最近、長男と空手道場に行っています。バグダッド出身のイラク人が先生です。彼は「一、二、三、正座、礼、突き」というような日本語を使って教えています。空手といえば黒帯ですが、黒帯は一月、二月練習をしたからといって得られるものではありません。空手を習う者は三日前の自分と今日の自分に明らかな違いを見出すことはできません。しかし、それが二年、三年となりますと目を見張る変化がそこに見られます。空手道場は週に一度のものではありません。そのために道場は地道に週に幾日かの日を定め、クラスを開いています。時に先生自らマンツーマンでその子にあった方法で基本を教えてくれます。生徒はただコツコツとそのクラスに通い続けることが望まれます。
このような光景を見学させていただいて、牧師のはたらきに似ているなと思いました。牧師はどうしたら兄弟姉妹達がその目標、すなわち「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」(13)に達することができるかを祈り、考え、そのための機会を提供します・・・・。
今日、礼拝でお話したメッセージです。 よかったらどうぞ↓ 動画はこちら。
キリストの体なる教会 2011年1月23日 エペソ4章11節-16節
11そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。14こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、15愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。16また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
私達は今「耐震補強」というメッセージシリーズをみてきております。しかし、今日に限り、そのシリーズから離れて教会についてお話しをさせていただきます。といいますのは開かれております聖書の言葉により、教会はキリストのからだであり、私達はそのからだの一部であるということをしっかりと自覚し、私達はそれぞれがしっかりと組み合わされ、結び合わされて、それぞれの分に応じてこの教会に仕える者なのだということを確認したく願っているからです。そして、礼拝後にもたれます係り会の説明を聞きつつ、具体的にそのキリストの体の一部として私達がこの教会に仕えることができますことを願っているからです。
この箇所は開口一番、こう書かれています「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった」(11)。このところにおける「彼」とは「イエス・キリスト」であります。すなわちイエス様ご自身がある人を「使徒とし・・・、預言者とし・・・、また牧師、教師としてお立てになった」というのです。それでは「イエス・キリストがお立てになった」とはどういうことなのでしょうか。
あまり他の職業で聞くことがない言葉だと思いますが、牧師や宣教師になろうとする者が「召命(英語で言うところのCalling)に従いました」と言っていることを聞くことがあります。「召命、コーリングに従う」ということは、どういうことかと言いますと、その人が神様から牧師になるようにという示し、コーリングを受けて、そのことに応答して牧師になったということであります。
ですから神学校に入る時にまず各々が問われることは、その人がどれだけの聖書知識をもっているだとか、その人がどれだけ優秀な人であるかということではなく、その人が確かに神様からのコーリングというものを受けているか否かということであり、もしそれがなければ牧師としてのはたらきを続けることは難しいということなのです。実際にイザヤやエレミヤ、またイエスの弟子達、全て神に従おうとする者達は皆、そのようなコーリングを受けて神にその生涯を捧げました(と、ここまで書いていて思わされますことは、今日の神学校入学において、実際にどの程度このことが確認されているのだろうかということも思わされるのですが)。このエペソ書にはそのように神様からコールされた牧師がすべきはたらきは何かということが記されているのです。12節、13節を見てみましょう。
12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
ここを読みます時に私達はこの言葉が二つに分かれることに気がつきます。すなわち12節の「聖徒達を整え、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」ということと、13節の「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」ということです。
今日はこの順番を入れ替えてこの二つのことをお話しさせていただきます。まず最初に「13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついにキリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」ということです。
最近、長男と空手道場に行っています。バグダッド出身のイラク人が先生です。彼は「一、二、三、正座、礼、突き」というような日本語を使って教えています。空手といえば黒帯ですが、黒帯は一月、二月練習をしたからといって得られるものではありません。空手を習う者は三日前の自分と今日の自分に明らかな違いを見出すことはできません。しかし、それが二年、三年となりますと目を見張る変化がそこに見られます。空手道場は週に一度のものではありません。そのために道場は地道に週に幾日かの日を定め、クラスを開いています。時に先生自らマンツーマンでその子にあった方法で基本を教えてくれます。生徒はただコツコツとそのクラスに通い続けることが望まれます。
このような光景を見学させていただいて、牧師のはたらきに似ているなと思いました。牧師はどうしたら兄弟姉妹達がその目標、すなわち「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」(13)に達することができるかを祈り、考え、そのための機会を提供します。
私達の教会は週に最低5回、礼拝を含めて御言葉を開き、祈る機会をどなたにも提供しています。この5回はどなたでも自由に来れる場所です。そして、それに加えて、毎日、家で一人で御言葉に向き合うことができるようにと「一日一生」をお配りしています。これをお配りしている理由は私達一週間の食事を日曜日や水曜日だけでまとめ食いしてては生きながらえないということと同じ理由です。
空手はまず来る日も来る日も型を学びます。長い間、通い続けた者達はその空手の流派の型というものを身につけ、見る人が見れば、それがどこの流派だということが分かります。その流派に属する者達が面識がなくとも、それは同じ型なのです。なぜなら、全世界その流派は同じ型を教えているからです。
私達も共通のバイブルから日々コツコツ学び、互いに神様に祈ることにより、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達する(13)のです。このことは教会にとって生命線となるほどに、とても大事なことなのです。
なぜ生命線なのか。その理由というものをパウロはこの後、4節以降に書き加えています。「こうして私達はもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、15愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」のです。
パウロが書いておりますことは、私達がイエス様への信仰、イエスを知る知識の一致に至ることができるのなら、私達はもはや子供のままでいることはできずに、私達の集う教会は私達をだまし惑わすこと、人の悪巧みによる様々な教え、風評というものに、心が奪われて、弄ばれることがなくなるというのです。しかし、そのイエス様への信仰の一致とイエス様を知る知識の一致がなければ、いつも私達は肉の思いだけに支配されて「自分がこうしたい、ああしたい」というような個人的な希望や感情、あるいは「これまで自分はこうしてきました」というような個人的経験やこだわりによって教会は動かされ、到底、教会が一つとなることはできないのです。
ですから、牧師の第一の仕事は教会に集う全ての人にイエス様というお方はどういうお方であり、またそのイエス様が私達に望まれている生き方はどのようなものなのかということを聖書を通して、その型を示していくことなのです。言うまでもなく、このことは一月、二月で成せるようなことではなく、人間相手のことですから、一歩前進したかと思いきや、二歩後退してしまうというようなことが起こり、このことに取り組むためには多くの忍耐が必要となるのです。しかしながら、教会ではこのことが今日も明日もコツコツとなされていくのです。このこと以外に私達の成長はありえないからです。
牧師に委ねられている二つ目のことをお話しましょう。それは「聖徒達を整え、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」(12)ということです。この言葉はその後に続く、今までお話してきました13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」という言葉と一つとなっています。
この「一つとなっている」ということが何を意味しているかといいますと「聖徒を整え、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」ということと「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達すること」は区別されるものではないということです。すなわち信仰と知識の一致というのは、頭で学ぶ、心で受け止めることだけでは得ることができないのです。それは「実践」によってはじめて私達のものとなるということです。
パウロという人は聖書の中で度々、教会を色々な呼び名で呼んでいますが、その中で一番、多いのが「キリストのからだ」という呼び名なのです。そして、私達がすべきその実践とは私達が実際に主のはたらきに関与し「キリストのからだなる教会」を建て上げていくということなのです。
このことに対してパウロは特にこの「キリストの体なる教会」ということについてコリント人への第一の手紙12章において私達の体を持ち出し絶妙な譬と共に詳しく説明しています。14実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。15もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。16また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。17もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。18そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
私達は誰一人例外なくキリストの体の一部なのです。「いや、私は違います」ということはないというのです。ただし皆が目ではないのです。皆が足ではないのです。もっと言いますと目は足にはなれませんし、足も目にはなれないのです。私達のある者は足、ある者は目として、神様によって供えられた役割を果たしていくのです。
このエペソ書ではパウロはこうも記しています。キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである(エペソ4章11節-16節。
キリストの体に属する器官である私達は、それぞれの分に応じてはたらき、そうすることによって自ずとキリストの体なる教会は成長するというのです。そして、それを育んでいくのは何かといいますと互いに切磋琢磨していく競争とか、常に完全を求めるような完璧主義や、徹底的な合理性ではなくして、「愛」だとエペソ書はいうのです。私達が自分の手で肩をもんだり、目を細めて指に刺さった棘を抜こうとするように、それは互いを大切にする、愛する思いなのです。
私達の体が成長している時、その肉体が健康であるならば自ずと成長します。なぜならその体内ではそれぞれの器官がその分に応じて十分なはたらきをしているからです。しかし、反対にもし体の一部がはたらかない、そこに問題が生じるということになりますと、その成長は止まってしまうのです。
以前、私は腰痛が激しい時にカイロプラクティックに行きましたが、そこで体が歪んでいる、骨盤が曲がっているといわれました。そうなりますと、その問題は骨盤だけの問題ではなく、内臓にも悪影響が出るというのです。体が歪んでいるとそれをかばおうとする器官に過剰な負担がかかり、そのところに支障が生じ、それがまた別のところに影響を与えていくからです。手や足を怪我するということは、その手や足だけの問題ではなく体全体の問題となるのです。もしキリストの体なる教会の器官が欠けてしまうと、またはそのところが弱くなってしまいますと、キリストの体なる教会は弱ってしまうのです。
ローマ12章3節-8節においてパウロはこう書いています。
3わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。4なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、5わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
「8対2の法則」ということを聞くことがあります。ある集団のはたらきとその維持は、その集団に属している人の2割の人達が負っているということです。言うまでもなくこれは不健全です。そのことにより体のあちこちには不調が出てくることでしょう。キリストの体なる教会のはたらきというものも2割の器官によってなされるものではありません。
言うまでもなくどんな類のはたらきであっても誰でもそれができるとは限りませんし、年齢や健康状態というものもしっかりと配慮しなければなりません。しかし、その中でも私達ひとりひとりがこの教会のために出来ることがあり、そのために教会はここにいらっしゃる全ての人を必要としているのです。
パウロは断言しています。私達はそれぞれ神様から与えられている異なった賜物(ギフト)をもっている。それはみなが違う。ある人は自分が与えられているものは小さなことなのだと思うかもしれません。しかし、そんなことは神様の前に全く問題ないのです。あの有名なタラントの譬をご存知ですね。1タラント、2タラント、5タラント、を主人から託された僕たち。あそこに記されている主人、すなわち神様は僕達に与えられているタラントが1か2か5かというようなその大きさ、多さのことは全く気にしていません。あの譬話でただ一つ、問われるのはその与えられているものを用いたか否か、ということそれだけです。あなたが与えられていること、あなたができること、それを用いていきましょう。キリストの体なる教会を皆で建て上げましょう。
マタイ6章19節から21節で主イエスご自身が言っているではありませんか。19あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。21あなたの宝のある所には、心もあるからである。
私達が主のためにすることは全て天に蓄えられているのです。私達はやがて主がこの地にこられることを信じています。ある方はその情報を究極のインサイダー取引だといいましたが本当にそう思います。そのような極秘情報を既に得ている私達の投資先はどこにむけるべきでしょうか。教会は天の投資に大きく貢献する場所なのです。
今日、この後、教会が必要としているはたらきの説明がなされます。どうぞ、どなたもその説明会にお残りください。皆でキリストの手になりましょう、足となりましょう。キリストは私達のために命を捨ててくださったのですから。お祈りしましょう。
本日のお持ちかえり 2011年1月23日 エペソ4章11節-16節
1)エペソ4章11節-16節を読みましょう。ここから分かる牧師の役目は何でしょうか。彼はある人を使徒とし、・・・ある人を牧師、教師として、お立てになった」(11)というところから、牧師の召命(コーリング)とは何だと思いますか。
2)教会に集う兄弟姉妹の一致というものがよく言われますが、12節、13節から教会における互いの一致はどこからくると思いますか。それは世の中の団体とは何が異なりますか。このために牧師が取り組むべきことは何でしょうか。
3)教会の一致を妨げるものがあるとしたら、それは何ですか。もし、私達が「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致」(13節)に到達できないとするならば、どのようなことが起きてくるでしょうか。14節からそれを読み取ってください。
4)「キリストのからだなる教会」ということについてコリント人への第一の手紙12章14節から18節を読んでください。私達の体の器官である「耳たぶ」や「かかと」はどんな役目を負っていますか。腰痛は腰だけに影響を与えるのでしょうか。
5)あなたは「キリストのからだなる教会」の一部であり、あなたはその賜物を用いることを神様は期待されているということを知る時に、あなたは何をしてこのキリストの体のために、はたらこうと願いますか。具体的に考えましょう。そして、実行しましょう。今日、神様は人間を用いて、そのはたらきを進めるようにと定めているのですから。