信じられない時もあります!

「王様は裸じゃないか!」と少年は叫びました。そう、有名なアンデルセンの「裸の王様」です。

「信じられない時もあります!」と牧師は語りました。そう、今日の礼拝メッセージのタイトルです。

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信じられない時もあります
2007年8月12日
ヨハネ20章19節-29節 

「明暗」という言葉があります。明るい一面と暗い一面ということです。よく「明暗を分ける」と言うような言葉を私達は使います。すなわち、ある出来事によって、それが成功するのか、失敗するのかということです。そして、この場合の「成功は明」であり、「失敗は暗」なのであります。

そして、これらにならって考えますと、私達が使う信仰という言葉は「明」であり、不信仰という言葉は「暗」であるということが分かります。すなわち、それは揺るぎない確固たる信仰こそが絶対に私達には必要ということであり、不信仰などというものは決して受け入れ難い、そんな不信仰な思いを持っている自分は責められるべきだ、クリスチャンとして失格なのだという暗黙の考え方が私達にはないでしょうか。

しかし、現実にはどうでしょうか。皆さんの中で「私はいつも寸分の不信仰さもありません。いつも100%、神に信頼し信じています」という方いらっしゃいますか(私は今、牧師としてとても牧師からぬことをお尋ねしています)。

この辺りのことについてクリスチャンで精神科医であられる工藤信夫という医師がとても興味深いことを本に書いています。この工藤医師は自身の長いクリスチャンとしての生活を振り返り、実際自分は「いつも迷っていたし、悩んでいた。そしてその根底にあるのは、はたして神は本当に全ての事態に関与しておられ、まったき善といえるだろうか」という問いを持っていたというのです。

しかし、この工藤医師がその後に書いているのですが「実はこうした神に対する素朴な疑問と探究心こそが、私を神に向かわしめ、その関係を強固なものとした」ということを工藤医師は知ったというのです。すなわち、つぶやきや不平が自分の信仰を豊かにしたというのです。そして、A・W・トウザーという人の言葉を引用して「健全な不信仰」ということを書いているのです。

先の「明暗」について考えてみましょう。この明暗ということを明るいことと暗いこととして考えて見ます時に、このことを見事に活かしている芸術が東洋世界にはあります。皆さんもご存知のように水墨画であります。

言うまでも無いこの墨絵は墨汁の微妙な色使いによって、明るいところと暗いところが浮き彫りにされることによってその風合いがでるのです。すなわち、墨汁が塗られていないところ、あるいは薄いところが明となり、墨汁の色が濃いところが暗とされているのであり、これらの明暗の微妙なバランスがこの墨絵のダイナミックさと繊細さを生み出しているのです。すなわち、別の言い方をするならば、明を際立たされるために、墨絵の世界では暗が必要であるということです。

今日、読んで頂きましたヨハネ伝にはイエスの12人の弟子のうちの一人であったトマスという人のことが書かれています。彼はこのアメリカで疑い深い人のことを「ダウティング・トマス」と呼ばれている、その張本人となった人です。彼はこの疑い深さにより、後生2000年間、「ああ、あの疑い深いトマスか」と言われるようになってしまいました。

そして、彼だけが目立ってしまうようにも思えますが、実は彼の姿はまさしく私達の姿であり、私達のみならず聖書の中の人物の生涯にもほとんど全て、この疑いといいましょうか、不信仰というものが常に見え隠れするのです。

そう、私達がよく知っているあのアブラハムもイサクもヤコブもモーセもであります。そして、トマスだけではない、他の11人の弟子にしてもその信仰はどうだったかと言いますと、大きなクエスチョン・マークがつくのです。

この間、日本で参議院選挙があり、ある党が大敗しましたが、それでも議席は当然0ではないのです。しかし、イエスの12弟子にいたっては、これはもう完敗です。イエスを信じることなく、彼らは全てイエスが十字架刑にかかる時に皆、逃げてしまったのですから。

アブラハムの生涯を考えてみましょう。皆さん、アブラハムといえば私達の「信仰の父」と呼ばれている人です。有名な創世記12章、その歳75歳の時、彼が行くべき地も知らずに、神を信じて歩み出したことによります。そして、その彼と妻サラとの間に神は「子供を与える」といわれた。しかし、その「信仰の父」と呼ばれた彼でさえ待てども暮らせどもその子供の誕生はない。アブラハムはサラの勧めを受け入れて、彼らに仕えていたエジプトの女によってイシマエルという男の子を得るのです。

「信仰の父」は常に完全な信仰者ではなく、不信仰な時がありました。このことによってアブラハムは13年間、全く神との交わりを失ってしまったのです。しかし、彼が99歳となった時、すなわち全く彼の肉の力が尽き果てた時、彼には神が約束された「イサク」という息子がその妻サラを通して与えられました。

ヤコブはイサクの双子の息子の一人として生まれました。彼はその若き時に兄エサウを騙し、結局、命を狙われその家から逃げなくてはならなくなりました。そして、彼の叔父の家でその後の生涯を送ることになるのですが、その彼が20年後に自分が騙したエサウに再会するという時に、このヤコブは神の守りを信じずに自分で小手先の細工を試みようとするのです。

モーセはどうですか?彼は「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記12章3節)と書かれている人です。しかし、そんな彼ですら、水がない荒野で神が「岩に命じるならそこから水がでる」という言葉に従わず、自分が導いている民達に対する苛立ちから「その岩を二度打ちました」。想像するに彼は怒りをこめてその岩を打ったに違いありません。そして、その彼の行為に対して神はモーセに言われたのです「あなたは私を信じなかった」(以上、民数記20章)

ペテロはどうですか?皆さんもご存知のように彼はイエスに死まで従うといいながら、結果的にはイエスを三度否んだのです。そこにはペテロの保身と恐れがあったと思いますが、それらも一言で言えばペテロが最後までイエスを信じることができなかった不信仰がそこにはあったことでしょう。

そして、今日、開かれているトマス。彼はイエスの12弟子の一人としてイエスがどんなに真実な方であり、愛に満ちたお方であり、決して嘘偽りを言わないお方であるということを、共に過ごした三年半で知ったはずであります。しかし、彼は仲間たちが口々に「俺たちは復活のイエスに出会った!」と証言していることを信じることはなかったのです。そして、それはトマスが仲間の言葉を信じなかったということもそうですが、イエスご自身が十字架にかかる前から自分は死んで後三日後に復活するということを弟子達に話していたことをトマスは信じなかったということなのです。

皆さん、今、お話してきました人達について、これらのことを明と暗で分けるならば、これは確かに「暗」なのです。彼らの暗い部分なのです。しかし、よくよくこの人々の生涯を見ていくならば、この暗さによって、また明るさが強くなるのです。私達はこのことを忘れてはなりません。

変なことを言う牧師だなーという方がいるかもしれません。不信仰は全て悪、信仰こそが善ではないかと想う方がいるかもしれません。しかし、ローマ人への手紙8章28節、万事を益となさる神は時にこの私達にとっては負の遺産ともなりかねない、不信仰ということすら益と変えて下さることがあるということを私達は知らなければなりません。

先にあげました工藤信夫医師がエリクソンという心理学者の「基本的信頼」ということについて書いています。この「基本的信頼」というのは、生まれたばかりの無力な赤子が自分を取り囲む世界において安全や必要が整えられているということに対する信頼感を持つということであり、これが人間の成長には不可欠となるということです。

すなわち、赤ちゃんなんて何も分かっちゃいないからというのは大きな過ちであり、彼ら彼女らは言葉こそまだ話しませんが、自分はしっかりと抱きしめられており、自分がお腹を空けば食事が与えられており、不快にならないように度々ダイパーが変えられており、自分が安心して眠れる場所が確保されているかということを全身で確認して、そのことによってこれらを提供してくれている人間(この場合の多くは彼らの親なのですが)に対する信頼を得ていくのです。

しかし、この「基本的信頼」に人間がいつも的確にミスすることなく応えることは不可能であり、そのことに対してエリクソンは「基本的不信」ということについても触れているというのです。そして、その「基本的不信」というものも人間が次のプロセスに進むためにとても大切なこととして取り上げているというのです。すなわち、不信仰があって、私達ははじめて次の段階に進むことができるのではないかということです。そして、これは驚くべき発見なのですが、実はこの彼らの不信仰というものが実は彼らの次のステージに進むためにとても大切な役割を果たしているのです。

さぁ、このことを踏まえて先に挙げた人達一人一人をもう一度、見てみましょう。アブラハムは神が子を与えるということを待つことができずに、信じることができずに、仕え女のハガルから男の子を得ました。その彼の不信仰によって13年もの間、神との間に沈黙がなされたのです。しかし、13年がたちアブラハムが99歳になった時に(創世記17章)、神は再びアブラハムに語りかけ、彼はこの後、確かに自分の妻サラとの間にイサクという男の子が与えられていくのです。

彼が最初に「子が与えられる」と言われたのがおよそ75,6歳の頃。しかし、今や彼は99歳、妻サラも90歳。どう考えてもこの夫婦に子が与えられるのは不可能でした。しかし、確かに神はこの二人に男の子を与えたのです。

アブラハムはこの現実をどのように受け止めたのでしょうか。自分が神を信じずになしたことを、またそれによって13年もの間の神の沈黙を彼は何度も考えたに違いない。不信仰によって生じたこの長い年月。しかし、その後再び起こった神の約束どおりの出来事。彼は自分の不信仰を悔い、99歳の自分、90歳の妻の間に子を与えられた神に対する信仰は確かに強められたに違いありません。

その証拠にその時に与えられた愛しい一人息子イサクを捧げよという神からの言葉に彼は全く信頼して、そのやっと与えられた息子の頭上に刃を振り上げるほどにその信仰は引き上げられたのです。この驚くべき信仰とアブラハムの不信仰とそれによって彼が学んだ確信というものはやはり無関係ということはできないのではないでしょうか。

ヤコブはどうですか。すなわち実に20年ぶりに自分の兄、エサウが400人を率いて自分のもとにやってくるという時に彼は恐れ、兄をなだめようとして、あらゆる道を講じた。そして、いよいよ明日兄と会うことになろうという時、彼は夜を徹して神と祈りの格闘をした。それによって彼は全くその自己中心的な生き方が砕かれて、ただ神にのみ寄り頼む生涯へといたった。この彼の人生を変える神の祝福は、彼の不信仰によって導かれたのだ。

モーセはどうですか?彼は「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記12章3節)と書かれている人です。しかし、そんな彼ですら、水がない荒野で神が「岩に命じるならそこから水がでる」という言葉に従わず、自分が導いている民達に対する苛立ちから「その岩を二度打ちました」。想像するに彼は怒りをこめてその岩を打ったに違いありません。そして、その彼の行為に対して神はモーセに言われたのです「あなたは私を信じなかった」(以上、民数記20章)

皆さん、この箇所に対して私達は色々な思いを抱きます。多くの方は「命じなさい」と「岩を打ちなさい」というのは別にどっちでもいいじゃないと思います。私もそう思います。神様、なんて細かいの!なんて。

しかし、実はこの出来事には背景があります。実はモーセはこれ以前シンの荒野からレフィディムに行った時、そこでも飲む水がなく、民がモーセに食ってかかったことがありました。その時、モーセが主に祈り求めると、主はモーセにこう仰せられたのです「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう」(出17:6)。

そうです、その時、神様はモーセに岩を打つように命じていたのです。そして、今回もモーセは神の言葉に従わず、過去の経験を思いながら岩を打ったのです。つまり、モーセは過去の自分の経験に依存していたのです。祈りによって主の御心を求め、それに従わなければならないのに、過去の自分の経験の方を彼は重視しました。これはとても大きな過ちでありました。

モーセはこの後、120歳で世を去るまでイスラエルの民を導きました。歳を重ねるということは経験を積むということです。モーセのこの時の不信仰により失敗は彼がますます自分の経験から得た知恵を増やすことによって、民を自分の経験によって導こうとする思いから彼とイスラエルの民を守ったことでしょう。

ペテロはどうですか。言うまでもない彼の不信仰によるイエスへの思いが確かに彼を引き上げました。不信仰によってつまづいたペテロに、イエスは個人的に三度、出会われ、そして彼の人生を変えたであろう、あの三度のイエスの「私を愛するか」という問いへと導かれていったのであり、あのイエスとの個人的な時間は、彼のそれからの人生の動くことのない土台となりました。

トマスはどうでしょうか。もはや言い訳の余地もない「立派な不信仰」が後に幾億もの人間を励まし、生かすイエスの不朽の言葉「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」という言葉を引き出しました。

そして、意外かと思いますが復活のイエスに出会ったトマスの口から出た言葉「わが主よ、わが神よ」という言葉こそが、福音書の中においてイエスを「神の御子」「キリスト」と読んだ人達はいますが、「神」と呼んだ唯一人こそが、このトマスなのです。そして、この信仰告白こそが今日の私達の信仰の告白になっているのです。

そして、伝説によると後にトマスはインドにまで出て行ってキリストを宣べ伝えたといいます。彼の不信仰から生まれた聖書中最高の信仰告白、そして彼が命をかけて東洋世界に出て行ったその宣教の業はこのような中から生まれてきたのです。

これらの人達を見てきます時に、私達は確かにこれらの人達の不信仰が実は、その後の彼らの生涯にとって大切な役目を負っていることに気がつきます。しかし、誤解しないで下さい、私は今朝、不信仰の勧めをしているのではありません。不信仰の中にも神様は働いていてくださり、そこかさらなる飛躍をもなして下さる力があるということです。その証拠に彼らはこの自分のどうしようもない不信仰を通った後には、皆信仰が強められていったということです。

私達は信じられない時があります。そのために、信仰の弱い私達を哀れんでください、私達の信仰を増してくださいと私達は心から主に祈り求めるものであります。しかし、それと同時に主は私達の不信仰さえも用いられて、さらに私達の信仰を強めることが出来るお方なのだということを覚えましょう。「自分には信仰はない。自分はクリスチャンとして呼ばれる資格はない」と肩を落すのではなく、「神は真実なお方だから、必ず私達の信仰を日毎に成長させてくださる」と神を見上げて歩んで生きましょう。


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信じられない時もあります!」への2件のフィードバック

  1. 私は長年、信仰者として御言葉を語る立場に有りながら、認めて来たことは●マルコ9:24の言葉です。マタイの14と15章は信仰の薄さと褒められる信仰が記されています。イエス様が単に◯☓判定で人をご覧になるなら、多くの信者が☓になってしまいます。模範解答のメッセージに到達できないから皆苦しむのではないでしょうか?教会が弱さを見せられない空間になっていくなら、本来の場所ではなくなります。
     このブログで、本当の主イエス様の愛に触れて行かれる魂が起こされることを願ってやみません。

    • 朝比奈隆先生  礼拝メッセージを読んで(聞いて)くださり、ご感想をいただき、ありがとうございます。「主の御心」はどこにあるのか、いつも祈りつつ、説教の備えができますようにお祈りいただけましたらさいわいです。先生のおはたらきの上に神様の祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

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