子供がまだ幼い時に、彼らは「パパならなんでもできる」と思っています。「パパが一番、力持ちだ。パパにお願いすれば大丈夫だ」と思っています。息子がまだ幼い時に「パパはすぐに飛んでくるよ」と言いましたら、彼は言いました「パパ、飛べるの?」子供は時に父は飛ぶこともできると思っています。
しかし、そのような頼もしい父親像も、彼らが成長するにつれて一つ、また一つ、消えていきます。「そんなのいやだ」などと父親は言っておれません。言うまでもなく、私達は実際のところ、何でもできるわけではないからです・・・。
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父親が荷を下ろすところ
2021年6月20日
私達は去る5月9日に母の日を迎えました。その日には母の日にちなんだメッセージをさせていただきました。母の日にそんなメッセージをしたのですから、今日の父の日を素通りすることはできません。今日は父親たちに、すなわちそれは自分自身にも語られているメッセージをお話できたらと思います。そして、父親以外の方達にも、私達の父が何を考え、私達に何をしてくれたのかということを思い、またこの世界の現役の父親達を心に留め、支え、お祈りいただけましたらと願っております。
今日、見てまいります聖書の言葉を拝読させていただきます。マルコ9章14節から29節です。
14さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大勢の群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。15群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。16イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、17群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしの息子を、こちらに連れて参りました。18霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。19イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。20そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。21そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。22霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。23イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。24その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。25イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。26すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。27しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。28家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。29すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」(マルコ9章14節‐29節)。
我が子が床に倒れて、そこであわを吹き、歯をくいしばって、体をこわばらせている姿を見ても、何も感じることなく、ただ眺めている父親はいません(もちろん、母親も)。私はこれまでに、このようなてんかんのような症状で倒れてしまっている人を間近に見たことがありません。でも聞くところによると、このような状態の方達は舌を噛み切ってしまうことがあるので、口の中に何かを入れなくてはならないということを聞いたことがあります。そのようなことを聞きますと、果たしてその時に私は冷静に対応できるだろうかと思います。
この父親はその子を連れてイエスのもとにやってきました。そして、イエスにこう言いました「先生、口をきけなくする霊につかれている私の息子を、こちらに連れて参りました。霊がこの息子にとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯を食いしばり、体をこわばらせてしまいます。それでお弟子達に、この霊を追い出して下さるように願いましたが、できませんでした」(17節-18節)。
父はひきつけを起こしている息子をイエス様のもとに連れてきたのです。なぜですか、言うまでもない、この父はひきつけている息子を前に何もできなかったからです。
子供がまだ幼い時に、彼らは「パパならなんでもできる」と思っています。「パパが一番、力持ちだ。パパにお願いすれば大丈夫だ」と彼らは思っています。息子がまだ幼い時に「パパはすぐに飛んでくるからな」と言いましたら、彼は言いました「パパ、飛べるの?」子供は時に父は飛ぶこともできると思っています。
しかし、そのような頼もしい父親像も、彼らが成長するにつれて一つ、また一つ、消えていきます。「そんなのいやだ」などと父親は言っておれません。言うまでもなく、私達は実際のところ、何でもできるわけではないからです。
ここに記されている父親は苦しんでいる息子を前に何もできない自分を自覚していました。だからイエスの弟子たちに願ったのです。しかし、その弟子達も何もすることができなかったと聖書は記録しています。
彼らができなかったこととは何だったのでしょうか。それはこの子の病気を癒すことです。さらに言いますとここではこの子の病の癒しだけではなく、この子の背後にある霊的な問題についても言及しています。そうです、この父親が直面していたのは我が子の肉体と霊の問題であったのです。私達は自分自身にしても、あるいはそれが家族や友人のことであっても、その肉体、および心が直面している多くの問題について自分の無力さを感じる者です。
今、男性と女性を区別することについて、世の中では色々な議論がなされています。そのような世の中ではありますが、多くの私達は幼少時代から男性として、女性としてこのように成長していきなさいということを教えられてきたのではないでしょうか。
私達は幼い時から聞いてはいなかったでしょうか。「男の子なんだから、男なのに」とか「女の子なんだから、女なのに」と。そして、このような考えには「男らしくあれ」、「女らしくあれ」というような考えがあるように思われるのです。
今日は父の日ですので、男らしいということだけにフォーカスしますが、 それでは「男らしい」とは何なのでしょうか。私達が一般的に男らしさということを思い描くなら、それはマッチョな男が主役となっている映画を数本、観ればいいでしょう。
あらためて確認をしたのですが、その類の映画のポスターは大方、決まって英雄となる主人公が筋肉質な肉体をあらわに、何かしらの銃器を握っています。彼らはすさまじい銃撃を受け、しかしながら、彼らには銃弾が当たらず、彼らが撃つ弾はことごとく相手に命中します。鉄棒で殴られて立ち上がれる人なんていないのに、彼らは立ち上がり、相手を打ちのめします。しかし、実際には『Die Hard』なんてことはなく、人の命はいとも簡単に失われます。銃を所持している人を見るだけで私達は恐れ、心臓がとまります。それが現実です。
いわゆる男らしさを表現しているそんな映画ですが、本当の男らしさをこのような映画の中に見出そうとしても見つけることができません。冷静にその映画を観るならば、その映画で映し出されている力とかパワーは彼らの鍛え上げた肉体であったり、握っているピストルであったり、車であったりするのです。
それでは本当の男らしさとは何でしょうか。それは日々、地道に自分が果たすべき責任を守ること。ため息が出るような事に向き合っても、それを投げ出さないこと。蒔かれた種が芽をだし、それが成長するまで忍耐をもって、待ち続けることができること。そんなところに本当の男らしさは隠れています。しかしながら、言うまでもなく、このようなテーマでは売れる映画を作るのは難しいのです。
かつてアメリカにリバイバル(信仰復興・霊的覚醒)が起きたことがありました。そのただ中にいましたジョナサン・エドワーズという牧師が約800人もの男性が集う祈祷会に参加していたところ、そこにある女性から参加者宛に「自分の夫のために祈ってほしい」という手紙が届きました。その手紙には彼女の夫が妻に対して威張りちらし、愛情を示さず、気難しくなっていると書かれていました。
エドワーズはその手紙を読んだ時、祈祷会にその男性が出席しているかもしれないと思い、大胆な祈りのリクエストをしました。そうです、エドワーズは800名の男達を前に、その手紙を読み上げ、もし、ここにその男性がいるのなら手を挙げてほしい、皆でその人のために祈ろうではないかと言ったのです。そうしましたら300人を超える男性が手をあげたというのです・・・。
確かに男性は女性よりも腕力があるかもしれません。しかし、多くの男は悩んでいるのではないかと思います。映画の中の男達は困難を打破し、愛する者達を救い出します。しかし、実際の私達はそのようなこととはほど遠く、時にここに記されている父親のように苦しむ我が子を前に成すすべもなく、立ち尽くしてしまうのです。そう、我々、父親にはできないことがあるのです。
この息子の父親について20節以降にこう書いています。そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」(20節‐22節)。
この父親はイエス様に向かい言いました「わたしどもをあわれんでお助けください」この箇所をよく見る時に気がつかされることは、この父親は「わたしの息子をあわれんでください」と言ったのではなく「わたしどもをあわれんでお助けください」と言ったのです。
彼は今、苦しんでいるこの子をあわれんでくださいと言っているのではなく、自分もあわれんでくれというのです。まさしく、そこには我が子と一つとなっている父親の心があります。今、病で苦しんでいる息子を助けてください、そしてその息子を前に何もできずにいる自分をもあわれんでくださいと彼は言ったのです。
そして、これは私達も共有することなのです。神の前に立とうとする父親が、誰かのことを祈る時に、その祈りはその助けを必要とする者だけではなく、その人と関わる自分も、主よ、あわれんでくださいという祈りとなるのです。なぜ?なぜなら時に父親は自分以外の者の人生をも、生活をも、その肩に背負っているからです。
私には父親ほどの年齢が離れた兄が三人います。その一番、下の兄は母国、韓国を離れ、もう25年以上、南米のパラグアイに住んでいます。元々、物おじしない兄で、ソウルからプサンに行くかのようにして、家族を連れて地球の裏側の国に移住し、そこで商売をしています。きっと兄は、かの地に骨を埋める気持ちでいることでしょう。
彼がパラグアイに行く前、高校生であった私は韓国を一人で訪ねたことがあります。その時、兄には幼稚園に行く年の娘が二人いました。そんな我が子を前にながめながら、兄は笑いながら高校生の私に行ったのです。「京求やー(わたしの韓国名です)、こんなちっちゃいのがいると、もう無茶はできないよー」。
そんなことを言っておりながら、数年後に文化も言葉も異なる地球の裏側のパラグアイに妻とこの幼い娘達を連れて移住してしまったのですがから、異国に住むなんてことは兄にとって無茶なことではなかったのかもしれません。でも、その時、高校生ながら思ったのです。「あぁ、家族をもつということは、そういうことなんだなー」と。
自分の健康や仕事がそのまま家族の生活に影響を与えるということ、皆さんの中には、妻や娘や息子だけではなく、年老いた父母の生活を背負っている人達もいるでしょう。その時に彼ら、彼女らの問題は「私の問題」となるのです。
そして言うまでもなく、この荷は決して軽くはないのです。父と呼ばれる者達の肩にグッとこの荷が食い込んでいるのです。このところからくるプレッシャーはそうとうなもので、このことゆえに私達は心身に支障をきたしたり、ストレスにより、信じがたき言動に出てしまうことがあります。時にとりかえしのつかないようなことも起きてしまうのです。そう、父親は日々、このようなものを背負っています。
最近はかつてのような活動はしていないようですが、1990年代に男性対象のミニストリーとしてプロミスキーパーズという団体が立ち上がり、多くの男性達がこのミニストリーに参加しました。1997年にはワシントンDCの大会で50万人もの男性が集まりました。そのプロミスキーパズでは主に男性が心に留めることとして5つのことに注目しています。
1)「お金」は自分の力を見せつけるためには一見、一番手っ取り早いものです。そう、男は自分の力を見せつけたがるものです。故に男にはこの誘惑が常に伴います。
2)「性的誘惑」:いつの時代もこの誘惑は男達を虜にしてきました。性は神様が与えてくださった祝福でありますが、その用い方により全てが崩壊する危険性も持ち合わせています。聖書にもこのことに関する私達が学ぶべきことが幾つも記されています。
3)「プライド」:男の毎日はプライドを保つことの戦いなのかもしれません。「弱さ」を見せるということは我々、男にとって一番、難しいことなのかもしれません。
4)「自制」:アルコール中毒、ギャンブル中毒にしても、その割合は断然男性が多いのです。時に自らを制することは私達にとって大きなチャレンジとなります。
5)「自分の父親との関係」:男としての自分の姿には父親の影響が多大にあります。なぜなら男の子が生まれて、最初に接する男は父だからです。
これらのことをも持ち合わせつつ、色々なものを背負って歩んでいる男達ですから、その日々は時に危険を伴う旅路となります。果たして私達はどうしたらいいのでしょう。
自分にはできないことがある。まず、全てはこのことの自覚から始まります。よく色々な方達の話を聞いていますと、「夫がなかなか病院に行ってくれない」という声を聞くことがあります。それも一回や二回ではないのです。しかし、反対に「妻がなかなか病院に行ってくれない」という言葉を聞くことはないのです。
男達の決意たるや、そうとうに固いもののようです。病院に行くことが怖いのでしょうか。自分なら病気のほうが避けて通ると思っているのでしょうか。検査を受けて、その結果を聞きたくないと怖気ついているのでしょうか。
自らへの自戒の思いを込めて言いますが、「頑固おやじ」とはよく言ったものです。その頑固さが家庭の「錨」となって、家庭が揺るがないということならいいでしょう。しかし、その頑固さ、もっと言いますとプライドという大きな岩が、家庭を硬直させてしまったり、さらによき父親になりうる道をふさいでしまっているということはないでしょうか。
先のプロミスキーパーズですが、彼らが心に留めておくべきこととして「自分の父親との関係」というものがありました。私達は父の姿をロールモデルとして、男性とは何かを学ぶのです。人生最初に出会う男、その父から受ける影響ははなはだ大きいのです。
しかしながら、胸をはって自分は子供たちにいつも良いものだけを与え続けてきた、言葉においても、行動においても人として最高のものを与えてきた、「俺のようになればいい」と胸をはれる父などはいないのではないかと思います。大抵、私達は生きていくためにがむしゃらに日々を過ごしていますから、多くの破れや失態を見せてしまうものです。
そして、それらのことを相談する人もおらず、日々の暮らしはますます忙しくなり、そのことに向き合うこともできず、そうこうしているうちに子供達は家を出ていきます。仕事だけに没頭している間に、子供のみならず妻との間にも隔たりが生まれてしまい、「こんなはずではなかった」なんてことを考えている方は私達が思う以上に多いのではないでしょうか。
そんな我々、男達に必要なものは何なのでしょうか。我々、男達に必要なのは「父なる存在」です。たとえ80歳、90歳になっても我々には父が必要です。そして、その父は私達の肉親の父ではありません。
肉親の父ということになりますと、今日、自分の父との関わりはほとんどなかった、父の顔を見たこともないという方達が多くいます。父のことを考えると、「彼が自分の反面教師となったことは確かだ」などと思っている人も決して少なくないことでしょう。そう、これまでお話しましたように父親は完全な存在ではないからです。
アメリカにいると「メンター」と言う言葉をよく聞きます。私達は自分の思いや悩みを聞き、適切なアドバイスをしてくれる人をメンターと呼びます。今日の会社の重役達も社外から自分のメンターを雇い、その人に高額な謝礼を払っているといいます。私達には私達のメンターになってくれる人、コーチとなってくれる人、話し相手になってくれる存在が必要なのです。 そして、そのような存在が私達の父なる神なのです。
私達は父なる神の前でプライドをもつ必要はありません。自分の脳力を誇示する必要はありません。あちらは私達の表も裏も全て承知なのですから、自ら飾る必要などないのです。社会的には多くの肩書を持つ男であっても、常日頃、鎧を身にまとって戦っている者であって、この父親の前ではネクタイをとり、鎧を脱ぎ、リラックスして自分の全てを打ち明けることができるのです。
出エジプト記33章11節には「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた」という御言葉があります。これはかつてプロミスキーパーズのテーマになった言葉です。
私達が友と語るように、父なる神様は私達に親しく語って下さるお方なのです。自分の肉の父を思い起こす時に、そんな光景が思い出せないという方がいるでしょう。父はいつも忙しくてほとんど話したことがないというような方もいるでしょう。いや、実際に父と話してもそれが的確なアドバイスとはならなかったという方もいるでしょう。
しかし、我々の父なる神は我々を無条件で愛し、私達が男として、夫として、父としてどうあるべきかということを完全に知り、それを教えてくださるお方なのです。
先のひきつけを起こしていた子をイエス様は癒し、助けてくださいました。しかし、そのことができなかった弟子達はイエス様に尋ねました。
28家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。29すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」(マルコ9章28節‐29節)。
イエス様は応えたのです。「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
主にある皆さん、私達が父なる神に祈るということは、私達が自分の背負っている荷をその父の前に下ろし、あなたはこのことについてどう思われますか、このことに介入してくださいと願うことです。その祈りの座から立つ時には父なる神の助けを信じて、立ち上がるということです。
パウロは愛弟子テモテにこう書き記しました。テモテ第一の手紙2章8節、『8男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい』。
パウロは男の限界を知っていたのでしょう。彼がサウロと呼ばれていた時ならこのような手紙を書かずに「男達よ、どんな場所でも、全力で当たって砕けろ」。しかし、自分が抱える課題を持っていくことができる父なる神の存在をパウロは知ったのです。そうです、私達もその父の前に荷を下ろすことができるのです。
我々にはどうすることもできないことがあり、背負いきれないものを日々、背負って生きています。それは恥ずかしいことではありません。それが現実であり、それは事実なのですから。まさしく「彼、彼女を助けてください」ではなく「私達を助けてください」と私達は心の中で叫びます。私達の周りには、多くの誘惑があります。時に私達を引きずり下ろそうとするような力もあるでしょう。
これらの只中で、男たちは父なる神のもとに行くのです。レイモンド・チャンドラーは「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく価値がない」という有名な言葉を残しました。多くの男達が心惹かれる言葉です。私達が男の本当の強さと優しさを知ろうと思うのなら、私達は父なる神の膝元で学ぶべきです。父なる神は私達が願うのなら、惜しみなく、その全てを私達に教えてくださることでしょう。そして、その完全なる模範として、人の姿をとられたイエス・キリストが私達に私達のとるべき道、私達が成すべき言動を教えてくれることでしょう。
主にある兄弟、私達はまた教会に戻ります。兄弟、あなたは、このコロナの間に何を考え、何を祈りましたか。父なる神と共に、主イエスにならい、主にある教会で共に私達のあるべき姿を知り、それに近づこうではありませんか。
愛する家族と共に主の前に出ようではありませんか。父なる神からしっかりと父としての在り方を教えていただき、家族の先頭に立っていこうではありませんか。
私も皆さんと共に父なる神の前に学ばせていただきたいと切に願います。背負っている荷を父なる神の前に下ろし、共に父なる神の前に集い、祈り、励まし合っていきましょう。私達の進むべき道を天来の光で照らしていただこうではありませんか。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2021年6月20日
1)マルコ9章14節から29節を読みましょう。この時、この父親はどんな気持ちでいたと思いますか。
2)この父親はイエス様を前に『わたしどもをあわれんでお助けください』(22)と息子の問題を自分のこととして受け止めました。今日、父親が背負っているものは何でしょうか。
3)あなたはどんな理想の父親像をもっていますか。あなたはどんなことに「男らしさ」というものを感じますか。
4)男性が直面する課題(誘惑)にはいつの時代にも「お金」、「性的誘惑」、「プライド」、「自制」、「自分の父親との関係」があります。このようなことから私達はどうしたら守られますか。
5)あなたはあなたの父親とどのような思い出がありますか。「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた」(出エジプト記33章11節)とあるように神様はモーセのメンターとなりました。あなたには人生の諸々のことを打ち明けることができるメンターがいますか。
6)あなたは「私にはできないことがある」と自覚し、それを公言できますか。そして、それらを父なる神の前に持ってくることができますか。
7)『男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい』(テモテ第一の手紙2章8節)という御言葉から私達が受け止める男(父親)としての生き方は何でしょうか。