聖はどこにありますか?

日本に住んでいると私達は時々、おきよめと言って塩を家の玄関口に小山にして置いてみたり(相撲取りも取り組みの前に塩をまきますね)、水をまいたりしている光景を目にします。いいえ、実際まくだけではなくて、自分自身が雪解けの滝に打たれたりしている人達もいます。

しかし、このテサロニケの手紙を書いたパウロはこのところで「死海の塩があなたがたをきよめてくださるように」とは言っていませんし「ノアの箱舟が漂着したと言われているアララト山の万年雪の雪解け水があなたがたをきよめてくださるように」とその水を浴びるようにとは、ここで言っていないのです。パウロは「神があなたがたを全くきよめてくださるように」と書いているのです・・・。

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今日、お話した礼拝メッセージです。
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聖はどこにありますか?
2007年9月23日

テサロニケ第一の手紙5章23節―24節                                     「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召された方は真実であられるから、このことをして下さるであろう」。

私達の手元には「聖書」があります。読んで字のごとく、この書物は聖なる書であります。聖ということは神の特性でありますし、そのことがバイブルにも書かれているのです。しかし、今日、私達の世界において、この神のホーリネスとか英語でいうところのDIVINEというものを私達はあまり語りませんし、それを意識することがありません。

数ヶ月前、ソマリアというアフリカの国から来たというイスラム教徒の男性が教会を訪ねてきました。彼としばし色々な話をした後、彼はトイレに行きました。そして、驚きの顔で聖書を片手にトイレから出てきたのです。その聖書は誰かがトイレに忘れたのか、気を利かせたのでしょう、トイレの台に伝道用として置いていったもののようでした。

そのソマリア人の彼は、なぜバイブルがトイレなんかにあるんだ。これは大変なことじゃないか!というのです。私達は形式に生きるものでありませんし、その手にとって触ることができるバイブルという書物自体が聖なるものなのではなく、そこに書かれている言葉が聖なるものなのだということを知っていますが、彼のその姿勢というものに私自身、今日、神の聖さというものを私達は意識しているのだろうかと、もう一度色々と考えさせられました。

今日はこの神の聖ということについて3つのことをお話したいと思います。まず「神が求められているきよさ」、二つ目に「神が与えて下さるきよさ」、そして最後に「生活に生きるきよさ」ということです。

まず、第一に「神が求められているきよさ」について見ていきましょう。

神が求められているきよさ
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。

今日、開かれていますテサロニケ第一の手紙5章は、このような言葉で始まります「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように」。

日本に住んでいると私達は時々、おきよめと言って塩を家の玄関口に小山にして置いてみたり(相撲取りも取り組みの前に塩をまきますね)、水をまいたりしている光景を目にします。いいえ、実際まくだけではなくて、自分自身が雪解けの滝に打たれたりしている人達もいます。

しかし、このテサロニケの手紙を書いたパウロはこのところで「死海の塩があなたがたをきよめてくださるように」とは言っていませんし「ノアの箱舟が漂着したと言われているアララト山の万年雪の雪解け水があなたがたをきよめてくださるように」とその水を浴びるようにとは、ここで言っていないのです。パウロは「神があなたがたを全くきよめてくださるように」と書いているのです。

私達は今日、世界中の書物を読むことができます。そして、それによって励まされ、感激させられ、かつ、教えられもします。それによって感動することもあるでしょうし、塞いでいた心が引き上げられることもあるでしょう。しかし、その書によりきよめられましたという人に私は出会ったことがありません。

聖書の詩篇22篇3節には「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」というみ言葉があります。またイザヤ6章3節には「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ!」と書かれています。聖書は人知を超えた人間を創造された神のみが「聖」であると言っています。

そして、この神の聖さが私達の心に語られる時、自分の人格の深い深いところまでが探られ、かつ、きよめられることを体験するのです。この聖さということは、まさしく人から生まれうるものではなく、それは神のみが与えうるものなのだと聖書は言っているのです。今日、開かれていますテサロニケ人への手紙に「神があなたがたを全くきよめてくださるように」と言っているとおりです。

きよめられるとは塩をなめてピリッとして気合が入るとか、冷水を浴びてヒヤッと体が引き締まるということではないのです。

そして、驚くべき事にこの聖なる神は、私達も聖なる者になるように語りかけるのです。レビ19章1節‐2節に書かれているとおりです「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」。

聖書は神が聖だと言います。納得します。神が俗であるなら、その存在を私達は神と呼ぶことはできません。しかし、このレビ記の言葉は「神が聖であるから、あなた方も聖でなければならない」というのです。これは、聖書が私達に「各々、自由に考えて、聖なる者になるか、ならないか決めたらよかろう」というようなものではなくて「あなたたちもきよくなければならない」ということです。Be holy! ということです。さて、このことを踏まえて二つ目のことをお話しましょう。それは「神が与えて下さるきよさ」ということです。

神が与えて下さるきよさ
また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして下さるように。

今、おそらく皆さんが心の中に感じておられるお気持ちを代弁しましょう。それは「神が聖なるお方であることは分かる。でも、だからといって私も聖なる者になれって言われてもそんなことは無理な話です。こんな俗物の私が聖なる者になるなんて!」

誰もが思うことです。清君や聖子さんという人達はいたとしても、その人達だけがその名のごとく、清くなければならないというわけではないのです。そうではなく、神様は私達に聖なるものであれと語っておられる。

今日開かれている聖書の言葉を見て下さい「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召された方は真実であられるから、このことをして下さるであろう」(テサロニケ第一の手紙5章23節―24節)                          

この手紙を読む時に、その著者であるパウロ自身が私達と同じような思いをもっていたことが伺いしれます。彼自身、どうして自分が聖なる者になどなれるのか。なれるはずがない。でも、私は神が真実なお方であることは知っている。だから、この真実なお方はこのことを成してくださるだろうと書いているのです。

そして、この真実なお方が私達に成してくださることは何かと言いますと、それは「私達をきよめてくださる」ということであり、また「私達が責められることのない者にしてくださる」ということなのであります。興味深いことにこれと同じような言葉として、このパウロはエペソ1章4節などにおいても驚くべきことをに「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた」と書いているのです。

これら二つの言葉を見ますと私達はある言葉を発見します。それはテサロニケの手紙では「神が私達を全くきよめ、キリストの前に責められるところのない者にして下さる」ということであり、エペソ書においては「神は私達を神の御前できよく、傷のない者にしようとされた」ということです。

すなわち、これらの言葉が何を言っているかといいますと、私達が神によって全くきよめられること、私達が神の御前できよくされるということは、すなわち私達が責められることのない、また傷のない者になるということなのです。

そして、ここだけを見ますと、これまた私達には完全に不可能なことでありまして、「あの人の前には責められることは何もしていません」とは言えても、私達の心の底までも、その心の動機までも知っておられる神の前に全く責められるような傷を私は持っていないと言える人は誰もいないのであり、このような深い傷が塩をまいたり、滝に打たれることによって解決されるはずはないのです。

しかし、その解決を神様はあちら側から私達のために提示してくださいました。それがイエス・キリストなのです。聖書は神によって造られた最初の人、アダムとイエスという二人の人物を比較しています。すなわちアダムは創世記に記されているように、神の前に立つことができない、罪という傷を負う者としての人間の姿を現します。そして、それこそが私達の姿です。しかし、この失われた人間像というものがイエス・キリストの十字架によって回復されたというのが聖書が言っていることなのです。

キリストが私達が本来、責められるべき傷(これを罪と呼びます)のために十字架にかかってくださり、その事実を信じる者に対して、その傷を全てご自身の身に負って下さることによって、私達を責められることがない者として下さったのです。

故に私達のきよさというのは、全くあちらからのものなのです。それはイエスの十字架が私をきよめてくださるのだと信じる信仰によってのみ、私達に与えられるものなのです。

生活に生きるきよさ
最後に三つ目のポイント、「生活に生きるきよさ」です。それは、礼拝メッセージのシリーズ・テーマにもなっていますが、この神の聖というものが、私達の生活の中に具体的にどのように関わっているのかということです。

すなわち、今日の御言葉にも「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って・・・」とありますように、私達がきよめられるということは、私達の霊と心と肉体、すなわち私達の全存在に関わることなのです。

そして、このことを明らかに示しているのはこの箴言だけではなくて、例えば第一テサロニケ4章などにもそのようなことが記されているのです(お手元に聖書のある方は見て下さい)。すなわち、その4章の3節に「神のみこころは、あなたがたがきよくなることである」とまず書かれており、その直後にこの書は三つの段落に分かれているのです。すなわち、最初に「各自、気をつけて自分の体をきよく保つように・・・」と私達の肉体について書かれています。そして、二番目には「兄弟愛を保つように・・・」と私達の魂について書かれています。そして、三番目に「死んだ者達は甦るのだ・・・」と私達の霊に関することが書かれているのです。

興味深いことに聖を意味する英語のホーリネスという言葉にはヘルシネス(Healthiness)という「健康」を意味する派生語とホールネス (Wholeness)という「全体」を意味する派生語があるのです。

すなわち、聖(Holiness)とは体、心、霊を全て含んだ人間の全体的健やかさ(Wholeness)を示しているのです。すなわち、私達になぜ神が「自らが聖であるように、私達をも聖なる者でありなさい」といわれているかと言いますと、私達、罪に傷ついて失われた人が真の人間性へのトータルな回復(Restoration)を神が望んでいるからであります。

このように神の聖は私達の存在全てに関わるものなのです。別の言い方をするなら、神の聖を生きるということは、それはただ霊的なことだけであって、私達の心とか肉体は関係がないということではないのです。もし、私達がこの心と肉体を無視してきよめられるということを霊的なことだけとしてとらえていくと私達は、神が本来私達に与えて下さっている人間性というものを疎外することになります。しかし、神の聖とはそのような限定的なことではなく、もっとスケールの大きいことなのであり、この神の聖に生きるということによって、私達はますます私達本来の人の姿に生きることができるようになるのです。

使徒行伝10章9節以降にはイエスの弟子であったペテロが見た夢が書かれています。すなわち、ペテロが祈るために屋上にいたところ、彼はそこで夢心地になったというのです。そうしましたら、天が開け、大きな布ような入れ物が四隅を吊るされて降りてきたというのです。そして、その中には本来、汚れていると言われている地上の四足や地面を這う動物、また鳥や色々な生き物がいたというのです。それらを見ていたペテロに対して、声が聞こえてきたというのです「ペテロよ、それらをほふって食べなさい」。しかし、ペテロはこう答えました。「主よ、それはできません。わたしは今までに、きよくないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、きよくないなどと言ってはならない」 

後にペテロはこの経験をふまえてこう自分なりに理解して話しています。使徒行伝10章28節 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をもきよくないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました」。

ユダヤ人であったペテロの心の中は、ユダヤ人以外の外国人は汚れているという思いがありました。すなわち、彼の心はその時、その対象となる人間そのものを見ることができないでいたのです。ただ、彼の心にあったのは、ユダヤ人はきよい、他は汚れているという霊的な思いです。

しかし、彼はとても大切なことを忘れていました。すなわち、彼ら外国人もペテロと全く同じ人間であるということ、すなわち疲れもする、眠れない夜もある、心が痛む、悲しむ、心躍る、喜ぶ、過ち、罪を犯す人間だということです。

この時のペテロはまだ神の聖というものを本当に理解していませんでしたし、それが故に彼は他者に対してもそうですが、自分自身に対してもその人間性を疎外していたのです。

私達はただ、霊的にきよめられている、いいや違うということで、アップ・ダウンするのではないのです。私はきよめられているけれど、あの人達は・・、ということではないのです。はたまた、自分はきよめられていながら、またこんなことをして・・・と。それでは私達はクリスチャンではなく、クルシ(苦)チャンとなってしまいます。そして、このクルシチャンを見て、私もクルシチャンになろうと思う人はいません。イエスの十字架と神の聖は私達をクルシチャンにするためのものではないのです。

イエスにある救いというものは、神の聖というものはもっと広く、ダイナミックなものです。そして、この神の聖は私達の生活の細々としたことにまで行き届いているのです。先ほどお話しました、私達の回復という言葉には広い解釈があるでしょうが、ある神学者はこの回復ということは、本来の回復された人間として、肉体、魂、霊をもつ人間として、その人生をイエス・キリストにあって喜ぶことだと言いました。

もちろん、私達は体を持っていますから、そのどこかに問題があれば喜びを失う者ですし、複雑な人間関係や日々、直面する問題に向き合えば私達の魂から喜びなどは奪い去られていきます、主イエスへの想いをもっていても、そのような霊的な心というものも、時に失われていきます。

しかし、人間としてこの地上を生きられたイエスは、そんな私達の現状をよく知っておられます。そして、バイブルはその人間の現実を踏まえながら、あえて私達にテサロニケ人への第一の手紙5章16節ー18節において語りかけるのです「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい」。

ここを読むときに私達は、いつも喜ぶことは神様が私達に求めておられることなのだということを知ります。そして、今、お読みしました、この同じ第一テサロニケの手紙の前の章である四章の3節に書かれているみ言葉、「神のみこころは、あなたがたがきよくなることである」ということをお忘れなく。

聖書は神が私達にいつも喜ぶことを求められる。そして、驚くべきことに、その前に神様はまず私達がきよくなることを望んでおられる。すなわち、私達が神の前にきよくなるということ、本来の健全なトータルな人間を取り戻すという事、それこそが私達の人生の喜びとなるということです。

そして、そのトータルな人間を取り戻すことは何によってできるのか。どうしたら、いつも喜ぶなんて、およそ不可能に思えることができるのか。答えは18節にあります「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」神が私達にいつも喜ぶように求めている。きよめられることを求めている。これらはイエス・キリストにあって可能となるのです。キリストの十字架に私達が本来の人間性を取り戻す全てがあるのです。

お祈りしましょう。

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