“「先生、その方はクリスチャンですか?」診療室で最後によく聞かれる質問である。私はそんな時、困ってしまう”
20年も前に工藤信夫というクリスチャン精神科医が「信仰による人間疎外」(いのちのことば社)に書いている一節です。
昨日の「排他的」「独善的」ということに関することですが、このようなことは、かねがね私自身も見聞きすることです。いいえ、私自身、そのような質問と応答をしていることも認めざるをえません。
「息子の担任教師、とても優しいのよ」。「その人、クリスチャンじゃない」「それが、良心的な修理工場でさ~」「オーナーはクリスチャンじゃない」「いい会計士がいるんだけど」「その人クリスチャン?」
「クリスチャン」を「アメリカ人」とか「男性」とか「東大卒」と置き換えてみましょう。区別されている、除外されている寂しさを感じるのではないでしょうか。そんなにクリスチャンは偉いのでしょうか。そんなにクリスチャンはいい仕事をするのでしょうか。クリスチャンだけが信頼できて、そうじゃないと信頼できないのでしょうか。しまいにはクリスチャンが育てたキュウリやブロッコリーしか食べませんなんてことに・・・。(こんなことを書ている牧師はクリスチャン?少なくとも自分ではそう思っています)。
もし、私達がこのようなことを日常的に考えているとしたら(考えが言葉や態度となります)、私達が排他的、独善的と思われるのは当然です。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、誰も誇ることがないためなのである」エペソ2章9節
「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」ピリピ4章8節
マック
追記:イエス様が一杯の水を求めたのはサマリアの女でした(ヨハネ4章)。
僕も同じような事を感じていました。
http://blog.ncm2.net/2009/02/post-aa90.html
クリスチャンてのがなんぼのもんだ。と思えば思うほど、この歌が心に迫ります。
http://blog.yoshiomaki.com/2009/10/super-best-072b.html
M師匠
私達は皆、しょせんは目〇〇、鼻〇〇、耳〇〇ですね。違いなるものを言えば、目、鼻、耳の前に「赦された」がつくだけですね。
いよいよNCM2の来訪ですね。お一人お一人の霊性と体調と守られますようにとお祈りしています。
主にあって
大倉 信