今から34年も昔になりますが、テネシー州の田舎町にある大学に在学していた時、よくMTV(Music TV)という音楽番組を見ていました。この番組はその時にヒットしているプロモーションビデオを24時間、流す番組で、そんなヒットソングの中にKaryn Whiteという女性アーティストが歌っていました「Superwoman」という歌がありました。
その歌のプロモーションビデオには幼い子供がいる夫婦が映し出され、その妻(Karyn White)がこの歌を歌っているのです。その歌詞と映像から夫婦の関係がぎこちなく、どうにかして彼女はその破れを繕うとするのですが、すれ違ってしまう、そんな夫に向かって、I’m not your superwoman. I am only human. という歌詞が、おりかえしで何度も歌われていたことを今でも覚えています。
当時の私はまだ19歳、夫婦の間柄など知るはずなどなく、よってその歌を理解などしていなかったのですが、あらためて最近、ユーチューブでこの歌を聞いてみましたら、なるほど、やっとこの歌が理解できました。そして、その歌を聴きながら思ったのです。スーパーウーマン、スーパーマンなど、この世界にいるのだろうかと・・・。
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人生観の確立(4):人間観 2021年6月6日
今から34年も前になりますが、かつてテネシー州の田舎町にある大学に在学していた時、私はいつも学生ラウンジにたむろし、暇を持て余している友人を相手に卓球とビリヤードばかりしていました。その部屋には大きなテレビがあり、いつもそのテレビからはMTV(Music TV)が大音量で流れていました。
この音楽番組は、その時にヒットしているプロモーションビデオを24時間、流しており、それゆえに私は1987年から91年まで、アメリカでヒットしている歌をほとんど全て、何度も聞くことになりました。そんなヒットソングの中に88年にKaryn Whiteという女性アーティストが歌っていました「Superwoman」という歌がありました。
その歌のプロモーションビデオには幼い子供がいる夫婦が映し出され、その妻(Karyn White)がこの歌を歌っているのです。その歌詞と映像から夫婦の関係がぎこちなく、どうにかして彼女はその破れを繕うとするのですが、すれ違ってしまう、そんな夫に向かって、いいえ、もしかしたら彼女自身に向かってだったのかもしれませんが、I’m not your superwoman. I am only human. という歌詞が、おりかえしで何度も歌われていたことを今でも覚えています。
当時の私はまだ19歳、夫婦の間柄など知るはずなどなく、よってその歌を理解などしていなかったのですが、あらためて最近、ユーチューブでこの歌を聞いてみましたら、なるほど、やっとこの歌が理解できました。そして、その歌を聴きながら思ったのです。スーパーウーマン、スーパーマンなど、この世界にいるのだろうかと・・・。
牧師として働き始めて25年、これまで色々な人との出会いがありましたが、これまでにスーパーマン、スーパーウーマンになろうと努力している方々にお会いしたことはありますが、実際にそのスーパーウーマン、スーパーマンにお会いしたことは一度もないのです。
今日は聖書に登場する、かつてスーパーマンになろうとした一人の男を見ていきたいと思います。この男を私達はサウロ、後にその名は代わり、パウロと呼びます。彼はかつてキリスト教徒を迫害することこそが自分に与えられている天命だと思っていた人です。
かつてこのパウロは本気でスーパーマンになろうと考えていました。そして、それはとてもいい線いっていたのです。まず彼が考えた事は、自分自身を律するということでした。そうなのです、私達は何かを極めようとする時に、自ずとそこに導かれていきます。
ゆえに彼は自分を徹底的に訓練しました。彼にとってその自らの訓練というのは、自らの体を打ちたたいてでも、律法すなわち聖書の言葉に徹底的に従うということであり、彼は自分自身、そのことに関しては「落ち度のないものであった」(ピリピ3章6節)とまで言っています。とてつもない気持ちの入れようです。
また彼は自らの知性を鍛えようと、ガマリエルという当時、最高の律法学者の膝元で先祖伝来の律法について厳しい薫陶を受けました(使徒行伝22章3節)。そしてゆくゆく、彼はガマリエルの後継者、いやそれ以上の人物となるということも言われていたようであります。確かに彼は町では一目置かれる人であったに違いありません。そのような意味で彼は自他共に認めるスーパーマンであったのかもしれません。
しかし、このスーパーマンにある日、一つの出来事が起こりました。彼の人生設計にはなかった出来事です。その時、彼は自分の信じるところに従って、キリスト教徒を迫害すべく殺害の息をはずませながら、ダマスコに向かっていたのですが、その時に天から強い光が照らし、全く視力を失い、天から、かつてのパウロの名で「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエス・キリストの声を聞くのです。
その時、パウロは自分の体をムチ打つようにして従わせていた神の律法に生きるということや、自分が会得した学問が何も通用しない世界に一瞬にして足を踏み込んだのです。スーパーマンは勢いよく飛んでいたのに、その羽を失ってしまったのです。
この出来事はさすがに彼にとって大きな出来事だったようです。聖書は一言、彼についてこんな言葉を書いています「彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」(使徒行伝9章9節)。
彼はこの三日間、何を考えていたのでしょうか。聖書は詳細を記していません。もしかしたら、彼は自分のそれまでの生き方について考え、さらにはこれからの生き方についても思いを寄せていたかもしれません。主にある皆さん、私達も彼と同じ人間です。
結論を言いますと、この彼の視力は「会いに行くように」と神様から示されたアナニヤという人のもとで、彼がパウロの上に手をおいて祈った時に癒されました。聖書はその時にパウロの目から「うろこ」のようなものが落ちたと記録しています。このうろこがとれた時、彼はそれまでに見えなかったものを見るようになりました。そして、かつてキリスト教徒を迫害することに全てをかけていたこの男は、命をかけてキリストを伝える者となりました。劇的な、神が介入された回心が起きたのです。
このパウロは後にローマ書の中にこんな御言葉を書き残しました。「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私達は知っている」(ローマ8章28節)。
彼はこの後に多くの試練にあいます。それこそ、全く予想していないこと、自分の計画が覆されるようなこと、それまでの自分の力が全く無力に思えるような出来事に数多く直面していきます。かつてのスーパーマンの面影はそこになく、多くの人達は彼をさげずみ、罵倒し、嘲笑し、彼は何度も獄につながれました。
しかし、驚くべきことに、かつて自他ともに認められていたスーパンマンの頃には成し遂げることができなかった、まさしく彼が持ち合わせている力以上のことを彼はその後、成していくのです。
私達は時々、体の不調を感じることがあります。私達の体には色々な痛みがあります。腹痛、頭痛、腰痛、神経痛、陣痛、その他、歯の痛み、骨折の痛み、目の痛み、喉の痛みと数え上げればきりがありません。これらの痛みを直す、取り去る、癒すために私達の周りには病院があり、そして、色々な治療や薬があります。
腰痛がある方は腰にベルトを巻いたり、シップをはったり、温めたりとあらゆる方法でこの痛みを取り去ろうとします。「ここぞ!」という時に、腰痛で歩くのも辛いという時など、本当にこの痛みがうらめしく思うことすらあります。
しかし、もし私達がこの痛みを感じない体をもっていたらどうでしょうか。実際にそのような感覚が麻痺する病気があるそうです。そのような人達はたとえば、手から血がボトボトと流れていても、何も感じないというのです。腹の中で何か異常が起きていても、痛みとして何も感じない。例え骨折していても彼らはその折れた手で、何かを掴もうとしますし、炭火の中に手を突っ込んで落ちたジャガイモを拾い上げたり、ガラスの破片の上を平気で歩いたりします。言うまでもない、これらの人達はやがてすぐにさらに致命的な状況に追い込まれてしまうでしょう。
主にある皆さん、時に主は私達がスーパーマン、スーパーウーマンではないことに気がつかせてくれます。というより、そもそも神の前にスーパーマン、スーパーウーマンなどは存在しないのです。
聖書に出てくる預言者イザヤはかつて神様に示されて、こう言いました「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか」(イザヤ2章22節)
「私達が鼻から息をする者」であるということ。言われずとも私達はそのことを知っています。確かに私達はこの鼻により息をしています。しかし、神様がこの言葉を使う時、このことは私達がこの小さな二つの穴から出入りする息によって、その命がかろうじて保たれている者にすぎないということを意味するのです。私達の今日の命はこの二つの小さな穴でつながれているのです。主は私達にこのことに気がつかせ、私達を新しい自己認識に導き、ひいては私達を新しい生き方へと導いてくださるのです。
神様は私達の心と体をデザインされました。そして、その心の中に「痛みや苦しみ」という感覚を組み込まれました。パウロの視力が失われた時、スーパーマンは両手を抱えて先導してもらわなければ、前にも後ろにも進めない身となりました。そして、このことが彼の人生を決めたのです。主にある皆さん、願わしく思われない出来事は時に、私達の人生の最大のチャンスとなるのです。
決してそうではないのに、そうあろうともがき続けたかつてのスーパーマン、パウロは解放されました。彼がその呪縛から解放されたことは何によってか分かるのでしょうか。彼は自らの弱さを言い表すことができるようになったのです。彼はまことに神の前に自由な人間となりました。第二コリント12章7節-10節において、彼はこんな言葉をしたためています。
⑦そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 ⑧このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。⑨ ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。⑩だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
パウロは自分の体にある何かしらの肉体的な病についてここで触れ、それを「とげ」と呼びました。聖書注解者はそれを彼の持病であった「てんかん」、もしくは「極度の視覚障害」だったのではないかと言っています。
「とげ」が刺さると私達はそれが気になり、それが取り除かれるまで落ち着きません。パウロにとってもその肉体にあるトゲはできることなら取り去りたいものであったに違いありません。それさえなければ、もっともっと自分の本来の力を引き出せるというようなものであったに違いありません。故に彼は切実にそのトゲが取り除かれるように祈りました。祈って、祈って、祈り続けました。
しかし、彼はそのような中で主の語りかけを聴いたのです「パウロよ、私の恵みはあなたに十分に注がれているではないか、私の力はあなたのその弱いところに完全にあらわされるのだ」。
「あなたはまたかつてのスーパーマンに戻ろうとしているのか。お前のスーパーはお前の小さな眼球二つの機能が失われること、そのことによってもろくも崩れたではないか。でも、私がこれからあなたに与えようとするものは、あなたが長年、蓄積したものとは比較にならない、天から下されるものだ。私はこのことを通して、あなたに最も大切なことを教えようとしているのだ。私の力はあなたの弱いところに完全にあらわされるのだ。私に頼りなさい。私に全く頼りきりなさい」
この生き方に身を委ねたパウロはその心境というものを第二コリント4章7節-10節において言っています。
⑦しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。⑧わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。⑨迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。⑩いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
かつては大きな器として大成することを願っていたパウロ。しかし、今や自分をもろい土の器ととらえたこの驚くべき自己認識。しかし、もっと驚くべきことはその土の器の中に計り知れない神の力があるということ。故に彼は本来の自分が持ち合わせていないようなものを所有する人間へと変えられたのです。彼は自分が思い描いていた「強い人」にはなりませんでしたが、「かつて自分が目指していた以上に、神により、圧倒的に強くされた人」になりました。
彼はその生涯、二度と再びスーパーマンになろうとはしませんでした。なぜですか。さらに優った驚くべき価値ある生き方を見出したのなら、それに劣る生き方に戻る必要も理由もないからです。彼はかつて彼が願っていたことが全くみすぼらしく思えるほどに、さらに優った生涯を歩んでいたのですから。
「日本の学生」というウエブサイトにヘザー・ウィリアムスというスタンフォード大学の学生が書いた一文があります。彼女はそこにこんなことを書いています。
私はスタンフォード大学の学生です。スタンフォードって言うと、みんな西のハーバードという人がいるけど、確かに、毎年何百人ものリーダーを世界中に送り出しているところです。キャンパス内にもそんな雰囲気がいっぱいで、みんな、自分たちがこの社会を住みやすいところに変えることができるって信じているんです。「世界を変えるのは君だ!」「パワーはあなたの中にある!」これがここ、スタンフォードのモットーで、私達はいつもこの言葉を頭の片隅に置きながら生活しているのです。 ここではモラルとか、弱さとかは受け入れがたい概念で、まして、魂の救いなんて、自分自身の敗北を認めるのと同じことになるのです。
スタンフォードに入学したとき、私の中には、きっと何か大きなことができるという自信に満ち溢れていました。政治がらみのミーティングに参加したり、人種差別、社会を正すための授業を取ったり、そのうえコミュニティーセンターでボランティア活動に明け暮れるような毎日でした。私にはこの社会を変える力があると心から信じていました。でもおかしなことに、社会を変えようと頑張れば頑張るほど、自分自身の中にフラストレーションを感じるようになってきたんです。ついには、官僚社会について、無関心で無感動な社会について、さらには「罪」という問題についても考えさせられるようになってきました。
そんな時、ある友人が聖書を読むことを勧めてくれました。実を言うと大学に入学した頃、私は聖書が大嫌いでした。私の中には聖書ってとにかく難しくて、偏見に満ちた、宗教的な本だっていうイメージがあったんです。私はバイブルベルトで育ったので、それまでたくさんのクリスチャンと呼ばれる人達に出会ってききました。でもみんなただ説教じみた話をするだけで、誰一人聖書の中に一体何が書かれているのかを説明してくれる人はいなかったんです。でもこの大学の友達が私の聖書の知識(小さい頃教会学校で教わったことや、学校の授業でちょこっとだけ習ったこと)についてたずねたとき,私がいかにイエス様について、またイエス様に従っていった人たちについて無知だったかを思い知らされたんです。
そこである夜、聖書を読んでみることにしました。たまたま開いた箇所はルカによる福音書というところでした。そこには、ある罪深い女性についての話が書かれていました。その女性は、イエス様がある人の家にいることを聞いて、そこに行ってイエス様の足元で泣いて悔い改めたという話でした。この話を読んだとき、私は、この女性が求めていたのは何にもまして、赦されることだったんだということに気づいたんです。
疲れ果てた心に、私はイエス様の言葉をいただきたかったんだと思いました。それまでいろんな本を読んできたけれど、この時ほど、この女性が自分自身のように思えたことはありませんでした。この女性のように私も弱り果て、疲れていたんです。慈善活動に明け暮れ、自分の力に信頼し、何でもできるスーパーウーマンになりきろうとして、もうくたくたに疲れ果てていたんです。その瞬間、もうこらえることができず、涙ながらにこう叫びました。「イエス様、もしあなたが今も変わらず生きておられるならどうか私を助けてください」イエス様が2000年前にこの女性に語られた言葉がそのとき私の心に届いたんです。「あなたの罪は赦された」
その夜、今まで積もり積もっていたフラストレーションが言いようもない静けさの中に包まれていくのを感じました。その時、本当の人生を生きる力を見つけることができたんです。以前、教会学校で習った歌の意味が初めて理解できました。「私たちは弱くとも、主は力強いかた」。自分の罪深さ、また弱さを認めたとき謙遜になることができました。本当に意義深い人生を歩むためには、真実の愛であるイエス様との個人的な関係を持つ必要があることを学んだんです。
そのときから毎日聖書を読むようになり、またほかのクリスチャンたちとの交わりを持つようになりました。そしてこのイエス様という方について様々なことを知ることができるようになったんです。周りの友達や、当時付き合っていたボーイフレンドは、私が変な宗教に走り出したと思うようになりました。インテリで無神論者だった私が急にクリスチャンに変わったことが、みんなにはとても理解できなかったんです。私がこの罪というものから解放されたという概念が彼らには全く理解できませんでした。ある友達はこう言いました。「何であなたみたいなインテリが「罪」とか「赦し」とか言うものを信じるの?」。でも私には、罪、また罪の赦しなくして生きることなんてもう到底考えることができないことなんです。
今はもう人間が自分の力で完全な社会を作り上げることができるなんて考えていません。私たちはみな弱さを持っていて、プライドや、わがまま、愛の欠如からいろいろな問題を引き起こし、ついには互いに傷つけあったりするのです。私たちに必要なのは、教育でも、政府でもなく、救いなんです。私たちは自分の力ではこの罪の問題を解決することはできません。私たちには神様の救い、助け、いやしが必要なのです。
今でも様々な社会活動に奉仕していますが、今の私は以前の私ではありません。ここで私が経験したことは、一人の女性として、また活動家としてとてつもないインパクトを与えてくれました。一番大きく変えられたことは、どんなときにも自分自身ではなく、私を根本からつくりかえ、日々力を与えてくださるイエス様に信頼して歩んでいるということです。今でもこの社会を変えたいという信念は変わっていません。ただそれは一人の魂をキリストに導くことによってのみ可能だということを知ったのです。
「日本の学生」https://www.studentinjapan.com/a/exp7.htmlより
このへザーもスーパーウーマンを目指していました。しかし、彼女は行き詰りました。それは彼女が予定も期待もしていないことでした。彼女はこらえることができず、涙ながらに叫びました。「イエス様、もしあなたが今も変わらず生きておられるならどうか私を助けてください」理想と希望に燃えていた彼女の人生設計にはなかった予想もしていなかったことが彼女をキリストへと導いたのです。
これから彼女は自分が願っていた以上の働きをしていくことでしょう。地上にあるもの、自分の内にあるもので自転車操業していた人生に、神が与えられる無尽蔵の富が加えられたのですから。彼女という土の器、その中にあるキリストの光が彼女を通してこの世界を照らすことでしょう。
聖書は今も私達にこの真理を語りかけてきます。私達の肉体の痛みが私達にとってとても重要な、私達の命を救う大切なメッセージを持ち合わせているように、神様は私達が自らの限界を知るような出来事を通して、最も大切なことを伝えようとしているのです。私達は息切れしないような強い者になるのではなく、神の御手の中で生、主が与えてくださる命の息によって生きる者とへと変えられるのです。
主にある皆さん、私は先にこれまでに、強い人にお会いしたことは一度もないと言いました。しかし「キリストにあって強くされた人」にはこれまでに多く出会ってきました。そして、そんな方達から多くのことを教えていただきました。彼達、彼女達は「神の力は弱いところにあらわれる。弱い時にこそ強い」ということを知っている人達でした。土の器の中に隠されている神の力を知っている人達です。そして、今、私も彼らのようになりたいと思うのです。
私の人生はとうの昔に折り返し地点を超えました。以来、この人生が目指すべきことが日毎にはっきりしてきました。それはスーパーマンになろうとする途方もない道のりを歩き続けることではなく、「弱い時にこそ強い」という神様が約束してくださっている道を歩き続けることなのです。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
1)あなたはどんな「人間観」を持っていますか。人間とは一言で言うと何でしょうか。
2)あなたの周りにスーパーマン、スーパンウーマンはいますか。世の中のスーパーマン、スーパーウーマンの定義は何ですか?神の前にスーパーパーソンはいますか。
3)回心前のパウロについて人々はどんなイメージを彼に持っていたと思いますか。パウロは何を目指して生きていたのでしょうか。あなたの生き方とパウロのかつての生き方に重なることがありますか。
4)天からの強い光により地に倒れて視力を失ったという経験は彼の心にどんなインパクトを与えましたか(使徒行伝9章9節)。
5)時に「挫折」「失敗」「試練」は私達にとってどんなチャンスをもたらしますか。
6)「あなたがたは鼻から息の出入りする人に頼ることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか」(イザヤ2章22節)という言葉から私達はどんな自己認識をもちますか。
7)第二コリント12章7節-10節を読みましょう。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」という言葉は私達に何を教え、何を気がつかせてくれますか。
8)第二コリント4章7節-10節を読みましょう。私達が土の器であるということは私達にどんな人間理解を与えますか。土の器の中身について、この箇所はなんといっていますか。このことを知る時に、私達の生き方はどう変わりますか。