私達は車のオイルチェックや家のシロアリチェックなどは定期的にしっかりとするかもしれません。自分の誕生日のある月に毎年、メディカル・チェックをする人を私は何人か知っています。しかし、それらよりももっと大切なことは、自分の心を省みるということではないでしょうか。私達は自分以外の人のことはよく観察するかもしれません。色々な人に対して、それなりの自分の思いとか評価というものがあるでしょう。しかし、自分自身はどうでしょうか・・・。
マック
今日、お話した礼拝メッセージです。
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あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあながたのうちにおられることを悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。しかし、わたしは自分達が見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。Examine yourselves to see whether you are in the faith; test yourselves. Do you not realize that Christ Jesus is in you- unless, of course, you fail the test? And I trust that you will discover that we have not failed the test. コリント人への第二の手紙13章5-6
自分の心を見つめよ
あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。
忙しいという字は心を滅ぼすと書きます。どうして心を滅ぼすのでしょうか。色々と考えられるでしょうが、その中の一つに自分自身の心を省みる時間がもてないということが挙げられるのではないでしょうか?私達は車のオイルチェックや家のシロアリチェックなどは定期的にしっかりとするかもしれません。自分の誕生日のある月に毎年、メディカル・チェックをする人を私は何人か知っています。しかし、それらよりももっと大切なことは、自分の心を省みるということではないでしょうか。私達は自分以外の人のことはよく観察するかもしれません。色々な人に対して、それなりの自分の思いとか評価というものがあるでしょう。しかし、自分自身はどうでしょうか。私達は自分自身を省みているでしょうか。
この手紙はパウロという人によってコリントにある教会に宛てて書かれたものです。コリントという街はとても栄えた町でありまして、ローマ帝国の最盛時にはローマに継ぐ都市であったと歴史家は記しています。数年前にこの街を尋ねる機会がありました時に、このコリントはローマのように大きな町ではありませんが、そこには立派な集会場や市場もあり街には上水道があり、市場の店の床下にも溝があり、夏でも食品を冷蔵することができる設備があったり、上流階級の人々の間には既に水洗トイレまでもが常設されていることを知りました。
そして、それと同時に知ったのは、この街は色々な問題を抱えていることでも有名であったということでした。コリントといえば何千もの売春婦が存在することで有名な町でもあり、今日の町々がそうであるように、そのような町にはありとあらゆる問題が隣り合わせてうごめいていたのであり、その様々な問題がこのコリントにある教会の中にも起こっていて、パウロもとても厳しい言葉を用いて彼らを戒めているのです。故に彼はここでもう一度、自分の信仰を省みてみなさい。自分自身を吟味してごらんなさいとここで「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい」と言っているのです。
ここに記されている反省するという言葉と吟味するという言葉はそれぞれ英語でExamineとTestと訳されています。それなりの規模をもった町でありましたから、この町の人々は色々なことに忙しく追われていたり、また色々な誘惑に直面していたのでしょう、パウロはこれらの人達に向かい、しかと立ち止まり自分自身をExamineすること、自分をTestすることを勧めているのです。そして、それは忙しく、常に自分の信仰が試されるような現代社会に生きている私達への語りかけでもあるのです。
先ほど申しましたように私達は自分以外の諸々のチェックは十分にしています。どちらかというと、それらの人もしくは物というのは、しっかりと自分の目に全体像として映るものですから、私達はそれらを念入りに吟味することはできます。
しかし、あの人、この人に対しては色々なことを考えていても、気がつけば自分を見つめることがなかったゆえに、知らぬうちに精神的に参ってしまっている、立ち上がれないでいる、または孤立してしまっているということがないでしょうか。
一日、15分でいいから私達は一人になる時間は持てないでしょうか。自分の一日を振り返り、キリストにあって自身を省みることは不可能な話でしょうか。そのやり方は色々あるでしょう。朝、静かな時をそれに宛てることもできるでしょうし、ウォ-キングをしながら、自分を省みる人もいるでしょうし、バスタブにつかりながら色々なことを考えることもあるでしょう。最近出されたレポートによりますとサンデイェゴは全米7番目の渋滞都市だといいます。一年間のうち、私達の多くは何十時間もフリーウェイの渋滞の中で費やしているのだといいます。この時間を用いることはできないでしょうか。日記を書くことによって、自分自身の心を思いめぐらす人もいるでしょう。私はその日一日のことを簡潔に5・7・5の俳句にしている人を知っていますが、短い一文を書くことによって、この方はしっかりと自分を見つめて生活しています。
私達は目まぐるしく私達の内に入ってくる日々の大量の情報やゴシップによって引き上げられ成長することはなく、私達の成長というのは静かに自分を省みる反省からなされていくのではないでしょうか。「子供が一人でいる時」という本がありますが、この本の結論は(全ての状況に当てはまるのではないのですが)、小さな子供が友達の輪から外れて一人でいることがあっても、親が「まぁ、〇〇ちゃん、一人ぼっちでかわいそー」などと言って、その子の大切な一人の時間の邪魔をするなというのです。子供は今、静寂の中でとても大切な時、すなわち自分自身を発見する時を一人で過ごしているというのです。
私達には自らを省みる時が必要です。私達が住むこの米国、そして日本が今日抱える大きな問題は私達が忙しい毎日に忙殺しており、この一人の時間をなかなか持てないところにあるのかもしれません。どうでしょうか、皆さんの一日のスケジュールに自分を省みる15分を確保しませんか。
二つ目のことをお話しましょう。それは「いつまでも自分の心を見つめるな」ということです。
いつまでも自分の心を見つめるな
それとも、イエス・キリストがあながたのうちにおられることを悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。しかし、わたしは自分達が見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。
皆さん、この牧師は何をアマノジャクのようなことを言っているのかと思われたと思います。「自分の心を見つめよう」と言いながら「自分の心を見つめるな」という。
これはどういうことなのでしょうか。私達が心を省みるときに一日に嬉しかったことや楽しかった事、また色々な感謝という感情が思い起こされるでしょう。そして、同時に今日の聖書の言葉にあるように、自分自分の信仰ということについて思い廻らす時に、言うべきではなかったのに言ってしまったことや、すべきではないのにしてしまったことが思い起こされるでしょうし、あの人にこう言われた、こうされたというようなことも心に沸いてくることでしょう。そして、それらの思いに相まって自分の信仰の足りなさや、自分を情けなく思いや、不安や時に怒りというものまでもが沸いてくるかもしれません。昔のことが思い起されて、いつまでも後悔や怒りの思いで心が支配されてしまうかもしれませんし、将来に対する漠然とした不安がいつまでも心から消え去ることがないかもしれません。
形は違いますが今日、見ています聖書の言葉を書いたパウロという人も、深く自らを省みる人であったことが彼が書いた幾つかの手紙の中からうかがいしれます。ですから、その時に生じてくる暗澹たる思いというものを重々承知していたのでしょう、今日の箇所の後半においてこんなことを続けて書いているのです「それとも、イエス・キリストがあながたのうちにおられることを悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。しかし、わたしは自分達が見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい」。
すなわち、パウロは「あなたがたは自分自身をよく省みなさい」と言いながら、それで後はあなた自身の問題だと突き放すことなく、そのあなたたちの内にはキリストがいるのだからとここで言っているのです。このことを悟りなさい。このことを悟らなければ、あなたたちは偽物だ。英語の聖書にはテストに失敗すると書かれています。
皆さん、誰もわが内を見つめることによって、いつも喜びと感謝に溢れるという人はいません。日常生活の中で自分の信仰がどれだけ保たれているのかということを思う時に、いつも勝利の人はなかなかいません。これだけ厳しく評価され、いつも「あなたにはあれが足りない、これもない」というメッセージを受けるようなこの社会にあって(いいえ、それが私達が保護されるべき場である家庭であっても)、私達は充足や満足といった感情以上に自分の足りなさや配慮の少なさや愛のなさが示されてきます。そして、自己嫌悪に陥ったり、自分を責めたりします。「どうしてまじめな人は病気になるのか」という本がありますが、本当に真摯に自分を見つめる人は、それだけ正直に自分の欠けにも目を留めますから、やがて心が疲れ果てて病んでしまうのです。
でも、聖書はそのように心の欠けや傷を多く見つけなさいと私達に語ってはいないのです。そうではなくて、そのような欠けだらけの心のうちにキリストがいることを悟りなさいというのです。すなわち、私達は自分の心を見つめ、省みることが必要ですが、いつまでも自分の心の貧しさ、失敗に思い悩んでいてはいけません。そのように生きる必要がないのだよというのが聖書のメッセージなのです。
日本に内村鑑三という人がいました。彼はあの「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士から影響を受けた人ですが、その内村鑑三が米国のアマスト大学に留学をしていました時に学長のジュリアス・シーリーから大きな感化を受けました。
このシーリー学長がある時、自らの内なる罪に日夜、苦悩する内村に優しくこう諭したというのです。「鑑三、君は君の内のみを見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。なぜ己に省みることを止めて十字架の上に君の罪のために死なれたイエスを仰ぎ見ないのか。君がしていることは、子供が植木を鉢に植えてその成長を確めたくて、毎日その根を抜いて見るのと同じだ。なぜ、自分自身を神と日光に委ねて、安心してその君の成長を待たないのか」。
この忠告によって内村の魂は目覚めたのです。彼は後にこう語っています 「私はこのとき初めて信仰の何たるかを教えられた。信仰とは読んで字のごとく信ずることであって、働くことではない。修行をしたり善行によって救われるのではない。神の子イエスを信ずることによって救われるのであるとは、シーリー先生がはっきりと私に教えてくれたことである」。
内村鑑三の回心は一日、ニ日の間に起こったのではなく、何年もかかって完成したものです。彼は死ぬまで、私達と同じようにしばしば試練に遭い、しばしば罪責の念におそわれました。しかしそのつど、十字架のイエスを仰ぎみて、これを乗り越えたのです。
皆さん、私達は心を省みるべきです。しかし、それだけでは私達はこのテストに失敗します。日本語訳がここに「にせもの」と書いていますように、私達は自分の内なる不完全さと傷だけを見つめて、わが内にキリストがいることを知らずに、そのキリストを見上げて光を得るということをせずに、自分の内の欠けだけを抱えながら生きていると、やがて表向きは善き人を演じる偽善者となるのです。パウロが書いているようにわが内にキリストがいるということを知らなければ、私達は己が心と言動が矛盾するにせものになってしまうぞとパウロはここで言っているのです。
しかし、私達はその内側の欠けだけに目を留めるのではないのです。パウロは私達は偽善者として捨てられたものではないということを言っているのです。私達の心に私達と共におられるイエスを仰ぐのです。信仰は信じて仰ぐことです。今日はどうか、明日はどうかと植えた種を掘り返すことではないのです、天から降り注ぐ日の光に目を向けることです。
この一週間、皆さんの日常にはどんなことが起こりましたか。昔の思い出の写真を整理しながら、自分の過去を振り返った方いるでしょうか。あるいはご自身の健康や年金について書かれた郵便物を読みながら、これからの将来について思いめぐらした方がいるでしょうか。オフィスやキッチンにいる時にその心にはどんな思いがありましたか。
今、その皆さんの思いはどこにあるのでしょうか。J・Hハントという私達が会った事もない人が、私達と同じようなことを考えて、そこからどう自分が生きたらいいかということを悟り、こんな詩を書きました。
私は後ろを振り向かない
神は実りのない努力を知っておられるから
それは無駄な時間であり
罪と後悔に終わる
私はそれらをすべて神の御前に置く
神はその記録を消し去り
恵みのゆえに忘れてくださる
私は前を見ない
先のことは神がすべてご存知である
道は短くとも長くとも、ついには
私を家まで導いてくださる
そしてすべての試みに際して
いつも神が私と共に臨んでくださる
そればかりか、課せられる重荷を
神は私に代わって背負ってくださる
私は周りを見ない
もしそうするなら、恐れが私を襲い
人生の休みなき海の騒ぎは
非常に荒々しくなる
また世界は暗くなり
争いと悪に満ちるようになる
そして慰めと安息という希望は
はかなく消え去るであろう
私は自分の内側を見ない
それは私を惨めな思いにさせる
なぜなら自分の内側には
私が信頼を置くべきところがないのだ
そして、失敗と欠点
埃にまみれて、ぼろぼろになったはかない努力
それらのもの以外は何もない
しかし私は上を見上げる
そう、イエス・キリストの御顔に目をとめるのだ
なぜなら、そこでこそ
私の魂は休息を得、私の恐れは静まるから
そして喜びと愛と光が
暗闇にとってかわる
そこには完全な平和があり
全てを成就した希望がある
ハントと同じように私達と同じような暗澹たる気持ちを知り、その解決方法を悟ったパウロはヘブル人への手紙においてこのような言葉を書き残しました(へブル12章1節‐3節)。
①こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。②信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。③あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
自分を省みることが私達には必要です。それによって私達は昨日よりも、今日よりも明日、この地上に幅広く広がって成長することができるでしょう。しかし、それと同時に私達は天を見上げることが必要です。その時に私達の成長は地上に広がる成長から転じて私達は天に向けて成長するのです。
お祈りしましょう。