ジャイアント馬場は2メートル9センチでしたが、イスラエルの二代目の王となりました羊飼いダビデは2メートル90センチのプロの軍人、ゴリアテと戦いました。さて、勝敗はいかに・・・。
追伸:ユーストリームによる礼拝のライブ放送予告を公示してから時がたっております。PCと繋げるべくラインケーブルも用意されているのですが、他のプロジェクトが多々あり、今件にはまだいたっておりません(天井裏からの配線が必要となります)。しばらくお待ちくださいませ。
今日、お話したメッセージです。よかったらどうぞ!↓
いかなる時も信仰をもって 2010年7月4日
今日も私達の手元にあります聖書からお話をさせていただきます。この書は「The Book」と呼ばれている書物で、長きにわたり私達人間の心を掴んできました。世の中には色々はドラマや戯曲というものがあるでしょうが、その人間に関するテーマというものは全て、この聖書の中に既にあったものと言っても過言ではないでしょう。
聖書がなぜに人の心を掴んでいるのか。なぜなら、それはこの書が人間の姿というものをありのままに記録しているからです。大抵、人は自分の失敗だとか、罪というものを表沙汰にはしたくないものですが、ここに記されている人間に関していえば、その姿が赤裸々に書かれています。それゆえにこれを読む者達は「きれいごと」ではなくて、実際にそこに記されている人間達の姿に、自分の心を重ね合わせていくのです。
なぜに聖書の中の人物はこのように赤裸々になるのか。なぜなら、聖書の中に生きた人達の心は人間の視線以外にもう一つの視線、すなわち神様の視線をとらえているからです。彼らは神の前に何人も自らを隠しえないということに気がついているのです。ですから、彼らは人間の闇の部分を隠すことなく、それを光のもとにさらすことができるのです。
私達は三月より「信じて仰ぐ」というメッセージシリーズを見てまいりましたが、今日はその最後として「そのありのままの姿」をあらわしていったイスラエルの二代目の王であったダビデという人の生涯を見ていきたく願っています。このダビデの生涯には人間が経験するエッセンスが散りばめられています。そこには賞賛に値する勇気や友愛もあれば、どろどろとした人の妬みや理性などでは抑えきれない欲望というものが描かれています。まさしくダビデはその表も裏も全て私達の前に見せているのです。
果たして、このような人生を送った彼は、何を考えて生きていったのでしょうか。このような生涯を歩んだ彼が何に寄り頼んでいたのでしょうか。このダビデについて語ることが許されるのでしたら、毎週日曜日お話しましたとしても一年ぐらいかかるのではないかと思いますが、今日はその彼の生涯から幾つかのことを選んでみていきたく願っております。まず最初に「私達は戦うべき時がある」ということです。
私達は戦うべき時がある。
「あしたのジョー」という漫画がありました。その漫画がテレビで放映された時に、その主題歌はこんな台詞で始まりました「男なら、戦う時がある。誇りを守るために命をかけて」。
皆さんはいかがですか。これまでの人生で何かのために戦ったことはありますか。毎日が戦いという方いるかもしれません。日々自分と戦っていますというような人もいるかもしれません。
ダビデの戦いはあらかじめ予定されていたものではなくて、ひょんなことから彼は戦いに臨むことになりました。その出来事は彼がまだ若い時のことで、その戦いによって彼の存在というものが聖書の中において、一気に表舞台に出てくるようになります。
当時、すなわち紀元前1000年ごろ、イスラエルの民は今日のパレスチナの語源となりましたぺリシテという民族と敵対しており、互いの間には戦がありました。そのぺリシテの人間で、その名をゴリアテという男がいました。彼の身長は2.9メートル、ジャイアント馬場が2メートル9センチだと言われていますから、ゴリアテはさらに馬場さんよりも80センチも大きいことになります。彼は青銅の兜をかぶり、60キロもある鎧を身につけ、7キロもある巨大な槍を手にしたプロの軍人で、その男が俺と一対一で戦う者はいないかとイスラエルの民を挑発し続けたというのです(サムエル上17章4節‐10節)。
イスラエルの男達はこの巨人の挑発に恐れを感じました。その挑発は40日も続いたというのですから、その間「我こそは!」と名乗りでるものは誰もいなかったのです。その時、まだ年若いダビデは軍隊に入ることもできずに羊の世話をしながら家におり、既に軍人となって戦いの前線にいる三人の兄に弁当を届けるように親から言われ、彼がちょうどその兄のもとに行った時に、ゴリアテがいつものごとくイスラエルの民を挑発しているところに居合わせます。
それを見たダビデの心は揺さぶられ「このペリシテ人は何者なので、生ける神の軍を挑むのか!」と強気な言葉を発します。このことがイスラエルの王、サウルの耳に伝わり、ダビデはサウルに呼ばれ、サウルはそのダビデの気迫を感じたのでしょう、自らの戦衣と兜、そして鎧を身につけさせ、戦いに備えさせます。しかし、軍服を着慣れていないダビデは結局それらを身につけることもせずに、剣も帯びずに、ただ谷間で選んだ石五つと石投げをもってゴリアテに近づいたのです。当然、ゴリアテは彼の姿を見、散々彼を侮ったのですが、ダビデは言うのです
「お前は剣と槍と投げ槍を持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。今日、主はおまえを私の手にわたされるであろう・・・。・・・この全会衆も主は救いを施すのに、剣と槍を用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主が我々の手にお前達を渡されるからである」(サムエル上17章45節-47節)。
そうしてダビデは用意した石を取り、石投げてそれを投げるとそれがゴリアテの額をうち、そのまま彼はうつむきに倒れたのです。勝負は五つの石を使うまでもなく、その一つ目の石、すなわちダビデの一振りで終わりました。ダビデは後年、おそらくこの出来事をもって歌ったであろう歌を詩篇33篇13節-18節に残しています。
13 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、14 そのおられる所から地に住むすべての人をながめられる。15 主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
ダビデはサウルの武具を身につけませんでした。それがどんなに素晴らしいものであっても、ダビデには使いにくいもの、慣れないものだったからです。彼は言っています「ししの爪、熊の爪から私を救いだされた主は、またわたしをこのペリシテ人の手から救い出されるでしょう」(サムエル上17章37節)。この言葉は彼がかつて羊の世話をしていた時に、神様が獰猛なししや熊から自らを守ってくださったその経験から生まれた言葉です。
私達の人生にも戦わなければならない時があります。そのような時というのは私達にとって非常事態ですから、私達は色々な準備をしたり、普段しないことをし始めます。しかし、ダビデは既に自分がもっているもの、すなわちその内なる心にあるものによってこの戦いに勝利したのです。同じように、神様は私達の内に既にあるものによってその戦いに勝利を与えられるお方です。既に心にあるものとは何でしょうか。それは今日のメッセージ、一番最後にお話しましょう。ダビデの人生の起きた二つ目のこと、それは「私達は悪意を受けることがある」ということです。
私達は悪意を受けることがある。
私達の人生にはそれが自分の落ち度や失敗でなくとも、悪意を受けることがあります。ダビデはこのゴリアテの戦いの勝利により、一介の羊飼いから、サウルの兵の隊長となります。そして、神様が彼と共におられましたゆえに彼は行く先々で手柄をたてます。彼の人気は広がり、町では「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」というような歌までが歌われるようになり、それはサウロ王の耳にも聞こえるようになりました。当然、サウルの心は穏やかではいられなくなります。その頃からサウロの心は不安定になり(聖書はその状態を悪霊が激しくサウルに臨んだと記しています)、槍を振り上げ、ダビデを何度も殺そうとします。いよいよ命の危険を感じた彼はサウロのもとから逃亡し、サウロはダビデを執拗に追いかけます。そのように逃げ回る自分の姿をダビデは「死んだ犬、一匹の蚤」(サムエル上 24章14節)と表現しています。
しかし、追われる身であるダビデにも二度、そのサウルの命を取る決定的な機会がありました。一度はほら穴の中において、ダビデはサウルの側に近づく状況におり、ダビデの従者達もこの時こそがチャンスですとダビデに言うのです。しかし、その時にダビデはサウルを一突きできる状況であったにもかかわらず、その上着のすそだけを切ってその場を去ったのです(サムエル上24章1節-7節)。そのことによって彼がサウルに対して殺意を持っていないということを証明するためです。しかし、すぐに彼はその自分のなしたことについて心の責めを感じてこう言いました「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」(サムエル上24章6節)
ダビデには再びある夜、チャンスがありました。サウルの陣に彼らが下っていってみると、サウルの陣の者達もサウルも眠っていました。まさしくその時もサウルを槍で一突きすることができるチャンスでした。しかし、ダビデはこの時も言うのです「彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか。主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに行って滅びるであろう」(サムエル上26章9節、10節)。
相手は半狂乱となり、自分の命を狙う者、そんな相手に対してダビデは敬意を失いません。なぜでしょうか。サウルがダビデにとって良き王だったからでしょうか。いいえ、そうではありません。ダビデは主が油を注がれた君に手をだすことを畏れたのです。ダビデはサウルを恐れたのではなく、神を畏れたのです。そしてそのダビデの心には、あるものがあったのです。何がその心にあったのでしょうか。そのあるものについても最後にお話しましょう。三つ目のことです。それは「私達には償いきれないことがある」ということです。
私達には償いきれないことがある。
その後、サウル王はダビデが言ったようにダビデの手によらずに自ら戦死し、ダビデはイスラエルの王座につきます。神の恵みにより彼の治世はイスラエルも平安を保ちます。しかし、安定している時にこそ、人は甘い誘惑という危険に対して無防備となります。
ある夕刻、昼寝から覚めたダビデが王宮の屋上にあがってみますと、階下に一人の女性が水を浴びているのが見えたというのです。調べてみると彼女の名前はバテシバといい、彼女は自分の部下ウリヤの妻であることが分かります。しかし、ダビデはそれを知りつつも彼女を自分の所に呼び、彼女と関係をもちます。やがて彼女はダビデの子を宿していることが分かり、ダビデはどうにか自分のしたことが公にならないようあの手この手を尽くします。しかし、どれもうまくいかず、最後にはダビデに対して忠誠を尽くしたウリヤを間接的に殺してしまうのです。王としての権威があるダビデはそれによって事の収拾を確信したでしょう。しかし、神様は彼に預言者ナタンを送り、ナタンは彼のなしたことが神の前において大きな罪であることを臆せずに指摘します。そう、ダビデは自ら償いきれない罪を犯したのです。彼はその権力によってナタンの口を封じることもできたのですが、ナタンの指摘の前に砕かれ、ひれ伏し、このような歌を歌いました。
詩篇51篇。聖歌隊の指揮者によって歌わせたダビデの歌。これはダビデがバテシバに通った後、預言者ナタンがきた時に歌ったもの。
1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。 3わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。 4わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。 5見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。 6見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。7ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。 8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。 9み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。 10神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。 11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。 12あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。 13そうすればわた