ビートたけしさんが「振り子の法則」ということを書いている。どういうことかというと、振り子は片方に振られた分だけ、もう片方に同じように振られるということ。すなわち悪の方に大きく振れた人は、一度、向きを変えるならば対極の善の方にも大きく振れるということ。
今日、礼拝で話したパウロという男もまさしくそんな人だった。彼なくして今日のクリスチャニティーはないというほどに、彼は聖書の中のキーパソンなのだ。しかし、その彼はかつて殺害の息を弾ませながらキリスト教徒を捕えては獄に入れている男でもあったのだ・・・・。
今日のメッセージです。
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パウロはこう生きた
2007年7月22日
ピリピ3章4節‐12節
もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
「たった一度の人生のためのガイドライン」というテーマで今日まで4つのことをお話してきました。まず最初に「目的あってこその人生」、そして「本当の成功とは」ということ、そして「修正が必要な時」、そして「価値ある投資とは」ということです。
これからもそう考えているのですが、テーマごとに話されたシリーズの一番最後にはそのテーマに生きた聖書中の人間というものを見ていきたいと願っております。そして、今回のテーマを思いめぐらす時に、私達はこの人以外にいないというような一人の人間を聖書の中に見出すのです。すなわち、今日までお話ししました4つのテーマに生きた人間としてパウロという人の生涯を今日はお話したいと願っております。
これまでお話した4つのテーマにならって4つのポイントをお話します。
目的あってこその人生
今回のテーマで一番最初にお話したことを覚えていらっしゃるでしょうか。まず、最初に「目的あってこその人生」ということです。私達は自分がどこに向かって歩んでいるのかということ、何を目指して歩んでいるのかということの大切さをみてきました。そして、目的があってこそ、私達は今日も明日も歩んでいこうという力が与えられるということを見てきました。パウロという人はどんな人生を歩んだのでしょう。
パウロ、キリストに出会う前までの名はサウロはキリキヤのタルソという町で生れました(使徒9章11節,21節,39節,22章3節)。彼が生れ育った家はかなり裕福であったと言われています。なぜなら、彼は生まれながらのローマ市民であったということが聖書には記されており、それは当時の世界最強の国家の保護の下にあるという大きな意味を持っていました(使徒16章37節、38節、22章25節‐29節)。ローマの市民権というのは、彼の家がある程度の富と地位とを持っていなければ得ることができなかったものだからです。
そんな彼は若い時に、一世紀の最も偉大なラビ(聖書に記されている律法の専門家であり教師)の一人、ガマリエルのもと学ぶためにエルサレムにやってきました(使徒22章3節)。このことは青年パウロの優秀さと、やはり彼の両親が有力者であったことを示すものだといわれています(優秀であれば誰でも学べるという時代ではありませんでした)。それが彼に与えられている能力だったのでしょう、勉学が進むにつれて、この若いユダヤ教の学生は彼と同年輩の多くの者たちをしのぐようになり、先祖からの伝承に人一倍熱心な者となりました。そのことに関して彼は当時の自分自身をこう記しています「同国人の中で私と同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖達の言い伝えに対して、誰よりもはるかに熱心であった」(ガラテヤ1章14節)。
このガマリエルのもとで学び、その同門の仲間達の中でもぬき出て優秀だった彼に将来に対する目的が芽生えていったことは確かにうかがいしれます。言うまでもない、彼はガマリエルのように、否、それ以上の律法学者になるということ、そしてその厳格な教えに生きていくということが彼の将来の目的になったに違いありません。
彼は確かにその目的に向かって、着実に歩んでいたのです。しかし、その彼の生涯にある出来事が起こりました。そして、その時に彼のその目的は変化していくのです。二つ目のことをお話しましょう。
「本当の成功とは」
それは「本当の成功」ということです。よく人の「生い立ち」ということが言われます。ある人は生まれがいいとか悪いとか。馬にではなく人間に向かっても「サラブレッド」などという言葉が使われることがあります。そのような意味においてパウロはサラブレッドでありました。彼の学は進み、彼は人がうらやむようなエリートコースを歩み出したのです。先日も見てきましたが、彼の生涯はまさしくその若さにも関わらず「成功した人生」として多くの人の目に映ったに違いありません。
すなわち、パウロは100年に一度出るか出ないかと言われている律法の教師ガマリエルのもと学び、将来はそのガマリエルをも越えていくような律法学者になり、多くの人達からの賞賛と尊敬を勝ち得ていったことでしょう。ユダヤの歴史書に彼は偉大な律法学者として名を残すことになったでしょう。
しかし、これは現代を生きる者達にも共通する思いなのですが「人間の成功」というものは「自分以外の人が自分を見てそう思う」ということと「自分で自分の生涯を見てそう思う」ということには大きなギャップがあるようでです。
先日、イチローがオールスターゲームのMVPとなりました。スーパースターと呼ばれる選ばれた男達の中から彼がベスト・オブ・ザ・ベストに選ばれたのです。そして、同じ時に彼が今も属しているシアトル・マリナーズとの再契約が5年、120ミリオン・ドーラーで交わされました。日本円ですと146億円というような年棒です。多くの人は彼を違和感なく「成功者」と呼びます。しかし、自分が本当の成功者であるか否かを一番、知っているのは「本人」なのです。
ピリピ3章4節‐6節においてパウロは書いています。「 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」。
第三者から見てもパウロは憧れの人であり、その経歴は輝いていました。しかし、彼の心の中には何か足りないものがあったようです。彼はここで「私には肉の頼みがある」と書いています。その「肉の頼み」というのは、彼自身の優越的な民族性、その中でも自分がが偉大な一族に属しているという事実、倫理的な生活においても、学問の分野においても熱心に自分の信念に生きているということであり、このことにおいて私はそれらに寄り頼んで生きているというのです。
しかし、これら彼が寄り頼んでいたものをパウロは「肉」と呼んでいるのです。肉というのはいつまでも保てるものではないということを意味します。それは、確かに目に見えるものではあるのですが、私達の肉体というものが日夜変化するように「肉の頼み」とはまさしく、しばし霧を掴んでいるようなものなのだということです。故にどんなに彼の生まれが偉大なものであっても、仲間を凌ぐほど優秀な頭脳を持っていたとしても、また情熱的に生きていたとしても、その心に本当の平安がなかったのではないかということです。
ここにも書かれているように彼の信念と情熱は教会に集う者を徹底的に迫害するということであり、エルサレムでは多くのキリスト者たちを牢に入れ、さらにパレスチナの外の地域に安全を求めて逃れた信仰者たちをエルサレムに連れ戻すことにもかかわっていたのです(使徒7章58節-8章3節、9章1節ー2節、Ⅰコリント15章9節、ピリピ3章6節)。彼によって捕えられる者達やその家族達の涙の上に彼の成功があるということを一番、よく知っていたのはパウロ自身だったことでしょう。
そして、そのような迫害者であったパウロはステパノというキリスト者の殉教の場に立ち会っていたということが聖書には記されています。すなわち、ステパノがイエスのことを宣べ伝えている。その彼に向けて石が投げつけられて殺されていく時に、彼はその石を投げる者達が脱いだ上着の番をしていたということを聖書は記しているのです(使徒行伝7章54節―)。
そして、その時にパウロは見てしまったのです。石に撃たれながらも輝いているステパノの姿を。そして、ステパノが大声で叫んで言った「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」という言葉を。
彼のこの経験は、それまでの自分の生涯に大きなクエスチョンを投げかけたに違いありません。自分はステパノの持っていないものを全て持っている。しかし、自分には彼のあの輝きと内なる静かな、しかし、何にも屈しない勝利がない。ステパノは確かに自分の持っていないものをもっている。人は自分を成功者と呼ぶ。しかし、はたして自分は本当にそうなのか。彼の心には「本当の成功とは」という思いがその日から消えずに残ったに違いありません。
「修正が必要な時」
3つ目のこと。それは「修正が必要な時」ということです。人間とはそう簡単に自分の生き方を変えることなどできないものです。パウロもこの疑問を持ちながら、変わらずに家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らしまわっていたのです(使徒行伝8章3節)。そんな彼はある日、キリストの弟子に対する脅迫と殺害の息をはずませながらダマスコという町に向かっていました(使徒行伝9章1節)。そうしますと天から光がさして「なぜ私を迫害するのか」という声と共に「なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちを蹴れば、傷を負うだけである」という声が聞こえました。語っておられる方がどなたかをパウロが尋ねると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが返ってきました(使徒行伝26章14節)。
そして彼は「町に入るように、そうすれば何をしなければならないか告げられるであろう」(使徒行伝9章5節)と教えられ、食べることも飲むこともせず、目が見えないままで三日間を過ごし、イエスがいわれたように、キリストの弟子の一人でアナニヤという者に出会い、アナニヤを通して再び視力を回復するのです。そして、パウロはキリスト者としてバプテスマを授けられ、彼の生涯はそれまでの生涯を軌道修正していくのです。その時から、彼が生きるべき本当の目的が明確にされていったのです。
パウロはイエスに出会うことにより、それまでの人生を修正し、新しい生涯を歩み始めたのです。伝道の書に「全てのことには時がある」と書かれているように、神は少しづつ彼の心の中に備えをしておられました。とりあえず精一杯、自分のより頼むことに邁進する時。しかし、その中に飢えかわきを感じるようになる時。そして、肉に頼む自分が明日も分からないどんなに無力なものであるかということを神はパウロに教えるために彼の視力を奪われたのです。
私達が目を閉じて、この会堂を出て八尋ホールに行くことに困難を覚えるようにパウロもたとえ地位や名声を得ていても、小さな目二つが機能しなくなるだけで、自分が直面しなければならない現実というものを体験しました。これらのことがパウロの転換期となったのです。そして、それは彼が何に向って歩んでいけばいいのかという生涯の目的をも変えたのです。
皆さん、私達は誰しも修正すべきものがあります。そして、その中で最大のものは、私達が神から離れた生きているということを軌道修正して私達の人生を神様の上に作り直すことです。
パウロは言っています「わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜った、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし得さえしたら、この命は自分にとって、少しも惜しいとは思わない」(使徒行伝20章24節)。
「価値ある投資とは」
最後に「価値ある投資とは」ということです。先週も「天に宝を蓄える」という御言葉を共に学びましたが、パウロがもし、イエスと出会うことがなければ、彼はたくさんの宝を地上に積んだ事でしょう。しかし、彼はイエスに出会ってから、宝を天に積むことを知りました。いいえ、その醍醐味を彼は知ってしまったのです。
今日、読んだ箇所ですがピリピ3章において、彼はその彼が自分が生きる本当の目的を知り、その人生を方向転換して、その自分の生涯の投資先を変えて生きたということについて、こんな告白をしています。
もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。
これは彼がもっているもの全てが無価値で必要のないものではないということではなくて、それらは確かに価値あるものであるけれど、そんなことはイエス・キリストにあって生きる、そして自分の生涯をイエスと共に歩むことができるということに比べたら自分にとってそれはふん土のようなものだとパウロは言うのです。それらが損にすら思えるとパウロはここで言っているのです。また、彼はローマ書8章31節―39節においてこう書いているのです。
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
パウロは自身を賭けることができる価値ある投資先を見出しました。そして、それはイエス・キリストの愛でありました。彼は患難も、苦悩も、迫害も、飢えも、裸も、危難も、剣も、イエス・キリストの愛から私達を離れさせることはできないと言ったのです。
今日がこれまでのシリーズの最後のメッセージです。最後に、まとめて申し上げて今日のメッセージを終わります。誰も否定できないとても現実的なことをお話します。「私達の人生はたった一度だけです」。たった一度しか経験できないことに対して、一番、私達がしたくないことは後悔しないことです。そしてそのためには私達のゴールに何があるのかを知ることが必要です。すなわち、私達の人生の目的とは何かということです。このことは多くの私達には隠されているものです。しかし、聖書はそのことに対して明確な答えをもっています。
そして、私達は、明日には変わってしまう、無くなってしまうかもしれないような揺れ動く成功に自らをかけるのではなく、本物の成功に目を向けるのです。そして、そのために私達は生涯の軌道修正をするのです。それまで自分が自分の人生の主役のように生きてきたその心の王座にイエス・キリストに座っていただくのです。そして、そんな生活を送りながら天に宝を蓄えるのです。その宝は決して朽ちることはありません。
パウロはピリピの教会に宛てて書いた手紙に「キリストの日に、わたしは自分の走ったことが無駄でなく、労したことも無駄ではなかったと誇ることができる」(ピリピ2章16節)と書きました。私達には常に片時も離れることなく、私達を修正している熟練したお方が共におられます。そして、このお方は常に私達が進むべき道を指差してくださる。間違った方向に向かうならば、もし私達の方からこのお方のみ声を聞こうとするならば、確かに進むべき道を示してくださる。やがて私達がその目的とした地にたどりつくならば、そこでは私達の蓄えられた宝が誰にも奪われることなく、そこにはある。そして、イエス自身が私達を抱きしめてくださる。
こんな素晴らしい人生ありません。パウロも確かにそのような人生を歩んだのです。最後にパウロが明日の自分の命も分からないというような獄中から書いた手紙の一部分を読んで終わりましょう。
そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう(ピリピ1章18節‐26節)。
私達はパウロを幸いな人と呼ぶのです。そして、私達も彼と全く同じような幸いな生涯を送ることができるのです。
お祈りしましょう。