彼らは何をしているのか分からずにいるのです。

self-evaluation私達は都合のいい生き物です。誰かが自分に忠告をすると「なんとおせっかいな」と思い、同じように誰かに忠告する自分を「俺は優しい」と評価します。あの人は「せっかちだ」と言いながら、自分に対しては「自分は機転がまわる」と思います。「あいつはのろい」と言いながら、同じような自分に対しては「私は慎重だ」と思います。あの人は「食べ過ぎだ」と心の中に思いながら、自分には「これは自分へのご褒美だとか、この栄養が不可欠なのだ」と思います。「あの人は随分、老けた」などといいながら、自分に対しては「俺も貫禄がついた」なんてことを思うのが私達なのです。このような矛盾に何も気がつかずに私達は自分のことは全て分かっている顔をしながら暮らしているのです。

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十字架の言葉 その1
『父よ、彼らをおゆるしください』
2015年8月30日

私達がみておりますヨハネによる福音書はいよいよイエス・キリストの十字架へと向かいます。イエス様が十字架にかけられた場所は「されこうべ」と呼ばれていた場所でした。されこうべとは頭蓋骨のことで、なぜそんな気味の悪い名前で呼ばれていたか、その地形が人の頭がい骨のような形をしていたとか、十字架で処刑された者達の遺体がそのまま放置され、頭蓋骨があちこちに落ちていたという説があります。どちらにしても、その呼び名からして私達が好んでいくような場所ではありません。されこうべとはアラム語ではゴルゴダ、ラテン語ではカルバリと言い、私達も今日、そのようにこの場所を呼んでいます。

イエス・キリストはこの場所まで自らがかけられる処刑道具、すなわち十字架を背負いやってきました。直前まで拷問を受けて体は衰弱しておりますから、それを背負い続けることができずに、その途中で代わりの者が十字架を背負ったと聖書は記録しています。

イエス様が身にまとっていた衣服ははぎとられ、その場にいたローマ兵によってそれはくじ引きされました。すなわち身にまとうものが何もない全裸のような姿で、地面に横たえられた十字架の上に両手が広げられ、その手には釘が打たれました。手の平に打ちこんでも、それでは体重を支えきれずに皮膚が裂けてしまいますから、釘は手首に打ちこまれました。また足の甲は重ねられて釘が打たれました。釘は肉を裂き、そして骨を砕きました。

肉体が裂かれただけではなく、骨が砕かれたということ、このことをその時から750年前に生きた預言者イザヤは明確に預言していますしかし彼はわれわれのとが(罪)のために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ』(イザヤ53章5節)。イザヤがここで「裂かれたのだ」と書かず、「砕かれたのだ」と書いているところに、その預言が細かいところまで正確であったということが分かります。まさしく肉体を粉砕するような一撃により、気を失ってしまうような状態で、十字架は天に向かって垂直に立てられ、その場に居合わせた者達の前にさらされたのです。

「“教会”から連想するものは何ですか?」と問われますと多くの方達が「十字架」と答えることでしょう。そうです、教会の屋根のてっぺんに、礼拝堂の中に、聖書のカバーに、車のステッカーに、ネックレスやイヤリング、中にはタトゥーにこの十字架を入れる人たちもいます。しかし、今、お話ししましたように十字架とはそもそもギロチンや電気椅子のような処刑道具でありました。そのような意味でキリスト教とは処刑道具をそのシンボルとしているのです。言うまでもなく処刑道具とは本来、恐れの対象であり、忌み嫌うべきこと、日本風に言うならこれ以上ないほどに縁起の悪いものでありまして、シンボルやロゴとして処刑道具を用いている国、会社、団体、宗教団体を私達は知りません。

イエス様はその十字架に磔にされながら七つの言葉を語られ、その全てが聖書に記録されています。その七つを一回のメッセージでまとめることは可能ですが、これから七週かけてイエス様が語られた七つの言葉を一つ一つお話ししたく願っております。そして、これらの言葉の意味を知る時になぜ、キリスト教が十字架を掲げているのかということの意味もお分かりいただけると思います。

この十字架の言葉のうち初めの三つはご自身以外の者達に関する言葉でした。そして残りの四つはご自身について語っています。その第一の言葉は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカ23章34節)という言葉でした。そうです、イエス様が十字架の上でまず口を開かれた言葉は自分を取り囲み、この十字架へと導いた者達を赦してくださるようにというとりなしの祈りだったのです。

誰かが私達に何かしらの罪、誤ちを犯したとします。普通、その人は「ごめんなさい、おゆるしください」と私達に謝罪をします。その時になぜ「おゆるしください」と私達に言うのかと言いますと、私達はその人がしたことに対して被害・損害を受けている当事者だからです。その人を裁く側にいる者だからです。

イエス様は自分を十字架につけた者達に対して「私はあなたを赦す」と言ったのではなくて、父なる神に向かい「彼らを赦してください」と言われました。すなわち、イエス様はここで自分はこの人達を裁かないといことを明確にされ、父なる神にも同じことを願ったのです。そうです、最終的に神は私達を裁く権威をもっておられるからです。このことにより私達が知ることはこの世界には「私達を裁く存在がいる」ということです。

私達は今、法治国家に暮らしております故に、法律が私達を裁きます。法律は文字であり、実際にその文字に照らし合わせて人を裁くのは人間です。ゆえにその裁きには限界があります。裁判において、私達の世界には冤罪が存在しますし、その裁きが完全に公平なものであるかというとそうではありません。裁判にいたらずとも私達は日毎、人間関係において呑み込まなければならない理不尽な出来事に直面しますでしょう。なんで悪が裁かれずに、善が咎められているのだと言うようなことを見ることもありますでしょう。しかし、イエス様のこの一言はこの世界のそんな不完全さを払しょくするものです。マタイはイエス様の言葉としてこのような言葉を書き残しました。

26だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。27わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。28また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい(マタイ 10章26節)。

 この思いがイエス様のお心にありましたゆえに、イエス様は十字架の上で、その権威をお持ちである父なる神に「彼らをお赦しください」と祈られたのです。そして、この祈りは人類の金字塔になるような祈りなのであります。なぜなら、それまでの私達人間の歴史は明らかにこのような祈りが捧げられるような状態ではなかったからです。そうです、この時までどのような時代が続いていたかと言いますと、それはやられたらやりかえす、復讐の時代だったのです。神に祈る、その切なる言葉が聖書のあちこちに書かれています。

『どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべき罰を彼らに与えてください』(詩篇28篇4節)

 『わたしの災いを喜ぶ者どもを共に恥じ、あわてふためかせてください。わたしに向かって誇りたかぶる者どもに恥とはずかしめとを着せてください』(詩篇35篇26節)

厳密にいいますとこの祈りは怒りに任せた復讐を願う言葉というよりも、神の公平な裁きがなされるようにという切なる懇願でした。しかし、イエス様が十字架でなされた願いは神の裁きを願うものではなくて、彼らを赦してくださるようにというものでした。そして、このことも先ほど取り上げましたイザヤの預言の成就だったのです。

『これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした』(イザヤ53章12節)

そうです、イエス様が十字架に架けられました時に、その両隣に二人の犯罪人が同じように十字架にかけられていたと聖書は記録しています。まさしくイエス様は彼らと共に罪ある者として数えられました。この二人は自らしたことに対する当然の裁きを受けていたのですが、イエス様の場合は多くの人の罪をその身代わりとして背負い、罪人の一人として数えられ、彼らのためにとりなしの祈りをされたのです。

その場に居合わせた人たちの目に映っていたことは、イザヤが預言しておりますようにイエス・キリストが三人の犯罪人の一人として刑罰を受けているということでありましたが、しかし、このことを神の視点から見るのなら、まさしくその時に新しい扉が開かれようとしていたのです。そうです、もしこの時にイエス様が天の軍勢を呼び起こし、自分を辱めている者達を滅ぼし、自ら十字架から降りてくるのなら、以降、全ての人間は(言うまでもなくこの中には私も皆さんもおります)、神を前にして自分がしてきたことに対する裁きを受けなければならないからです。しかし、イエス・キリストがその時に父なる神に彼らに敵する者たちの赦しを祈り、人の罪の身代わりとなってその命を捨ててくださったことにより、以降、全ての人間はこのキリストの身代わりの死ゆえに、神による裁きを受けることがなくなったのです。

主にある皆さん、「彼らをお赦しください」という祈りは誰のためだったのでしょうか。それはイエス様を裏切ったイスカリオテのユダでありましょう。祭司やパリサイ人でありましょう。ピラトでありましょう。ローマ兵でありましょう。そして、そこに居合わせた群衆でありましょう。

イエス様が十字架にかけられるために一役を担っていたのはイエス様の弟子の一人でありましたユダでした。彼はイエス様と三年もの間、寝食を共にし、イエス様の言動を間近に見ていたにもかかわらず、イエス様を銀貨30枚で売り渡したのです。

その場所には十字架を取り巻くようにして民衆がおり、町の指導者たちもいました。ルカが記している通りです。35民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」(ルカ23章35節)。傍観者、野次馬、状況に流されやすい者達、無関心を装う者たち、彼らは熱狂的にイエスを迎え入れた人達です。しかし、彼らの心は瞬く間に様変わりしたのです。

この十字架はローマの総督ピラトの承認のもとになされました。彼がなぜそれを認めたのか、それは明らかにユダヤ人の前で自分の面目を保つためであり、彼は自らの保身のためにイエス様を十字架に追いやったのです。

その場所には兵士たちもいました。ルカは続いてこう書いています。36兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、37「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」(ルカ23章38節)。

それではイエス様が父なる神に赦しを求めた理由は何でありましょうか。そうです、そのことをイエス様は自ら言われています『彼らは自分で何をしているのか分からずにいるのです』

ユダがイエス様と共に過ごした三年という年月にもかかわらず、ユダは全くイエス様のことを理解していなかったのです。民衆はイエス・キリストがどんなお方であるかを理解していませんでした。彼らにとってイエスが自分に都合のいい人であるかどうかということが大切でありました。パリサイ人、祭司たちは人に教える立場にありながら、またピラトは大きな権威を託されている身でありながら、イエスを十字架にかけることの罪の重大さに気がついていませんでした。兵士たちはローマから遣わされたものであり、イエスの十字架刑は彼らが日常的にしている任務の一つにすぎませんでした。

そうです、これらの者達に共通していたことは自分が何をしているのか分からずにいたということだったのです。そして、私達が自らの心に手を置いてよくよく考えてみますのなら、私達とて例外ではなく、この無知から免れるような人間は一人もいないのです。

しかしながら、私達は大抵、「自分が何をしているか分かっているのか」なんてことを自らに尋ねることなどありませんし、あえてそんなことを考えるまでもなく自分の事は自分が一番よく分かっていると思っています。しかしイエス・キリストが私達を見るのならば、わたしたちは何をしているのか分からずに生きているのです。そうです、わたしたちはこの出来事の中に私たち自身の姿を見出すのです。主イエスの「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分で何をしているのか分からずにいるのです」と言う言葉は私、そしてあなたに対するイエス・キリストの祈りなのです。

イエス様はある時、それを聞いた者達に反発を受けるような言葉を大胆にも語られたではありませんか。41 なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟に向かって、兄弟よ、あなたの目にある塵を取らせてください、と言えようか。偽善者よ、先ず自分の目から梁を取り除けるるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にある塵を取り除ける事ができるだろう(ルカ6章37節-38節、41節‐42節)。

なぜ「反発を受けるような言葉」と言ったかと言いますと、このようなことを言われるのは不本意なことだからです。私達は夢にも自分の目の前に巨大な梁があるなどとは思わないのです。しかし、イエス・キリストが私達を見るのなら、私達は自分以外の者達の塵について細かく指摘しながら、自分の目の前にある梁、すなわち大木があることに気がつかないで生きているのです。どうして、その梁があなたの目をふさいでいるのに、他の者に向かってあなたの塵を取らせてくれと言えるだろうかというのです。

私達は自分のことは何でも知っていると思います。私はしっかり物事を見ていると思います。しかし、古の哲学者はそんな人間を観察し、自分自身を深く客観的に観察して、言いました。「汝自身を知れ」と。親は子供に注意をする度に偽善者となります。親が子に注意していることの多くは親がしてきたことであり、人とは不思議なもので、その時には自分はそのことと無関係で生きてきたんだというような顔をして子を叱るのです。自分で何をしているのか分からない親が子を育てるのですから、私達が子供を育てるためには神様の助けが必要なのです。

私達は都合のいい生き物です。誰かが自分に忠告をすると「なんとおせっかいな」と思い、同じように誰かに忠告する自分を「俺は優しい」と評価します。あの人は「せっかちだ」と言いながら、自分に対しては「自分は機転がまわる」と思います。「あいつはのろい」と言いながら、同じような自分に対しては「私は慎重だ」と思います。あの人は「食べ過ぎだ」と心の中に思いながら、自分には「これは自分へのご褒美だとか、この栄養が不可欠なのだ」と思います。「あの人は随分、老けた」などといいながら、自分に対しては「俺も貫禄がついた」なんてことを思うのが私達なのです。このような矛盾に何も気がつかずに私達は自分のことは全て分かっている顔をしながら暮らしているのです。

妻や家族によりますと、私はいびきをかくことがあるそうです。時々、うるさくて眠れなくなったというクレームを受けることがあります。私は人生に二度ほど、自分のいびきの音で目が覚めたことがあり、こんな大きないびきをかいているのかと自覚したことがあるのですが、喉元過ぎれば何とかと言いますが、大抵はどんなに大きないびきをかいていても私は熟睡しており、困惑しているのは私のまわりにいる人達なのです。しかし、こんな私はたとえば誰かと同室となり、その人がいびきをかく人だ、かなり大きいらしいなどということを聞きますと、自分のことを忘れて「なんてこった!」と思っているのです。

「あなたは何をしているのか分からずにいる」というイエス様の言葉、すなわち自分に対する無知ということについて、聖書には幾つかの言及があり、このような私達に対してある程度の猶予がなされています。これは私達にとりましてなんとさいわいなことでしょうか。ペテロやパウロはよくよくこのイエス様の言葉を心に踏まえていたのでしょう。度々、彼らは無知である人間に対する同情と神のあわれみを記しています。

17さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。(使徒3章17節)

13わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。(Ⅰテモテ1章13節)

まさしく今日、お話している十字架の場面を想定してパウロは言いました。8この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。(Ⅰコリント2章8節)

言うなればイエス・キリストが向き合っていた人達というのは皆が自分が何をしているのかを知らずにいた者達であり、彼らは自分は分かっていると思って生きていたのです。そして、このことをイエス様は「見える」という言葉を用いてかつてこう言われました。

「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネ9章41節)

私達には見えていないのに、すなわち目の前に梁があって私達は真(まこと)を見ることが出来ずにいるのにもかかわらず、見ているのだと主張するところに、そう言い張るところに私達の罪があるとイエス様は指摘されました。このことは聖書に一貫している人間観でありまして、聖書の一番最後に記されているヨハネの黙示録はラオデキヤにある教会にあてて書かれたこんな言葉を私達に残しています。

 17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。(ヨハネ黙示録3章17節)。

ラオデキヤは当時、金融業、毛織物、そして目薬で有名な豊かな町だったようです。ゆえに彼らは自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っていましたが、神様の見方は違いました。主は言われるのです、実はあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そう、ここでも聖書は指摘するのです、実際、あなた達は自分がいかなる者であるのかに気がついていないと。

 

ですから黙示録は続く言葉として、私達にこう勧めているのです。18そこで、あなたに勧める。富む者となるためにわたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。19すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。(ヨハネ黙示録3章18節ー19節)。

言うまでもなく、ここに記されている目薬とは眼球に指す目薬ではなく、私達の霊の眼を開く目薬です。すなわち自らが盲目であることに気がつき、その盲目を治すために目薬のために代価を払いなさいというのです。しかし「買いなさい」と言われても、その目薬のために何を支払えばいいのでしょうか。自ら裸の王様であるかのように生きているその裸の恥をさらさないために身につける「白い衣」を得るために私達は何を支払えばいいのでしょうか。そのために、どんな代価が必要なのでしょうか。主にある皆さん、この言葉の後にどんな言葉が続くかご存知ですか。そうです、私達がよく知っているあの言葉です。

20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるならわたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。21勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。22耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」(ヨハネ黙示録3章20節ー22節)。

そう、目薬を、白い衣を買いなさい。この言葉を真剣に受けとめる人とは、自らが盲目であるということに気がついた人、神の前に自分は無知なのだということを知った者です。ゆえに思うのです、「そうだ、私にはそれが必要なのだ!」と。しかし、何をもって買えばいいのか、そんな代価を私達は持ち合わせているのだろうか。その時に聞こえるのです、私達の心の戸をたたく音を。否、その音はこれまでいつもたたかれていたのです。しかし、目の目に梁が置かれていたように、私達の耳もふさがれていて、その戸をたたく音が聞こえなかったのです。聞こうともしなかったのです。あまりにもまわりの雑音が大きすぎたのです。

しかし、もし、その音が聞こえるのなら、戸を開けてごらんなさいと主は言われるのです。そう、その戸の先に立っているお方こそ、イエス・キリストなのです。私達のために「彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と祈られたイエス様です。そして、このお方はその時に白い衣を、そして目薬と持参して私達と共に食卓についてくださるのです。そうです、それらは買わなければならないものではありましたが、イエス様は既にそれをお持ちで、私達にくださるためにそれを携えてきてくださるのです。それではイエス様はいかにしてその代価を払ったのでしょうか。そうです、あのカルバリの十字架です。あの十字架において、ご自身の命という代価を支払い、これらのものを私達に携えてきてくださるのです。

この勧めの言葉はこのような言葉と共に終わります。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネ黙示録3章22節)。そうです、私達はキリストのからだなる教会の礼拝で主イエスの言葉を聞き、聖書の諸々の言葉に向き合っています。私達の礼拝は御霊によって毎週、導かれています。すなわち、聖霊が教会を通して、これらの言葉は今朝も私達に語りかけられたのです。

主にある兄弟姉妹、「どれだけ自分が物事を分かっているのか、自分のことが分かっているのか、それゆえに自分がどれだけ正しいのか」ということを私達は全知全能なる神の前に申し開きすることはできませんでしょう。

民衆の姿の中に私達がいるのです。
祭司たちの中に私達がいるのです。
兵士の姿の中に私達がいるのです。
ピラトの中に私達がいるのです。
彼らの姿は、まさに私達の姿なのです。
私達は今朝、主イエスの祈りは私達のためであったということを確認しましょう。そして、その十字架を前にイエス様のご愛と罪の赦しを信じ受け入れいましょう。御霊が諸教会に語りかけていることを聞く者はさいわいです。お祈りします。

本日のおもちかえり
2015年8月30日

 

1)「されこうべ」と呼ばれていた場所でイエス様は十字架にかけられました。あなたはそこにどんな光景を想像しますか。イエス様はどんな姿でしたか。皮膚を突き破り、骨を砕かれながら手足を釘づけにされる痛みとはどのようなものでしょうか。

 

 

 

2)あなたが罪なき者でありながら人の陰謀により、十字架に磔にされたら何を口から発しますか。

 

 

 

3)イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカ23章34節)と言われました。この言葉はあなたにどんな思いをいだかせますか。

 

 

 

4)なぜイエス様はイエス様を十字架に導いた者達の赦しを父なる神に願ったのですか。

 

 

 

5)マタイ10章26節ー28節を読みましょう。私達が恐れるべき存在は誰ですか。

 

 

 

6)赦しの対極にあるものは復讐です(詩篇28篇4節、詩篇35篇26節)。そこから何が生まれますか。赦しからは何が生まれますか。

 

 

 

7)「彼らは何をしているのか自分では分からないのです」という言葉から、イエス様のどんなお心が分かりますか。

 

 

 

8)あなたは自分が何をしているのか分かりますか。なぜ古の哲学者は「汝自身を知れ」と言ったのでしょうか。自分のことも分からないのに、私達は自分以外の人についてどれくらい知っていますか。あなたは自分の目の前に梁があると思いますか(ルカ6章41節‐42節)。

 

 

 

9)ヨハネ黙示録3章18節ー22節を読みましょう。あなたはどうしたら見えることができるようになるために目薬を得ることができますか。


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彼らは何をしているのか分からずにいるのです。」への2件のフィードバック

  1. イエスがお赦しになられたのは十字架に打ち付けようとしているローマ軍の兵士たちだけであって、その血の責任が自分たちや自分たちの子孫の上にかかってもよいと怒り狂って叫んでいるユダヤ人の民衆や指導者たちをお赦しになられたわけではなかったと思います。あの時以来ユダヤ人たちは国を失い何世代にもわたって全世界に散乱し周りの人々から忌み嫌われた生活を余儀なくされています。そこにはイエスの赦しは現れていません。

    • 授理庵さん コメントをいただき、ありがとうございました。そうですね、イエス様の言葉はローマ軍の兵士に向けられたものであったのかもしれませんね。実際にその具体的なことに関して福音書は沈黙を保っています。

      わたしはこの十字架の言葉はローマの兵士、ユダヤ人のみならず、私達、全ての人間に向けて語られた言葉だと信じ、受け止めています。イザヤ53章はイエス・キリストの十字架での受難を預言したものとして有名ですが、その12節には『これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした』と書かれています。「多くの人の罪を負い」という言葉の直後にくる「とがある者のためにとりなしをした」という言葉には、全ての人が含まれているように私には思えるのです。

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