小学生の頃、「もしお前の願いが一つ、かなえられるとしたら何が欲しい?」とよく友達の間で話しました。ある者は「ギアつきの自転車」が欲しいと言い、ある者は「野球チームのレギュラーポジション」を取りたいと言いました。私はそんな時、いつも答えました。「魔法のランプ!」。なぜ魔法のランプなのか。私は思ったのです。魔法のランプがあれば、一度限りではなく、いつでも何でも手に入ると。
ある時、同じ質問が大人達に投げかけられました。「もし、あなたの願いが一つ叶うとしたら何を願いますか」ある者は「マイホーム」と言い、ある者は「会社での昇進」と答えました。人が願い求めるものは幼い時も大人になっても、あまり変わりがありません。「自転車」が「マイホーム」になり、「レギュラー」が「部長」となりました。しかし、その中で一人の人がこう言いました。
「私が既に持っているもの、与えられているもの全てに対して、心からの感謝を捧げることができるようにと願います・・・」。
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「感謝する心」が明日を拓く
2021年4月25日
私達はこれまで二回の日曜日に、テサロニケ第一の手紙の「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」という御言葉から「天を相手に生きる喜び」「聞かれない祈り」について見てまいりました。今日はその最後として「全てのことについて感謝する」ということを見ていきましょう。Ⅰテサロニケ5章16節‐18節を拝読させていただきます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5章16節‐18節)。
小学生の頃、「もしお前の願いが一つ、かなえられるとしたら何が欲しい?」とよく友達の間で話しました。ある者は「ギアつきの自転車」が欲しいと言い、ある者は「野球チームのレギュラーポジション」を取りたいと言いました。
私はそんな時、いつも答えました。「魔法のランプ!」。なぜ魔法のランプなのか。私は思ったのです。魔法のランプがあれば、一度限りではなく、いつでも何でも手に入ると。
ある時、同じ質問が大人達に投げかけられました。「もし、あなたの願いが一つ叶うとしたら何を願いますか」ある者は「マイホーム」と言い、ある者は「会社での昇進」と答えました。人が願い求めるものは幼い時も大人になっても、あまり変わりがありません。「自転車」が「マイホーム」になり、「レギュラー」が「部長」となりました。しかし、その中で一人の人がこう言いました。
「私が既に持っているもの、与えられているもの全てに対して、心からの感謝を捧げることができるようにと願います」
何ら説明のいらない、とてもシンプルな答えです。先に「マイホーム」とか「昇進」と答えた人達は、今、自分が住んでいる家よりもマイホームを願い、現在の自分のステイタスより、さらに一段上のステイタスを求めました。それに対して感謝を求めた人は言いました「既に持っているもの、与えられているもの全てに感謝ができますように」。
「あれがあれば、これがあれば」と普通、私達は考え、それを獲得しようと多くの時間と労をかけます。時にその思いは「それを手に入れない限り、私は幸せではない、幸せになれないのだ」というような思いになり、私達はその思いに囚われて生きます。
しかし、悲しいかな、人はそれを一度、手に入れますと次なるものを探し求めるようになります。賢者ソロモンがかつて言ったとおりです『 金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である』(伝道の書5章10節)私達の経済はそんな止めどもない人間の心に支えられているといっても過言ではありません。
主にある皆さん、「全ての事に感謝できますように」ということは先にお話した「魔法のランプ」に似ていると思いませんか。想像してみてください。もし、私達が全ての事に感謝できるようになったら、私達の最大の関心は「それが達成された」とか「それを獲得した」ということに限定されなくなるのです。それが達成されようが、されまいが、獲得しようが、しまいが、この感謝の心は私達がいかなる状況をも心に受け止めることができる魔法のランプとなるのです。
聖書の申命記8章1節から10節を読みます。この箇所は今から約3500年も昔、400年もの間、エジプトにて奴隷となっていた数百万とも言われるイスラエルの民が(彼らは今日のユダヤ人の祖先となります)、そこから解放されて、何もない荒野で過ごした40年の間に起きたことについて記しているものです。その時にこれらの人達に神様がどのように関わったのかということがここには記されています。
1 わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。5 あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。6 あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。7 それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある地、8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、9 あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である。その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることができる。10 あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう(申命記8章1節ー10節)。
今日はここから三つの感謝についてお話します。最初に「既に与えられているものに感謝する」について考えてみましょう。
既に与えられているものに感謝する
3節から5節を読んでみましょう。
3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。5 あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。
イスラエルの民が荒野で40年を過ごしたと言いましても私達はなかなかそれを想像することができません。しかし、そもそも、このサンディエゴの風土も本来はイスラエルの風土に似ているのです。幸いなことに私達にはコロラド、ロッキー山脈を源流とするコロラド川があります。この川は1450マイルを流れ、アリゾナのユマに到り、メキシコにまで流れていきます。
先日、ユマに行きました時に干からびた荒野のど真ん中に豊かな水量で流れるコロラド川の橋を渡りました。この水が人工的に、私達の元にも供給さえている故に、私達はこの土地に緑の木々を生えさせることができるのです。本当のサンディエゴの姿を知りたければ、フリーウエイ8で東に一時間も走れば、本来のサンディエゴの姿を見ることができます。イスラエルの民は、あのような土地に40年もの間、生きたのです。
その場所というのは、とてもとても食物を探すことなどできないような、ましてや数百万もの人達が生きることなどは絶対に不可能な土地なのです。ですから彼らを導かれた神様は、そのような旅路の中で彼らに油菓子のような味のするマナという不思議な食物を毎朝、天から降らせたと聖書は記録しています。
イスラエルの民はこの不思議な食べ物によって養われたのです。そして、それだけではなく、その40年の間、彼らの着物はすり切れず、その足がはれることはありませんでした。それは着る物、履く物、食べる物を神が彼らに与えたということです。しかし、彼らがその荒野に暮らしていた時、彼らはこんなことをつぶやいていました。民数記11章4節から6節にこう、記されています
「また彼らのうちにいた多くの寄り集まり人は欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起こすが、エジプトでは、ただで魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、今、我々の精魂は尽きた。われわれの目の前には、このマナしかない。民数記11章4節-6節
神様はその日に必要なマナを彼らに与えました。聖書を読みますと、そのマナはその日、その日に十分なもので、翌日まで保存していても、翌日には腐ってしまって食べられないものであったと言います。マナは栄養ある食物だったのでしょう。それを食べている限り、彼らは生きることができました。
しかし、彼らはこのマナに不満を持ちました。彼らは自分で耕すこともなく、刈り取ることもなく無償で天から与えられているものに対して、感謝せず、不満を持ったのです。
私達にも日毎に無償のマナが日々、神様から与えられています。私達はそのマナをどのようにいただいていますか。この神の恵みのことなど一切、考えずに、あれもない、これもないという思いが私達の心を占有していることはないでしょうか。
そこに私達が陥りますと、私達は自分が惨めに思えてきます。人を妬みたくなります。誰かを非難したくなります。主にある皆さん、このような心の土壌から、私達は将来、何か良き実を収穫することができるでしょうか。この心はこれからの私達の人生に何か益をもたらすでしょうか。
もし、私達が既に与えられているものに(よく考えましょう、それは無限にあるのです)、感謝して毎日を過ごすのなら私達は極めて、そう、本当に極めて恵まれた人です。
「あれがあったら、これがあれば」ではなく、もし私達が既に持っているもの、与えられているものに対して、心からの感謝を捧げることが出来るようになったら、私達の世界の色は変わるはず。あれやこれが私達の人生を支配するのではなく、私達は自分の人生を自由に、そして主体的に、全ての供給者なる主と共に生き、このことは自ずと私達を多くの収穫へと導いてくれることでしょう。
二つ目のことです、それは「願っていないことに感謝する」ということです。
願っていないことに感謝する
おそらく私達はこの一年、多くの思いがけないこと、願っていないことに直面したことでしょう。今、そのただ中にいるという人もいると思います。そのようなことにこのイスラエルの民達も遭いました。すなわち「苦しみ、試み」というものに彼らはあったのです。
しかし、驚くべきことはそれらの「苦しみ、試み」に対して神様は確かな目的と意味を与えておられました。3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記8章3節)。
この一年、私達は想像したこともない感染症という試みに直面しました。そして、今もそこを抜けきることができずにいます。このことに関する、またその他にも深刻な諸々のニュースを私達は毎日、見聞きしていますし、個人的な生活の中で向き合う悩みは尽きることがありません。
この言葉がモーセとイスラエルの民に語られた時、そして、2021年、私達に語られる時、私達には一つのことに導かれます。それは私達が向き合っている試みは私達に大切なことを気がつかせる神様からのアプローチであるということです。そのような意味において、私達はこの申命記の言葉をこう言い換えることができるのかもしれません。
あなたの神、主がこの一年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかった神の言葉をもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
このことによって神様が私達に気がつかせようとしていることは、私達があれやこれやと手に取り、手の中に治めることができるものによって生きるということではなく、神の言葉によって生きることなのだということなのです。
もし私達がこのことを知り、その生き方をそこにシフトするのなら、私達の試みは私達にとって感謝すべきものにさえなるのです。なぜなら、神様が私達に気づかせよう、与えようとしていることは、この試みによって失うものよりもはるかに大きいからです。
詩篇の記者は言っているではありませんか。『71 苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。72 あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。73 あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました。わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください』(詩篇119篇71節ー73節)
主はあなたの経済的困難の只中で、あなたの結婚問題の只中で、あなたの子育ての問題の只中で、年老いた親を抱えているその只中で、健康問題の只中で、私達に語りかけてくるのです。
これらのことを通して、私はあなたが、私の口から出る、神の言葉によって生きることの大切さに気がついてほしい。そのことはあなたの人生にとって何を差し置いても一番、大切なことなのだ。私はそのように人を造ったのだから。あなたの製作者の言葉を信じ、受け止めなさい。
3つめのこと、それは主が共にいることに感謝するということです。
主が共にいることに感謝する
このイスラエルの民の荒野での40年間、実はそこには裏話がありました。おそらくイスラエルの民はそのことを知らなかったことでしょう。そのことは彼らのリーダー、モーセに起きていたことでした。
モーセが最初にイスラエルの民をエジプトから導き出すという使命を神様から受けた時、彼は躊躇していいました。そりゃそうです、想像してみてください。どうして奴隷である者が神として崇められていたエジプトのパロに対峙し、その解放を迫ることなどできましょうか。まともな人間なら、そんな大変な困難を伴う責任に二つ返事で応えることなどできません。
ですからモーセも、まず言ったのです。「わたしはいったい何者でしょうか」(出エジプト3章11節)。私達も彼と同じ思いをもちます。私にいったい何ができるのか、私は何者なのかと。しかし、そんなモーセに神様は言ったのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3章12節)
また、エジプト脱出後、モーセが民の先頭に立ち、数えきれないっほどの問題を背負い、荒野での日々を送っていた時、彼がくじけそうになった時にも神様はモーセに言われたのです「わたし自身が一緒に行くであろう」(出エジプト33章14節)。この言葉を文語訳の聖書でみますと「わが臨在、汝と共にあり」という言葉になります。
皆さん、私達は毎日、明日という未踏の地に向かって生きています。その日を歩いている人は、まだ誰もいないのです。そんな旅路の中で、私達はしばしば、明日はどんな日なのだろうと心配しますが、そんな時、大切なことを忘れています。それは、その道を私は誰と共に歩くのかということです。
幼い子供に夜、「ガレージに行ってペットボトルを取ってきて」と言っても絶対に彼らは行きません。昼間とは装いを変えた闇に包まれたガレージを子供達は不安に感じるからです。でも「父さんも一緒に行くから、行こう」と言えば彼らはスキップしてついてきます。
詩篇23篇、あの有名な言葉の中でダビデは言いました「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23篇4節)
人間は人間に四六時中付き添うことはできません。それが困難な道、ましてや生死にまで関わるような道となると、そこに最後まで伴うことができる人はいません。しかし、聖書の言葉は語りかけるのです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが共におられるからです」。
エレミヤという預言者が今から2600年前におりました。彼はその言葉を口述によってバルクという書記に書き記させました。彼は南ユダという国に生きたのですが、国は政治的に混乱しており、国民の倫理は地に落ち、虎視眈々と南ユダを飲み込もうとしているバビロンからの脅威を受けているという大変な時代でした。
そのような時にエレミヤは若干20歳で神様によって預言者として召し出されました。彼に敵する者は多く、彼の郷里や親類の者達も彼を拒絶しました。しかし、彼はバルクと共に言葉を書き続けました。南ユダの王であったエホヤキムによって彼らが書き記した書が燃やされてしまった時もあり、しかし、彼らは再びこのエレミヤ書を書き続け、今日、私達のもとにこの書はあるのです。
1 「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。2 主はこう言われる、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時、3 主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(エレミヤ31章1節ー3節)
後に南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、剣を逃れた者達はバビロンに捕らえられていきます。世に言うバビロン捕囚です。エレミヤはそのような困難の只中にありながらも、荒野が恵みの場となると書いたのです。
この「荒野が恵みの場」となるということは、これ以前に起きた、今日、お話してまいりましたモーセにより40年間、荒野を旅したイスラエルの民の出エジプトの後の年月がモチーフとなっております。
奴隷でありながら、エジプトの剣を逃れて脱出してきたイスラエルの民が荒野で紅海を渡り、昼は雲の柱、夜は火の柱、天からのマナなど多くの恵みを受けました。彼らにとって荒野での生活が過酷だったのでは事実です。しかし、主はまさしくその荒野の只中で恵みを彼らの上に注がれたのです。荒野という場において神様はモーセと共にあり、ご自身をご顕現なさったのです。
エレミヤはこの言葉を民に伝えながら、この言葉を自分にも語られている言葉として受け止めたのではないかと思います。確かに彼が置かれている場所は孤立無援、周囲を敵に囲まれているような状況です。彼に対する攻撃や中傷がなくなることはありません。しかし、そのような中にあっても神は彼と共におられ、主の恵みはその荒野の只中に注がれているのだということを彼は自らの励みとしたのでしょう。
モーセ、そしてエレミヤと共にいてくださった神がこれからも私達と共にいてくださるということを信じて、私達も主に感謝するのです。
私達は今日、三つの感謝を一つ一つ確認しましょう。「私は今、既に与えられていることに感謝をしているか」。「願っていない状況でも主に捧げることができる感謝があることを私は知っているか」。そして「どんな時にも私と共にいる主に私は感謝をしているか」。
このメッセージの後に「数え切れぬ恵み」を賛美します。この歌は元々、英語の歌で、そのタイトルは「10、000 Reasons」です。そうです、私達は主に感謝をし、その御名をほめたたえる一万もの、いや無限の理由があるのです。
主にある兄弟姉妹、また新しい一週間が始まります。その行く手に何が待ち受けているか私達には分かりません。しかし、私達がこの三つの感謝と共に生きる時に、私達はこの先がいかなる状況の中にあっても、私達はそこを歩き通すことができるのです。私達の感謝の心が明日を切り拓いていくのです。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2021年4月25日
1)あなたは日々、どれぐらい感謝をしていますか。「すべての事について感謝しなさい」という御言葉に対して、あなたの心はどのように反応しますか。
2)申命記8章1節-10節を読みましょう。ここには今から約3500年前のモーセとイスラエルの民との荒野での日々に対する神様の言葉が書かれています。ここから2021年を生きる私達はどんなメッセージを受けとりますか。「今日の荒野」はどんな荒野でしょうか。
3)民数記11章4節-6節には朝毎に神様が無償でイスラエルの民に与え続けたマナに対する人々の不満が書かれています。私達にはこの類の不満がありませんか。私達には既に与えられているものに対する感謝があるでしょうか。
4)申命記8章3節にはイスラエルの民が荒野で受けた困難の理由が書かれています。彼らの試練を通して、神様は彼らに何を気がつかせよう、与えようと願っておられましたか。このことを今日の私達の状況に適応させると、どのようになりますか。
5)イスラエルの民の先頭を立つという困難な使命を与えられたモーセに神様は「わたしは必ずあなたと共にいる、私が一緒に行く」と言われました(出エジプト3章12節、33章14節)。このことを私達も受け止め、感謝することはなぜ大切ですか。
6)なぜ「感謝する心」と「魔法のランプ」は似ているのですか。
7)エレミヤ31章1節‐3節を読みましょう。イスラエルの民が「荒野で恵みを得た」ということはどういうことだったと思いますか。神様が「絶えずあなたに真実を尽くしてきた」という「真実」という言葉にはどんな意味が含まれますか。