マイホームを砂の上に建てますか?

余命一年と宣告された28歳の高校教師の残された日々を描く「僕の生きる道」というドラマがありました。彼は自分の残された命を意識したことによって、幼い頃に思い描いていた人生を生きてこなかった、すなわち思い描いてはいたけど、それは思い描くだけであって、それを何もなしてこなかったことを後悔し、積極的に毎日を生きるようになるのです。そんな残された日が一日、一日となくなっていく時、彼は学校の教室で受験まであと一年という生徒たちに向かい、ある日、職員室の自分の机の奥底に、手つかずで置かれていた一年前に購入した本を手に取り、こう語りかけるのです。

ここに本があります。この本の持ち主は、この本を読みたいと思ったので、買いました。しかし、今度読もうと思いつつ、すでに一年が経ちました。この本の持ち主は、これを読む時間がなかったのでしょうか。いえ、たぶん違います。読もうとしなかった。それだけです。そのことに気づかない限り、5年経っても10年経っても、持ち主が、この本を読むことはないでしょう。受験まであと1年です。皆さんの中にはあと1年しかないと思っている人もいるかもしれません。でも、あと1年しかないと思って何もしない人は、5年あっても10年あっても何もしないと思います。だから、1年しかないなんて言ってないで、やってみましょう。この1年、やれるだけのことをやってみましょう」ドラマ「僕の生きる道)より。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓

マイホームを砂の上に建てますか?                           2010年8月1日

今日のテキストとなります聖書の箇所を二箇所読ませていただきます。これらはイエス・キリストが語られた同じ譬話をマタイという人とルカという人がそれぞれ書き記したものです。その内容はとてもシンプルで、おそらく今日、生まれてはじめて聖書を読みましたという人でも、その内容が難解すぎるという方はいないかと思われます。拝読させていただきます。

マタイ7章24節27節  24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

 ルカ6章47節49節  47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

キリストが生きた時代、家を建てる人はよくよくその土地というものを考えなければならなかったといいます。なぜなら、乾燥した今日のイスラエル一帯の土地は、乾季の間は住み心地がよいのですが、雨季となりますと突然、そこが川となって濁流が押し寄せてくることがあったからです。ロケーションがいいし、建てやすいからと目先のことだけを考えますと、その家が押し流されてしまうということが度々あったのです。

イエス様がこれらの言葉を語られると、それを聞いた者達はその内容を理解するのみならず、かつて自らが体験したり、見聞きしたその状況というものをその脳裏に思い起こすことができたことでしょう。キリストは生涯、庶民が理解できるこのような譬を多く話されました。なぜなら、彼は自分が知っている神の世界のこと、霊の世界のことを、それらを全く知らない、否、体験することなどできない私達に伝えなければならなかったからです。

物事を本当に分かっている人、その全体をしっかりと掴んでいる人は、難しいこと、複雑なことを誰にでも分かりやすく話すことができるといいます。そう考えますならば、イエス様のこの譬の明快さはイエス様が神様のことをよく分かっておられたということを意味しているのです。

そのことをふまえ、今日も私達は今年の標語であります、私達の心の杭を強固なものとすべく、いくつかのことを見ていきたく願っています。まず最初に「神の前にある賢さ」について。次に「自分が立つ土台の確認」について。そして最後に「神の言葉を聞いて行う」ということについてお話しましょう。

神の前にある賢さ

このところ、特にマタイによる福音書を読みます時に、そこにははっきりと「賢い人」と「愚かな人」というものが対照的に記されています。一般的に私達が「賢い人」「愚かな人」と考えます時に、私達はそれを「頭のいい人」と「頭の悪い人」と分けがちです。そして、私達が「頭のいい人」と言うときに、それは一般的に十分な教育を受け、その中でよい成績を治めている人のことを指します。しかし、このところでイエス様が言われている「賢さ」とは私達が思うような賢さとは異なるようです。すなわち神様が私達に対して賢い者とする人と、私達が賢いと思う人では、その内容が異なるということです。

それではこのところで言われている賢い人とはどんな人なのでしょうか。そのことが、とても分かりやすく書かれています。すなわちその賢い人は「岩の上」に家を建てた人だというのです。なぜ岩の上なのか。先ほどもお話しましたようにイエス様が生きた地帯、すなわち今日のイスラエル周辺地域は乾燥した地域ですから普段、降水量は微々たるものです。しかし、一度雨が降るとそれが鉄砲水のようになって流れてくるのです。よくアリゾナ州やネバタ州の砂漠地帯をドライブしていますと「FLOOD・洪水」に対する注意をうながす看板を目にしますが、それも同じ現象です。

そうです、その地域は普段、雨の「あ」の字もないのです。雨が降る気配が何もない土地なのです。しかし、賢い人はその家を建てる場所に起こりうる雨・洪水・風というものを、その時はそれを観察せずとも、そのことを考慮して家を建てる場所を選ぶ人なのです。さらにその土地の表面だけを見るのではなくて、目には見えない部分、すなわちその地下の地質ということにも目を留め、それらを踏まえて岩の上に家を建てる人をイエス様は賢い人と言われたのです。

交通事故を起こすことの少ないドライバーにはある特徴があります。何だと思いますか。その人はしっかりと交通規則を覚えているのでしょうか。それも大事でしょうが、もっと大切なことがあります。それは、その人達は常に目に見えないこと、すなわちその先に起こりうることを考えながらハンドルを握っているのです。例えば街中を運転している時に、縦列駐車の車が何台もあったりする場合、その影から誰かが飛び出てくるかもしれないということを常に考えて運転しているのです。自転車にのる人の横を過ぎる時には、その人がとつぜん自分の側に倒れるかもしれないという考えをもって、あらかじめ車間をあけて運転するのです。このようなことはまず起こらないのですが、1000回に一度起きることに常に備えることによって、彼らは事故から免れることができるのです。

ユダヤの賢人は「人の本当の知恵とは“神の視点から物事を見る”ことができることだ」と言いましたが、まさそくそうだなと思います。しかし、実際のところ、誰も物理的に神の視点に立つことはできません。しかし、私達はその霊の目をもって、目には見えず、手に触れることもできないことを思い描いていく、もっと言いますと信仰をもって見えないものを見ていく、信仰をもって考えていく、そしてそれを信仰をもって決断していくことならできるのです。そのような人を聖書は賢い人だというのです。

現在、宮崎県知事である東国原英夫知事はその著書「芸人学生」の中で「40代こそ抽象概念が理解できる」と書いています。「抽象概念」とは手にとったり、目に見ることができないものを意味しますが、知事が40歳を過ぎて大学で勉強を始めた理由の一つに学問をすれば「死」という抽象的な問題に対する答えが明確になるのではないかという期待があったといいます。彼は書いています「死の問題も含めて抽象概念はある程度、人生経験を積んでからのほうが、若い頃より理解が深いように思う」。

もし、ここに40を超えている方がいましたら、目に見えることだけに一喜一憂する生き方から次なるステップに踏みだしませんか。もちろん、40よりも若い方々、それが幼子であってもこの生き方をすることはできますので、この賢さを一日も早く得ていきましょう。私の知る限り東国原知事は信仰者ではありませんが、彼が言っていることは「目には見えない抽象概念の追求」であり、聖書はその言葉を言い換えて、それは「神様の御心を知ることだ」と言っているのです。

箴言3章5節7節にはこんな言葉があります。「心を尽くして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない。主を恐れて、悪を離れよ

「自分の知識に頼るな、自分を見て賢いと思うな」とこのところには書かれています。なぜなら、それらは神の前には知識と呼べるもの、賢いと呼べるものではないからだというのです。本当の知恵とは自らが歩むそのすべての道に主が働いておられることを認めること、目には見えない神のはたらきを信仰をもって認めることなのだというのです。これこそが人の本当の賢さなのです。

今日、私達は溢れんばかりの情報の中に生きています。それらは私達の耳や目を絶え間なく通過していきます。その環境の中で私達はどんな情報を用いて、どんな情報は捨てていかなければならないのかということが絶えず問われる世界に生きています。知らぬうちに私達はそれらの主導権を握るのではなく、それらの情報が私達の人生の主導権を握っていることがあります。しかし、私たちは20世紀を代表するカールバルトという神学者が「新聞の上に聖書を置いて読みなさい」と言いましたように、自分が見聞きすることの中に目には見えない神様のみ心を見出し、自ら祈り、考え、決断していくのです。そのことこそが神の前にある賢さなのです。

二つ目のことを見ていきましょう。それは「自分が立つ土台の確認」ということです。

自分が立つ土台の確認

ここには二人の人が描かれています。彼らがどんな仕事をしており、どんな家族構成であったかということは何も書かれていません。ただ、彼らは家を建てたというのです。それが2000年前の譬であったとしても「家」といえばその構造は今も昔も異なりません。一般的に家には土台があり、壁があり、屋根があります。彼らの家もそのようなものだったでしょう。しかし、この二人の家には大きな違いがありました。それは、その家が建っている土台でした。

そうなのです、このところにも明らかなように、一方の家は岩地の上に建てられ、かたや一方の家は砂地の上に建てられたのです。おそらくその地表においては二つの土地の違いを見分けることはできなかったのではないかと思います。しかし、その地中の地質が異なりました。言うまでもない岩地を土台とするならば、その家は固く建つことができます。しかしながら砂地にそれを建てるならば、何もない時はいいでしょうが、何かしらの自然災害に遭えばいともたやすく倒れてしまうことでしょう。

その自然災害についてここでは、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いて」と書かれています。この夏は日本に雨が多く、あちこちで河川の氾濫が起きているとニュースは伝えています。特に怖いのが都会における川の氾濫で、場所によっては数分間で数メートルも水位が上がってしまい、その間に逃げ送れてしまう危険が大きいというのです。イエス様はこのところで「雨と洪水と風」と言われました。雨は上から、洪水は下から、風は横から吹いてきます。まさしく上から横から下から襲いかかってくるのです。

時に私達が人生において受ける試練というものもこのようなものです。それは四方八方から突然、私達を襲います。あれよあれよと、それは大きな濁流となって、私達に襲いかかります。さらに雨が降ることによって洪水が起こるように、一つの試練が、さらに他の試練を引き出して、私達に襲いかかることもあります。聖書はその状況の中で砂地の上に建てた家は倒れてしまったというのです。そして、その倒れ方はひどいのだとも書かれています。

もし皆さんが完成した家を買うのではなくて、自分の家というものを土地から選び、その上にその家を建てるとしますならば、皆さんはそのマイホームをどの上に建てますか。そのマイホームを砂の上に建てますか?自分の家が建つその土地というものを気にしませんか。そのことを確認するためにボーリング調査というものがあります。特別な機械で地中、何十メートルも下にある地質を掘り出し、調べるというものです。その調査にはけっこうな費用がかかりますが、そこまですることによって、万が一の時の難を逃れるために、この調査は行われます。そりゃそうでしょう、一生の買い物をするのですから、そうたやすくそれを失うことなどできませんから。

しかし、どうでしょうか。私達の人生の土台はどうですか?私達は何の上にその人生を構築していますか。私達はどこにどんな家を建てるかということには注意深くなりますが、肝心要、自分の土台はどうですか。時に、この場合の自分の土台は私達個人のもののみならず、私達と共に生きる愛する者達にも多大なる影響を与えるものですが、いかがでしょうか。

自分の住む家が建つ場所がしっかりしているということが、すなわち、そこに住む人達が守られるということではありません。300年経っても揺らぐことのない家に住んでいながら、その家庭は常に互いに大揺れであるという人達はいくらでもいます。反対に傾いているような家に住んでいながら、日々、心満たされ、平安のうちに生きている人達もたくさんいます。

この譬は「家を建てる時のマニュアル」ではないということがお分かりになると思います。そうではなくて、これは私達自身の人生をどこに置いて生きたらいいのかということを示しているものなのです。先日、読んでおりました本の中に「もっともっとは答えではない」という一文がありました。先ほどお話しましたように、私達は目に見えないものを見ることができませんと、表面的なことに“もっともっと”と手を加えることによって、自分の問題は解決されると思います。すなわち「もっともっと」が自分の人生が抱える問題の答えなのだと思うのです。

「あれさえあれば」「こんな人がいれば」「場所さえ変えれば」私の今の問題は乗り越えられ、よくなると思うのです。このことは古今東西、古の昔から今日まで、人の歴史において繰り返されていることです。とても皮肉なことですが、この「もっと、もっと」には際限がなく、おそらくこの人の「もっともっと」がこれまでの世界経済の原動力となってきたのでしょうし、これからもそうでしょう。

しかし、覚えてください「もっと、もっと」には私達の抱える問題の本当の答えにはなりません。今日、この一言を心に刻むだけで、私達はこれからの人生、余計な出費、労力、遠回りをせずにすむかもしれません。まず私達は神にある土台というものを築くことに集中しようではありませんか。そこが崩れたらその上に何を建てても、それは虚しいのですから。最後に「神の言葉を聞いて行う」ということを見てまいりましょう。

神の言葉を聞いて行う

人の数だけ人生というものがありますが、人の生涯の違いというものをシンプルに二つに区分することができるとしますならば、それは、その人がその生涯に聞いたこと、考えたこと、決断したことを「する」か「しない」ということによる区分となりましょう。今日の御言葉にそくして言いますならば「行う」か「行わない」かということになります。この譬がはっきりと書いていますことは「聖書の言葉を知っている」ということだけでは堅固な土台を築けないということです。それを聞いて行ってはじめてそのことが可能になるのです。

以前もお話ししたと思います、余命年と宣告された28歳の高校教師の残された日々を描く「僕の生きる道」というドラマがありました。彼は自分の残された命を意識したことによって、幼い頃に思い描いていた人生を生きてこなかった、すなわち思い描いてはいたけど、それは思い描くだけであって、それを何もなしてこなかったことを後悔し、積極的に毎日を生きるようになるのです。そんな残された日が一日、一日となくなっていく時、彼は学校の教室で受験まであと一年という生徒たちに向かい、ある日、職員室の自分の机の奥底に、手つかずで置かれていた一年前に購入した本を手に取り、こう語りかけるのです。

ここに本があります。この本の持ち主は、この本を読みたいと思ったので、買いました。しかし、今度読もうと思いつつ、すでに一年が経ちました。この本の持ち主は、これを読む時間がなかったのでしょうか。いえ、たぶん違います。読もうとしなかった。それだけです。そのことに気づかない限り、5年経っても10年経っても、持ち主が、この本を読むことはないでしょう。受験まであと1年です。皆さんの中にはあと1年しかないと思っている人もいるかもしれません。でも、あと1年しかないと思って何もしない人は、5年あっても10年あっても何もしないと思います。だから、1年しかないなんて言ってないで、やってみましょう。この1年、やれるだけのことをやってみましょう」ドラマ「僕の生きる道)より。

クリスチャンになって30年がたちました。その間、毎週の礼拝、祈祷会にも出席してきました。しかし、皆さん、覚えてください。その人が誰よりも聖書の言葉を知っていても、もしその言葉に聞き、それを行っていないなら、すなわちその御言葉に生きることをしていないのなら、それは砂の上に家を建てるようなものなのです。

先ほど賢い人とは目には見えない神の御心を知る人だとお話しましたが、あえてここでその賢さにもう一つつけ加えるとしますならば、神の前にある賢い人は「聞くだけ」ではその土台を堅固にすることはできずに、「行う」ことによってその土台は堅固なものとなることを知っている人だというのです。

このことろで「聞く」ことから「行う」ということに移行する時に何が生じるのでしょうか。それがなければ「聞く」から「行う」になることがないものです。そうです、それは「信仰」です。「信仰」がなければ「聞いた」ことを「行う」ことはできないのです。すなわち聞くことは信仰がなくてもできますが、それを行うためには私達は自らの信仰が必要なのです。この一連の行為が私達の土台を堅固なものとすると聖書は言うのです。

ヤコブの手紙1章19-27節を読んでみましょう。

19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

この箇所は一つの勧めの言葉で始まっています。すなわち「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきだ」という言葉です。そして、その説明として「なぜなら、人の怒りは神の義を全うするものではないからだ」と記されています。それゆにえ、この言葉を素直に心に受け入れなさいというのです。

しかし、ヤコブはそれだけで筆を置くことはどうしてもできなかったのでしょう。もう一言、つけ加えなければならないことに気がついたのでしょう。そこで彼はその後に「御言葉を行う人になりなさい」(22)と書き足したのです。

すなわち、このヤコブ書の文脈で言いますならば「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきだ」ということを聞くだけでは何の意味もないというのです。それはあたかも「自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようで、その人は自分を映して、そこから立ち去ると、そのとたんに自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう」、すなわち、その言葉を聞き、その言葉に自らの心を照らし合わせてみたとしても、実際にそれを行わないならば、せっかく照らし合わせたその自分の心というものもやがて忘れてしまう、その御言葉そのものすらも忘れてしまうというのです。

しかし、この言葉を聞いて実際に行う人、すなわち自分の生活の中で聞くことに時間をかけ、語ること、怒ることを抑える者というのはその行いによってその人自身が祝福されるというのです。そして、その祝福とは私達の土台が堅固になるということなのです。

反対にこの御言葉をただ聞くだけで、やがてそれを忘れてしまう時に、私達は怒りという爆弾を抱えるだけではなく、そこにその人の感情を逆なでにする雨や風や洪水が押し寄せますと、時にそれが爆発してしまうのです。一度の怒りによって、その土台はもろくも崩れさってしまうのです。日常、普通に暮らしている人が、たった一度の怒りにより一生、鉄格子の中でその生涯を暮らさなければならないということを私達は知っています。

今の自分は、過去の結果である。今の自分が、未来の原因である」という言葉がありますが、私達が今日、この主の御言葉を聞き、それに生きるということがこれからの私達の土台を決めるのです。

今日も「耐震補強」というメッセージ・シリーズから、特にその中の「あなたの杭を強固にせよ!」ということを考えつつ、お話させていただきました。私達は神様から与えられる賢さと共に、聖書の言葉を聞くのみならず、それを行うことによって、その土台を強固にすることができるのです。私達がその杭を強固にするということは、それを打ち込む土台が強固であることが前提にあるべきことなのです。将来の確固たる設計や計画は私達にとってとても大切です。しかし、覚えてください。私達がまず取り組むべきことは、今日、キリストがその譬をもって語られた土台をしっかりと堅固なものとして、その上に私達の生活を確立することなのです。どうですか、あなたも今日からこの本当の意味でのライフプランというものを共に作っていきませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり                              2010年8月1日

マタイ7章24節27節、ルカ6章47節49節を読みましょう。あなたはどんな人を「賢い」と思いますか?あなたは人の本当の知恵とは“神の視点から物事を見る”ことができることだ」という言葉をどう思いますか。神の視点から物事を見るということはどのようなことでしょうか。

箴言3章5節7節には「心を尽くして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない。主を恐れて、悪を離れよ」と記されています。「自分の知識に頼らず、自分を見て賢いと思わない」とは、それらが神の前には知識と呼べるもの、賢いと呼べるものではないからです。本当の知恵とは自らが歩むそのすべての道に主が働いておられることを認めること、目には見えない神のはたらきを信仰をもって認めることなのだというのです。あなたはこのような知恵を持っていますか?どのようにしたらこのような知恵や賢さを得ることができるでようか。

誰しもその生涯に「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いて」といような試練を受けることがあります。あなたはそれにどう向き合いましたか。それらの試練は「あれさえあれば」「こんな人がいれば」「場所さえ変えれば」というようなことで乗り切ることができるものでしょうか。その時に私達に本当に必要なことは何でしょうか。

私達の人生を区分する二つのことがあるとしますならば、それは私達が思っていること、願っていることを「する」か「しない」かということではないかと思われます。あなたは自分の人生に遣り残したものがありませんか。「聞いている、知っている、考えている」のに「それらをしていない」ことがありませんか。

私達の土台が堅固な岩の上にあるということは、私達が「聖書の言葉を聞いて行う」ことなのだと聖書はいいます。このことを日々、コツコツとしていくことが私達の土台を堅固なものとします。なぜだと思いますか?あなたは聖書の言葉を聞くだけではなく、行っていますか?

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