なぜ、私達は教会に帰るのか。

Zoomになり、スーツが売れなくなったと言われています。そうでしょう、それを着て出社したり、セールスに出たり、結婚式すらも制限されたのですから。オンラインのビジネスミーティングに出席する時に、上着だけボタンシャツを着て、下は半ズボンという方達がきっと大勢いたことでしょう。

教会と自宅の往復の時間に小一時間かかる方もいるでしょう。それに比べ、オンライン礼拝はベッドルームから歩いて10秒あれば出席できます。その気楽さを喜んでいる方もいるかもしれません。しかし、今日はあえて「私達は教会に戻らなければならない」ということをお話します。

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なぜ、私達は教会に帰るのか。
2021年7月18日

この一年半、「リモート」という言葉が何度、言われてきたことでしょうか。私達は何度、「ソシャルディスタンス」という言葉を聞いてきたことでしょうか。実際に教会ではこの1年4か月の間、毎週「リモート礼拝」や「リモート集会」がもたれてきました。これらの礼拝、集会には互いに遠く隔てられている者達が集まりました。

一年4か月、私達の教会の扉が開かれることはありませんでした。一人、誰もいない教会に来ました時、かつての賑わいを思い、主の前に「再び、この所に帰ることができますように」と祈りました。そして、遂にその日が今日、来たのです。

Zoomになり、スーツが売れなくなったと言われています。そうでしょう、それを着て出社したり、セールスしたり、結婚式すらも制限されたのですから。オンラインのビジネスミーティングに出席する時に、上着だけボタンシャツを着て、下は半ズボンという方達がきっと大勢いたことでしょう。きっと、皆さんはその気楽な生活に慣れてきていることでしょう。

教会と自宅の往復の時間に小一時間かかる方もいるでしょう。それに比べ、オンライン礼拝はベッドルームから歩いて10秒あれば出席できます。そんなライフスタイルを喜んでいる方もいるかもしれません。

しかし、今日はあえて「私達は教会に戻らなければならない」ということをお話します。

聖書によりますと、神は長い間、遠くから人間に関わってきました。時に神は星空の彼方からアブラハムに語りかけ(創世記15章5節)、稲妻の中から、そして雲の中からモーセに語りかけ(出エジプト19章16節、24章16節)、つむじ風の中からヨブに語りかけました(ヨブ記38章1節)。そして、神はその患部に触れることなく、遠くからナアマンの皮膚病を癒されました(列王記下5章)。

預言者エレミヤは書いています。1 「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。2 主はこう言われる、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時、3 主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(エレミヤ31章1節―3節)

かつて神は遠くからイスラエルに現れ、「わたしはあなたを愛している。わたしは絶えず、あなたに真実を尽くしてきた」と語られたのです。

かつて預言者イザヤは神についてこう書き記しました。21 あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。22 主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる(イザヤ40章21節ー22節)。かつて神は地球のはるか上に座して、地に住む者をイナゴのように見られました。

主にある皆さん、旧約聖書には神様が遠くから、そう、はるか彼方から人を見、人に語りかけたことが記されているのです。まさしく、それは究極のリモートでしょう。

しかし、この神はある時、驚くべきことをなされました。そのことについてヨハネはこう書き記しました。1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ1章1節ー5節)

この「言葉」は何を意味しているのでしょうか。それは「神の言葉」です。そう、かつて神がその言葉をもって万物を創造された言葉です。神が雲の中、雷の中、つむじ風の中、人間に語りかけた言葉です。その言葉には命があり、それは人の光となりました。この光は闇の中で輝きます。そして、闇はその光に勝つことはできません。

続けてヨハネはさらに腰を抜かすようなことを書きました。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(ヨハネ1章14節)

この言葉は肉体となり、私達のうちに宿りました。この言葉は誰なのか、そう、この言葉こそ我らの主イエス・キリストなのです。このお方についてヨハネは力を込めて「それは父なる神のひとり子としての栄光であり、恵みとまこととに満ちていた」と書き記しました。

地球の彼方から我々をいなごのように見ておられた神は、そのいなごのような私達の只中にイエス・キリストが生まれ、人間のすぐ側に生きることを良しとしてくださいました。このことは神と人のディスタンスがなくなったことを意味しました。

かつて雷の中から語りかけ、天から火を降り注いだ神に対して、イエス・キリストはガリラヤ湖畔で、自らの手で火を起こし、魚を焼き、優しく語りかけました。かつて遠くからナアマンの皮膚病を癒された神に対して、イエス・キリストは、同じ皮膚病を抱えた者にじかに触れ、それを癒されました(列王記下5章1節‐19節)。これらのことにソシャルディスタンスはないのです。

神がその姿をあらわさず、遠くから人に語りかけた時、はたらきかけた時、人の心に占有する思いは「恐れ」という感情でした。しかし、イエス様が人のすぐ傍らに立ち、彼らに触れ、親しく彼らに語りかけた時、彼らはそこに神のぬくもりを感じ取りました。そう、まさしく神が人の姿をとられ、私達の傍らにある時、私達は神の「愛」と「恵み」と「真実」を知ったのです。

神はこの世界の歴史を導かれるお方です。私達はかつての旧約の時代に戻ることはありません。私達は今、神の恵みの世界を突き進んでいるのです。逆戻りはありません。そう、私達はシナイ山を目指しているのではない、荒野に向かっているのではない。エルサレムの神殿に立ち返ろうとしているのではないのです。

私達はあのガリラヤ湖畔、ペテロのために火を起こし、彼の目の前で間近に語り、その手をもって人々の病に触れてくださったイエス様の御側に向かっているのです。私達は自分を裏切る者がいることを知りながら、彼らの目の前でパンを割き、葡萄酒を自らの手で分け与えられたエルサレムの二回座敷の主の晩餐に向かっているのです。

私達はエルサレム神殿で動物の生贄を捧げ、その煙が天に届くことを願っているのではなく、ゴルゴダの丘で、そこに立てられた十字架にかけられたあのお方のお声をすぐ間近に聞くことができる、その場所に向かっているのです。あの不安に満ちて、息せき切って向かったあの墓で、「おはよう」と親しく語られた、あのお方のもとに向かっているのです。

かつて神はその言葉を通して遠くから神の愛と恵みを人に伝えました。しかし、イエス・キリストは私達のもとに来られ、神の愛と恵みをその言葉のみならず、その愛と恵みを私達に見せてくださったのです。ここに私達が教会に帰る理由があります。

このキリストは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)という言葉と共に天にのぼりました。このキリストの言葉を受け止めた者達はその後、どのようにしてクリスチャン、キリストにある者として生きたのでしょうか。そう、彼らはイエス様が彼らのすぐ側にいてくださったように、互いに離れることなく、いつも共にいて、キリストの教会を建て上げていったのです。

彼らが最初の教会を建て上げていく時、彼らは何をしていたのでしょうか。それはとてもシンプルなことでした。使徒行伝2章42節は「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」と記しています。そう、彼らは互いに一つ所に集まっていたのです。

その彼らが一緒に集まっている時に(使徒行伝2章1節)、聖霊が彼らの上に下り、彼らは聖霊に満たされ、大胆にキリストを宣べ伝えるようになったのです。彼らが各々の家におる時に聖霊が注がれたのではなく、彼らが共にいる時に聖霊が下ったのです。

人々はその彼らの集まりを「エクレシア」と呼びました。そう、それは「教会」を言い表す言葉であり、その意味は「呼び出された者達の集まり」でした。パウロはこの教会に集う者達に励ましの言葉を語りかけました。この教会に集う者達に向けて、パウロはこう言ったのです。

「23また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、24愛と善行とを励むように互に努め、25ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(ヘブル10章23節‐25節)

教会はこのパウロの言葉に従い、キリストが彼らのすぐ側に来てくださったように、集会をやめないように、すなわち、互いに集まることをやめないように、互いに一つ所に共にあることを最も大切なこととしたのです。後、2000年間、主にある教会はここに信仰の拠り所を置き、今日、私達、サンディエゴ日本人教会もこのことを継承しているのです。

この一年半、私達はキリスト教の歴史においても稀なる経験をしました。そう、私達は互いの命を守るために教会に集うことができなくなりました。そして、今もそのリスクが完全に払しょくされたわけではありません。

それゆえに主の前に今、皆さんが教会に戻るのか、いや今しばらくオンラインで礼拝を捧げるのか、その判断をお委ねします。主が私達一人一人にとって一番、よい時を備えてくださることを私達は信じ、祈っています。

しかし、このボトムラインは覚えてください。それは今の状況は例外であるということです。私達は特別な理由がない限り、一つ所に集まり、互いの存在を目に留め、主の礼拝の民となるように主にあって、召されているということです。

私達の神は私達のディスタンスを超え、私達のもとに来られ、私達のために救いの御業をなしてくださいました。聖書が記しておりますように、この主は我らの羊飼いです。羊飼いがリモートで一匹一匹の羊を導くことはせず、その「群れ」の先頭に自ら立たれると言われた主イエスの言葉を私達は決して忘れてはなりません。

オンラインの礼拝は私達がコンピューターやセルホンの画面を開いたら始まり、それを閉じたら、そこで終了します。しかし、私達がこの教会に集まる礼拝は違います。私達はこの場所で心を一つにし、主を礼拝し、主の教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈るのです。

遠くからワンクリックで礼拝を始め、終えるのではない、私達はいつも目の前にいる兄弟姉妹の存在を喜び、歓迎し、彼らを祝福し、兄弟姉妹が家路に着くその後ろ姿に主のお守りがあるようにと祈り、見送ります。なぜ?なぜなら、そのことこそが主イエスが私達のために成してくださったことであり、キリスト教会、すなわちキリストにあるエクレシアはそこに今も立っているからです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年7月18日

 1)この一年四か月の間、あなたはコロナ・パンデミックを通して何を知りましたか(学びましたか)。教会の何をミスしていましたか。オンライン礼拝・集会では補いきれないことは何ですか。

 

2)神様はかつてどのように人間に関わりを持っておられましたか(創世記15章5節、出エジプト19章16節、24章16節、ヨブ記38章1節、列王記下5章、イザヤ40章21節-22節、エレミヤ31章1節―3節)。これらに共通することは何ですか。

 

3)目に見えず、遠くから雲、稲妻、つむじ風の中から私達に語りかける神について、まず私達が心にもつ感情はどのようなものでしょうか。

 

4)遠くから語られた神に対して、イエス・キリストが私達の住む土地にお生まれになったということは私達にとってどんな意味がありますか(ヨハネ1章1節‐5節、14節)。神の愛と恵みに満ちた言葉を聞いていた者達が、その神の愛と恵みを見、それに触れたということにはどんな意味がありますか。これらを踏まえて、私達が再び、教会に集うということにはどんな意味がありますか。

 

5)使徒行伝2章42節には産声をあげた教会の姿として「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」と記しています。なぜ、彼らは一つ所に集まっていたのですか。なぜパウロは「集まることをやめないで」と教会を励ましたのですか(ヘブル10章23節‐25節)。

 

6)私達は一年四か月ぶりに教会に帰ります。あなたが教会に帰る時に、注意すること、心がけるべきことは何ですか。あなたがコロナ下で学んだことは、これからの教会生活にどう役立ちますか。

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