「神を信じる人などは弱い者だけだ」。そう言われますと、ただただ「おっしゃる通りだ」としか答えることができません。しかし、言うまでもなく、私達がこのような考えに固執している限り、神を知ることはできません。
私はこのようなことを言われますと、その方の顔をまじまじと見させていただきます。なぜなら、この言葉には一つの前提があります。それは「私は強いから、強くあろうとしているからこう言っているのだ。私は神により頼むほど弱くはない」。自ら強いといわれる方とはどんな人なのか、私はとても興味があるのです。
「私は強いから、強くあろうとしているからこう言っているのだ。私は神により頼むほど弱くはない」とは、とても頼もしく、勇ましい言葉です。しかし、私はこの言葉にとても懐疑的です。それは「その人は本当に強い人なのか、強くなれるのか、そもそも強いということはどういうことなのか」ということを考えるからです。
年若い頃、「この人は強いなー」と思う人達が私の周りにいました。幼い時は悪者をバタバタと倒す漫画の中のヒーローであったり、思春期であるなら喧嘩の強い友人であったり、人の目を気にせずに自らの信じるところを突き進むことができる人であったり、その年相応に強さの変遷がありました。
しかし、今、この年になって思うことは、言うまでもなく自分も含めて、私が強いと思っていた人達は決して強い人ではなかったということであり、よくよく考えますと、私はこれまで本当に強い人間に出会ったことがないということでした。そもそも強さを誇ったり、強くあろうということは、その人の弱さのあらわれであるのではないかとすら最近、思います。
本日礼拝でお話した「礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓。本日の礼拝プログラムはこちらから。
マック
この一年をふり返って
2012年12月30日
申命記8章1節―10節
①わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。②あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。③それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。④この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。⑤あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。⑥あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。⑦それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある地、⑧小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、⑨あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である。その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることができる。⑩あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。
今から3500年前、モーセという人がエジプトにおりました。彼はエジプト人ではなかったのですが、幼い時に籠に入れられてナイル川に浮かべられている所を、エジプトの王の娘に見出されて、エジプト王室で育てられました。そのまま成長していけば、彼の将来は保証されていました。
エジプトという国はその当時、成人男子だけでも60万人とも言われるモーセと同胞の仲間であるへブル人を奴隷として所有しており、彼らに過酷な労働を強いていました。
彼らは奴隷、モーセは同じ民族でありながら王室暮らしと、そこには不思議な現実がありました。
繰り返し申し上げます。黙っていればモーセの将来は約束されており、安泰でした。しかし、彼はこれらの同胞が苦しめられていることに心を痛め、耐えられなくなって、へブル人を虐げているエジプト人を打ち殺してしまうのです。体の中に流れる民族の血というものはこういう時に出てくるのでありましょう。このことゆえに、王宮に住んでいた彼もエジプトの王パロの怒りに触れ、エジプトから命からがら逃げ、ミデアンという荒野に潜伏し、そこで隠れるようにして家庭をもち、後40年をその所で過ごします。
その長い年月の後のある日、神様はモーセに「あなたがエジプトからあなたの同胞、へブル人を救いなさい」と語りかけました。モーセはその言葉に従い、逃げるように出てきたエジプトに40年ぶりに帰っていくのです。そして、同胞の民をエジプトから救い出していくのです。俗にいう出エジプトの出来事です。モーセ、80歳の時の出来事でした。
そして、後40年、モーセはこのへブルの民を荒野で導き、神様が示された約束の地、カナンに向かうのです。そのような荒野での40年も終ろうとしている時に神様がモーセをとおしてヘブルの民に語られた言葉が今日、読みました聖書の箇所なのです。
「あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない」(2)
私達にとって40年は長い年月です。皆さんの今の年齢から40年を引いてみて下さい。その時から今日までの年月、彼らは何もない荒野にいたことを想像してみてください。その彼らの生活は毎日が冒険でした。草木がないようなところで何百万もの人間が不安定な生活を40年も続けるのです。普通に考えれば、それは不可能なことで、今日の聖書の言葉はその40年の間、神様が彼らを荒野で養い守られた日々を決して忘れるなというのです。
今年も残すところあと一日となりました。新年を前に今日という日ほど、過ぎ去りました私達の一年を振り返るのに適した日はありません。ゆえに私達は今朝、この聖書の言葉をこう言い換えて、私達一人一人の心に問いかけてみたいのです。
神様がモーセとへブルの民達にその過ぎ去った40年の荒野での生活を振り返り、言った言葉をこの一年の終りに、私達一人一人に語られているこのような言葉で私達も振り返ってみましょう。「あなたの神、主がこの一年の間、それぞれの場であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない」
この言葉には「その全ての道」とあり、こう言われますと私達は二つのことが頭に浮かびます。すなわち、とても単純に言いますと、この自分の一年を通して「よかったと思える道」。そして「そうとは思えない道」ということです。よかったと思える道を覚えて、神様がそれを導いてくださったと感謝することは私達にはたやすいことかもしれません。しかし、そうとは思えなかった道に対して、そこに神の導きを覚える事は正直、誰もが困難を覚えることなのです。
平坦の道を心地よい風に吹かれて歩んでいるならいいです、しかし、それが勾配のある上り坂となったり、ゴロゴロとした崖っぷちの小道になったり、その時々に待ち受けている予期していなかった出来事に直面したり、ある時から何かを背負って歩まなければならないというのが私達の人生です。神様はそんな私達に言うのです「あなたの神、主がこの一年の間、それぞれの場であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない」。
ちょっと今、しばらく皆さんの一年を振り返ってみましょう。あの道、この道、今私が申しましたように、良かったと思える道、そうとは思えない道、心に浮かんできたでしょうか。
そのことを心にとめながら、なぜここで聖書は2節で言っているように「それら全ての道」を覚えなければならないと言っているかということを見たいと思うのです。ここにはその2つの理由がその後に「・・・のためである」という言葉と共に書かれています。
まず、第一、それは2節に書かれています「あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった」。
この箇所を英語の聖書で見ますと、ここには日本語では書かれていない言葉が記されており、目が開かれます。すなわち英語ではこのように書かれています。
2 Remember how the Lord your God led you all the way in the wilderness
these forty years, to humble and test you
in order to know what was in your heart, whether or not you would keep his
commands.
ここには「To humble and test you」と書かれています。私達が困難な道を歩む時に、神様は私達に何をされようとしているのか。その時に神様は私達を試み、そんな時の私達は心にどんな思いを持っているのかを知ろうとしている。そして、そのような出来事を通して私達をハンブル(謙遜)にしようとしていらっしゃる。
謙遜という実はどのような環境で実るのでしょうか。それは自分の限界を知り、自分のいたらなさを、自分の弱さを知る時にはじめて実る実です。それではなぜ、神様は私達を謙遜にしようとするのか。なぜなら謙らなければ神を知ることができないからです。その時に私達は神様と出会うのです。
この辺りのことをしてこう言われる方がいます。「神を信じる人などは弱い者だけだ」。そう言われますと、ただただ「おっしゃる通りだ」としか答えることができません。しかし、言うまでもなく、私達がこのような考えに固執している限り、神を知ることはできません。
私はこのようなことを言われますと、その方の顔をまじまじを見させていただきます。なぜなら、この言葉には一つの前提があります。それは「私は強いから、強くあろうとしているからこう言っているのだ。私は神により頼むほど弱くはない」。自ら強いといわれる方とはどんな人なのか、私はとても興味があるのです。
「私は強いから、強くあろうとしているからこう言っているのだ。私は神により頼むほど弱くはない」とは、とても頼もしく、勇ましい言葉です。しかし、私はこの言葉にとても懐疑的です。それは「その人は本当に強い人なのか、強くなれるのか、そもそも強いということはどういうことなのか」ということを考えるからです。
年若い頃、「この人は強いなー」と思う人達が私の周りにいました。幼い時は悪者をバタバタと倒す漫画の中のヒーローであったり、思春期であるなら喧嘩の強い友人であったり、人の目を気にせずに自らの信じるところを突き進むことができる人であったり、その年相応に強さの変遷がありました。
しかし、今、この年になって思うことは、言うまでもなく自分も含めて、私が強いと思っていた人達は決して強い人ではなかったということであり、よくよく考えますと、私はこれまで本当に強い人間に出会ったことがないということでした。そもそも強さを誇ったり、強くあろうということは、その人の弱さのあらわれであるのではないかとすら最近、思います。
私達が自分の望まない悪路(あくろ)を歩む時に私は自分の限界と弱さを覚えます。背負わなければならないものを背負い始めた時、自分の体や心というものを自分はコントロールできないのだということに気がつく時、私達は自分の弱さをしり、謙ることができます。そして、その時こそが一世一代、神を知る機会となります。そして、その時に不思議なことが起きてきます。パウロはコリント人への第二の手紙の中でこのように記しています。
7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである(コリント第二の手紙12章7節‐10節)。
聖書は不思議な書です。パウロもここで自分の弱さを取り上げ、またその弱さは高慢にならないように、すなわち謙遜になるために自分に与えられているものであるといっています。弱さゆえに自分は神を思い、それゆえに謙遜になり、その謙遜さゆえに、神の力は自分の弱さの中にに完全にあらわれる、だからそれゆえに私は喜んで自分の弱さを誇ろう、自分は弱い時にこそ、強いと言っているのです。
彼はここで「自分は弱いと言える強さ」を語っています。つまり、これらをまとめて言いますと、私達が様々な理由で、自分の限界を知る時に、私達は神を見上げるようになる、神に寄り頼むようになる。そして、その時、実は私達は自分で何もかもしようとしていた時よりも、はるかに強い人間になっている。その時、私達は神を知り、さらに私達の弱さには神の力が宿る。ゆえに、神様はまず私達を謙遜なものとするために、荒野に導かれることがあるのです。このことを聖書の言葉にあてはめて、年の暮れを迎えている私達にあてはめて言うのならこういうことになります。
あなたの神、主がこの一年の間、あなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたが謙(へりくだ)って、私の命令を守るか、どうかを知るためであった。そして、そのことにより、あなたが私にあって本当に強い人となるためである。
『あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない』ということの二つめの理由をお話します。そのことが3節後半に書かれています「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。すなわち神様はイスラエルの民を40年間、荒野に導き、その所でも彼らを導き続けた。その理由は、神ご自身が私達の心を知るためであり、私達がパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きるものなのだということを知るためであったというのです。
これは、先のこととつながります。すなわち、自分の思うような歩みをすることができない時、行く先の道が閉ざされてしまったような時、あるいは肉体を弱めてしまった時、私達は今まで大切にしていたものが全く役立たないことを知るのです。そして、本来、自分が今まで追い求めてきたものだけでは、自分の人生は不十分なのではないかということに気がつくのです。
神様はイスラエルの民を荒野に回されました。そこは自らの限界を知る場所でした。しかし、その時に神様は彼らに人にとって最も大切なことを教えられようとしました。それは人はパンだけで生きるものではないということでした。これは不思議なことです。荒野で民達が求めていた第一のものは日々の糧、すなわち食物だったのです。何百万の人が荒野にいるのですから、食べるものなどない。
しかし、神様は彼らに天からマナという不思議な食べ物を毎日与えたと聖書は記しています。彼らはそれを食べる限り、命を保つことができました。彼らの命は保証されました。彼らは飢えることはなくなったのです。しかし、それでオーケーかというとそうではないということが明らかになってきました。彼らの心は満たされず、彼らは不満たらたら暮らしたのです。
これで明らかになりました。「人はパンだけで生きるのではないからです」。そうだけではなく、神の口から出る言葉によって養われ、生きるのだというのです。パンは不可欠です。同時にその言葉が不可欠だ。そのように私はあなたちを造ったのだ。そのことに気がつくために私はあなたを荒野に導いたのだというのです。
そして、ここで言う「パン」は今日、色々なものとして当てはめることができるでしょう。その最たるものはお金でしょう。このお金についておもしろいことを言った方がいます。お金で家は買えるが、家庭は買えない。お金でベッドは買えるが、安眠は買えない。お金で時計は買えるが、時間は買えない。お金で本は買えるが、知識は買えない。お金で地位は買えるが、尊敬は買えない。お金で薬は買えるが、健康は買えない。お金で血は買えるが、命は買えない。
「人はお金だけで生きるのではない。そうではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」
私達が試練に会うと私達は自分の力で解決しようとします。でも、ある人はその時に神に出会います。そして聖書の言葉に自らより頼むものを見出していきます。その試練がどんなものであれ、神を知ることができるとするならそれに勝る人生の収穫はありません。
私は回り道、遠回りということをある程度、支持する者であります。なぜなら、自分もこれまで多くの回り道と遠回りをしてきたからです。ですから、信仰を離れている方々の気持ちがよく分かります。信仰を持とうとしない気持ちも分かります。
このようなことから学んだことは「信仰がない、信仰から離れている」イコール、「もう、絶対だめなこと、そこには意味がない」ということでは必ずしもないということです。そのことを通して、ますます自分の置かれている状況が悪くなるということも、聖書の言葉に従うならば、その人は今、まさしく聞いているだけでは分からない「人はパンだけで生きるのではない」ということを実際に体験している最中であるからです。それは何年もかかるかもしれません。しかし、それは価値ある体験です。
私が神様の元に立ち返ったのも、この「人はパンだけで生きるのではない」ということが正しいということを嫌になるほどにどに経験し、聖書の言葉に納得して神に立ち返ってきたのです。だから今、思うのです。そうだ、まことに人は神の口から出る言葉によって、はじめて生きることができるのだと。
皆さん、私の一年は散々でしたという方がいましたら、知って頂きたい。神様はその散々に思えるような一年を通して「よく考えてごらん、あなたが思い描いていたものは何だったのか。あなたが期待していたのは何だったのか。それは、パンだったのではないか。はかないものであったのではないか。あなたに本当に必要なのは、謙って私と共に歩むことではないか。私はそのあなたの問題と共にあり、本当の力をあなたに与える。この私の言葉をあなたは信じるか」と私達に語りかけているのではないでしょうか。
生きていくことは決して楽なことではありません。2013年もどんなことがあるか私達には分かりません。ある意味、聖書がここで荒野と書いている、その場こそが、今日、私達の歩んでいる地を現すのに最も適当な場所なのかもしれません。しかし、その荒野のただ中であったとしても私達は希望を持つことが出来るのです。明日を期待することができるのです。一日の中に笑みをたたえることができるのです。なぜでしょうか?
そのことを知っているその生涯全てをまさしく荒野の中に生きた預言者エレミヤはエレミヤ書31章2節―3節に書きました。「主はこう言われる。剣を逃れて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時、主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもって、あなたを愛している。それゆえ私は絶えず、あなたに真実を尽くしてきた」
神様が私達にこの朝、なされている動く事のない約束は「神様は荒野ですらも恵みをうける場と変えられるという約束です。なぜ?神は限りなき愛をもって、あなたを愛しているから。それゆえ私は絶えず、あなたに真実を尽くしてきたからです」。ゆえに、この一年の終りに確認しましょう。
あなたの神、主がこの一年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたが謙(へりくだ)って、あなたが今日の諸々のパンによって生きるのではなく、私があなたに与える言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2012年12月30日
1)申命記8章1節―10節を読みましょう。ここには『あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない』(2節)と書かれています。『すべての道を』と言われる時にあなたの脳裏に浮かぶことは何ですか。
2)あなたにとってこの一年、「良かったと思える道」は何でしたか。「良いとは思えない道」はどんなものでしたか。これら「あなたを導かれたその全ての道を覚えなければならない」という聖書の言葉をあなたはどのように受け止めますか。
3)『あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない』(2節)ということの理由がこの言葉以下にこう記されています『それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった』。これを英語の聖書はこう記しています。 Remember how the Lord your God led you all the way in the wilderness
these forty years, to humble and test you
in order to know what was in your heart, whether or not you would keep his
commands. 「To humble
and test you」と書かれているように私達が荒野で体験したことを通して謙遜になることはなぜ大切なのですか。
4)私達は時々、「神を信じる人などは弱い者だけだ」という言葉を聞くことがあります。あなたはこの言葉をどのように受け止めますか。「強い」ということはどういうことですか。
5)コリント第二の手紙12章7節‐10節を読みましょう。このところでパウロはなぜ「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と言っていますが、彼がいう強さとはどんな強さなのでしょうか。それは私達が普段使っている「強さ」とどう違いますか。
6)あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならないということの二つめの理由として、その後に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」と書かれています。私達にとって、ここに記されている「パン」にはどんなものがありますか。そのパンが十二分に与えられれば人間は全てオーケーなのでしょうか。