得ますが、多くの場合、そのなぜということに対しても、私達はその答えが分からずに年月を重ねます。
アブラハムもきっとなぜ、神様が約束して、そして与えてくださったイサクをなぜ今度は捧げろというのか、分かりませんでした。しかし、彼はその「なぜ」を傍らにおいて、信仰によって、イサクを実際に捧げようとするのです。
皆さん、これまでアブラハムは「どこへ」「いつ」という問いかけに明確な答えをもたずとも、彼は信仰をもって受け止めてきたとお話しました。しかし、実は彼はこれらのことに対して多くの失敗をしていました。そうです、信仰をもって立ち上がりながら、常にそれは不信仰との間を行き来するものでした。彼は「どこへ行くのか」ということを知らずに、確かに信仰をもって歩みだしたのですが、その行った先では、自分の命を救うために妻を自分の妹だと偽ったり、わが子が「いつ」与えられるのか分からないことへの焦りと不安から、自分に仕えている女性によって子を得たりしました。このようなことは言語道断、言い訳のできない失敗です。
しかしながら、それらの失敗を通りながら、彼は最後の「なぜ」という問いかけに対しては、それが彼の生涯おそらく最も痛みの伴う問いかけであったと思われるのですが、それに対して不信仰を封印し、すぐにその翌朝早く、愛するわが子を捧げるべく、たきぎと火と刃物とをとって、神様が示された山に向かうのです。なぜ、彼はそうすることができたのでしょうか。
おそらくそれは、彼のそれまでの人生において「どこへ」「いつ」という問いかけを彼自身、背負いながら、時には模範的な信仰姿勢をあらわし、時には目をふさぎたくなるような不信仰をもちながら歩んできたその人生において、彼が学び、教えられて、最後に行き着いたことであったのではないかということです。彼が行き着いたこと、それがなんだかお分かりですか?
それは「どこへ」「いつ」「なぜ」に続く四つ目の問いかけに答えることです。それが何だかお分かりになりますか。それは「誰と」ということです。すなわち、アブラハムは「自分は誰と共にこれまで生きてきたのか」ということをその生涯を通して知ったということです。
有名な詩篇23篇4節「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません」というダビデの言葉があります。この詩の驚くべきことは、「死の陰の谷を歩む」ということを否定していないことです。人は必ずやそのような時を通ることがあるというとても現実的な言葉です。
先日も70歳になろうとする牧師のメッセージを聞いていたのですが、その牧師が言っていました。「だいたい10年ですね、10年に一回は必ず、もう今度だけは駄目だと思われることが起きる。これまでがそうだった」。皆さん、覚えてください。死の陰の谷のような場所を歩むことは牧師であろうが、誰であろうが、起りうるものです。「私の苦労に比べて、あの人は」と人は思いがちですが、その方がいう「あの人」がとてつもないものを背負っていることは大抵、誰も知りません。誰もが「死の陰の谷」を歩むことがあるのです。
しかし、ダビデが偉大なのは(ダビデ自身もアブラハムと同じように様々な人生経験をしてつかみとったことなのだと思うのですが)、彼はたとい自分が導かれる場所が死の谷であり、その死の谷を歩まなければならない時というものが「いつまで」か分からずとも、「なぜ」その死の谷を歩まなければならないのかが分からずとも、私は災いを恐れないというのです。なぜか、なぜなら、あなたが共におられるから、すなわち、神よ、あなたが自分といてくれるからだと彼は言うのです。
今日、私達はアブラハムを「信仰の父」と呼びます。この彼に対する呼び名は、キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も共有するものであると思います。しかし、彼が「信仰の父」と呼ばれるまでに、彼は多くの不信仰を体験してきました。その不信仰による失敗から、彼はまことに神は自分の近くにおられるから大丈夫、それをつかんでいる限り大丈夫という確信が与えられていったに違いありません。
皆さん、私達も実際、「これからどこへ行くのだろう」「いつ起るのだろう」「なぜ、こんなことが」というような自問に日々、向き合うものです。そして、誰しもアブラハムのように、それを信仰をもって受け止める時もあれば、時には不信仰になり、自分の力でどうにかしようとして、状況を悪化させてしまうこともあります。私自身、そのようなことを思い起こせば、たくさんの失敗があります。しかし、いかがですか。それらのことを体験しながら、私達は今、一つの結論にいたりつつないでしょうか、あるいはいたってはいないでしょうか。そうです、それは、そのような自問の日々の中にも神様は私達と共におられたということです。
最後です。今日、お話してきました「どこへ行くのか」「いつ着くのか」「なぜ行くのか」と問い続けた末っ子ですが、彼はそんな質問に答えを得ることができませんでした。もっといいますと、私なりに確かに答えているのですが、彼には理解できませんでした。しかしながら、彼はそれらを知らずとも、車中を楽しみ、時にはスヤスヤと眠っているのです。「どこへ」、「いつ」、「なぜ」が分からずとも、うきうきしているのです。なぜだか、分かりますか。彼は一人ではないからです。それらを知らずとも彼には一つの確信があったからです。それだけは彼には確かでした。それは同乗している彼の家族は、その旅路において彼をどこかに置き去りにすることはなく、彼を決して一人にすることはなく、常に共にいるということを彼は知っていたから、彼にはそれだけで十分だったのです。そして、同じことを聖書はイエス・キリストの言葉、すなわち「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)という言葉によって約束しているのです。
おそらく、神様はこれからも私達の「どこへ」「いつ」「なぜ」という問いかけに対して全てに答えを与えてくださることはないでしょう。しかし、たといそうであっても、一つのことを知っている限り、私達はこれらのことを乗り越えていくことができます。驚くべきことに、そこに笑み、喜び、感謝さえももちながら、乗り越えていくことができるのです。それは、私達が誰と共に生きているかということです。
イエス・キリストが天に帰られる時に「これから私の教えを広げるために当座、必要な金銭を残していく」とはいわれませんでした。「やがて起る迫害に打ち勝つことができるように十分な武具を残していく」とも言われませんでした。
イエス様が残された約束は一つ。それは何でしたか?「みよ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。なぜ、キリストはこの短い一言の約束しか残さなかったか、今日のメッセージによって、お分かりになられたと思います。
今朝、主はあなたと共にいます。否、これから、世の終わりまで、たとえその最後の時に誰一人、私達と共におらずとも、主は共におられるのです。お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
2010年4月25日
1)創世記12章1節‐4節を読みましょう。この出来事を補足しているヘブル11章8節も読みましょう。変化よりも安定を求めるような高齢になってから、行く先を知らずに出て行ったアブラハムの心境はどんなものだったかと思いますか。あなたは行く先の分からない道のりを歩むことが出来ますか。「このことは、どこへ向かっているのだろう」と考えたことがありますか。その答えは与えられましたか?
2)創世記13章14節‐17節を読みましょう。このところにはアブラハムと妻サラには子供が与えられるという約束がなされていますが、それが「いつ」なのかは言及されていません(実際に彼らに子供が与えられたのは最初の約束から24年後のことでした)。アブラハムとサラはその間にいつも信仰を保ち続けたと思いますか。あなたは「いつ、たどり着くのか」、「いつ、それが起きるのか」、「いつ、この試練は終わるのか」、「いつまで待てば、報われるのか」と自らに問いかけたことがありますか。その答えは与えられましたか。
3)創世記22章1節-8節を読みましょう。そこにはアブラハムの生涯で、おそらく最も痛みの伴う「なぜ」という問いかけがありました。あなたがアブラハムならどうしますか。あなたは「なぜ、私はこのような目に遭うのか」、「なぜ、世界にはこのようなことが起こるのだろうか」、「なぜ、自分ばかりがこうなのか」等、「なぜ」という質問を自らに問いかけたことがありますか。その答えは与えられましたか。
4)詩篇23篇の記者ダビデは4節において「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません」と言っています。私達は今日、どんな谷を歩むことがあるでしょうか。なぜ、ダビデは「死の陰の谷」を歩むことを恐れないと言っているのですか?たとえあなたが「どこへ」「いつ」「なぜ」という問いかけに対して明確な答えが与えられずとも、私達が(喜びすらもって)前に進むことができるとしたら、その理由はどこにあると思いますか(詩篇23篇4節の後半、マタイ28章20節)?