痛恨の失敗、されど・・・

今日はモーセの痛恨の失敗を見ていきたいと思います。モーセにとりまして、自分の失敗が後世の者に読まれるということは不名誉なことでありましょう。しかし、聖書は包み隠さずに、彼の失敗を記録しました。なぜ?私達がこのことを深く心にとめ、モーセと同じ轍を踏まぬためにです。

私達の心身のプレッシャーやストレスを考えるならば、働き盛りの時、仕事や子育てに追われている時は私達の感情も上下に揺れ動き、誘惑の力が大きくはたらく時かもしれません。かといって、これらのプレッシャーを通過すれば安泰かというと、決してそうではなく、残念なことですが「晩節を汚す」という言葉がありますように、その晩年、既にゴールのテープが見える直前に私達はとんでもないことをしかねない者なのです。

そんな私達が今、できることは何でしょうか。夕暮れの空の装いは、昼間の明るさが刻一刻と変化したものです。人生の黄昏は、それに先立つ真昼の時からその特徴を帯びていきます。今から私達は主への感謝と喜びを常として、ひたすら謙虚に、神を畏れ、与えられている日々を大切に、見つめ続けるべきお方から目を離さずに生きる者でありたいのです。

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痛恨の失敗、されど・・・。
2021年1月24日

昨年4月から私達はモーセの生涯を見てきました。モーセは奴隷の身分で生まれながら、不思議な神の摂理のもと、40年もの間、エジプト王宮にて帝王学を受けますが、パロの怒りを買い、ミデアンの荒野に逃げ、単調な、そして静かな40年を過ごしました。

気がつけば人生の終盤に向かう80となり、そのような時に神の御声を聴き、エジプトの王、パロに立ち向かい、何百万もの民の先頭に立ち、彼らを約束の地、カナンへと導くために、その齢、実に120になるまでの年月を全て捧げた、それがモーセの生涯でした。

荒野にて、幾度も同胞のイスラエルの民からのつぶやきと反発を受けながらも、己を捨てて彼らのために神に取り成す日々。民数記12章3節が「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と記しているように、神はそんな人となりの彼に壮大なミッションを託したのです。

しかし、その彼も私達と同じ人間。完全ではありませんでした。痛恨の失敗を犯します。聖書の特筆すべきことは、そこに記録されている人物が美化されることなく、彼らの失敗を、そう、時に痛々しい失敗をも隠すことなく記録しているということです。

あたかもそれは後世に生きる私達がそこから学ぶことができるようにというような神様の計らいのようにも思えます。今日はそんなモーセの失敗を見てまいりましょう。

民数記の20章1節から13節を拝読します。

1 イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいった。そして民はカデシにとどまったが、ミリアムがそこで死んだので、彼女をそこに葬った。2 そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。3 すなわち民はモーセと争って言った、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。4 なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。5 どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。6 そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、7 主はモーセに言われた、8 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。9 モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。10 モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。11 モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。12 そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された(民数記20章1節ー13節)。

事の背景を簡単にご説明しましょう。イスラエルの民がチンの荒野、ガデシという所に来たということが一節には書かれています。

そして、その所でモーセの姉ミリアムが亡くなったというのです。ミリアムといえば、モーセがまだ乳飲み子の時に機転を働かせて、モーセの命を救った人です。モーセにとっては命の恩人であり、荒野での旅においてもモーセにとっては心を打ち明けることができる数少ない大切な存在だったと思います。

そのような肉親が亡くなるということ、そのことに対する悲しみはモーセも私達も何ら変わりません。彼は深い悲しみの中にいたことでしょう。そんな時は誰からも干渉されずに静かにしていたい。そんな気持ちが彼にあったと思います。

きっとイスラエルの民達にもミリアムの死は伝えられていたことでしょう。しかし、彼らはモーセの悲しみにはおかまいなし、彼らはその場所で水がないことに不満をもち、いつものごとくモーセに詰め寄ったのです。

モーセに投げかけられた心ない言葉、不平、不満、中傷は初めて聞く言葉ではありません。ここにいたるまで何度もモーセが聞かされていた言葉です。彼らをエジプトの奴隷状態から救い出して、ここまで来たのに、また、ここにきて、なぜエジプトから我々を導いたのかと言う。ここには何もない、この荒野で私たちを殺そうというのか!と彼らはモーセを責めます。

しかし、そのような状況の中でありながらも、先週もお話ししましたように、この時もモーセは会衆の前を去り、神様のみ前にひれ伏したのです。その場におれば、何を言い返してしまうか分からない、彼は自らの言動を守るべく、神の前に出たのでありましょう。

主はその彼に語りかけました。そうです、主の前に出ることにより、神が彼に何をすべきかを教えてくださる、彼はそのことを知っていました。神様は言われました「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために、岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」(民数記20章8節)。

モーセは言われたとおり、会衆を集めました。聖書は詳細を記していませんが、あちらこちらからぞろぞろと集まってくる者達の姿、その態度、聞こえてくる言葉、モーセが見聞きすることはきっと彼の心から平常心を失わせたのでしょう。姉の死により、自らの心に余裕のない時に、民の心ない言葉を彼は聞いたことでしょう。

大切な身内を失い、その悲しみをしばし静かに受け止めることもできないのか。要求ばかりをして、自らは指一本、動かさない。なんでこんな者達のために、私が水を与えなければならないのか。その思いは内から湧き上がり、彼は抑えきれなくなったのでしょう。彼は言いました。

「そむく人達よ、聞きなさい。我々があなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」(民数記20章10節)。

 そして、彼は「岩に語りかけなさい」という神の言葉に従わずに、持っていた杖で岩を二度打ったのです。きっとそれは「コンコン」と軽くたたくというような打ち方ではなかったと思います。彼は渾身の力を込めて杖が折れてしまうような勢いで岩を思いきり打ったのではないでしょうか。そうしましたら、そこから水が湧き出ました。そして、結果的にその水により会衆と家畜は満たされたのです。

神様はモーセに「岩に命じて水を出させなさい」と言ったのです。しかし、彼は岩を二度打ったのです。その時の彼の感情を一言で言い表すのなら、怒りであったことでしょう。

彼の冷めやらぬ怒りに対して、神様はモーセに厳粛に言われました「あなたがたは私を信じないで、イスラエルの人々の前に私の聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」(民数記20章12節)。

この出来事について詩篇106篇32節―33節で、その記者はこんな視点でこう書いています「彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので、モーセは彼らのために災いにあった。これは彼らが神の霊にそむいた時、彼がそのくちびるで軽率なことを言ったからである」ここには、今見てきた出来事は「モーセがその口で軽率なことを言ったからだ」と説明しています。

モーセにとりまして、彼が杖を振り上げた時になした言動は痛恨の出来事となりました。彼はこのことを振り返り、何度、悔いたことでしょうか。しかし、約束の地に続く扉が彼の前に再び開かれることはなかったのです。実際に、後に彼は約束の地を見下ろす山で息を引き取っていくのです。

この出来事は私たちにどんなメッセージを語りかけるのでしょうか。ここから私達は主を前にして、主が願われるような人生を走り抜くことは並大抵のことではないということを知るのです。

人生の60年をひたすら誠実に生きてきて、多くの人達から感謝され、恩人と呼ばれていたとしても、もし、その晩年に一瞬の怒りから誰かに手を挙げてしまったら、その人の60年の功績はかすんでしまうことでしょう。

夫婦仲むつまじく結婚生活を何十年も過ごしてきても、もし、その晩年に不貞をはたらいてしまったら、もし、私達の口から出る心ない一言が伴侶に投げかけられたら、全てがひっくりかえってしまうということがあるのです。

確かにこのモーセの失敗は私達に大きな教訓を与えてくれるのです。モーセにとりまして、このようなことが記録されて後世の者達に読まれることは不名誉なことでありましょう。しかし、聖書は包み隠さず書きます。なぜ?私達がこのことを深く心にとめ、モーセと同じ轍を踏まぬためです。

私達もモーセと同じ人間。モーセですら犯してしまったのですから、このことは私達にも起こりうることなのだということを自覚しましょう。

人の肉体的、精神的なプレッシャーとかストレスということを考えるならば、働き盛りの時、仕事や子育てに追われている時は私達の感情も上下に揺れ動き、誘惑の力が大きく働く時かもしれません。

かといって、これらのプレッシャーを通過すれば安泰かというと、決してそうではなく、悲しく残念なことですが「晩節を汚す」という言葉がありますように、その晩年、既にゴールのテープが見える直前に私達はとんでもないことをしかねない者なのです。

そんな私達が今、できることは何でしょうか。夕暮れの空の装いは、昼間の明るさが刻一刻と変化したものです。人生のたそがれは、それに先立つ真昼の時からその特徴を帯びていきます。今から私達は主への感謝と喜びを常として、ひたすら謙虚に、神を畏れ、与えられている日々を大切に、見つめ続けるべきお方から目を離さずに生きる者でありたいのです。

そうです、ヘブル人12章2節に記されている通りです。こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(へブル12章1節-2節)

私達はイエス・キリストから目を離さずに歩み続けましょう。私達はモーセのように時に不信仰に襲われます。しかし、このお方は私達の信仰の導き手であり、その完成者です。このお方だけが私達が仰ぎ見、私達と共に歩んでくださるに足る完全な人格をもったお方なのです。

神の恵みと憐れみにより、一心にイエスを見上げて走る生涯、気がつけば、私達の前途に私達の最期の日が来ていることに気がつかされることでしょう。私達はそのまま主イエスと共にこの地上でのゴールに至ろうではありませんか。

きっと皆さんの中には、それでも最後の最後に約束の地に入ることができなかったモーセのことが気になる方がいらっしゃることでしょう。彼になされたことはあまりにも酷ではないかと思われる方がいることでしょう。最後にこのことについてお話して今日のメッセージを終えましょう。

舞台はモーセが石を叩いてしまった、紀元前1500年頃のチンの荒野から、紀元30年頃のイスラエルに移ります。ルカ9章29節から31節を拝読します。

これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変わり、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリアであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである(ルカ9章29節-31節)。

モーセは1500年後に再び、聖書の中に姿をあらわします。そう、それはイエス・キリストの時代です。イエス様が三人の弟子を連れて、山に登られました。この山はイスラエル北部、ゴラン高原に今もそびえたつ標高2814メートルのヘルモン山だと言われています。

モーセはその生涯の最後に現在のヨルダンにあるネボ山の山頂に立ちます。そこから彼に約束されていた約束の地、カナンを見渡します。しかし、お話してきましたように彼はそれを眺めるだけで、そこに入ることはできません。彼はその山で死ぬのです。

私はいつか必ずこのネボ山を訪ねたいと願っています。モーセがその時、何を見たのか、私もこの目でその景色を見たいのです。聞くところによりますと、そのネボ山から晴れている時には、100マイル先にあるヘルモン山が見えるようです。ヘルモン山は「約束の地」の北の境界線と言われています。

モーセは主の元に帰る直前に、ネボ山から約束の地を見渡した時、はるか彼方にヘルモン山を見たかもしれない。しかし、まさか考えもしなかったでしょう。 1500年後に自分はエリアと共にあのヘルモン山でイエス・キリストの前に立っているということなど。

そうです、彼がネボ山から見渡した夢にまで見た約束の地。彼はそこに入ることはできませんでしたが、後に彼は主の栄光の中、すなわち栄化された者として、エリアと共に聖書中、最も重要な事柄についてイエスと話すためにその約束の地に立ったのです。

モーセの人生の結末を思う時に私達は思います。モーセは何と気の毒な人生の終わり方をしたのかと。確かにモーセは失敗をした。だからといって、彼を約束の地に入れないというのは酷ではないか。しかし、ここに記されているモーセは栄光の体にかえられて、主イエスと共に彼がかつて求めていた約束の地に立つ姿です。

私は思いました。モーセがエリアと共にイエス・キリストの前に立った時に彼は思っただろうか。「あー、ここが私がかつて寝ても覚めても思い描いていた約束の地なのか。私はやっとここに来たのか」。彼はしみじみと自分の夢が叶えられことを思い、感慨にふけただろうか。いいえ、きっと彼はそんなことを思うことはなかったことでしょう。なぜ?

今や、彼は約束の地よりさらに優った、神の御国に身を置く者なのですから。彼は神の臨在の前に、その栄光に包まれているのですから。かつてパウロは言いましたでしょう。

18わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。(ローマ8章18節)

モーセは自身がしてしまったことを悔い、そのことにより受けねばならぬ結果を嘆き、悲しんだことでしょう。しかし、その彼が主のもとに行きました時に、彼は知ったに違いない。私が地上で願い求めていたことは、今、私に明らかにされたこの神の栄光に比べたら全く取るに足らないではないか!

感傷に浸る必要もなく、モーセがその約束の地でしたことは、エリアと共にイエス・キリストがこれからエルサレムにおいて最後に成し遂げようとしていること、そのことだけに彼の関心は向けられていたことでしょう。イエス・キリストが最後に成し遂げる事とは何でしょうか。言うまでもない、それはイエス様が十字架にかかることであり、死を打ち破り復活するということでした。

パウロはそのキリストの十字架と復活が私達におよぼす力についてピリピ書の中に端的に書いています。それは全ての真理が明らかにされ、ヘルモン山に立った時のモーセの心にあった思いを代弁するかのような言葉です。

8わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、9律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。10すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、11なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。12わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。13兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(ピりピ3章8節ー14節)

 確かにモーセは失敗しました。それゆえに地上での夢が一つかないませんでした。しかし、彼はそれに勝る栄光の中に身を置いたのです。モーセのゴールはカナンの地ではなかったのです。私達が彼のゴールはカナンの地だと思うのなら、私達は彼を気の毒に思うことでしょう。しかし実際は、そうではなかったのです。彼の本当のゴールはこの神の栄光の中に永久に生きることだったのです。

パウロはそのことを心底知っているから言ったのです。「私はキリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのだ」と。

主にある皆さん、私達はこれからの人生においてモーセのような経験をするかもしれません。自分の願っていた夢叶わず、その道半ばで主に名前が呼ばれ、主の元に愛する者を送ることがあるかもしれない。残された私達は思う。なんでこんなことになるんだと。

もしかしたら、私達がその当事者となるかもしれません。私達は思うかもしれない。無念だと。しかし、思い起こしていただきたい、今日の主の言葉を。

このことを話しながら、私は自分の人生にも似たことがあったことを思い出しています。その人、私の母、大倉君江はおととしの暮れ、主の元に帰っていきました。日本が戦後の復興のただ中にいた時、18歳で主イエスに出会い、嬉しくて、嬉しくて、その半年後に東京聖書学院に入学した女性です。以来、彼女は半世紀以上、その道に全てを注ぎ込んできました。

しかし、そんな彼女にも引退の日が近づいてきました。その生涯の多くの年月、母は一人で主と教会に仕えました。彼女は時々、私に言いました「そろそろ家族をしたいわ」と。私は彼女のはたらきを間近に見てきましたので、彼女はその報いを受けるべきだと確信し、彼女の願いが叶うように、彼女を米国に受け入れる備えを始めました。しかし、時同じくして、彼女は原因の分からない病に倒れ、そのまま牧師の働きは閉ざされ、12年、施設で静かな日々を送り、アメリカの地を踏むことなく天に召されました。

彼女は自分の生涯を描きました「摂理の恵み」という本の一番最後のページをこのような言葉で締めくくっています。『あと、どれ位、日本で御用ができるか分かりませんが、「こちらが終わったら、あちらへ」と祈る日々です。何回が訪れた北米ホーリネス教団の叫びが、このごろ聞こえてくるような思いがしているのです。「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けてください」(使徒行伝16章9節)』(大倉君江:『摂理の恵み』より)

彼女の「家族をしたい」、「米国で主の御用を続けたい」という願いはかなわずに、神様は彼女を身元に招かれました。

このようなことがありますと、モーセに対して持つ感情と似たような思いをもちます。主よ、彼女は伝道者としてあなた一筋で生きてきました。それなら最後の10年、彼女の夢を叶えてくださってもいいではありませんか・・・。

しかし、今、私はこの思いは間違っていると思います。私の心をよそに彼女はあちらで今、微笑んでいるに違いないと確信するからです。「信、そんなに悲しまなくてもいいよ。ここに来たら全てが分かるから。こんなこと言っても、今のあなたには理解できないかもしれないけれど、私がこちらでいただいている栄光に比べれば私の地上での願いや思いは取るに足らないのよ。私が残した本のタイトルを心に刻みなさい。私は今、神の「摂理の恵み」にあずかっているのだから」。

確かにモーセがしてしまったことは痛恨の失敗であり、それゆえに彼は地上の夢を失いました。しかし、私は今日のメッセージタイトルに「されど・・・」という言葉をつけ加えました。そうです、彼は痛恨の失敗で終わらなかったのです。私達は心に刻みたい。主にある皆さん、このちっぽけな頭の中に天地万物の支配者なる神を押し込めてはならない。

地上で生きるのであるなら、神の前での失敗は避けたいと私達は願います。そのために一心に主イエス・キリストを見上げてまいりましょう。主と共に人生を完走しましょう。しかし、人間であるということは、私達が何をしでかしてしまうか分からないということを意味しています。

もし、神の前に失敗をしましたら、それを悔い改めましょう。神はイエス・キリストの十字架ゆえに赦してくださる。そのことゆえに私達は自分で蒔いたことを刈り取らなければならなくなるかもしれません。思い描いていた計画や夢を失うかもしれない。しかし、覚えましょう、主が私達と共にある限り、それが私達の最終的なゴールではないということを。

皆さんの中には道半ばで、主の元に逝かれた大切な人がいるかもしれません。もしかしたら、なぜこのような人生の終わり方を遂げなければならないのだという思いをお持ちの方がいるかもしれません。

しかし、それは彼、彼女のゴールではありません。キリストはその最終ゴールに私達を招き入れるために、十字架にかかり、復活されたのです。彼らはその主の元にあって、この地上で成し遂げることができなかったことを悔いてはいないと私は信じます。

主の栄光の輝きが圧倒的に素晴らしいので、御国において成し遂げることができなかったことを悔いる理由はないからです。そして、それはこの地上に主の憐れみにより残された私達も同じです。私達がすべきことは、その方のかけがえのない人生を、その人生を同伴させていただいた幸いを主に感謝し、現在、主の栄光の只中にいる彼らの姿を思い浮かべ、主イエス・キリストゆえに、私達もそのところにいつの日か加わることを待ち望みつつ、与えられている命をこの世界で主のために使っていただくのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり

1)民数記の20章1節-13節を読みましょう。ここでは何が起きましたか。モーセはどんな失敗をしましたか。このことをモーセの姉、ミリアムの死と共に考える時に、私達の失敗の可能性は高くなると思われます。あなたがモーセだったら、この失敗を免れると思いますか。あなたは自分の弱点を知っていますか。

2)モーセは失敗することにより、約束の地に入ることができなくなりました(民数記20章12節)。あなたはこのことをどう思いますか。

3)人間が犯しかねない失敗にはどんなものがありますか。どうしたら、そのような失敗から免れることができますか。へブル12章1節-2節、ピリピ3章8節ー14節を読みましょう。

4)ルカ9章29節-31節を読みましょう。ここにはイエス様がヘルモン山でモーセとエリアに会い、これからイエス様がエルサレムで最後に成し遂げようとしていることを語っている様子が描かれています。ここにモーセがいることにはどんな意味がありますか。

5)この時、モーセは「ここが約束の地か!」と感激していたと思いますか。なぜですか?

6)ピリピ3章8節-14節を読みましょう。ここでパウロは自分がどこに立って生きていると言っていますか。私達もパウロと同じところに立つのはなぜ大切なのですか。

7)あなたは神様を自分の頭の中におさめようとすることはありませんか。なぜ、それは問題なのですか。

8)『わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない』(ローマ8章18節)というパウロの言葉は私達に何を語りかけていますか。

9)私達が失敗を犯してしまったら何をすべきでしょうか。そのことにより私達の道が閉ざされてしまった時、私達は何を思い起こすべきでしょうか。


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