半年以上もコツコツとためたクォーターが詰まった袋を公衆電話の前におき、日本に電話をかけた。オペレーターの「あと2ドル入れろ」とか、「もう時間がない」という言葉に邪魔されながら、日本の家族と話しをした。時間をロスできないので、話すことは前もって紙に箇条書きにしておいて・・・。
日本から一年に一、二度、船便で小包が届いた。中に入っているスルメやカップめんをしばらくまじまじと眺めながら、特別な日にそれらを味わって食べた。包まれていた一月も前の古新聞を隅から隅まで読みながら・・・。
今から17、8年前、テネシー州に住んでいた頃の話しだ。
不便が多かった。日本が地の果て、海の果てに思えた。まともな日本食屋なんて半径300キロ、どこにもなかった。街を歩けばNINJYAと後ろ指を差された。でも、なんかドップリとアメリカに漬かった濃密な四年間だったと今は思う。
当時に比べたら、ここは東京24区に思えてくる今日この頃。
マック
俺は、はっきりと憶えているけど、日本への最初の3分間が9ドル10セントだったよ。そんで日本からだと3200円ぐらい。 パスターが住んでたテネシーの東の方の町も、俺が住んでたテネシーのド真ん中・南端の町もかなりの田舎だったが、なんといっても我々がアメリカ最初のひと月半を過ごしたジョージアのド田舎は、町の中に信号というものが、ひとつも存在しなかったもんな。点滅式のストップ・サインがいくつかあっただけ。 ちなみに俺はテネシーの大学のバンケットでNINJAのコスプレ、やったよ。
そうなんだよなー。そうしょっちゅう日本に電話なんかかけられない時代だったよな。それが、今はインターネット回線で無料で話せるっていうんだからスゴイ時代になったものだ。