天を相手に生きる喜び

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節)。

この言葉に内心、違和感を覚える方がいるのではないかと想像します。「そんなことはできない」という違和感です。そうです、私達は「いつも」という言葉に心が引っかかるのです。

ある日、車のオイル交換に行きました。「終わったら連絡するよ」と言われて帰宅したのですが、連絡はなく、取りに行けば、オイル交換は既に終わっており、代金を払って鍵さえもらえれば帰れるのに、目の前にいる私を前に店員は電話で長話をしていて、待てども暮らせども一向に電話が終わるようには思えません。私は思わず左手を彼の前に掲げ、右手で時計を指差したのです。明らかにその時に私の心から喜びは失われていました。

数年前、ホームレスの方が朝、教会を訪ねてきました。その方は常連の人で、いつも電話を貸してくれと言います。電話で話していると、その話し相手に大声で耳をふさぎたくなるような荒々しい言葉を怒鳴り散らしています。一日の始まりの朝だというのに、私の心から喜びが奪い去られていくのがよく分かりました・・・。

はたして「いつも喜びなさい」ということは私達に可能なのでしょうか。

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天を相手に生きる喜び!
2021年4月11日

 私達は昨年、三月の半ばから教会堂での礼拝をオンライン礼拝に切り替えて、今日にいたっています。その時は約一月後のイースターには再び、教会で礼拝を捧げるという計画をたてたのですが、そのイースターは過ぎ去り、続く夏も過ぎ、秋も過ぎ、そして冬が過ぎ、今年のイースターも先週、過ぎ去りました。

この未曽有の状況の中で私達が神様からいただくことができるものがあるのだろうか。この時を無駄にせず、このような時だからこそ何かしらの収穫を得たい。そのような思いの中におりました時に1テサロニケ5章16節から18節の御言葉が心に響いてきました。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5章16節‐18節)。

この言葉はとてもシンプルで、意味が分かりませんというような難解なものではありません。そして、ここに記されている喜び、祈り、感謝は私達の信仰生活を建て上げる三本の柱といっても過言ではありません。そこで、この度はこの三つの言葉を三回の礼拝において一つずつ見ていくことができたらと願っております。

最初に今日、見ていきたいことは「いつも喜んでいなさい」ということです。この言葉を聞きますと、内心、違和感を覚える方がいるのではないかと想像します。どんな違和感でしょうか。「そんなことはできない」という違和感です。そうです、ここに書かれている「いつも」という言葉に心が引っかかるのです。「いつも」でないのなら喜ぶことができる。しかし、それが「いつも」となると、それは無理だろうと私達は思います。

このみ言葉を心に留めながら、私自身、心から喜びが失われた状況について二つのことを思い起こしました。

ある日、車のオイル交換に行きました。「終わったら連絡するよ」と言われて帰宅したのですが、連絡はなく、取りに行けば、オイル交換は既に終わっており、代金を払って鍵さえもらえれば帰れるのに、目の前にいる私を前に店員は電話で長話をしていて、待てども暮らせども一向に電話が終わるようには思えません。私は思わず左手を彼の前に掲げ、右手で時計を指差したのです。明らかにその時に私の心から喜びは失われていました。

数年前、ホームレスの方が朝、教会を訪ねてきました。その方は常連の人で、いつも電話を貸してくれと言います。電話で話していると、その話し相手に大声で耳をふさぎたくなるような荒々しい言葉を怒鳴り散らしています。一日の始まりの朝だというのに、私の心から喜びが奪い去られていくのが分かりました。

皆さん、私が今、お話したことは他愛のないことです。誰の日常生活にも、このようなことは起こりますし、いいえ、もっと大変な、深刻なことが起きるのが私達の人生です。私達は自分の置かれている環境、もしくは状況というものによって、いとも簡単にその喜びが失われていくのです。ですから「いつも喜ぶ」なんてことは、私達にはとんでもないことのように思われます。

2000年前にキリストの使徒、パウロという人がいました。彼はその人生の中で獄屋という環境に置かれていた時がありました。なぜ彼が獄屋に放り込まれたかと言いますと、彼が宣べ伝えていることを心よく思わない者達がおり、時にはその命が狙われるという環境に彼はいたのです。

この彼の理不尽な投獄の理由と、彼がおかれていた環境を鑑みます時に、彼の心に喜びがあるだろうと私達は考えません。私達は同じ人間として、彼の気持ちを想像できるのです。しかし、私達のそんな思いをくつがえすような事実がこのパウロにはありました。それは、彼は獄屋にいながら、その場所で喜び、生きたということなのです。

彼が獄中で書いた一つの手紙にピリピ人への手紙がありますが、今日、私達はその手紙を「喜びの手紙」と呼びます。パウロはその手紙の中で繰り返し「自分は喜んでいる」と書き記し、その内なる喜びを自分だけに収めておくことができずに、手紙の宛先にいる者達に向かっても「あなたたちも喜びなさい」とまで書いているのです。

このような場合、大抵、私達は「パウロはすごい」「彼は自分とは違う、別格」という思いでこの手紙を受け止めます。そうです、それは彼だからできた心のありようであり、私達とは無関係と思うわけです。しかし、本当にそうなのでしょうか。聖書は一人の人間の稀な心の様を記し、私達がそれを羨望するために書かれているのでしょうか。

今日は二つのことを見ていきたいと思います。まず、最初に「天を相手にする」ということです。

私達はたとえ小さな部屋であっても、それが自分の家であるならば、そこで自由に過ごすことができます。テレビを見たり、好きな時にシャワーに入ったり、外食に行きたければいつでも行けるのです。

しかし、パウロの場合、彼にも一つの空間が割り当てられていたのですが、その空間には制限があり、自らの意思で自由にその場所を出ることはできませんでした。言うまでもなく、獄屋が快適な場所であるはずもなく、そこは人が身を置く最悪な場所であったということを私達は想像するのです。

しかし、彼はその場所で書き記したピリピ2章14節―18節において、こんなことを書いているのです。14すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。15それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。16このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。17そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。18同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい(ピリピ2章14節-18節)。

 彼はここで言います「わたしの血を流すようなことあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう」。そして、さらに彼は私達に勧めるのです。「あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」

「自分の血を流すようなことがあっても喜ぶ」とあなたは言う。そして、私達にまで「あなたもわたしと共に喜びなさい」とあなたは言う。私達は思う「パウロよ、気は確かか」。そんな私達の思いをよそに彼は再び言います、ピリピ4章4節から7節。

4あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。 5あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。 6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう(ピリピ4章4節-7節

パウロは非常識な楽観主義者なのか。それとも彼は私達には見えない何かを見ているのか。私達が考えたこともない何かを知っているのか。なぜ、彼は最悪の環境において喜ぶことが出来たのか。実は今、読みました二か所のピリピ書には共通点があるのです。

まず、第一にピリピ2章において、彼が喜ぼう、共に喜ぼう、喜びなさい、私と共に喜びなさいと言った理由として、16節に「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」と書かれているのです。

またピリピ4章5節においては「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」という言葉のすぐ後の5節に「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」と記し、その後に「主は近い」と書いているのです。

すなわちこれらのことはどういうことなのかといいますと、確かにパウロの身は束縛され、劣悪な環境の中に置かれてはいるけれど、彼はその信仰により、今、このような状況に置かれていることは、神の前に隠されていることではなく、それは神の前に明らかなことであり、この時も神の前には無駄ではなく、やがていつの日か、キリストの日に、主はこれらのことを明らかにしてくださる、それゆえに投獄ということも、主の前には決して無駄ではないのだということを彼は信じ、受け止めていたのです。

この困難の中にあっても、「主は近い」のだから、すなわち主は確かに私が今、受けているこの苦しみに対して、必ず報いて下さるのだという確信がパウロにはあったのです。

主にある皆さん、彼は地上での出来事だけに心が奪われるのではなく、一喜一憂するのではなく、天を相手に生きていたのです。ゆえに彼は劣悪な環境の中でも、普通では考えられない、彼の言葉を借りて言えば「人知では到底、測り知ることができない神の平安」が、喜びがその心にあったのです。

そして、このことは苦労の末に悟ったパウロのオリジナルの考えなのではなく、彼はこれらのことをイエス・キリストの言葉の中に見出していたのです。そう、彼の喜びはイエス様の生きざまにならうものであったのです。かつてイエス・キリストはこのような言葉を語っていたではありませんか。

72人が喜んで帰ってきて言った「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までが私達に服従します」。彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。          (ルカ10章17節-20節)

ペテロもこう言っているではありませんか。12愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。14あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(Ⅰペテロ4章12節―14節)

一つ一つ説明するまでもありませんでしょう。イエス様はこの世界の移り変わりに心を合わせるのではなくて、天における喜びを己の今の喜びとしなさいと言われたのです。

もちろん、このことは天における喜びだけが喜びなのだということではありません。神様は私達が与えられている人生に対して、この地で生きる喜びと楽しみを日々、与えてくださっています。しかし、それだけに心が奪われてはならないのです。なぜなら、この世にあるものは過ぎ行くもの、変化するもの、頼りないものであるからです。

この地での喜びに加えて、喜びの土台を、永遠なるもの、変わらないもの、信頼して裏切られないものに私達の心を向けるのなら、私達が願っていない、かえって避けて通りたいと思われる環境の中であっても私達の内に喜びがわいてくるのです。

ですから、主にある兄弟姉妹、私達はこの私達の環境を天にまで押し広げようではありませんか。この世界のことだけに心が奪われ、一喜一憂するのではなく、天を相手に生きようではありませんか。

二つ目のこと、それは「置かれている場所で咲く」ということです。昔の大和言葉によりますと、花が咲くの「咲く」という言葉と「幸い」という日本語は同じ言葉から分かれたものだと言われています。すなわち「幸い」とは大和言葉で「さきはひ」という言葉で、この「さき」は「咲く」を意味しており、すなわち「幸い(さきはい)」とは「心の中に花が咲いている状態」だというのです。

イエス・キリストはかつてあの山上の教えの中で、言われました「わたしのために人々があなたがたを罵り、また迫害し、あなたがたに対し偽って、様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。喜び、喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」マタイ5章11節-12節。

このところにおいて、イエスは「幸い」と「喜び」ということを一つであるかのように書いています。すなわち、それは日本的な解釈で言いますのなら、私達の「喜び」とは、すなわち「私達の心の中に花が咲いている状態」ということができるでしょう。

ロッキーの山々に生息する高山植物は高い山で花を咲かせるのです。この高山植物はジャマイカのビーチでは花を咲かせません。アリゾナのサボテンは過酷な土地でありながら、鮮やかな花を咲かせます。そのサボテンがインドネシアの熱帯雨林で開花することはありません。

パウロは主のために自分だけの花を置かれた場所で咲かせたと言えましょう。彼は生まれつきのローマ市民であり、ファリサイ派に属し、エルサレムで高名なラビ、ガマリエルのもとで学んだエリートでした。パウロの人生をもし説明するならば、これらの一つ一つはとても大切なものであったに違いありません。

しかし、それらに加えて彼が劇的な改心をし、キリストを伝える者となってからは、他の人が経験したこともないような迫害や試練に何度も何度も会いました。

すなわち、彼は大まかに二つの土壌に生きたといえます。一つは将来が有望され、その社会的成功が保証されていた時の土壌、そして、もう一つは今日、お話したように投獄されたり、身に病を負っていたりというような幾多もの困難と試練という土壌です。

このようなことを思う時に、私達が時に誤解してしまうことは、物事がうまくいっている時や自分の成功体験によって、いよいよ私も花を咲かせたと思ってしまうことです。「一花、咲かせよう」という日本語には明らかにそのような意味が含まれていますでしょう。

しかし、パウロという花は、先にも触れたような獄屋にいた環境や、諸々の艱難を含めた、彼が経験した、それが良いものであっても、そうでなくとも、全ての土壌から吸い上げたものによって、その色形が作られたのです。

一つ一つの環境が彼という人間を際立たせたのです。彼が書いた数々の手紙が、なぜ後世の私達を惹きつけるのか、そこから励ましと希望を受けるのか、それは彼自身から一滴、一滴と搾り出されたかのように書き出された言葉の一つ一つの背後には、彼がその身を置いた全ての土壌があったからなのです。

彼はその置かれた環境や、神様が出会わせてくれた人達によって、主のために自分だけの花を咲かせ、人々はその彼という花を見るにつけ、神を知り、神を崇めたのです。私達が大きな励ましを受けるピリピ人への手紙は、彼が最悪の環境の中で咲かせた花であり、今日、私達はその花を彼と共に喜ぶのです。

蓮という植物があります。蓮は池や沼に生息する植物で、水面から顔をだすかのようにして開花します。そして、蓮が咲く池の底には大抵、ヘドロのような泥が蓄積されているといいます。泥を好んで眺める人はいませんが、確かに蓮の根はその泥の中にあるのです。そのような中から蓮は「見事」としか言いようのない花が天に向けて咲くのです。

月下美人という花があります。この植物の幹や葉はお世辞にもきれいだとは言えない、どちらかというと醜く、アグリーに見えます。しかし、この幹から月下美人は花を咲かせます。その美しさといいましたら、形容する言葉を失います。驚くべきことに、この月下美人は人々が寝静まった夜、ひっそりと咲き、朝には枯れるのです。人はその開花を見逃します。誰にも見られることなく彼女は咲くのです。しかし、その名のごとく月は彼女を照らし、彼女は誇らしく神が許したもう時に全ての力を注ぎ、惜しむことなく花びらを天に向けて、拡げます。

私達がフリーウエイをアリゾナに向け、東に向かいますと、道端に野生のサボテンがニョキニョキと生えているのを見ることがあります。サボテンは乾燥に強く、雨が降らないような荒野に育ちます。その環境たるや生き物を拒絶するような非常に厳しい、過酷な土地です。しかし、そこで彼らは命を保ち、時が来れば、殺伐とした環境で、他の植物には見られないような鮮やかな花を天に向けて咲かせます。私達はその美しさに見合う言葉を見出すのに苦労するのです。

泥沼から芽生える蓮の花、誰も見ていない夜に咲く月下美人、過酷な荒野に咲くサボテン、彼らは誰が見ていようが、どんな環境に置かれていようが、ひたすら天を見上げ、天に向かい、渾身の力を注いで花を咲かせます。主にある皆さん、この自然界の営みは、今日お話していますパウロの生き方を私達に見せてはいないでしょうか。

パウロはコリント第二の手紙6章10節で言いました「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」。

彼のこの言葉はこう言っていないでしょうか。「私は悲しみに沈むような、貧しさに打ちのめされるような、何も持ち合わせていないような環境に身をおいているが、私はそこでいつも喜び、私は人を富ますことができる。私は全てを持ち合わせている、私はまことにリッチに生きている。それは私の力によるのではなく、神が私を用いてそのように生きる者と変えてくださった。私は自分が置かれている環境で、キリストの香りをただよわせている」。

主にある皆さん、私達も置かれている環境に悲しむのではなく、そこで喜びを奪われてしまうのではなく、主の栄光のために自分という花を咲かしましょう。

花が咲くのは、プランターの中だけではありません。よく整ったビニールハウスの中だけではないのです。いかなる場所でも花は咲く。花は皆、天に向かって咲く。主にある皆さん、私達の花をキリストにあって咲かそうではありませんか。

あなたがたは、主にあっていつも花を咲かせなさい。繰り返していうが花を咲かせなさい。たとえそれが好ましく思えない環境であっても、その所であなただけの花を咲かせ、それを喜びなさい。それが泥水であっても、誰も見ていなくても、雨の降らない荒野であっても、その地から芽を出し、地上のことだけに心を向けるのではなく、天を真っすぐに仰ぎ、あなただけの花を、今、置かれているその場所で、天に向かって、咲かせなさい。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年4月11日

 1)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5章16節‐18節)の御言葉をあなたはどのように受け止めていますか。

 

2)「いつも喜ぶ」ことはなぜ難しいのでしょうか。聖書は不可能なことを書いているのでしょうか。

 

3)ピリピ2章14節―18節を読みましょう。この言葉はパウロによって獄中で書かれました。この言葉の中に私達はどんな驚きを見出しますか。

 

4)ピリピ4章4節‐7節を読みましょう。「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(7)はどのようにして私達に与えられるのでしょうか。

 

5)上記、ピリピ2章、4章でパウロが劣悪の環境の中に置かれながらも「わたしは喜ぼう。あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と言うことができた理由はなんでしたか(ヒント:ピリピ2章16節、4章5節)

 

6)マタイ5章12節、ルカ10章17節-20節、Ⅰペテロ4章13節のイエス様とペテロの言葉から何が分かりますか。パウロの喜びは誰の影響によるものですか。

  

7)パウロは置かれている場所がいかなる所であっても、そのところで喜びました。すなわち、彼はその場所で自分だけの花を咲かせました。あなたは今、どんな花を咲かせていますか。自然界で起きていることは、私達の生き方とつながっていないでしょうか。

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