誓い

1960年代、多くの若者達は前の時代の全てに疑問を抱き、自分達が自由と平和と愛に基づく、新しいユートピアを建設していると信じていた。性革命、富の分配、ドラッグ・・・。それから半世紀がたち、あの時代があったからこそ私達は今、自由と平和と愛を甘受しているという人はいない。それどころか、その時に産み落とされたものによる傷が未だ癒されず私達は苦しみ、そこから肥大したものが私達を窮地に追い込んでいる・・・。今のところ、ジョン・レノンが歌った「あの世界」が実現する気配はない。
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今日の私達の心に巣食う思いは「ばれなきゃいい」という思い。この滑走路に乗り、私達は突き進んでいる。道徳・倫理・教育改革・果ては刑務所の増築・・・、どれをとってもやっぱり「ばれなきゃいい」というスローガンに立ち向かうことができるものはない・・・。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。
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今日、私達の世界には色々な問題があります。確かにその問題は私達が“どこに住んでいるのか”ということによって大きな違いがあります。今、連日、ニュースで取り上げられているミャンマーとサンディエゴでは直面している問題は違います。しかし、たとえそれが日本であっても、インドネシアであっても、アメリカであっても、私達は場所には関係なく様々な問題に向きあいます。

特に現代はインターネットというものが、この世界に出てきたことにより、私達は様々な便利さを手に入れましたが、反対に私達はキーボード一つを押すだけで、それまで知りえなかった諸々の諸悪にも簡単に触れることができるようになりました。そして、これらインターネットは国境というものを取り払ってしまったのです。

今日、子供を育てる親達が将来に対して何にも不安がないという人は少ないのではないでしょうか。彼らは暗闇に解き放たれた無垢な人間で、はたしてこの闇の中を彼らはどう歩んでいくのかということが、親達の正直な気持ちではないでしょうか。そして、言うまでもないこれは子供達だけのことではなくて、当の大人がもはや自分の生きる指針とか、自分が寄って立つことや、あるいは心にふっと沸いた思いによって人生を全て棒に振ってしまうようなそんな危さの内に生きているのです。

それでは、そのような世の中にあって、私達を本当に守り、そのガイドラインになってくれるものとは何なのでしょうか。それは「諸々の行き届いた保険」ではありません。そもそも、保険は何かが起きた後に有効となるもので、それ自体は事後処理の役割を果たすものです。「修練した健全な肉体と精神」でもないのです。私達はこれらを持ち合わせているように思える人達のつまづきを常に見聞きしています。

この世にあって、私達を本当に守るのは「神に対する私達の誓約」であります。これが、私達の人生を導くのです。もし、皆さんの中に子育てをしている方がいるとしたら、同じ状況にいる者としてお尋ねしたいのです「私達は何に寄って立って、私達の子供をこれから育てていくのでしょうか」もし、皆さんの中に色々な誘惑にあって毎日を過ごしている方がいましたら、同じ誘惑に会い、それに屈してしまうような弱さを抱えている同じ人間として皆さんにお尋ねしたい「私達は何に寄って立って、自分の人生を歩んでいくのですか」。

時代は違えど、聖書の中にも同じようなことを考えた人がいました。この人は詩篇の一篇はこんな詩を書いているのです。     

①悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。②このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。③このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

ここに書かれている3つの節を3つのポイントに置き換えて今日はお話しましょう。

悪と誘惑はなくなりません  
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである」。     

                          
このところでこの詩篇の記者は「悪しき者」「罪人」「あざける者」について触れています。これらの人達は、この詩篇の記者が書いているようにいつの時代にもいるものです。今までもこれからも悪者の策略がなくなることはありませんし、人をあざけり、悪の道に陥れようとする人はいくらでもいるのです。

先日も日本で「裏サイト」というインターネットのサイトがあることが報じられていました。そこには例えば「一緒にATM強盗をしませんか」とか「誰それを殺してください」というような求人案内が出ているというのです。そして、それに対して多くの人達がそこに集まってくるというのです。その番組が取り上げていましたが、最近起きた凶悪犯罪の14,5件は、実際にその犯罪に個人的な感情や恨みなどを持っていない求人に集まってきた者達によってなされたというのです。

そして、これらの話し合いは暗い路地裏にある組織のオフィスで取り交わされるのではなくて、たとえそれが中高生であっても日中のマクドナルドでハンバーガーを食べながら、携帯電話によってこの恐ろしい取り決めをすることができる時代に私達は生きているのです。

この詩篇の作者はそのような悪の道に入っていく人達の姿を目の当たりに見ていたのでしょう。ここにはそのことが実に明確にシンプルに書かれています。すなわち、これら悪に落ち込んでいく時に私達はまず、その周辺を歩き始める。そして、はじめは注意して足早に去っていたその場所に立ち止まるようになる。そして、やがて、その所に腰を落ち着けるようになる。そこから動かなくなる、動けなくなる。

子供達が色々な問題を起こしていく時にこのステップがなされていないでしょうか。大人たちが、それがどんなものであれ誘惑に落ち込んでいく時に、このステップがなされていないでしょうか。私達の周りを見て下さい。今日も明日も、このステップに足をすくわれる人の数は後を断ちません。いいえ、人事ではない、私達自信、いつ我が足が止まり、そこに腰を落ち着けるのか分からないのです。

私達が街を歩けば、そこには「さぁ私のもとに来てみて。さぁ立ち止まってみて。それを手に取ってみて。使ってみて。誰も見ていないから。楽しいから、さぁまあまあそこに座ってみて」というメッセージで満ちています。いったい、こんな世界に生きる私達はどのように生きていけばいいのでしょうか。今日の2つめのポイント、「主の掟を喜ぶ」ということを見ましょう。

主の掟を喜び思う  
「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」。

聖書は「神の掟を喜び、それをいつも思う」人について書いています。別の言い方をするならば「私達に神が与えられたルールを守ることを誓い、そして、それを喜び、いつも思う」ということが、私達がこの世界に生きるために絶対に必要だということです。

ブッシュ大統領はかつてサウスカロライナで選挙運動を始めた時にこう言ったといいます「行政府は金をばらまくことはできるが、私達の心に希望を持たせたり、人生に目的意識を持たせることができない。これは教会やシナゴーグやモスクなど宗教のある場所で見出される」(ブッシュさんはクリスチャンですが、一国のリーダーであるがゆえに「教会」とだけ言う事はできませんね)。

このブッシュ大統領の言葉には「行政ができることと、宗教ができることは違う」ということが込められています。すなわち、人が悪の道を歩かない、立たない、座らないということに対して行政が出来ることには限界があるのだということです。すなわち、そうさせないために法律によって人を規制することはできますし、その人を厳しく罰することはできますが、その人の意志によってその悪に生きないようにさせる内なる心を行政は決して与えることができないということです。そして、それは行政のみならず、学問や道徳ということにおいても、それは不可能なのです。

その内なる心を守ることができるもの、それは神の掟への誓いなのだと聖書は私達に語りかけるのです。そして、このような「掟」とか「ルール」というとやれ、「それじゃ自由がない」とか言って顔をしかめる人がいますが、この詩篇にはそのような湿っぽいことは書かれていないのです。

すなわち、ここには「このような人は主のおきてを喜ぶ」と書いてあるのです。そして、このことはこの箇所だけではなく、例えば詩篇の19篇7、8節にもこう書かれているのです。⑦主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。⑧主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

これらの詩篇記者は主の掟に生きることは喜びだと言うのです。時に私達は「掟を守る」という言葉には反応しますが、「その掟を喜ぶ」ということを見落としがちなのです。なぜなら私達は「掟」という言葉と「喜ぶ」という言葉をペアーとして考えたことなどないからです。「掟やルール」というものは堅苦しいもの、自分を束縛するものであるという考え方の中を私達は生きているからです。しかし、私達は冷静に私達の周りの生活を見回すべきです「果たして何にも縛られずに自由に生きている」と言っている人達が本当に幸いなのかということです。

フィリップ・ヤンシーという作家はこんなことを書いています。1960年代、それは騒然とした時代だった。若者は前の時代の全てに疑問を抱き、自分達が自由と平和と愛に基づく、新しい種類の社会を建設していると信じていた。性革命は結婚という拘束を解放した。様々な雑誌が「情欲が戻ってきた!」「貪欲は素晴らしい」と書きたてた。大学教授達も精神に変化をもたらすドラッグの長所をたたえた。

政治的革命は富の再分配をしたかもしれないが、そのことによって私達は暴力と死という恐ろしい代償を払った。性革命の結果残されたものは一体何なのだろうか?そこには崩壊した家庭、十代の妊娠、性的感染による病気の流行であり、女性解放を歌いながら、とんでもない、いっそう女性は搾取された。貪欲は企業を倒産に追い込み、従業員の貯蓄を帳消しにした。ドラッグは魂を解放するなんてことは、嘘っぱちでこのドラッグは肉体だけではなく、私達の精神までも変え、今日のアメリカ社会を巣食う諸悪の根源となっている。

皆さん、これらのことは「自由」の名のもとに生み出されたものです。そこには快楽というものが確かにあったかもしれません。しかし、そこに本当の自由があったのでしょうか。いいや、私達はますます不自由な人間となりました。そこに喜びがあったでしょうか。「快楽」と「喜び」の違いについて、説明する必要はないと思います。私達はついこの間、私達の世界に起きたこの様々な苦い実験から学ばなければなりません。

そして、気がつけばその目を遠くに見渡さずとも、私達の手元には数千年来、変わらない聖書の言葉があるのです。「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」

皆さんはこのような生涯を歩みたいと思われないでしょうか。自分で自由のためにと思って手に入れたものによって縛られている自分。しかし、私達が神の掟の内に歩む時に、その時に私達は本当の喜びを手に入れることができるのです。私達の家族に、わが友に、我が子に、わが孫にこのような生涯を送ってもらいたいと思わないでしょうか。3つめのポイントをお話しましょう。

命の泉の傍らに生きる幸い 
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」。

3つ目のことです。この箇所を見ますと「このような人は流れのほとりに植えられた木のようだ」と書かれています。そして、その木は実を結び、その葉もしぼまない、そして栄えるというのです。

今日、私達の世界を包み込んでいる一つの大きな事は「渇き」です。それは、水分による肉体的な渇きということではなく、私達の霊的な渇きです。この渇きは私達の内側から激しく迫るものであり、時にこの渇きを満たすために私達は、あらゆる犠牲を払うことがあります。

今日の世界の人々の経済における消費というものは、この人間の渇きに巧みにつけいるものです。私達はこの「説明し難い渇き」を埋めるために、必死になっているのです。すなわち、心にある決して渇きが満たされないそのところを、どうにか何かをもって満たそうとしているのです。その「何か」をあえて全てここで説明する必要はないと思います。

あのヨハネ4章に書かれているサマリアの女の出来事を思い出してください。この女にはかつて5人の夫がありました。そして、今は夫とは呼べない男性と共にいる。彼女の心には渇きがあったのです。どうしようもない渇きです。彼女はそのパートナーを変えるたびに思ったに違いない「この人こそが私の渇きを満たしてくれる人だ」。しかし、気がつけば5人の夫を持つ女となっていた。さすがに、もう結婚は考えられず、でもやはり、その渇きは消えず、また別の人が自分と共にいる。

この時、イエスが彼女に語りかけた言葉は「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4章14節)というものでした。今日のみ言葉によるならば、私達が神の掟の内を歩むならば、私達は流れのほとりにある植えられた木のようなものなのだというのです。そこから存分に命の水を受けることができるのです。そして、そこからはやがて実が結ばれていくというのです。その葉は枯れないというのです。

あの創世記に書かれているアダムとイブは神の前に罪を犯し、自らの裸を恥ずかしく思い、自身の体をイチジクの葉で隠したのです。しかし、このイチジクの葉は枯れたのです。しばらくはよかったでしょう、しかし、朝の葉は夕にはしぼんで枯れたのです。

皆さんがこれまで自分の渇きを癒そうと思っていたものは、このイチジクの葉のようではないでしょうか。このサマリアの女にとって、自分の前を通り過ぎて言った男性達はまさしくこのイチジクの葉だったのです。私達のショッピング・バッグを通り過ぎていった物たちも、このイチジクの葉でありうるのです。私達が自由の名のもとに、追い求めていった諸々のことは、このイチジクの葉だったのです。

しかし、この詩篇の言葉はこの朝、皆さんに約束している「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」。

先に申し上げたように私達の世界の闇は深いのです。そして、私達はその中で渇いているのです。そして、その渇きを満たすために私達は色々なことをしてきましたが、ますます渇きは増すばかりです。
あなたはどうですか。今まで歩んできた過去を全て打ち消すことはできません。しかし、明日からのことなら私達にもまだ何かができるのです。

そして、その私達が今日からできることが聖書の一番最後のページに書かれています。そのイエス・キリストの言葉をもって、このメッセージを閉じましょう。

かわいている者はここに来るがよい。命の水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(ヨハネ黙示録22章17節)。

お祈りしましょう。

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