神の言葉を携行していますか?      

坂本竜馬は有名な匠によって作られた陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)という刀を常に携帯していました。彼は北辰一刀流の免許皆伝をもつ人でしたから、ちょっとやそっとじゃやられることはありません。しかし、1867年の12月10日の晩、京都の近江屋というところで中岡慎太郎と共にいるところを襲われ、刀で額を割られ絶命しています。なぜ剣の達人がやられてしまったのでしょうか。その晩に限って彼らは刀を傍らに置いていなかったということが後に分かっています。もし刀が竜馬の傍らにあれば、彼は明治維新を迎え、さらなる活躍をしていたことでしょう。

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今日、礼拝でお話したメッセージです。

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神の言葉を携行していますか?                            2010年2月21日                              エペソ6章10節-20節

10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15平和の福音の備えを足にはき、 16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

今、NHKのドラマで「竜馬伝」が放映されているということもあり幕末の志士、坂本竜馬という人が注目されています。彼は幼い頃は落ちこぼれだったのですが、やがて頭角をメキメキと顕し、遂には江戸にある千葉道場にて北辰一刀流の免許皆伝を取ります。そんな彼にこんな逸話があります。

当時、竜馬の出身である土佐の侍の間では長い刀をさすことが流行していました。ある時、そんな郷里の仲間が龍馬に会いました。その時、龍馬は短めの刀を差していました。長い刀について自慢げに話す彼らに対して竜馬は「実戦では短い刀のほうがいいぜよ」と言いました。納得した彼らは短い刀を差すようになり、再び竜馬に会った時に、喜んでその短い刀を見せました。すると龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前に刀は役にたたんぜよ」と言いました。彼らは次に銃を買い求め、また竜馬に会いました。すると竜馬は洋書の万国法(国際法)を取り出し「これからは法が世界を治める時代ぜよ」と言いました。これは龍馬に関するエピソードであり、史実とは断言できないようですが、竜馬の柔軟さとその先見性を的確にとらえています。

そしてこの逸話は人の歩んできた変遷というものをあらわしています。すなわち人の歴史はその初めから、力、この場合は腕力・武力ある者によって牛耳られてきた歴史であり、剣の力によって作られてきたものだということです。それが徐々に武力ではなく話し合い、取り決められた法律や条約によって事を解決する方向に向かうようになったのはそんなに昔の話ではありません。と同時に今でも武器が剣から銃、そしてミサイルに変わり、同じ事を私達は繰り返しています。

イエス様の時代というのは、現代と比べたら遥かにそんな文言(もんごん)よりも武力というものが力を持っていた時代でした。その只中である日、イエス・キリストはとても大切な真理を語りました。その時、自分の弟子の一人が興奮して、彼を捕らえにきたローマ兵の耳を剣によって切り倒してしまったのです。その時にイエス様は言われました「あなたの剣をもとのところにおさめなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)。もし、私達がこの言葉をしかと心に刻み込み、この言葉と共に生きてくることができたなら、イエス以降、今日までの2000年間に私達は剣による犠牲者の数を減らすことができたことでしょう(実際、それは成しえませんでしたが)。

ですから、今日開いております「剣」に関しても、それは文字通り、金属でできた剣ではないということがわかります。もし、仮に私達が文字通り剣で悪の力と戦うとするならば、イエスが言われたように、たとえしばし優勢な状況を勝ち得たとしても、やがて私達は剣で滅びてしまうことでしょう。それゆえに、ここでいう剣とは御霊の剣、すなわち聖書の言葉だと書かれているのです。ここから幾つかのことを見ていきましょう。まず最初に「み言葉による戦い方」ということです。

み言葉による戦い方

今まで私達は「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の靴」「信仰の大盾」「救いの兜」というものを見てきました。そして、お分かりのようにこれらのものは全て自らを守るものです。何一つ、それらをして相手に一撃をあたえるものはないのです。そのような意味で、今日みております「御霊の剣、すなわち神の言葉」だけが攻撃に用いる武具なのです。私達はいかにして聖書の言葉によって勝ちを得るのでしょうか。

このことのために完全な模範となってくださるお方がいます。イエス・キリストです。イエス様ご自身が神の言葉を御霊の剣として用いられたのです。マタイの福音書4章を読みましょう。

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。2そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。3すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。5それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。11そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

あえて説明するまでもないと思います。イエスは四十日四十夜の断食を終えて空腹を感じていました。そのイエスにまず最初に悪魔は「もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(3)と言いました。この言葉は自分の肉の欲を満たすことを優先して生きていけばいいではないか。そして、同じ方法で世界中の人間の空腹を満たしてあげれば、お前は多くの人達に崇められるであろうという誘惑です。しかし、イエス様は聖書の申命記第8章3節の言葉をそのまま引用して「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と答えました。

次に悪魔はイエスを聖なる都にある宮の頂上に立たせて言ったのです「もし、あなたが神の子であるなら、下へ飛び降りてごらんなさい」(6)。これは自分の力を誇示して生きてみろということです。そうすれば、人はあなたの力を賞賛し、あなたについてくるであろうという誘惑です。この時、悪魔も聖書を引用してたたみかけるように言ったのです「『神はあなたのために御使い達にお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手で支えるであろう』と書いてありますから」(6)(詩篇91篇11節ー12節から引用)。しかしながら、イエス様は聖書、申命記第6章16節の言葉を引用して答えました「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある」(7)

最後に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とをみせて言いました。「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(9)これは所有欲に対する誘惑であり、それによって全てのことはあなたの手中にあるのだということを訴える言葉です。これに対してイエス様は聖書、申命記第6章13節の言葉を引用してサタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(10)と応えました。そして、これら三つの試みの後に悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使いたちがみもとにきてイエスに仕えました。

このところで冒頭、イエス・キリストは御霊によって、すなわち聖霊によって荒野に導かれたというのです。なぜ、荒野なのか。聖書は「悪魔に試みられるためである」(1)とその理由を記しています。

これらの言葉は読みすごしてしまいそうですが、とても興味深いものです。イエスは自ら悪魔の試みに合うために導かれるままに荒野へと行かれたということです。なぜ、あえて悪魔の試みに合うことを良しとされたのでしょうか。

親熊は小熊に餌のとり方を教えます。教えるということはどういうことかと言いますと、自分が餌を取るところを小熊に見せるということです。これは子育てをする多くの肉食動物たちの中に見られる光景です。同じく私達人間も多くのその言動を、誰かの模倣によって獲得します。

イエス様は自らのオリジナルの言葉をもって、この悪魔の誘惑に勝つことができたと思います。しかし、イエスはあえてそうしなかったのです。なぜですか、「神の言葉」によって、悪の力に勝つということはどういうことなのかということを具体的に私達に示すためです。皆さん、神の言葉という剣の使用方法、お分かりになりましたでしょうか。二番目のことをお話しましょう。それは「み言葉を磨いていますか?」ということです。

み言葉を磨いていますか?

私達は今、イエス・キリストによって御言葉による戦い方というものを見てきました。そこではっきりとしましたことは、イエス様が聖書の言葉をもって、悪魔に打ち勝ったということです。その時にイエスは確かに聖書の言葉を持っていたということです。必要な時に、イエス様はすぐにその剣を抜くことができる備えができていたということです。

これらのことに対して、旧約聖書に興味深い記事があります。Ⅰ サムエル13章19節-22節を読みましょう。

19 イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。 20 それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。21 鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。22 戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。

当時、イスラエルには、どこにも鍛冶屋がなかったとここには記されています。私が幼い頃住んでいた教会の側に鍛冶屋がありました。今、鍛冶屋を見かけることはほとんどありませんが、そんな昔ながらの風景を見ることができたことは幸いなことだったと思います。中ではオレンジ色に熱く燃えている金属を、おじさんがトンカチのようなものでたたいていました。

イスラエルの鍛冶屋は剣や槍を作る場所でした。それがイスラエルにはなかったというのです。なぜでしょうか?なぜならヘブル人の敵となるペリシテ人が、彼らに剣や槍を作らせないためでした。彼らに武器がないということは彼らに力がないことを意味しました。武器がないということは、戦う力がないということを意味しました。ペリシテ人にとってそんなに都合のいいことはありません。

今日、見ておりますように「神の言葉は剣」なのです。剣は戦いに間に合うように常に打ち直され、磨かれていなければ何の役にも立ちません。同じように私達も「神の言葉なる剣」をイエスがなさったように、常に心に持ち、必要とあらば、いつでもそれを抜いて戦うことができるように備えていなければなりません。

具体的にはどんなことなのでしょうか。それは、私達が常に聖書の言葉に接することであり、それをもってコツコツと自分の内に蓄え、それをして自分を養うという習慣がなければ、私達は日夜、私達に忍び寄る悪の力に対抗することはできません。

明らかに戦となり、相手は必ず自分に向けて刀を抜いてくるということが分かっていながら、刀を持たずに戦に出て行く侍がいますか?彼らは何を置いても、どこに行くのにも刀を持参しました。彼らが行くところにはいつでも刀がありました。そして、彼らはその刀がいつでも使えるように常に磨き上げ、備えていたのです。

坂本竜馬は有名な匠によって作られた陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)という刀を常に携帯していました。先にお話しましたように彼は北辰一刀流の免許皆伝をもつ人でしたから、ちょっとやそっとじゃやられることはありません。しかし、1867年の12月10日の晩、京都の近江屋というところで中岡慎太郎と共にいるところを襲われ、刀で額を割られ絶命しています。なぜ剣の達人がやられてしまったのでしょうか。その晩に限って彼らは刀を傍らに置いていなかったということが後に分かっています。もし刀が竜馬の傍らにあれば、彼は明治維新を迎え、さらなる活躍をしていたことでしょう。

みなさん、御言葉の剣をいつも持っていますか。それは、よく手入れが行き届き、切れ味の鋭いものでしょうか。長い間使わないため錆ついたり、歯が欠けたままになっているということはないでしょうか。事が起きてからは遅いのです。

そのような意味で教会はこの御言葉の剣を使いこなすために、基礎から一歩一歩修練する道場と言えるかもしれません。そして、それは教会のみならず、私達の日々の生活はこのみ言葉を心に蓄え、それを常に仕えるように備えておくということに目を向けるべきです。悪魔ですらも聖書の言葉を用いてイエス様に襲いかかってきたのです。私達は欺かれないように、日々、聖書のみ言葉と共に常に生きなければなりません。最後に「み言葉の力は偉大です」ということを見てみましょう。

み言葉の力は絶大です。

ヘブル4章12節に「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」と書かれています。

皆さん、ここに驚くべきことが書かれています。「神の言葉は生きている」というのです。それには力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々なはかりごとまでも判別することができるというのです。

皆さん、私達の手元にある聖書は本棚に並べれば普通の書物となんら変わりません。そこには人の手によって印刷された文字が並んでいます。聖書も時が経てば古びますし、失くしてしまうことさえあります。しかし、この聖書は私達の魂、その霊を貫き、心の中のことまでも判別することができるというのです。

今回、このメッセージを準備しながら、私自身、本当に教え示されました。それはこの剣は神の言葉であり、同時に「御霊の剣」だと書かれているからです。これらを一つにして言いますならばこの剣は「御霊による神の言葉なる剣」ということです。

すなわちこの言葉を本当に理解し、この言葉が本当に力あるものとして働くためには御霊、すなわち聖霊のはたらきが不可欠ということです。御霊が働く時に、文字に命が宿るかのようにして、それは生きた言葉となって、私達の心を貫くのです。何の根拠もない語呂合わせですが「言葉」は英語でWORDです。このWORDSをつけますと SWORDとなり剣となります。S、すなわち神の言葉にSPIRIT、すなわちHOLY SPIRITがともなう時にそれは力ある剣となるのです。

詩篇119篇130節にはこんなみ言葉があるのです「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(口語訳)「み言葉の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(新改訳)。ここには、「み言葉が開ける」とか「み言葉の戸が開く」というとてもユニークな表現が記されていますが、これは文字として読んでいるそのみ言葉が聖霊によって開かれて、私達の心に光として差し込んでくるということです。聖霊がなければ、私達に神の言葉は本当の意味で開かれることはないのです。ですから、聖書を一字一句、研究しているような学者ですらも、本当の意味で聖書のもつ言葉の力というものを理解できるとは限らないのです。反対に、この聖霊のはたらきを求めつつ、聖書の言葉に近づくなら、神様はその光を誰にでも放ってくださるのです。

パウロはエペソでの伝道期間を終えてローマに旅立つ時に、エペソの長老たちを集め、そこで別れの言葉を送りました。エペソといえばアルテミスという女神を祭り、その周りには神殿売春がなされていた悪の力が幅をきかせていた町です。そのようなところで信仰を保ち続けていくことは大変なことです。仲間を残して、そんな町を離れていくことに対してパウロの心には心配があったことでしょう。まさしく天上の悪の力との過酷な戦いが日々起こることは目に見えて分かっていましたから。彼はこんな言葉を残したのです。

29 わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。31 だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。32 今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」。(使徒20:29-32)

パウロは凶暴な狼や自分たちの中から混乱を起こす者達を打ち負かすことができるような弁論術や、護身用の剣や頼りになる有力者の名刺を残してはきませんでした。彼はただ一言、言ったのです「今わたしは、主とその恵みの言葉とに、あなたがたを委ねる。み言葉にはあなたがたの徳を立て、聖別された全ての人々と共に、御国を告がせる力がある」。

私達が愛する者を置いて、どこかに行かねばならない時に、その人に「あなたのことは、これこれに委ねていくから大丈夫だ」というものがありますか。パウロの確信は、それは御霊の剣、すなわち神の言葉を他にしてはないということだったのです。

私達が生きる世界もある意味、凶暴な狼が容赦なく私達に戦い挑んでくるような世界です。あなたはそんな世界、何をもって生きていこうとしていますか。あなたはこの御霊なる神の言葉の剣を常に携帯していますか。いつでも、それを用いることができる状態ですか?お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り                                エペソ6章10節-17節

1)あなたは「剣、刀」からどんなイメージや思いをもちますか?イエス様が言われたあなたの剣をもとのところにおさめなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる」(マタイ 26章52節)という言葉にはどんな意味がありますか。

2)このところには「御霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれています。あなたは「神の言葉」によって、どのように戦いますか。

3)マタイによる福音書4章1節-11節を読みましょう。このところにおいてイエス様はどのように悪魔の試みに勝利していますか。申命記8章3節、申命記6章16節、申命記6章13節を読みましょう。

4)イエス様はご自身のオリジナルの言葉によっても悪魔の試みに勝つことができたでしょう。しかしながら、なぜここで申命記の言葉を引用しているのですか。

5)Ⅰサムエル記13章19節を読みましょう。鍛冶屋がなければ武器や日常に使う諸道具はどうなりますか。「御霊の剣、すなわち神の言葉」はどのようにしたら磨くことができますか?どのようにしたらいつもそれらを携行していることができますか?

6)ヘブル4章12節、詩篇119篇130節を読みましょう。このみ言葉に記されているようなことはある働きがなければ成し遂げられません。それは何でしょうか?

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