『また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである』(聖書:伝道の書4章4節)
アンデルセンの童話にある「裸の王様」において、実際には裸でいる王に対して「王様は裸だ」と民は言うことができませんでした。しかし、一人の少年は、はっきりと「王様は裸じゃないか!」と言ったのです。なぜなら、それが事実であったからです。同じようにソロモンは私達が口に出さないようなことを、はっきりと言いました。
「この世界を突き動かしているのは私達の妬みではないか!」と。
確かに、私達人間が織りなす人間ドラマには常に「比較」や「妬み」が内在しています。これらは映画、小説、ドラマには不可欠な題材であり、それは何も創作された物語の世界だけではなく、これらは私達の世界において、人を動かす大きな原動力となっています。今日、これらのことは幼稚園にも高齢者施設にも存在しているのです。
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妬みが動機になっていませんか?
2021年9月26日
私達は隔週の日曜日、「伝道の書」をみています。この書を書いたソロモンはイスラエルの三代目の王、神様から比類なき知恵と財が与えられた王として有名です。彼はこの知恵と財において当時の人間の頂点に立った人であり、その頂(いただき)から見た風景を伝道の書を通して私達に語りかけています。
多くの私達は、その頂きに立っていませんので、そこに少しでも近づけば、到達すればいいことがあるのではないか、全てがうまくいくのではないかと日々を過ごしています。そのような私達にとって、既にそこに立ったソロモンが、その山頂から語りかける言葉は、私達にとても価値のある言葉となります。
彼はその頂から言います。「なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった」(伝道の書2章10節)。
誰もが一度は言ってみたい言葉なのかもしれません。彼は自分の好むこと、喜ぶことをいつでも何でも手に入れることができる財力と権力を持ち合わせていたのです。しかし、実際に「彼がその手でなし、手に入れた全てのこと」をかえりみた時に、彼はそれらを「風をとらえるようなもの、空の空だ」と言ったのです。
すなわち、そのことは彼の試みの行き詰まりと失敗を意味することであり、そのような失敗を彼は隠すことなく、この伝道の書に書いているのです。
現代を生きる私達は、その彼の数々の失敗から学ぶことにより、日々の生活の中に知恵を得、私達がこれから選び取るべき道を明らかにすることができます。さぁー、今日は伝道の書4章4節から7節をみていきましょう。
4また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。(伝道の書4章4節)
ここには目が釘づけになるような言葉が記されています。それは4節に書かれていますように、ソロモンが見た全ての労苦と、全ての巧みなわざは、人が互いにねたみあってなされたものであるという言葉です。
同じ箇所を新改訳聖書はこう記しています「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」。
私達の世の中には多くの「巧みなわざ」があります。その業とは人が生み出した諸々の技術であり、またその技術から生まれる建築物や野球のバッティングの一振りやら、ありとあらゆるものでありましょう。
ソロモンはそれら自分の周りにある全ての「労苦」と「巧みなわざ」に目を留めると同時に、それに関わる者達の心と自分の心を観察し続けたのでしょう。
そうしましたら、何たることか、人々が称賛する業や作品がこの世に生み出されたことの根底にある原動力は「妬み」や「競争心」だということを見出したというのです。
アンデルセンの童話にある「裸の王様」において、実際には裸でいる王に対して「王様は裸だ」と民は言うことができませんでした。しかし、一人の少年は、はっきりと「王様は裸じゃないか!」と言ったのです。なぜなら、それが事実であったからです。同じようにソロモンは私達が口に出さないようなことを、はっきりと言いました。「この世界を突き動かしているのは私達の妬みではないか!」と。
確かに、私達人間が織りなす人間ドラマには常に「比較」や「妬み」が内在しています。これらは映画、小説、ドラマには不可欠な題材であり、それは何も創作された物語の世界だけではなく、これらは私達の世界において、人を動かす大きな原動力となっています。今日、これらのことは幼稚園にも高齢者施設にも存在しているのです。
ある者はこの妬みと競争心を動機として、それに突き動かされて生きます。その人達はこの強力な動機と共に諸々の事業を次々と成功させていくかもしれません。世界は彼、彼女を成功者と呼ぶかもしれません。
しかし、「妬み」には恐ろしい力があります。ソロモンは書いています。『憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう』(箴言27章4節)。これは一度、私達の心に妬みの思いが沸き上がったら、もはやそれは抑えきることができない、制止することができないようなものだということです。ヤコブは言います。『ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある』(ヤコブ3章16節)
そして、思うのです、ここに内なる心の平安はあるのだろうかと。いいえ、おそらく、その心には拭いきれない不安が常にあり、恐れがあるのではないか。
プロボクサーが一番、不安と怖れを感じるのはチャンピオンベルトを勝ち取った夜だということを聞いたことがあります。たしかにそうでしょう、彼がそのベルトを腰に巻いた瞬間から、彼は羨望の的となり、それを奪おうとする者達に勝ち続けていかないとならないポジションに彼は身を置いたのですから。
カインは弟アベルが捧げた供え物を神が顧みられたことに対して、激しい怒りと嫉妬に襲われ、カインを殺します。ヨセフの兄達は彼だけが父から特別な待遇を受けていることに耐えられなくなり、ミデアン人の隊商にヨセフを売り払ってしまいます。
イスラエルの初代の王、サウルは神に選ばれた王でありましたが、部下のダビデに対する嫉妬と妬みに突き動かされ、精神を病み、常に怖れと不安につきまとわれるという不幸な生涯を送りました。他人事ではない、私達はこの妬みとどう向き合ったらいいのでしょうか。
かつてイエス・キリストは言われました。「空の鳥を見るがよい」(マタイ6章26節)「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい」(マタイ6章28節)
この言葉は私達に語りかけます。あなたが目を注いでいる人々の姿や生活から目を離しなさい。それらを見聞きしているならば、あなたの心は曇り、あなたの心に妬みや苦々しい思いが沸き上がるだろう。
だから、そこに向けられている視線を変え、私があなたに見てほしいと願っているもの、空の鳥、野の花に目を注いでごらんなさい。
あなたは彼、彼女のふるまいや待遇、食べているものや着ているものだけを見ている。そうしている限り、あなたの心に私が与える平安が訪れることはないだろう。見るべきものを変えなさい。聞くべきことを変えなさい。
顔をあげなさい。今この時も天でなされている神の御わざを見出だしなさい。大空と大地でなされている神のみわざに目を留めなさい。既に私達がいただいている神の愛と恵みの言葉に耳を傾けなさい。
わたしは野の花、空の鳥と同じように、あなたをケアーし、あなたの上に祝福を注いでいるのだ。あなたはその祝福を受けるべきだ。私の御手の業に目を留め続けることにより、あなたの心が揺さぶられることから免れることができるのだ。
あなたはあなたが欲しているものによってその平安を得ようとする。しかし、私はそのことに対して結論を言うから、それをしかと心に刻むように。あなたはそのことによって、決して心の平安を得ることはできない。決してできない。その全てを試し、山頂に立ったソロモンの言葉が既にあなたの手元にあるではないか。
彼が山頂から見える景色をあなたに語っているではないか。彼の言葉を受け止め、それから学びなさい。
かつてソロモンが目指したゴールのないレースに、私があなたに与えている限りある人生の時間を費やしてはならない。それらを得るために心身を病む必要はない。
このことで私が与えたあなたの大切な一度の人生を終えてはならない。私はあなたの人生を誰かとの競争と位置づけていない。私はあなたが私と共にこの人生を走り抜くことを願っている。
私の愛と恵みは既にあなたに十分に注がれている。あなたは他者と比較し、そのことで舞い上がったり、落ち込むべきではない。ましてや誰かを妬んだり、それゆえに人のものを貪り、人生を棒に振ってはならない。
わたしはあなたをそのように作っていない。わたしの御心にかなわないことの中に、あなたを本当に幸いにするものはないのだ。
これまで見てきましたように、様々な事業に精力的に力を注いできたソロモンにとって、このことに対する気づきは大きく、心に思ったことでしょう「今までの私はいったい、何をしてきたのだ」と。こうして彼は彼の常套句をここでも言うのです「これもまた空しく、風を捕らえるようなものだ」と。
私達が妬みに突き動かされて生き、そのことに人生を費やしてきたのだということに気がつくこと、それはとても残念で、悲しいことです。これらのことゆえに、私達はこの伝道の書の、あの結論に再び戻るのです。
『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちにそのようにせよ』(伝道の書12章1節、2節)。
一般的に人は齢を重ねていくうちに、妬む機会を失い、競争する相手も減っていきます。自らの働きにより、競い合う場面が大幅に減少し、その代わりに自らの心身の健康に大きな関心が向けられていきます。
そのような晩年に、かつて妬みと競争心で勝ち得てきたものを私達の前に並べてみても、私達の心はそこに喜びを見出すことはできません。なぜなら、それらも私達の肉体と同じように古くなり、最後には失われていくからです。そして、言うまでもなく、それらを持参して主のもとに行くことはできません。霊柩車の後にユーホールが続くことはないのです。
鳥も花も妬みや競争を原動力として生きていません。彼らは神に与えられたものだけに頼り、自分がなすべきことをして、今日を終え、明日に向かい合います。そして、それは鳥や花だけではない、万物は神の恵みに満ちており、その中に私達は生きている。人間だけが妬みと競争心に駆り立てられているのです。
かつてイエス様は十字架にかかる前に父なる神にこう祈られました「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」(ヨハネ17章15節、16節)。
イエス様は私達に世と隔離して生きるのではなく、世の只中に生きることを願われました。しかしながら、ご自身はその世のものではないように、私達もこの世に属するものではないと言われたのです。
もし大学に自分が入学できたとするのなら、会社において昇級できたとするのなら、それはすなわち、自分に代わって、その願いが叶わなかった人がいるということです。それが忍びないから学校にも会社にも行かないというわけにはいきません。私達はしかと人間が背負っていかなければならないものを知らなければなりません。
このイエス様の言葉と共に先のソロモンの言葉を共に受け止めるのなら、こういうことになります。すなわちこの世が妬みに満ちた社会であるのなら、その只中で私達は世の者ではないかのように、生きていかなければならないということです。
それでは私達はどうしたらいいのか。自分の人生が風を捕らえるような、むなしいものにならないために、このことに気がつき、それをしかと心に刻んで生きていくのです。そのために、ここに一つの提案をします。
ルカによる福音書第14章28-30節にはイエス・キリストのこんなたとえ話が記されています。28あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、座ってその費用を計算しないだろうか。29そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、30『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。
イエス・キリストは私達が家を建てる時、自分の手持ちのものでこれらのことにあたる事はできるのだろうかと考えないだろうかというのです。そうしなければ、その建築の最中、私達は力を失ってしまい、邸宅を建てあげることができないからです。
私達は今、ソロモンの包み隠さない告白によって、自ら考える機会が与えられています。何を考えるのか。私達の人生設計です。それが、妬みと競争原理によって支配されているのであるのなら、私達の人生設計をコントロールしているのは私達の心にある妬みと競争心です。
コントロールされる、支配されると言うことは、私達は妬みと競争心の奴隷となることです。「奴隷」なのですから、それは言うまでもなく不自由な生き方です。その不自由さと共に生きていくのか、それとも私達は別の生き方を選ぶのでしょうか。パウロは言いました。
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(ガラテヤ5章1節)
主にある皆さん、先に私は「空の鳥、野の花をごらんなさい」と主イエスの言葉をお話しました。そして、今、皆さんに申し上げます。主イエス・キリストの十字架を見上げてごらんなさい。
あの主イエス・キリストの十字架に「妬み」とか「競争心」を思い起こさせるものがありますか。何一つないのです。
実にキリストの十字架における無条件の愛は、私達の妬み、そしてそこから生まれる諸々の罪というくびきから解放するために、私達に真の自由を得させるために、その命を引き換えに私達を解放してくださったのです。
主にある皆さん、自分の心の中にあるものを全て机の上に出してみて、この生き方で自分の人生は本当にいいのだろうか。
この動機は自分の人生を賭けるに値することなのか、そこに自分の時間と労力を注ぎ込んでいいのだろうか、そもそも、この「妬み」と「競争」という燃料で、私は最後まで完走できるのだろうか。
途中で息切れして結局、何もできず、自分のみならず多くの人達を巻き添えにしてしまうということにはならないのだろうかということを考えるのです。
そして、問うのです。私達がこの地上最後の日を迎える時、「私の人生は本当に幸いだった」と言うことができるだろうかと。
主にある皆さん、私達はこれまで一年と半年、コロナ下にあり、今もそれは続いています。外出を控えて、家に籠っている方がたくさんいるでしょう。それゆえに運動不足を補うために、ウォーキングをしている方もいるでしょう。
意識しないと気がつかないかもしれません。しかし、辺りを見渡せば、そこには、いつも神様が養っておられる鳥がいます。皆さんはコンクリートの隙間から芽を出す、無二の美しい花を見出すことでしょう。
そして、私達が歩いている時も、寝床に伏している時も、主イエス・キリストの十字架はいつも私達の前にあります。主は言われます、空の鳥を、野の花を見なさい、そして私の十字架を見上げなさい。
皆さんの家にはきっとテーブルと椅子がありますでしょう。そして、きっと聖書が手元にありますでしょう。座って、これまでの生き方を考え、残りの人生をどう生きるのか、祈り、考えてみませんか。
そのことをするのに、今、以上に適した時がありますか。もし、このコロナ下に私達が天来のメッセージを受けとめ、新しい人生を歩み始めることができるのなら、私達はそのことをコロナがもたらしてくれた最高の収穫と呼ぶのです。たとえ私達がコロナによる試みを得たとしても、私達はそこからお釣りを得ることでしょう。
私達は一人一人、神様から自分の人生に対する責任が与えられています。責任が与えられているということは、私達に自由が与えられ、私達は神に愛されているということの証拠です。
そして、この私達の人生は日々の決断の積み重ねです。そして、その決断をするのは、あの人、この人ではない、あなた自身なのです。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2021年9月26日
1)伝道の書4章4節‐7節には『また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである』(伝道の書4章4節)と書かれています。ソロモンはどんな光景を見聞きして、この言葉を書き残したと思いますか。
2)同じ箇所を新改訳聖書はこう記しています「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」。「競争心」には自分と誰かの「比較」が根底にあります。あなたはどれだけ人のことが気になりますか。その比較は、どれくらいあなたに影響を与えていますか。
3)箴言27章4節、ヤコブ3章16節を読みましょう。「ねたみ」は私達に何をもたらしますか。
4)この世の妬み、競争、比較に心が奪われているような私達にイエス様は「空の鳥を見るがよい」(マタイ6章26節)、「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい」(マタイ6章28節)と言いました。このことは私達の心をどう変えますか。
5)イエス様は「私達は世にあるけれども、世のものではない」と言われました(ヨハネ17章15節、16節)。あなたはこの世の中で生きるために、まず何をすべきでしょうか。ルカ14章28節から30節を読みましょう。
6)もし妬み、競争、比較が私達の心をとらえているのなら、私達はこれらのものの奴隷です。私達はこれらのものからどうしたら解放されるのでしょうか。ガラテヤ5章1節を読みましょう。