露が消える時

黄色いパッケージの「森永のキャラメル」を知らない日本人はいないと思います。その森永製菓の創業者は森永太一郎(たいちろう)という方で、彼は慶応元年、生家であった佐賀県伊万里市で陶器問屋の息子として生まれました。

24歳の時に商品を海外で販売することを目論見、妻子を日本に残して単身、渡米し、そこで出会ったクリスチャンのアメリカ人老夫婦からキリスト教に触れ、内村鑑三、新渡戸稲造を導いたメリマン・ハリス宣教師から洗礼を受けます。その後、一時、帰国しますが、再び渡米し、西洋菓子の製法を身につけ、帰国後、森永製菓を設立し、この会社は日本を代表する製菓会社となります。

森永製菓の商品の中に昭和5年に販売が始められた「マンナ・ビスケット」という幼児の離乳食があります。懐かしく思われる方がいるかもしません。このマンナの成り立ちと名前の由来が森永製菓のウエブサイトに掲載されています。

当時の日本は不況下にあり、世の中にはまだ乳離れした幼児が食べられるお菓子が何もない時代。そこで森永は子供が安心して食べられる栄養価の高いビスケットを開発しました。それがマンナであり、その名は太一郎が聖書に記されている神様がイスラエルの民に与えたマナという食物にちなんでつけられました・・・。

今日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「一日一生」はこちらから。
今日の礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから ↓

露が消える時
2020年7月26日

黄色いパッケージの「森永のキャラメル」を知らない日本人はいないと思います。その森永製菓の創業者は森永太一郎(たいちろう)という方で、彼は慶応元年、生家であった佐賀県伊万里市で陶器問屋の息子として生まれました。

24歳の時に商品を海外で販売することを目論見、妻子を日本に残して単身、渡米します。しかし、思うように事は運ばず、サンフランシスコにありました日本人ミッション教会が提供していました無料宿泊所に身を寄せ、庭師や皿洗いをするうちに親切にしてくれたクリスチャンのアメリカ人老夫婦からキリスト教に触れ、内村鑑三、新渡戸稲造を導いたメリマン・ハリス宣教師から洗礼を受けます。

その後、一時、帰国しますが、再び渡米し、西洋菓子の製法を身につけ、11年の米国生活を終え、帰国。森永製菓を設立し、この会社は日本を代表する製菓会社となります。

森永製菓の商品の中に昭和5年に販売が始められた「マンナ・ビスケット」という幼児の離乳食があります。懐かしく思われる方がいるかもしません。このマンナの成り立ちと名前の由来が森永製菓のウエブサイトに掲載されています。

当時の日本は不況下にあり、世の中にはまだ乳離れした幼児が食べられるお菓子が何もない時代。そこで森永は子供が安心して食べられる栄養価の高いビスケットを開発しました。それがマンナであり、その名は太一郎が聖書に記されている神様がイスラエルの民に与えたマナという食物にちなんでつけられました。

このマナこそ、私達が先週から見ている神様がイスラエルの民に荒野で与えた食物です。彼らは思いもしなかったことでしょう。このマナの名前からマンナという菓子が、3500年後、日本という国で販売されるとは・・・。今日はこのマナに注目していきいたいと思います。

かつてエジプトに奴隷となっておりましたイスラエルの民は荒野で食物についてつぶやいたということを先週、話しました。出エジプト記16章3節、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」(出エジプト16章3節)。

 

食物の問題はこの時に限ったことではありませんでした。イエス・キリストが復活され、天にのぼられた後、初代教会が産声を上げた時にもちあがった最初の問題は何だったでしょうか?やもめたちの日々の配給の問題です。彼らは食物の配給という問題に直面したのです。

いつの時代にあっても、人は何を食べるかという課題を抱えていました。食べるということは我々に不可欠なことであり、生きるために最重要のことです。聖書はスピリチャルな事だけを語っているのではなく、この大切な事を割愛することなく、私達の食物のためにもページを割いているのです。

 

神様はイスラエルの民の食物に対するつぶやきに対して何をなさったのでしょうか。出エジプト記16章はこう記しています。13また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。14その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。15イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである」(出エジプト16章13節-15節)

この食物が後にマナと呼ばれるようになります。このマナは40年もの間、朝ごとに天から降り続け、彼らは荒野にいる間、それを食べ続けました。耕すことなく、刈り取ることなくこのマナを無償で受け、そのことゆえに彼らはその命を保ったのです。

こうなりますと、必ずこう考える人がでてきます。「明日は色々と忙しいから今日、明日の分までマナを集めておこう」。しかし、モーセは予め彼らに言っておりました「誰も朝までそれを残しておいてはならない」(出エジプト16章19節)。

しかしながら「してはならない」と言われても「する」人は今も昔も変わらずおります。モーセに聞き従わないで、ある者は朝までそれを残しておいたが、虫がついて臭くなった」(出エジプト16章20節)と聖書は記しています。

私達はこの出来事から教訓を得ます。その教訓は神様は朝ごとに私達の一日に必要なものを与えてくださるということです。まさしくあの哀歌の言葉のとおりです主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい』(哀歌3章22節―23節」。

しかし、民は明日のことを心配して、明日のマナを蓄えることにより、今日と明日の平安を得ようとしました。しかし、翌日、彼らが目の当たりにしたのは腐って悪臭を放つマナだったのです。

 

私達の心に思い浮かぶ主イエス・キリストの言葉があります。イエス様は言われました。33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ6章33節、34節)。

イエス様は私達の今日の苦労を知っています。イエス様も日々、労苦をしながら、働き、家族を支えたからです。イエス様は大工の仕事から得る売り上げと、家庭の出費を考えながら日々を過ごしました。イエス様は病と死を知っていました。人が不条理と呼ぶ災難をこのお方も自ら経験されました。そこに立ってイエス様は語りかけるのです。「私達の苦労はその日だけで十分ではないか」。

ここでイエス様は「明日のことを考えるな」とは言っていません。「明日のための備えをするな」とも言っていません。イエス様は大工でしたから、当然、明日、成すべき仕事の段取りを考え、前の日にその備えをしたことでしょう。

イエス様はここで明日のことを「思いわずらうな」と言っているのです。この「わずらう」という漢字は二つあります。「煩う」と「患う」です。前者は「悩むこと、心配すること」、後者は「病気になること」です。

これらが意味するところは「思いわずらう」とは明日を思うことにより、悩み、心配し、病気になるということです。自分で思い、そして、わずらうのですから、私達自身がその心配と病の原因となっています。そのような思いわずらいから解放されようではないかとイエス様は私達に語りかけます。

私達がすべきことは思い、わずらうことではなく、まず「神の国と神の義とを求めることなのだ」と主イエスは私達に語りかけます。そして「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と、私達と同じ状況、環境に生きた主イエスは私達に語りかけるのです。

岩手県のケセン地方の言葉で書かれた聖書はこのマタイ6章の言葉をこう訳しています。「何よりもまず、神さまのお取り仕切りに加わりたいもんだ。お心にかなうようになりたいもんだ、と心から願い続けろ。そうすれば、こんな物などは全部ついでに授けてくださる」(「ケセン語訳 新約聖書 【マタイによる福音書】」 山浦玄嗣・訳)

「仕切る」という言葉があります。「分かった。任せろ、俺がこの場を仕切るから」というような具合でこの言葉は使われます。この言葉は言います。「あなたの今日も明日も取り仕切ってくださっている神様の取り仕切りの中に、あなたも加わって一日、精一杯、神のお心にかなうように、汗を流せばいいのだよ」と。

皆さん、毎日、どんな日々を過ごしていますか。確かに今のこの状況、明日について私達が考え出したら、色々な思いが止めどもなく出てきますでしょう。そんな明日に先回りをして、あの事、この事を心配し、憂い、心と体を患っていませんか。明日を思い、わずらうことによって明日がよくなることはありません。

まず神を第一にして、神の取り仕切りに信頼し、今日の労苦に最善を尽くしていきませんか。そのようにして一日、また一日を過ごすことにより、私達の道は開かれていくのだと主イエスは私達に語りかけています。

さて、このマナについて聖書は「マナは露と共に天から降ってきた」(出エジプト16章13節-14節)と記しています。当時、朝毎に露が荒野に降り注いだのです。

旧約聖書には30回、露という言葉が記されており、それを見ますならば「露」がどのようなものであったかということが分かります。その中の一つにモーセが死を前にして、イスラエルの民に語りかけました言葉があります。

13「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。上なる天の賜物と露、下に横たわる淵の賜物、14日によって産する尊い賜物、月によって生ずる尊い賜物、15いにしえの山々の産する賜物、とこしえの丘の尊い賜物、16地とそれに満ちる尊い賜物、しばの中におられた者の恵みが、ヨセフの頭に臨み、その兄弟たちの君たる者の頭の頂にくだるように。(申命記33章13節-16節)

モーセはここで神様がこの地に与えておられる祝福を並べております。そして、その祝福の中で「露」を、まず一番最初に取り上げているのです。当然、モーセの頭の中には40年もの間、露と共に彼に与えられ続けたマナがあったことでしょう。

神様は天から露を降らして命を拒絶するような荒野一帯の生きとし生けるものを朝毎に潤しました。荒野に祝福が注がれ続けたのです。そして、イスラエルの民にとりまして、その祝福は露だけではなかったのです。この露が乾くとうすいウロコのようなマナという食物が現れてきたのです。このマナはしばしの時が経ち、露が乾くまでその姿をあらわしませんでした。

ですから、当然、このような会話がイスラエルの民の間では取り交わされたことでしょう。「まだ露が乾いてないからちょっと待っていなさいよ。もうすぐマナがあらわれるから。そうしたら朝食だよ」。

私達が日ごとに直面することの中には見えないこと、理解できないことが多くあります。しかし、既に神様の恵みは露のように私達の上に朝ごとに注がれています。そして、時が経つと、その中にマナも隠されていることに私達は気がつかされるのです。

あのヨセフが兄弟達によって売り飛ばされた時、エジプトで獄につながれていた時、まさかこの人がエジプトの宰相となり、やがて飢饉からイスラエルを救うことになろうとは誰も考えもしませんでした。

モーセがパロの命により、ナイルの川面に置かれた時、まさかその子がエジプト王宮で育てられ、後にエジプトからイスラエルの民を救い出すリーダーとなることは知りえませんでした。

マリアが許婚がありながら、受胎告知を天使に告げられた時、自分の胎にいる子がこの世界の救い主となり、2000年後に彼を礼拝する者達が世界中に起されるということは知りえませんでした。

ペテロが大言壮語し、にもかかわらずイエス様を三度否んだ時、まさかそんな自分が許され、イエス様の弟子として生涯かけてこのお方をのべ伝えるようになるとは考えもしませんでした。

パウロがダマスコ途上で視力を失った時、まさかこの自分がクリスチャニティーにとって欠かすことができないキーパソンとなり、聖書の中に自らが書いた書がいくつも後世に残されるとは思いませんでした。

ヨセフの痛みと試練、赤子モーセの危機、マリアの妊娠、ペテロの挫折、パウロの無力、そのように私達にとって試練と思われるような、避けたいと思われるところから神様は不思議なことを始められました。

そうです、これらのことはその人に降りかかった露のようなものです。当初、その露は彼らにはとても祝福とは思われません。しかし、よくよく考えれば、やはり、その露は神様の恵みでした。

ヨセフが奴隷としてエジプトで過ごしたとき、聖書は何度も「神がヨセフとおられた」と記し、赤子モーセが寝かされた葦のかごをパロの娘が見つけ、マリアの理解できない妊娠を夫ヨセフは受け止め、ペテロの失敗はイエス様によって補われ、視力を失ったパウロでありますが、神様はアナニヤという人を備えておられました。その露には神様の恵みが満ちていました。

そして、驚くなかれ、その時には分かりませんでしたが、しばしの時が経ち、その露が消えた後に、その露の中には私達の想像を超えたマナが隠されていたのです。すなわち、ヨセフを通してイスラエルの民は救われ、モーセを通してイスラエルの民は救われ、マリアを通して人類はイエス・キリストによって救われ、ペテロを通して我々は人の弱さと神の愛を知り、パウロを通して福音は力強く世界に宣べ伝えられていきました。これらのことは当初は知りえませんでした。しかし、露が乾いた時に、これらのマナが明らかになったのです。

主にある皆さん、これが人生の旅路を歩く私達にも起こることなのです。主は毎朝、私達に恵みを注いでくださいます。そして、その恵みがさらなる恵みとなっていくことを私達はその人生に見ることができるのです。

出エジプト記16章35節には「イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた」とあります。

このことを、もう少し詳しくヨシュア記はイスラエルの民が約束の地、カナンに入った日のことについてこう記しています。11そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、12その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。(ヨシュア5章11節ー12節)

マナは40年間、民に与えられました。しかし、彼らが荒野の旅を全うし、カナンという最終目的地の堺にきました時からマナはピタリと降らなくなったのです。なぜなら、その時から彼らの荒野の生活は終わり、カナンに到着し、彼らの定住生活が始まりますので、天から送られるマナの役目は終わったのです。

そして、この事はまた別の真理を明らかにしました。申命記8章はこう語っています。2あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。3それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった(申命記8章2節-3節)。

荒野でイスラエルの民は天から与えられるマナによって養われました。それは彼らが大地から得たものではなく、天から与えられたものなのです。それなくして彼らは生きながらえることができませんでした。しかし、神様は彼らの荒野での生活を通して、人間はマナだけで生きるものではないということを示されたのです。そのような意味においてもマナは神様が最も人に伝えたいメッセージへの橋渡しをして、その役目を終えたのです。そう、神様が最も私達に伝えたいメッセージは「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8章3節)ということなのです。

先ほど、旧約聖書では露が30回出てくるとお話しました。しかし、新約聖書では私が調べたかぎりこの「露」という言葉は一度も出てきません。また、今日、私達の上に朝毎にマナが降ることはありません。なぜですか。モーセの時代に日毎に注がれた「露とマナ」が新約の時代、そして今は「神の言葉」となったからです。申命記32章はまさしくそのことを暗示していたのです。

「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ。(申命記32章1節-3節)。

もはや神は露とマナをもって人を養うのではなく、神の言葉によって私達を養うのです。そして、新約の時代とは、すなわち、マナが言葉となり、その言葉が肉体となって、すなわちイエス・キリストとなって、私達の間に宿ったということにより始まったのです。

イエス・キリストと弟子達の間になされたやりとりがそのことを言い尽くしているではありませんか。32そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。33神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。34彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。35[イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6章32節-35節)。

創造者なる神が言われる。私達、人間はパンだけで満たされることはない。パンだけで生きるのではないと。私達は神の口から出る言葉によって生きると神は言われる。そして、その言葉こそがイエス・キリストなのだと。このお方は命のパンであり、このお方のもとに来るものは決して飢えることなく、渇くことがないと。

主にある皆さん、私達は今、この聖書の完璧な物語の前に畏れの思いをもって出ています。かつて天から朝毎に降り注がれたマナはその日に必要なだけ与えられたものでありました。そのことにより、私達は主イエスが言われた「明日は明日が思いわずらうのだ。だから、まずあなたたちが成すべきことは神の国と神の義を求めることだ」という神の言葉を聞きました。

また、この露は神の無償の恵みであり、さらにその露の中にはさらなる恵みが隠されていることを私達は知りました。恵みとは思われないことに神の恵みを見出し、そこにはさらなる恵みが隠されているということに気がつかされていく、そのような生涯を私達は送ることができるのだということを私達は今朝、確認しました。

そして、この天来のマナは今や、命のパンなるキリストとして私達と共にあるのです。それは、自ら神の言葉となられたイエス・キリストであり、私達がこの言葉なるキリストによって生きる時に私達は飢えることなく、渇くことなく、この生涯を歩み、全うすることができるのです。主にある皆さん、このような人生を私達は選び取ろうではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年7月26日

1)イスラエルの民は荒野にいる40年もの間、神様からマナが与えられました。しかし、そのマナは翌日の食事のために保管することができませんでした。このことは何を意味していると思いますか。

 

2)上記のこととマタイ6章33節、34節の御言葉はどのように関連づけられますか。哀歌3章22節―23節にはなぜ「朝毎に新しい」と書かれているのでしょうか。

 

3)思い、そして患う(煩う)ということはどういうことですか。あなたの心配はどこから来ていますか。マタイ6章33節、34節は真理だと思わされた経験があなたにはありますか?イエス様は世離れした安全地帯からこの言葉を語りましたか。

4)「何よりもまず、神さまのお取り仕切りに加わりたいもんだ。お心にかなうようになりたいもんだ、と心から願い続けろ。そうすれば、こんな物などは全部ついでに授けてくださる」(「ケセン語訳 山浦玄嗣・訳)。神様が私達の日々の生活、その集大成である人生を取り仕切っておられるということを知る時に私達にはどんな思いがわいてきますか。

 

5)私達の人生には私達には知りえないこと、理解できないことがあります。そんなことを経験する私達に『また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった』(出エジプト16章13節、14節)という言葉は何を語りかけますか。露が消える時に何が起こりましたか。

 

6)旧約聖書では「露」という言葉が30回も出てきますが、新約聖書には一度も出てきません。このことは露(マナ)の役割がどのように変化したことを暗示していますか(参考:申命記8章2節-3節、申命記32章1節-3節、ヨハネ6章32節-35節)。

 

7)この古の物語から今を生きるあなたが学ぶことができることは何ですか。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください