感謝によるとてつもない効用

Ll サンクスギヴングも終わり、今日は何ヶ月ぶりかのシトシト雨。去る水曜日のサンクスギヴングイブでお話したことなどを思い返しながら、独りオフィスにて静まっています・・・。

聖書の中にイエスが数千人もの空腹の人達を前にしていた時のことが書かれています(ヨハネ6章1節-15節)。その時、そこには子供が持っていた五つのパンと二匹の魚しかありませんでした(おそらく、母親から渡されたその子のお弁当だったのでしょう)。弟子達はその弁当をもって「こんなものしかありません。これが何になりましょう」とイエスのもとにやってきたのです。しかし、イエスはそれを受け取り、感謝をしますと、そこにいた人たちが十分、満足するほどの食事となったというのです。

こんなもの」が「とてつもないもの」に変えられたのです。そして、その間には「こんなもの」に対するイエスの「感謝」がありました。

テモテ第一の手紙4章4節、5節にはこんな聖書の言葉があります「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはない。それらは、神の言葉と祈りとによって、きよめられるのである

「こんなもの」と思われるものを神に感謝するならば、それは「とてつもない」ものに変えられます。なぜなら、それらは「神の言葉と祈りにとによって、きよめられているからです」。「感謝して受ける」ことは、誰彼ではない私達の意志です。神様が関わる「とてつもない」ことはいつも、私達の継続された心の構えから始まります

マック

参考↓ ヨハネ6章1節-15節

そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、

この人々に食べさせようか」。これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。

イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、

五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。 

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