「目に見えるものが全て」であるなら、私達の人生はとてもシンプルです。それに徹していけばいい!でもそれは「いちばん多くのおもちゃを持って死ぬ人が勝ち」ということ。おいおい、アッシの人生はおもゃをかき集めて終わりでっか・・・・。

マック
今日お話した礼拝メッセージです。
よかったらどうぞ!↓
目に見えるものが全てですか?
2007年7月29日
サン・テグジュペリの書いた星の王子様に「本当に大切なものは目に見えないんだよ」という言葉があります。これを直訳をすると「本質は眼では見えない」という言葉です。
私達は今、皆さんのお顔を見ながらお話させていただいております。こちらから見える私の視界の中に例えば、よく頷いている方がいるとしますならば、あぁ、あの方は頷きながら聞いていて下さるなー。よく聞いていてくださるんだなーと思います。もし、コックリ、コックリとお舟を漕いでいらっしゃる方がいますなら、あぁ、あの方は神様の前に全てを明け渡しリラックスしていらっしゃるな。きっとお仕事でお疲れなんだなーと思います。
でも、実際は私がこの網膜から取り入れた情報が正しいとは限りません。頷いていて下さる方は、午後の買い物について考えながら頷いているかもしれませんし、コックリコックリとしていた方は実は目をつぶって頷いているのかもしれません。
時に私達は目に見える世界こそが全てであるかのごとくに生きます。しかし、実際は、私達の目に見える世界が全てのことを説明しているわけでもありませんし、聖書は私達にその目に見えない世界があるということを語りかけています。
そして、私達は時々、このようなことに気がつかされることがあります。2001年9月11日に、この国に起きた事を私達は生涯忘れることはありません。非道極まる悪行によって、実は私達は大切なことに目が開かれたのです。あの時、あらゆるコマーシャルやプロスポーツの放送が中止され、コメディアン達はテレビの画面から姿を消えました。私達は一瞬にして、自分達の生活の大部分は、特別にあまり重要ではない事の上に成り立っているということを知ったのです。数千人もの人達がいつもどおりに仕事に出かけながら、二度と帰ることがなかったのです。そのことは私達の目を開かせました。
あの時に離婚の計画を取りやめた夫婦がいます。子供達と過ごす時間を過ごそうと仕事の時間を削った父親や母親がいます。しばらくの間、教会に足を運ぶ人達が激増しました。故郷にいる父母に電話をする人の数が増えました。
私達は葬儀に出席することがありますが、その時に友人や家族が故人の銀行口座やその人の体型や、その人が所有していた化粧品がどんなにか素晴らしかったかを語っていることを聞くことはありません。その時に彼らが語るのは、故人の優しさや寛大さや家族への愛なのです。
私達は目に見えないものを全く捨てているのではありません。ただ、そのものを他のものに置き換えて生きているのです。そして、イエス・キリストがこの地に来たその理由は私達の目を見えるものにではなく、その見えないものに私達の心の目を向けさせるためであったのです。そして、その目に見えないものを突き詰めていくと私達は神という存在に行き着くのです。
今、お話したような出来事が私達の日常生活に降りかかる時、私達はしばらくの間、そのことを心にとめるのです。しかし、多くの私達は日が経つにつれて、また見える世界だけにわが身を置くようになっていくようです。私達は時々、このサン・テグジュぺリの言葉を引用しますが、ほとんどの場合、あたかも目に見えるものが全てであるかのように人生設計を立てていきます。
今日の落穂にも書きました。イギリスの格言の中にこのような言葉があるそうです「もし、あなたが幸せになりたいなら、床屋さんに行きなさい。そうすれば、一日、幸せになれるでしょう。もし、一週間、幸せでいたいなら、結婚しなさい。もし、一ヶ月、幸せでいたいなら、車を買いなさい。もし、一年、幸せでいたいなら、家を作りなさい。もし、あなたが一生幸せでいたいなら、正直者でありなさい」。
「結婚の喜びは一週間」ということには大いに異議があります。ましてや結婚が一週間で、車が一月、家が一年というあたり、この一文を書いた方の個人的な事情というものがあるのでしょうか?とにもかくにも、この格言は大切なことを語っています。これらの「計画」は全て目に見えるものです。そして、それらには賞味期限がついているというのです。かろうじて「正直」という目に見えないことが一生、幸せとなる秘訣だというのです(そして、この「正直」という性質は、人が見てなくとも、私達を見つめている神がいるという前提があって、はじめて完全なものになるのです)。
今、この教会堂の中に神様をはっきりと見ている方いますか。天使が宙を舞っているのを見ているという方いますか。牧師の後ろにアブラハムやペテロが立っているのが見えますという方いますか?(いましたら、後でゆっくりとお話を聞かせてください)。
新約聖書のⅡコリント4章18節にはこんな言葉があります「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」。
聖書のメッセージは「見えるものが全てではない」というものなのです「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」と書かれているとおりです。そして、その見えないものの背後に神がいるということ、またその見えないものは永遠に続くというのが聖書が言っていることなのです。
先ほども言いました。私達は神を具体的な姿として見ることはできません。しかし、目に見えない風が吹く時に、そこにあったものがかすかに揺れ動くのを見ることはできます。そして、その時に、確かに風がそこを吹きぬけたのだということが分かります。私達は神が確かにおられるとことを目の中に収まる姿形としてとらえるのではなく、その神がなした、今もなしている働きによって神が確かに私達と共にいることを知るのです。
詩篇の記者は夜空を見上げて、そのことを歌いました(詩篇8篇3-4)。「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」
この記者は神を目の当たりに見たのではないのです。しかし、彼は月と星を見ました。私達が今晩見るものと全く同じものです。当時の彼は、地球と太陽と月の距離が少しでも違っていたら、地球は焼き尽くされるか、あるいは全てが氷に覆われてしまうというような、宇宙の微妙な繊細な法則を知りませんでした。しかし、彼は悟っていました「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星をと見て思います」。これらの天体の運行にはあなたの指のわざがあり、あなたがそれらを設けられたれあなたの英知がそこに確かにあることを認めます。物理学者のフリーマン・ダイソンという人は「宇宙は私達がやってくることを知っていた」と言っています。最高の知識をもっている人には、宇宙はいきあたりばったりの偶然には見えないのです。そこに確かに創造者、クリエイターの存在を見るのです。
詩篇139篇にはこんな言葉があります「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされた時、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。あなたの目は、まだできあがらない私の体を見られた。私のために造られたわがよわいの日の、まだ一日もなかった時、その日はことごとくあなたの書に記された。神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんと私に尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう」(13、15-17)。
プールの水を入れ替えたことがある人は、ポンプの働きをよく知っていることでしょう。あのポンプが水をろ過してきれいな水に入れ替えるためには半日以上の時間がかかるのではないでしょうか。同じように、私達の体の血液は全て4分毎に腎臓でろ過され老廃物が排除されているというのです。それが、70年、80年、止むことなく続いていいるのです。プールのポンプにはそれを作った設計者がいます。朝、起きたらプールの底にポンプが誕生していましたということはありません。一年に数度使うポンプですらそうなら、私達の血液を体中に休むことなく行き巡らせる私達の体はいかがでしょうか。体の機能を知る時に、見る時に、私達は見えない神様の存在を知るのです。
ヘブル書の記者はこれらの神の働きから神を崇めた人達のことについてこう言っています「信仰によって、わたしたちはこの世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現われているものから出てきたのではないことを、悟るのである」(11章3節)。
私達は目に見えない神がなされた働き、今もなしている働きによって神の存在を知ることができるのです。私達はこれらのことを天地万物の中にあらゆる生きとし生けるものの中に見いだすことができるのです。
そして、これは私達にとって一番、身近な自分自身の人生にあてはまるのです。私達はその生涯の中に「神は白い衣を着て、髭をはやしていて、杖を使っていて」とその姿形を見ることはありません。しかし、私達の人生、日々の生活の中にさえ、神様が確かに働いていてくださることを知るのです。
旧約聖書の中にヨセフという人がいます。この人は自分の兄弟にねたまれてエジプトに奴隷として売られるという憂き目に合いました。人から裏切られるということは辛いことですが、血を分け合っている兄弟達から捨てられるというのはどんなに辛いことでしょうか。
そして、そのエジプトにおいても冤罪を受けて、獄屋につながれます。獄屋においては、そこから脱する徹底的な機会を得ますが、今度は裏切られるというわけでもなく、攻撃を受けるというのではなく、ヨセフが助けた人が彼のことを忘れてしまうというある意味、過酷な状況に向き合うことになるのです。
「ねたみによる裏切り」「冤罪」そして「忘却の彼方に飛ばされる」というようなことを経験しますと人は誰も信じることができなくなし、絶望の中を、そして投げやりな生き方をするようになります。しかし、聖書はこれら絶望的なヨセフの生涯を淡々と書き記しながら、ところどころに決して消すことができない希望をも書き加えているのです。
すなわち彼が奴隷として売られていった先でも「主がヨセフと共におられた」(創世記39:2)ということ、獄屋に放り込まれた時にも「主がヨセフと共におられた」(創世記39:23)ということが書かれているのです。
ヨセフは「何でこんなことが!?」という所を通りました。彼が兄弟達に売られた時に。獄屋に入れられた時に。恩が完全に忘れ去られた時に「なんで!」が起きたのです。そして、この「なんで?」は明らかにヨセフの目の中に飛び込んできた光景なのです;穴に落とされて上から自分を見下ろす兄弟の顔。獄屋の冷たい石の床。自分より先に出て行った者の後姿。これらの光景をヨセフは見たにちがいない。しかし、その時に目には見えませんが神様は働かれていたのです。
皆さん、信仰をもつことは何と幸いなことでしょうか。先日、ブログにも書いたのです。私達は「押してもダメなら引いてみろ」という言葉が日本にあるように「なんで」が起きた時に何とかしようとします。中国には「四面楚歌」という言葉があります。完全に孤立して、自分の周りには敵が取り囲んでいるという、絶対絶命を意味する言葉です。そして、どちらも私達が重力に支配されて宙に浮くことができないように、これらは平面という限られた空間だけに適応される言葉です。すなわち、これが私達人間世界の限界です。しかし、私達が信仰を持つ時に、すなわち、私達が目には見えないものに、心の目を注いでいく時に私達はこの限界を超えていくのです。
皆さん、ヨセフの生涯の最後をご存知でしょう。彼は「どうして」という所を度々通り、その時の試練というものを目の当たりに見たのですが、神が彼と共におられました。そして、最後に彼はその生涯、後にエジプトの宰相にまでなり、自分を売り払った兄弟と共に全ての家族が飢饉で苦しむ中、エジプトに呼び彼らを救うのです。
エジプトの宰相となったヨセフの仕返しを当然、恐れた兄弟達に対してヨセフが言った言葉が彼の生涯全てを物語っていました「恐れることはいりません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたは私に対して悪をたくらみましたが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供達を養いましょう」(創世記50章19節―21節)。
誰の目にも兄弟達がヨセフにしたことは悪でありました。しかし、神のみ手は働いていたのです。神はそれを全て良きに変えられたのです。
皆さん、信仰を持つことは、私達の近視眼的な平面的な視点に無限の神の空間が加わることです。あぁ、その人生のなんと味わい深いことか。神様はマイナスと思えるところに働いていてくださり、それをプラスに転じてくださるのです!
私事ですが、柳川で伝道している母が現在、大分の病院に入院しているのです。本当なら今、私はその資格が与えられて市民権を申請している時なのです。全て順調であるならば、母は来春にはこちらに来る予定でした。しかし、ここにきて全ての計画を白紙に戻すような事態となっています。最初は「なんでだろう?」と思っていたのです。しかし、段々と感謝が湧いてきました。
感謝1: このことがアメリカに渡ってきてから起きなかったこと。
感謝2: 柳川教会の兄弟姉妹をはじめ、義理の父母家族の愛を感じること。
感謝3: サンデェイゴ教会をはじめ多くの主にある兄弟姉妹によって祈られて
いること。
感謝4: 現在、頭の先からつま先まで徹底的に検査がなされていること。
感謝5: そして、MRIをはじめ諸々の検査によって問題はないということが
判明していること(このような機会がなければ、これだけの検査を受
ける機会はないでしょう)。
感謝4: 日本の病院なので、長く入院できること。医者の方から原因不明の病
気は歓迎しますと大学病院の威信にかけて多くの医師が究明に当たっ
ていてくれるいうこと。そして、このことによって、現代医学へ貢献
できていること。
感謝5: 猛暑と台風と大雨のシーズンに町で一番安全な場所に居られるという
こと。
感謝6: これまで出産と盲腸以外に入院した事がない母がベットで過ごすとい
う経験をしていること。もし、こちらに来たらその経験が多分にいか
されるということ。
感謝7: 一番、感謝なこと。それは、母が毎日見ているものは素人にはてん
で分からない医療機器や白衣を着た医師の姿でありましょう。しかし、
その背後にヨセフと同じように「主が共におられるので」という信仰
に立つことができるということ。
感謝8: 今のところ空白ですが、これから必要な時に神様はさらに新たなる発
見をさせて下さることでしょう。
母の人生のテーマ聖句はローマ書8章28節のみ言葉です。すなわち「神は、神を愛する者達、すなわち、ご計画に従って召された者達と共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私達は知っている」という言葉です。新改訳聖書には「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神が全ての事を働かせて益としてくださることを私達は知っています」と書かれています。
どちらの言葉にも「神が働く。神が私達と共に働く」と書かれています。この短い言葉の中に私達の人生に起きてくる全ての出来事の中で働く神の姿があるのです。神は万事合い働いてくださる。それだけで舐めればしょっぱくて食べれたものではない塩も、他の食材と交われば甘みが増すのです。あの悲しい出来事とこの緊急を要する出来事とあの出会いの背後に神がおられて、あい働かせて最善として下さるというのが私達の信仰なのです。そして、その働きを目にすることによって、私達はその背後におられる神を見るのです。新緑の葉は揺れるのです。目に見えない風によって。
皆さんに今日、おうかがいしたいのです「あなたの人生、目に見えるものが全てですか?」。もし、そうであるなら私達の人生の主導権は目に見えるものが握ります。私達の生涯はそれらの物によって、左右されて終わることでしょう。
しかし、私達が自分の人生に神の存在を認めるなら、心の目でその働きを見つめていくなら、私達の人生は日々、味わい深いものとなるでしょう。料理の世界で味わい深い味というのは、隠し味が利いているということです。神の存在を認めて、そのお方に己が人生を委ねて生きていくということは、万事働かせて益としてくださる神様の私達一人一人の人生に働いていてくださる隠し味を確認していくことなのです。そして、それらは万事益となるものなのです。目に見えないものを見るかのごとく歩んでいく。そこに味わい深い私達の生涯の秘訣があるのです。お祈りしましょう。