「I feel Him」
「I know about Him」
「I know Him」
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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イエス・キリストを知っていますか?
マタイによる福音書2章1節-12節 2009年12月13日
1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
アドベント第二週となりました。クリスマスについて先週は羊飼いについてお話しました。今日は特に私達もよく知っているあの博士達がイエス様に会いに行くということについて、キリストに出会うまでの彼らの姿というものに焦点を宛てて見ていきたく願っています。まず最初に「神を感じる時」ということについて見ていきましょう。
神を感じる機会
東の国から来たという、ここに登場する博士たちは、異教の国の学者で、当時としては最高の知性をもって天文学や数学の知識に富んでいる人達でした。彼らの仕事とは星の動きを研究して、それから未来を占うということでした。
彼らは壮大な宇宙を研究していました。動物学者ならその動物に実際に触れることができるでしょう。しかし、彼ら研究の対象は星ですから、その現場に行くこともできず、実際にそれを手にとって触れることもできませんでした。ただ彼らはそれらを観察することだけが許されていたのです。
彼らは星の動きから、そこに秩序ある法則を見いだしたことでしょう。「秩序」の背後には知性というものが必要で、それはデタラメなものからは生まれません。おそらく彼らの心の中には、その秩序を保っている何か偉大なお方の存在というものがあったのではないかと思います。日々の地道な観察と記録がなければ気がつかなかったことでしょう、多くの星の中から特別な一つの星を見出したのです。
神様は私達に神様を知ることができる、その存在を感じることができるメッセージを常に周りに置いていてくださいます。そして、それを感じとることができる感覚というものも神様は予め私達人間の中にインプットしていて下さいます。
興味深いことに、それは先週、お話した羊飼いにも共通していたと思われます。彼らは夜通し、焚き火を囲んで起きているような生活をしています。野宿の移動が多い彼らの仕事ですから、地図のない時代、やはり星の動きというものは彼らにとって常に注視しなければならないものだったに違いありません。手の届くところでは日常的に羊の「生」と「死」に向き合い、夜ともなれば星空を見上げる、彼らにとって人を超えた存在を感じるということは難しいことではなかったことでしょう。そのような前準備がなければ、彼らはたとえ御使い達が彼らの前に現れたとしても思い腰を上げて、イエスを捜し求めてベツレヘムに向かうことはなかったかもしれません。
先月、かつて世界大会を転戦していたというクリスチャンのプロサーファーが、サーフィンをすることによって神様という存在を理解するのに助けとなったと言っておりました。何を言わんとしているのでしょうか。サーファーは一人、海の上でサーフボードに座って波を待つのです。しかしながら願っている時に、願っている波はこないのです。自分で波風を起こすこともできません。そんな時、サーファーができることはただ一つ、その波と風を待ち、それをとらえて、それにうまく乗ることなのです。広大な海の上でたたじっと波風が起きるのを待ち続けるその方にとっても、人間を超越した方の存在を感じることは難しいことではありませんでした。
皆さん、興味深いことはこれらの人達は皆、自分の職業を通して神の存在というものを感じていたということです。そして、これらの人達に共通することは、特に彼らが皆、ダイレクトに自然、神の造られたものに触れることを仕事としていたことです。さだまさしさんの「風に立つライオン」という歌は、アフリカのある国で医療活動にあたる日本人医師のことを歌っている歌ですが、その中に「この偉大な自然の中で病に向かいあえば、神様について人について考えるものですね」という歌詞がありますが、まさしくそうです。
しかし転じて私達自身を見れば、今日、周りを見回してもそのほとんどが人間が作ったものに囲まれていて、圧倒的な神様の存在というものを感じる機会が少ない社会に生きているのかもしれません。
しかし、それでも私達は自分の仕事を通して、その中で起きる些細なこと、思いがけないこと、いいえ、それは職場のみならず私達の私生活においても、今も私達は神の存在を感じる機会というものを得ているのです。私たちが偶然として片付けていること、どうしてと思われるようなこと、ふとした人と人との関わり合いの中で、それがクリスチャンでなくとも、異教徒の博士達がそうであったように、予め私達の心には本来、何か神的なものを感じるものが備えられているのです。
博士がたどった二つ目のことを見ていきましょう。それは「神について知る機会」ということです。
神について知る機会
聖書はこの博士達が東から来たと記しています。それは、どこを表わすのでしょうか。多くの学者はかつてバビロンがあった地方ではないかといいます。このバビロンはその後、ペルシアとなります。今日のイランやイラクがある地域です(これらの国々が現代置かれている世界的状況を思う時に、これらの国々の先祖達がかつてイエス・キリストの誕生を求めて旅したということに何かとても深い神の摂理を感じます)。
バビロンという国はどんな国なのでしょうか。そうです、あのユダヤ人達がかつて捕囚されていた国です。そして、この時から500年をさかのぼります時に、そこには信仰に篤いダニエルという人がいました。彼はネブカデネザル王の命令により、国の知識人を指導、管理する長官に就任しました。ダニエルはダニエル書9章25節においてこのような預言を記しています「それゆえ、エルサレムを立て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が出るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい」。
詳しく説明することはここでは省きますが、このダニエルの預言に対して、こんな興味深いことを書いている人がいます。ここには7週と62週という数字があります。これを足すと69週となります。それを日にちにしますと69週×7日は483日となります。この日を年に変えますと483年という数字が出てきます。すなわちエルサレムを立て直せという命令が出てから、メシアなるひとりの君が出るまでは483年あるというのです。当時まだバビロンに捕囚されていたダニエルにとってその頃のバビロニアのカレンダーは一年があ360日でした。それでは483年に360日をかけてみましょう。そうしますと、173880日となります。
それでは「エルサレムを立て直せ」という布告はいつ出されたのか、その宣告はバビロンのの次に起きたペルシアのアルタシャスタ王によって紀元前444年5月だと言われています。その時からはじめて173880日後はどんな日だったのか。うるう年も計算にいれて調べたところ、それは紀元33年3月30日という日が出たというのです。そして、その時こそイエス・キリストがロバにのってエルサレムに入場した日だというのです。
これらのことを丸呑みにする必要はありませんが、少なくともダニエルの預言はイエスが活躍した時代からずれてはいません。星を占い、それゆえ当然、数学に親しんでいた博士達もこのダニエル書の預言からメシアがあらわれるのは近いということを知っていたのではないかと思われます。でないと過去のデータにないような不思議な星があらわれても、それとメシア出現を結びつけることはできません。
彼らは自分の仕事を通して神の存在を感じていました。その彼らの感覚に対して、歴史的なダニエルの証言が加わったのです。そうです、博士達の国に長い間、伝説として言い伝えられてきたことでしょう、このメシア預言です。聖書のダニエル書に記されているあの諸々の出来事、彼が生ける神に仕え、それゆえに一時はバビロンの王もその神の前にひれ伏したという出来事を彼らは知っていたに違いありません。実に博士はその時「神を感じる」から「神について知る」機会を得ていたと思われます。
三つめのこと、神を感じる、神について知る、そして最後です。それは神を知るということです。
神を知る。
すこし「神を知る」ということに入る前に、この聖書箇所に記されているもう一人の主要人物をみてみましょう。私達は彼らをヘロデと呼びます。ヘロデは当時、ローマ支配のもとにあったユダヤ地区を統治した王であり、ローマの保護とその協調関係を様々な策略によって構築してその権力を手中に収めていきます。今日の色々な考古学の発掘により彼はエルサレム神殿の大改築を含む、数多くの非常に技術の高い建築物を残したことが分かりました。そのような意味では、彼はとても優秀な王であったと評価されています。
頭のいい王ですから、彼は色々なことを考えたのでしょう。そんな彼が一番、よく考えたことは、どのように自分の権力を保でばいいのかということでした。そのことを保つために、その力を誇示するために彼は諸々の建築物も造ったのです。彼の場合、その思いはとても強く、歴史書には彼が自分の地位を脅かすのではないかと思われる者には暗殺の手を伸ばし、自分の妻や子供達に対しても疑心暗鬼となり、最後には妻や自分の子供達をも殺害したという記録が残っています。
ヘロデの暮らす世界は羊飼いや博士よりもずっと快適な生活空間であったに違いありません。しかし、彼にとってその世界は狭いものでした。羊飼いや博士は無限の世界に自らの思いを寄せることができましたが、ヘロデの一番の関心は自分がいかにその地位を保つことができるかという宮殿内部のことであり、また当時のユダヤ社会を統治していたローマ帝国の機嫌を損ねないようにするかということでした。言い方を変えれば彼の思いは「自分の欲望」が届く世界だけのものであり、それは一重に彼の拳に全てかかっていたのです。
ヘロデはこの東の国からの博士の来訪とその目的を知るにつけ、3節には「不安をいだいた」と書いてあります。そして、身近な祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしてみると、彼らは旧約聖書に記されているミカ5章2節から「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(6)という言葉を引用し、それが何を隠そう、自分の統治下であるベツレヘムであるということを知ります。
このことを聞いたヘロデはメシアの誕生が我が町でおきると言うことを喜ぶどころか、そのメシアの誕生が自分への脅威となるのではないかと恐れ、早い内に殺害しようということを考え、実際にこの後に彼はこのイエスという一人の幼子を殺すために、エルサレムにいる二歳以下の子供を皆殺しにしたのです。
皆さん、ヘロデも博士と同じ人間です。ヘロデにも博士と同じように神を感じ、神を求め、神について知る機会というものはあったはずです。彼にはいつでも神の言葉を解き明かしてくれる祭司や学者も側にいたのです。しかし、彼は自らの欲により、その機会をことごとく逃し、その生涯を恐れと共に生きたのです。今日の歴史家は彼の造り上げた町並みを発掘するにつけ、その優秀さを語りますが、彼は自分の街からイエス・キリストが生まれていながら、それすらもひねりつぶそうとしたという人間の愚かさの代表的な人物となりました。
そして、私達もヘロデと同じ人間です。私達の欲心は神を感じることも、神について知ることをも、無にしてしまうのです。私達はこのことを心に刻まなければなりません。
また博士達に戻しましょう。ヘロデは密かにこの博士を呼び、そして言いました。行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と。博士達は王宮を後にしました。そして、東方で見た星が先立って進む後を追いながら、ベツレヘムに向かった彼らの前で星がとまったのです。聖書はその場面を「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとどまった」と記しています。「ついに」という言葉には博士達が飼葉に眠るイエスを探すために文字通り長い苦労多き旅をしてきたことを意味しますでしょうし、同時に夜空を見上げ、その背後におられる存在というものを求め続けてきた彼らがついにその魂の終着点すなわち、そのお方がいるその場所にまで来たということを意味するでしょう。
確かに彼らは神を感じていました、神について知っていました、しかし、まだ彼らは神を個人的には知らなかったのです。彼らのこの旅は夜空の星に導かれた旅でありますから、昼間は移動できない、夜の旅であります。暗さの中の旅であります。それは彼らの心の闇をも意味していたことでしょう。すなわち、神を感じながら、神について知りながら、しかし、まだ神を知らないという闇です。しかし、その彼らはいよいよその夜明けに立ち会うことになるのです。
博士達は「その星を見て喜びにあふれた」と聖書はしるしています。この「喜びに溢れた」という言葉は、直訳すると「この上ない喜びを喜んだ」と訳せる文章でありまして、彼らの喜びの大きさというものを強調する文章になっています。彼らは喜び踊ったのでしょう。その星の下にいる幼子イエスを彼らは拝したに違いありません。彼らはやっと救い主イエスを知ったのです。
もちろん、彼らは忘れてはいませんでした。そうです、ヘロデが博士達に言った「その子を見つけ出したら、自分に知らせるように」という言葉です。博士達はそれが何を意味するかを知っていたに違いありません。それゆえ彼らはヘロデの元には帰らずに、別の道を通って帰って行きました。
彼らが別の道を通って帰ったということ、これは、彼らがそれまでの生き方を捨てて、まったく別の道で生きる人間として、自分たちの国に帰っていたということを象徴する言葉でもあります。
博士達は神を感じ、神について知り、読み、学んでいたというところから、イエスに直に会うことによって個人的に「イエスを知った」のです。そのイエスを知った彼らはそれまでの生き方とは別の生き方へと導かれたのです。その証拠にその時に彼らはイエスに黄金と乳香と没薬を捧げました。これは彼らが占いに用いた道具であったと言われています。彼らがその大切な商売道具を捧げたということは、彼らがもはや星の動きによる占いによって自分の人生を支配されて生きるのではなく、神様の贈り物であるイエス様によって生きる者となったということなのです。
ご存知のように12月25日がクリスマスです。去年もそうでしたが来年もその日がクリスマスであることは代わりません。クリスマスはいつもその年が終わる一週間前にあるのです。一週間後には新しい年がやってくるのです。
どうでしょうか。皆さんにお尋ねしたいのです。あなたは神の存在というものを感じたことがありますか。信仰というものがなくても、それは人間の心にあるものです。人間がアメーバーから進化したというなら、なんでそんな不合理な思いというものを私達はもっているのでしょうか。その心があるということ自体、私達を造られた神がいるということを証明していないでしょうか。
あなたはイエス・キリストについて知っているかもしれません。聖書を読み、学んでいるかもしれません。多くの人は聖書を座右の書としています。しかし、そのことは「神について知っている」ということであり、「I know about God」ということです。「神について知る」ということは次の段階、すなわち「神を知る」ということに進むプロセスに過ぎません。
ですから今朝、もう一歩先のことを皆さんにお尋ねしたいのです。あなたは神を知っていますか。あなたと神との個人的な関係を知っていますか?既に旧約聖書においてその誕生が預言され、そのはたらきも、その死も復活も預言されているイエス・キリストを個人的に知っていますか?その個人的関係はどこにあるのでしょうか。それはキリストがこの世界にこられた目的に凝縮されています。すなわち、マタイ4章16節に「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」とありますように、私達の心の闇がキリストの光によって照らされることです。
新しい一年が始まります。博士達のようにそれまでのしがらみを捨てて、今までとは違った道、すなわちイエスという同伴者と共に歩み始めようという方はいないでしょうか。お祈りしましょう。
