アーサー・ホーランドというワイルドな宣教師がいますが、彼がまだ若い時に当地、サンデイェゴで経験したことを時々語っています。当時、彼はレスリングで全米屈指の実力を持っていました。常に勝つか負けるかという中で戦っていた格闘家の彼の鋭い眼光は、常に自分の前に立つ人間の目や表情から瞬時にその心を読み取る訓練がされています。そんな血気盛んな彼は若者達が集まる教会の熱気に影響を受けたのでしょうか。いいえ、アーサーはたまたま訪ねたお年寄りの多く集まる教会で、お年寄り達の顔からにじみ出てくる輝きに嘘偽りはないということを知ったというのです。
アーサーはみなぎる肉体的な力をもっていました。ある意味、肉体的な力はその時、ピークであったかもしれません。しかし、その彼が肉体的な力を失った方々の姿にただならぬものを見たのです。そして、それが彼の人生を変えたのです。
アーサーが出会ったお年よりは、確かに見た目はお年よりなのです。しかし、その内なる人は神の恵により日毎に新しくなっていたのです。それは若いアーサーがもっていないものであったに違いありません・・・。

マック
今日、お話した礼拝メッセージです。よかったらどうぞ↓
歳を重ねる意味と祝福
コリント第二の手紙4章16節-18節
2007年9月2日
「だから私達は落胆しない。たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い艱難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私達に得させるからである。私達は見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(Ⅱコリント4章16節‐18節)。
聖書は興味深いものです。創世記において人は830歳とか920歳まで生きたと書かれています。こういうことをお話しますと、皆さんは「ああ、やっぱり聖書は神話なのか」と思われるかもしれませんが、この人間の寿命というものは聖書に記されているある出来事を境に劇的に短くなっているのです。
その出来事とはノアの時代に起きた全世界を包み込む洪水です。創世記1章31節などを見ますと、神はご自身が創造された世界について「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」という思いを持っておられたということが書かれています。すなわち、地球環境を激変してしまったであろうノアの大洪水が起こる前の世界とは、人が数百年も生きられるような完全な環境であったということでしょう。酸素濃度が高ければ、燃える火も強く輝くように、全く汚染されていない環境の中、これまた全く何も汚染されていない人間の肉体の命はとてつもなく長かったのでしょう。
しかし、その洪水の後に聖書は丁寧にこのような言葉を記しています「主は「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしよう」(創世記6章1‐3節)。120年!洪水後、すなわち地球規模の環境破壊後に人の寿命が劇的に短くなりました。今日、世界の長者というものを調べてみますとギネス・ブックが認定している人達の99%は皆、120歳前に亡くなっているのです。それが、110歳でも130歳でもなく、聖書が言うように120歳であるということに驚きを隠しえません。この創世記の120という数字はやみくもにここに書かれているわけではありません。
さて、そう考えますと私達に与えられている人生というのは最高で120年ほどではないかと思います。思えば、洪水前のように920年生きてもいいよなどと言われると「うーん、ちょっと遠慮したい」などとも思ってしまうこともあります。すなわち、私達は最高で(これは稀でありますが)120年、この地上での生が与えられているということであり、私達が産声をあげた時から私達は毎日、歳をとっていくのであります。
そこで、この年をとるということについて今日はシンプルに2つのことをお話したいと思います。1肉体の変化 2心の変化
肉体の変化 たとい私達の外なる人は滅びても
まず最初に私達の肉体の変化ということをみてみましょう。子供の肌を触ってみると彼らの体内では毎日、新しい細胞が生まれているんだなーと思わされます。化粧水もクリームもつけないのにスベスベした肌。そして、色々な情報を簡単に記憶してしまう能力。彼らの頭の中を覗いたことはありませんが、日毎に脳細胞が増えているのだなということが分かります。
それに比べ私達はどうでしょうか。お肌のことは申し上げません。私達はこのために日夜努力しているのです。でも、現実として何もせずにお肌が若返ることはなく、故に私達はどうにかこうにか瑞々しいお肌を保つことに心を配るのです。私達の記憶というようなことにつきましては、これもなかなか大変なことでありまして、忘れないように紙に書いておきましょうといいながら、その紙をどこに置いたのか忘れてしまうようなことは、これは日常茶飯事なのであります。
そう考えますと、私達は肉体や記憶の衰えということに対して肩を落すことはあっても、希望をもつことは到底できないように感じことが多々あるのです。
なぜ、神様はこのような肉体の構造を造られたのでありましょうか。なぜ、私達の体は年を重ねるごとに新鮮にはならず、老いていくのでしょうか。なぜ、若い時には三段ジャンプして階段を上っていたのに、一段、のぼるのに時間と注意を払わなければならなくなるのでしょうか。どんなにがんばっても肉体は老いていきます。オードリー・ヘップバーンもクリーント・イーストウッドもやはり若き時の姿ではないのです。
伝道の書3章1節には「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と書かれています。私達の世界に季節があるように、私達の人生にも四季があるとはよく言われることです。春、夏、秋、冬。皆さんは今、どの季節にいるでしょうか。若い時は春、夏でしょう。そこには成長があり、新鮮さがあり、活発な活動があります。
しかし、秋、冬となるとアメリカですなら夏時間が終わり、夜が長くなる、葉は落ちる、北風は吹く、熊は冬眠にはいると、そこに成長、新鮮さ、活発な活動を見いだすことができなくなります。ナゼ、神はこのように人の営みにも季節を定められたのでしょうか。
私達は見落としかちなのですが、若い人と年を重ねていく人との間には大きな違いがあります。それは、年を重ねていく人達の方が、断然、「神の恵み」ということに目が開かれていくのです。私達の肉体的な力がそぎ落とされていくということは、それだけ神の恵みに私達が心を向けていくことになるのです。
朝、目覚めてベッドから飛び起きた十代の若者が「あぁ神の恵みだなぁー」とはあまり思わないものです。でも、年を重ねていき、誰かの命を守る立場におかれたり、自分の体がかつてのように自由が利かなくなると、私達は「神の恵み」に対してとても繊細になるのです。そして、その「神の恵み」ということこそが、聖書の真髄のメッセージなのです。
今日の箇所を書いたパウロもそのことをしっかりと理解していたのでしょう。この同じ手紙の12章9節に恵みについてこう書いているのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力が、わたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。
私達が歳をとるということは、弱いところが増えるということです。75歳の方が18歳の時よりも今の方が体力があり、走るのも早くなったということはありえません。確かに私達の肉体は弱くなる。しかし、神の恵みは私達に対して十分であり、その神の力は私達の弱いところに完全にあらわれるというのです。
ここに先にお話したことの証拠があるのです。歳をとるということは、自分の肉体の弱さを感じることです。でも、そこに神の力が完全に注がれているというのですから、神が与えて下さる恵というものにも、気がつくのです。そこに感謝が生まれるのです。さらに神により頼もうという思いがわいてくるのです。
そして、はっきり申し上げますと、恵み、感謝、委ねるということは聖書が言っている最も大切なことなのです。歳をとるということは、この聖書の最も大切な事柄を肌身に感じて生きることができるということなのです。すなわち、若い時以上に神が私と共におられるということを実感することができることなのです。まさしく、私達という神の作品が完成に近づくその仕上げの時なのです。そして、その時にこそ、神の力が一番、私達に注がれているのです。
心の変化 内なる人は日毎に新しくされていく
二つ目のこと、それは私達の心に起こる変化ということです。私達が歳をとるとその心はどうなるのでしょうか。歳をとるということは経験を積むことであり、一般的にはその経験によって私達は賢くなっていくものです。しかし、それと同時に私達は歳をとることにより、だんだんと希望というものを失うことがあります。
先ほど、お話した四季のように、春はこれからツボミから花が咲く希望があり、夏であるならば葉を伸ばし、ぐんぐん成長していく希望があります。しかし、秋になると葉が落ちてくる。そして待ち受けている冬には全ての木々から葉は落ちていくのです。
今日、開かれている手紙において、パウロはそのことを「落胆」という言葉で表しました。確かにそうです。その季節の移りかわりに対して私達の思いを寄せるならば、多くの人生経験を積んだとしても、歳をとっていくということは、やはり私達にとって時に希望を失わさせるものでもあるのです。ましてや、先ほど申し上げたように肉体が衰えてくるという事は、明らかに私達の心の持ちようにも大きな影響があるわけです。
それでは聖書が言っている歳を取るという事はどういうことなのでしょうか?もう一度、パウロの言葉を読んでみましょう「だから私達は落胆しない。たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく」(Ⅱコリント4章16節‐18節)。
私達は普通なら落胆する。若さを失い落胆する。しかし、パウロは言った。私達は落胆しない。なぜ?なぜなら、たとい私達の外なる人は衰えていっても、私達の内なる人は新しくされていくから。ここには一年に一度、新しくなるのではなくて、日毎に新しくされていくから私達は落胆しないと書かれているのです。
こんなことあり得るのでしょうか。外が衰えたら、内も衰えてしまうということなら分る。しかし、外は確かに衰えるけれど、内は新しくされる。
アーサー・ホーランドというワイルドな宣教師がいます。彼はサンデイェゴで信仰をもったと言っています。まだ若い、まさしく夏の盛りのことです。皆さん、ご存知のようにレスリングで当時全米でも屈指の実力を持っていたアーサーはどうして信仰を持ったのか。若者達が集まる教会の熱気から影響を受けたのでしょうか。そうではありません。彼は常に勝つか負けるかという中で戦っていた格闘家ですから、その鋭い眼光によって、自分の前に立つ人間を瞬時に読み取る訓練がされています。その彼がお年寄りが多く集まっている教会に行き、そこでお年寄り達のお顔から出てくる輝きに嘘偽りはないということを知ったのです。
この若者アーサーはみなぎる肉体的な力をもっていました。ある意味、肉体的な力はピークの時であったかもしれません。しかし、その彼が肉体的な力を失った方々の姿にただならぬものを見たのです。そして、それが彼の人生を変えたのです。
アーサーが出会ったお年よりは、確かに見た目はお年よりだったのです。しかし、その内なる人は、先にお話ししたように神の恵により日毎に新しくなっていたのです。それは若いアーサーがもっていないものであったに違いありません。
今日、開かれているコリント第二3章18節には「わたしたちは皆、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と書かれています」。
アーサーはこのお年寄りの中に主と同じ姿に変えられていく栄光を見たに違いありません。
実は、アーサーと同じような体験を私もしました。私は23歳の冬、インド、カルカッタのスラム街にある施設でマザーテレサに二度お会いしました。ちょうど、その時は朝夕に持たれるミサの最中で、冷たい石の殺風景な部屋で年若いサリーを身につけたシスター達を見守るかのように、その最後尾に彼女は小さく座っていました。しがない日本からのバックパッカーであった私は、その2メートル先にいる彼女に声をかけることもできずに、ただただそのしわくちゃの横顔を眺めていました。
先日、このマザーが生前書いたという手紙が公表されたということで、色々なメディアがこれを取り上げていました。その手紙には彼女が「自分の不信仰に悩んだ」ということ、また「自分が偽善者ではないか」と考えたと書かれていました。
先日「信じられない時もあります」というメッセージを礼拝で語りましたが、私達の手元にある1700ぺージにもなるバイブルの中から「人間の不信仰に関する記事」を削除したら、その厚さは半分ほどになってしまうのではないかと思います。そして、さらにこれは驚くべきことですが、人の不信仰の記事が削除されたら、「神の無条件の愛と恵み」もバイブルから同時に削除されてしまうのではなかろうかと思います。そして、その時にバイブルはもはやバイブルではなくなり、私には、皆さんにお話するメッセージは何もなくなります。
私のその時の旅の理由はマザー・テレサに会うことだったのです。そのために夜昼、アルバイトをしてインドまでやってきたのです。すぐ声の届く所に彼女は座っていたのです。でも、私は彼女に一言も声をかけずに、目を合わせることもなく日本に帰ってきたのです。
なぜ、私は彼女に声をかけることができなかったのでしょう。私の年齢は23歳。人間的には一番、体力もあり、活力もあり、物怖じせずに振舞える時です。そんな男が、かつげばヒョイと持ち上げられるようなシワだらけの小さな小さなマザーの前に立つことすらできなかった。
なぜでしょうか。彼女の横顔が「神の愛と恵み」で輝いていたからです。そして、やっとその横顔の輝きの意味がマザーの真実な手紙を読んだ時、分かったのです。それは彼女の輝きは「彼女が常に100パーセント神だけに信頼を置いてきたというような神的な輝き」であったのではなく、彼女があの世界一の貧民街と言われているカルカッタで一日に何度も失望に包まれてしまう街で「時に人間として不信仰に陥ってしまうような中でも、その度に神の愛と恵みに立ち返っていった輝き」であったのです。
まさしく、それは長い年月をかけて造られたマザー・テレサに注がれ続けた神の愛と恵みのイブシ銀とでもいいましょうか。その時「未来は俺の手の中にある」なんて思っていた無知で傲慢な若者には、このマザーの輝きの本当の意味が分からなかったのです。しかし、彼女が自分の不信仰を自覚していたということを知るにつけ、ただただ神の恵みにより頼んでいた彼女の晩年の輝きの理由が分ったのです。
主にある兄弟姉妹、特に年齢を重ねていかれる方々よ、聖書の約束は私達が年を重ねれば重ねるほどに、その福音の真髄を経験できるようにされるということです。それは、私達がますます神の恵みを知ることができるということなのです。
ゼカリヤ書14章7節には「夕暮れ時に、光がある」と書かれています。それまで自分の力と度量により頼んでいた私達が、全く神と共に歩む、神に委ねて歩んでいく。そのような生涯を夕暮れの黄金の光になぞらえて言うことは誇張でしょうか。いいえ、それこそがバイブルが私達に語りかけていることなのです。
そして、この中にはお若い方々もいます。まさしく人生のステージの春・夏を生きているというかたもいるでしょう。でも、今日の話は自分とは無関係とは思わないでください。
伝道の書12章の1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えなさい。悪しき日がきたり、年が寄って、「私にはなんの楽しみもない」と言うようにならないうちに、そのようにせよ」という言葉があります」。若いうちにキリストと出会ってください。そして、キリストの上に生涯のプランをたててください。そして、もし将来「歳はとりたくない」というような思いにかられる時がきたら、思い起こしてください。それは素晴らしいことなのだ、いよいよあなたは神の恵みを知り、完成に近づいていると聖書は私達に語りかけるのですから。