「性」は私達の関心ごとです。どうして、この商品なのに、ここにこの男女の水着の写真があるのだろうと思う広告がありますが、その背景には私達が常に性ということに興味と関心があり、そこには確かにこのような刺激に満ちた宣伝によって売り上げが伸びるという現実があります・・・。
教会がこの性に対して沈黙を保っているということは、このことにおいて世界にノーコメントを貫くことであり、また全てを黙認しているということにもなります。そして、それ以上に、この性ということは、私達にとって最重要なことであり、神が私達に与えてくださった祝福でもあり、喜びでもあるのです・・・。

マック
今日、お話した礼拝メッセージです。よかったらどうぞ↓
性は生、聖、そして誓
箴言5章15-19
私達は「9つのせいを大切に!」というテーマで毎週の礼拝メッセージに耳を傾けています。今朝はその9つの内の3つ目の「せい」についてお話します。これまで「生きるということ」、「年をとるということ」についてお話しましたが、今日は性、すなわちセックスということについてお話をします。私達の社会というのは、今日もまだこのことに対してタブーとしているところがありますし、それは教会も例外ではありません。でも、それはおかしなことで、私達がこの性に対して沈黙を保っているということは、このことにおいて世がアピールしていることに対してノーコメントを貫くことであり、それは全てを黙認しているということにもなります。そして、それ以上に、この性ということは、私達にとって最重要なことです。その証拠に私達はいつもこの事に対して多くの関心を抱いています。
多くの人達は自分の務める会社の商品に誇りをもち、その商品の素晴らしさを売るために一生懸命に営業活動をしています。しかし、中にはその営業において「売れないものは男と女で包んで売れ!」と短絡的に営業をする人達がいるという記事を読んだことがあります。どうして、この商品なのにここにこの男女の水着の写真があるのだろうと思う広告がありますが、その背景には私達が常に性ということに興味と関心があり、そこには確かにこのような性的な刺激に満ちた宣伝によって売り上げが伸びるという現実があります。
私は性に関して特別な資格をもっているセラピストではありませんし、雑誌の編集者でもありません。ただ、私は牧師ですから聖書がこの性について何と言っているかということをこの朝はお話したいと願っております。
今日のみ言葉を開きたいと思います「あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。あなたの泉を外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。彼女は愛らしい雌じか、美しい鹿のようだ。いつも、その乳房をもって満足し、その愛をもって常に喜べ」。(箴言5章15-19)
今日は、このところから三つのことをお話したいと思います。まず「性は生」ということ。そして、次に「性は聖」ということ、最後に「性は誓」ということです。
性は生
まず、今日、最初にお話することは性とは生きることです。性とは命と関わる事です。とても分かりやすくいいますと、私達の誕生は性によって始まったのです。この箴言は「水ため」「井戸」「わき出す水」というような表現をつかって男女の関係を記しています。そして、この三つの表現に共通するものは「水」であり、水とは私達人間にとってライフラインとなるものです。すなわち、この関係というものは私達の命に関わるものであるということが分かります。
日本で「小さな命を守る会」という団体の主事をしていらっしゃる水谷潔という牧師のブログに師がある日本のワイドショーを見て感じた感想についての話が書かれていました。
日本の芸能界にテリー伊藤という人がいますが、この彼が朝のワイドショーに出演していたというのです。その日の番組は、誰もが名前を聞けば分かる大手出版社の少女向け漫画に描かれている性表現を特集していたといいます。すなわち、その子供達が読む漫画の中に、露骨な性描写が描かれているということなのです。この漫画の読者層は13歳から18歳で、この漫画は業界でもとてもよく売れているそうです。
水谷先生曰く、明らかに、現実とフィクションの判断もつかず、恋に恋する世代の少女たちに、性体験に生きることが当たり前のように描くその内容は、あまりに偏った情報であり、現実とはかけ離れた事例を恋愛モデルとして少女たちに提供するれば、少女たちの気持ちをを必要以上にあおるのは当然の結果と書いています。
この特集にコメンテーターとして出席していたテリー伊藤さん。彼はズバズバともの申す人。時に過激に自分の意見を言っている姿を時々テレビで見かけます。先生曰く、この人は当然、「表現の自由」を訴えるだろうと思いきや、いつものようなあの物怖じしない言い方で言ったそうです「この後には妊娠があるんだよ。それを描かないのは無責任だろう!よく考えもしないで、妊娠したらどうするんだ」。
先生曰く「その分野ではトップレベルの表現者でありなら、表現の自由よりも子どもを守るという大人の責任を優先されたようです」とのこと。
言うまでもない、テリーさんはクリスチャンではありませんが、性ということに対してとても的を得たことを言っています。性には時に命が伴うのです。神様が人間を創造された時に、人間を植物のように地面に種をまけば、生えてくるとしなかったことはとても興味深いことです。神様は「昨日、庭に子供の種を蒔きましたから、10ヶ月あとに庭から男の子が収穫できます」とはなさらなかったのです。
神様は男と女が向き合う、その親密な交わりによって、その男女とは全く別の人格がこの世界に誕生することをよしとされたのです。性は私達から生まれる新しい命の誕生に関わるものです。その命は男女の関係によって、与えられるということを神はよしとされたのです。
そして、この水は新しい命のみならず、その男女にとってまさしく命の水なのだとも聖書は言っているのです。この箴言の言葉は自分自身のために、また相手のために水を飲むということが書かれていいます。キリスト教の歴史において、かつてこの性というものを汚れたものとして見ている考えがあった時代がありました。しかし、聖書はその用い方によっては確かにこの性は全てを破壊してしまうけれど、その用い方を誤らなければこれは神の祝福であり、否、この関係は文字通り私達にとって命の水となるものなのだと私達に語りかけているのです。
聖書の中の雅歌書などを見ますと、そこには男女の愛というものが美しい詩で書かれています。そこにも愛する者に対してこんな言葉が投げかけられているのです「あなたは園の泉、生ける水の井、またレバノンから流れ出る川である」(雅歌4:15)。男女の関係は本来、このように互いに命の水を分け与えるものなのだと聖書は言うのです。
性は聖
二つ目に「性は聖」ということをお話しましょう。先日、ある若いカップルの結婚式に列席させて頂きましたときに、その司式をしていた牧師がこんなことを言っていました「あなたたち夫婦は今、互いに裸を見せあうことができる唯一の男女となりました」
創世記2章25節などを見ますと、はじめの男と女、すなわちアダムとイブについてこんな言葉が記されています「人とその妻とは、二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
神に創造された人間、アダムとイブは、二人とも裸でしたが、それを恥ずかしがらなかったと聖書は記します。しかし、彼らは神が禁じた木の実を食べてしまうのです。そして、それ以降、彼らの目が開け、自分達が裸であることが分かり、それを互いに恥じて、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いたとも聖書は記しています。
裸を恥じなかった幼い子供が、自我を持ち、自分を意識するようになって裸を恥じるようになります。それと同じように、アダムとイブは「自分を知って」恥ずかしさを覚えました。神に背いた現実、これを聖書は罪と呼びますが、そのようなものが自分の中にあることを知って彼らは自分を恥ずかしく思いました。このことによって彼らは、自分自身に対して居心地の悪さ(恥)を感じ、体を隠そうとしました。
ここで、思い出してください。先にお話した牧師の言葉、「あなたたち夫婦は今、互いに裸を見せあうことができる唯一の男女となりました」を。「裸」とは自分の現実の姿です。自分の現実の姿には弱さがあり、罪があり、私達はそれらを隠そうとします。虚勢を張り、見栄を張り、人は自分を装います。しかし、その裸を見せ合うのが夫婦なのです。
「裸を恥じない」ということは、自分のありのままの現実が許され、受け入れられることであり、夫婦の関係にはそのような深い意味があるのです。相手の現実を赦し、受け入れる、それは愛です。今日の箴言の箇所には「あなたの泉に祝福を受けさせ」と書かれていますが、この箇所に限れば、この泉とは妻のことであり、すなわち愛は一方通行ではない、それは常に相手にその愛を与えていくということなのです。そして、それは肉体的な関係のみに限ることではなく、私達の全人格を通してそのことはなされていくべきものなのだと聖書はいうのです。
アダムとイブはかつて聖なる神の前に立ちうるものであったのです。しかし、罪を犯してから彼らは神の前に立つことができなくなりました。創世記は彼らは「園の木の間に身を隠した」と記しています。自らの姿を知ることにより、聖なる者の前にはもはや立ち得ない自分に気がついたのです。
夫婦も自らを隠し得ない姿でお互いに向かい合うのです。しかし、実際には夫婦も互いに人間。互いの弱さや罪という、そのありのままの姿を受け入れあうということは困難なことなのですし、受けることは良しとしても、相手に与え続けるということには難しさが伴います。
しかし、そんな私達にエペソ書5章31節-32節はこんな言葉を語りかけます「それゆえ、人は父母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。この奥義は大きい。それは、キリストと教会をさしている」。実はこの箇所は夫婦の関係というものは、神の奥義であり、それはキリストと教会の関係と同じなのだということを書いているのです。そして、そのことの説明というものが、この箇所の前にこのように書かれているのです。
すなわち「教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ、キリストが教会を愛してそのためにご自身を捧げられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、きよくて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである」(24-28)
ここにはキリストが教会を愛してそのためにご自身を捧げられたように、私達も(特にここでは夫に対して、この言葉は語られていますが)、互いに互いのからだを自分のからだのように愛さなければならないと書かれています。
皆さん、キリストがご自身を捧げられた教会とは、キリストの前に完全なものではありません。ここに記されているように、しみ、しわ、傷があるような姿の教会です。そして、それは私達一人一人の姿でもあり、夫婦の姿でもあるのです。神の前に私達は何も申し開きができないような汚れたものです。しかし、キリストはそんな私達のためにご自身を十字架に捧げてくださった。そのことにより、私達ははばかることなく、恥じることなく神の前にさえ立つことができるのだというのが聖書が言う私達に対する約束です。
ここにキリストがご自身を捧げて、その教会を愛してくださったことにより、「そんな教会もやがては神の前にきよくて傷のない栄光の姿となるのだ」と書かれているように、私達夫婦の関係もキリストが教会に、そして私達にして下さったように、きよくて傷のないものと変えられていくのです。そして、そのことはキリストの十字架なしには不可能なのです。私達夫婦の間には十字架があるのです。そんな夫婦の関係に神様はきよさという驚くべき神の特性を加えてくださるというのが聖書の約束なのです。
性は誓
最後に「性は誓」ということです。皆さん、ここまでお話してきましてお気づきになったかと思いますが、聖書はこの性について、その対象は誰でもいいのだとは言っていません。すなわち、今見てきましたように、この箴言の言葉に「あなたの若い時の妻を楽しめ。それを自分だけのものとしなさい。あなたの泉を外にまきちらしてはならない」とあるように、それはあなたの妻、夫に限定されるというのです。
コリント第一の手紙7章1節―4節にも書かれているとおりです。「さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。 しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫にその分を果すべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である」。
シカゴ大学においてなされたアメリカ人の性についての研究調査の結果によると「性・セックスを一番楽しんで満足を得ているのは、結婚外性交渉をしている人たちではなく、結婚関係の中だけで性を用いている人たちである」というのです。
家族や結婚についてカウンセラーをしてこられたヘンリー・ブラントという方は、大学生向けの雑誌の中で、学生の間に見られる一つの症候群について、このようなことを言っています。すなわち、ブラント氏のもとにカウンセリングを求めてやってくるカップルの多くがこの様につぶやくそうです。「初めはセックスがとても楽しいものだったんですけど、そのうち何か自分の中にしっくりしないものを感じ始め、その感情を相手に対しても抱くようになったんです。そして口論やけんかが絶えなくなって、結局分かれてしまいました」。
この症状を氏は「モーニング・アフター・シンドローム」と呼んでいます。すなわち朝、目覚めるともう昨夜の一体感が消えうせてしまっていて、互いの心にもはや満足感がなくなっており、互いに対する愛情とか思いやりというものが冷めているというものです。 この理由は自己中心的な二人がそれぞれお互いの自己満足を満たそうとするところにあり、そのことは本当の愛と一体感というものはインスタントに得られるものではないということを物語っています。
私達人間の中には、一体感を求めたいという強い思いがあります。しかし、この一体感が得られない時に私達は「インスタント」にこの欲求を満たそうとするのです。そんな時、私達がまず、最初にどこにそれを求めるかといいますと、それが「肉体」なのです。肉体的一体感を体験することは、私達の精神や魂、そして霊的な一体感を体験するよりも、はるかに手っ取り早いのです。でも実は、それは本来の欲求をただ一時的に満たしているに過ぎないのです。ですから時間の経過と共に、心の奥底でその欲求が全く満たされていないということに気がついてくるのです。
言葉では「愛しているよ。君だけだよ」と言いながら、心の中では罪悪感や、欲求不満にさいなまれている自分に気がついたりするのです。先のブラント氏が学生に接してみて分かったことは、みんな「今度こそはうまくいく、この人とは・・・」と自分に言い聞かせながら、結局、次から次へとパートナーを変えていっているということなのです。
聖書は男女の関係をタブーにしてはいません。聖書において男女が性的関係を持つということをどのように表現しているかご存知ですか。「夫はその妻を知った」というように「知る」という言葉を書いているのです。
私達は性的関係により互いを知るのです。「知る」という言葉は短いですが、しかし、その二語に含まれる意味はとてつもなく大きいのです。「一体感を得たい」ためにということだけでは、到底、知るとことはできないのです。それはインスタントなものではないのです。先にお話したように自分の全てを出し合うことによって、そのまん中にキリストの十字架を置くことによって、互いを知っていくということです。
皆さん、このような大切な意味が性的関係の中には含まれているのです。そして、お話しましたようにこの関係により、私達は自分達以外の命を神から授かることもあるのです。また、この関係により私達はキリストの十字架をまん中において一つとなるのです。故に、このような関係を誰とでも持っていいとは聖書は言っていないのです。そこには神の前における互いの誓約があって、初めて成り立つものだと聖書はいうのです。
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。この奥義は大きい」(エペソ5章31-32)この奥義に含まれる命と、きよさ、私達はこのことにあずかるために神に、そして私達の愛するパートナーに誓いをもって生きていくのです。
お祈りしましょう。