人生観の確立(2):家族観

私達の家族は何によって結ばれているのでしょうか。結婚当初の「情熱」が今も続いていますか。家族が共有する「夢」や「ビジョン」でしょうか。「金の切れ目が縁の切れ目」「子はかすがい」と色々なことが言われますが、いかがでしょうか。

扇子は一か所の「要」が固定されている限り、バラバラになることはありません。私達の「要」は何でしょうか。

夫と妻は向き合うものではないと言われます。互いに向き合い、その距離が近ければ近いほど、互いの欠点が見えてきます。そうではなく、夫と妻は共に手を取り合って、神に向き合って共に立つものだと。家族もそうです。家族は神の前に立ち、神を見上げて生きるのです。

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人生観の確立(2):家族観
2021年5月23日

昭和の時代、日本の多くの家庭には「ちゃぶ台」がありました。ちゃぶ台はサザエさんや寅さん一家の団欒の中心にあり、巨人の星、星飛雄馬の父、星一徹は何度もこのちゃぶ台をひっくり返しました。ちゃぶ台の周りにはいつも笑いがあり、また時に感情があらわにされる家族のドラマがありました。

欧米文化の影響でしょうか、やがて私達の家庭からちゃぶ台は姿を消し、それはテーブルと椅子にとって代わり、親子が横一列に並び、テレビと向き合うようになりました。しかし、それでも私達は同じテレビ番組を見、それが食卓の話題となりました。

はたして2021年、私達の食卓の風景はどんなものなのでしょうか。デリバリーで配達された夕食を前に、スマホを片手に、取り分けられた夕食を持って、各々の部屋に消えていくというような光景でしょうか。

おそらく古の時代、人間は長い間、火を囲んで長い夜を過ごしたことでしょう。そこにはテレビも携帯もなく、大人達はその日に獲れたものを火にくべて焼き、子供達は目を輝かせながら、彼らの先祖の物語を聞き、その一日に起きた出来事を互いに語り合ったことでしょう。これからお話しますことはそんな時代の出来事です。

へブル人11章7節にはこんな言葉が書かれています。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪を裁き、そして信仰による義を受け継ぐ者となった」。 

聖書を読んだことのない人でも「ノアの箱舟」のことなら知っているのではないかと思います。神は人が考えることが悪しきことばかりであり、暴虐が地に満ちたことを憂い、人を造ったことを悔い、全地を覆い尽くす洪水によって全てを滅ぼそうとします。しかし、唯一、ノアに声をかけ、彼に巨大な箱舟を作るように命じるのです。

ノアはその神の御告げを受け、恐れかしこみ、箱舟を作ることを決意します。これは常識を超えたことでした。滅多に雨など降らない土地で巨大な船を作り出す人がいましたら、私達はその人のメンタルに何か問題があるのではないかと思いますでしょう。きっとノアもそのように思われていたに違いありません。

なぜ、まだ見ていない事柄、しかも決して起こりえないと思われることに対して、ノアは動いたのでしょうか。へブル書はここにその理由を書いています。そう、彼は「まだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を作り」(7節)始めたのです。

事の始まりは神様の御告げでした。それは自分の願いや予想ではなく、神の語りかけであり、ノアが神様からこれから起こることを聞かされた時、ノアはそれを恐れかしこみつつ受け止めたのです。そして、彼は動きました。そう、彼はその大洪水から家族を救わなければならないと思ったのです。初めに「神の言葉」があり、そして、次に彼が考えたことは「家族」のことでした。

この後、ノアは100年の年月をこの箱舟造りに費やします。彼が神の言葉に従い、苦労して木々を切り倒し、それを運び、箱舟として組み立ていくということは、彼にとりまして、家族を救うためであったのです。

2021年を生きる私達は、このノアの気持ちを理解します。ノアが「家族を救うために箱舟を造った」のに対して、私達の多くは今日「家族を支えるために生きている」のですから。銀行や病院のオフィスに行きますと、そこにはそこで働く方達の家族写真が張られたり、置かれたりしています。彼らは仕事の合間に、その写真を見て、心の励みにしているのでしょう。

「家族」というのは実に不思議なものです。友人であるなら、私達の側に誰を友とするのか、その選択肢があります。仕事に関して言えば、私達はその仕事に対する適正や給与、労働時間、福利厚生を調べて選びます。しかし、血縁に関して言えば、その選択に私達の思いや願いは一切ありません。私達こそ当事者なのですが、その決定に私達は一切、関わっていないのです。

もちろん私達の伴侶は私達が互いに選んだ相手です。しかし、その時に、もし私達が信仰を持っていたのであるのなら、その人は「主が与えてくださった人である」ということを私達は信仰をもって受け止めて結婚したに違いありません。

これらを思います時に、私達と家族との間柄というのは、人間の思いや願いを超越した、神様が関与することなのです。このことゆえに、その関係は他のものとは比べることができない特別なものなのです。ゆえに家族は私達にとって最も大切なものなのです。

今日、私達の生活環境は、家族を大切にすることを困難にさせるような環境です。私達はいつも忙しく、互いへの無関心、私達を取り囲む諸々の誘惑、このようなものが私達の生活の中にはたくさんあります。さらには私達の心にある自己中心性、無責任ゆえに、家庭に問題が起こり、家庭崩壊やdysfunctional familyという言葉は私達にとりまして遠くの話ではなくなるのです。

主にある皆さん、私達は神を畏れかしみつつ、そして家族を救おうとした、そのために箱舟を造ることを決心したノアを覚え、私達のできる最善をもって神様を第一に、そして神様から直々に与えられている家族を愛し、彼らのことが本当に大切なのだ、かけがえのない存在なのだということを言葉と行いによって示していこうではありませんか。二つ目のことをみていきましょう。

箱舟を作るにあたり、神様はノアにこう語りかけました。創世記6章14節-15節、あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中に部屋を設け、アスファルトでその内外を塗りなさい。その造り方は次の通りである・・・(創世記6章14節-15節)

この言葉の後にはノアがどのような大きさの箱舟を造ればいいのか、その具体的なサイズが数字と共に記されています。ノアはその数字に従い、箱舟を造り始めるのです。誰と?彼の家族とです。そう、ノアの傍らにいるのは彼の家族だけだったのですから。

ノアとその家族は合わせて八名であったと聖書は記録しています。神様は当初、ノアだけに箱舟建造という巨大プロジェクトについて語りましたが、そのプロジェクトはこの八人の100年におよぶプロジェクトとなりました。

それが親しい人であっても気の合わない人であっても、共に職場で働いている人とは終業時間がきたらお別れです。職場で私達は自分の感情を露にすることを控えます。そこはそのようなことが求められる場所ではありませんし、そのことがその場で有害と判断されるのなら、私達はすぐに職を失います。

しかし、私達が共に暮らしている者達の間柄はそのようなものではありません。そこで私達はユニフォームを脱ぎ、ネクタイを外し、自分の思うことを語り、振舞い、自由に過ごします。彼らは私達の全てを見聞きし、私達も彼らの全てを見聞きしているのです。

ノアとその家族は木の伐採から始まり、その運搬まで、さらにはそれを組み立てていくということを全てなさなければならず、そこには互いに協力し合う必要がありました。この壮大な計画を実現するために彼らは、大変な苦労をしたことでしょう。多くの失敗があったでしょうし、時には材木の間に指をはさんだとか、足場が崩れて落下、骨折したというような怪我をする者や病気になった者もいたことでしょう。

そして、何よりも彼らが常に向き合わなければならない一番、大きなチャレンジはこのプロジェクトを「し続ける」ということでした。結果を見ることができない仕事を一年、二年し続けることは可能でしょう。しかし、100年とは今日の私達の平均寿命よりもさらに長い時間です。この間、彼らは降る気配など全くない大雨に備えて、乾燥した大地に箱舟を造り続けたのです。その間には「お父さん、もうやめましょう」というようなことがきっとあったことでしょう。

この家族は周囲の村落でも話題となったことでしょう。この家族に関するジョークがどれだけ生まれたことでしょう。「愚かな家族を見に行くツアー」なるものが組まれ、汗水流す彼らのもとにやってくる野次馬達の中傷があったことでしょう。

このような所をノアとその家族は通ったのです。そのような過酷な状況におりながらも、互いがいたから彼らはそこを通過することができたのです。

そんな彼らは何によって結ばれていたのでしょうか。彼らを最終的に結びつけていたのは「信仰」です。彼らは信仰によって一つだったのです。そうです、彼らから力が失われていくような時、肩を落としてしまうようなことが起きた時、彼らは自らが持っているものに目を留めるのではなくて、神を信じ、神を仰いだのです。

主にある皆さん、皆さんの家族は何によって結ばれていますか。結婚当初の「情熱」が今も続いていますか。家族が共有する「夢」や「ビジョン」でしょうか。「金の切れ目が縁の切れ目」「子はかすがい」と色々なことが言われますが、いかがでしょうか。扇子は一か所の要が固定されている限り、バラバラになることはありません。皆さんの「要」は何ですか。

夫と妻は向き合うものではないと言われます。互いに向き合い、その距離が近ければ近いほど、互いの欠点が見えてきます。そうではなく、夫と妻は共に手を取り合って、神に向き合って共に立つものだと。家族もそうです。家族は神の前に立ち、神を見上げて生きるのです。それが神の家族であり、神の家族の要なのです。三つ目のことをお話しましょう。

創世記7章16節にはこう書かれています「その入ったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」。

ノアとその家族は自分達の最善を尽くして箱舟を造り上げました。神様が命じられた通り、ノアの家族と共に動物のつがいが箱舟には入れられました。そして、後にも先にもない雨が降り、大洪水が起こる時がきました。成すべきことは一つを除いて、全てなされたのです。

その一つとは何か。それは箱舟と外界を隔てる戸を閉じるということでした。もし、その戸が確実に閉じられていなければ、たとえそれが100年かけて造られた箱舟であっても、そこから水が入り、箱舟は瞬く間に沈んでしまうのです。

その最も肝心要のことを聖書は神がなさったと書いています。すなわち、神自ら最後に、その戸を閉めて下さったということは、私達の神は私達が最善を尽くしてなした全てのことを最初から最後まで見守っておられたということであり、その最終的な、神だけが成さなければならぬことを私達のために確実にしてくださるお方であるということです。

私達の周りには色々な電気器具があります。電気器具ですから、私達はそれらを使う時にそのコンセントをプラグに差し込むのです。その時にその電気器具は私達にとりまして役に立つものとなります。しかし、もし何千ドルもする最新のテレビが目の前にあったとしても、そのコンセントをプラグに差し込まなければ、それは私達の生活スペースを奪う粗大ゴミでしかないのです。

皆さん、もし私達が家族としてどんなに完全な人生の計画を立てたとしても、そのしんがりを神様に握っていただかなければ、私達はイエス・キリストがその譬話で語られた砂の上に建てられた家のようなもので、雨が降り、風が吹き、水が押し寄せれば、それはいとも簡単に倒れてしまうのです。

私達はノアの家族がしたように愛する家族のために、私達の最善を日々、心を込めてすべきです。しかし、そのことに神様が関わり、そのみ手を伸べていてくださらなければ、私達は全く無力であるということを知らなければなりません。ここぞという時、その時に私達は主がはたらいてくださるスペースを設けているでしょうか。四つ目のことをお話しましょう。

創世記9章20節‐23節を読みましょう。「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、21彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。22カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。23セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった」

箱舟を完成させた彼らの上に神様はその言葉通りに、とてつもない量の雨を四十日四十夜、降らせ、巨大な箱舟はその雨によって大海のようになった世界に浮かびました。そして、彼らはその大水から救われたのです。

そして、その大雨が降り止んだ後、この箱舟はしばらく水の上に浮かび続けますが、やがて大地を覆っていた水が引き始め、ノアとその家族は箱舟から出、再び渇いた大地でその生活をし始め、しばしの時を経て、地上での生活も安定します。

そのような中、一つの出来事が起こります。時に私達が抱える問題は私達が安定している時にもたらされます。ダビデがそうでした。そして、このノアにもそのことが当てはまりました。

ノアが陸地で選んだ仕事は農夫であり、彼はぶどう畑を造り、そのぶどうからぶどう酒を作りました。そして、その自家製ぶどう酒に彼はしたたかに酔い、裸で天幕にいたというのです。おそらく酒に酔いつぶれ、見境がつかなくなり、身にまとうものが何もないような姿で天幕で眠ってしまっていたのでしょう。

その時に彼の息子セムとヤペテは父の醜態を見ないように、後ろ向きに父に近づき、目を覆いつつ、その体に着物をかけたのです。しかし、その後を読みます時にうかがい知れるのですが、息子ハムはノアの裸を侮蔑と共に見て、それを隠すことなく言いふらしたようです。

時に家族は互いの醜態を見せ合うことがあります。言い方を変えれば、家族だけがその醜態を見せ合うことができる者達なのかもしれません。

「私の前にあなたは正しい人だ」と神をして言わしめたノアも人間、自らの心をコントロールすることができなかったのです。この出来事はただ父親が泥酔して醜態をさらしたということ以上の深い問題が、この家族にはあったようにも思えます。しかし、それが家族なのです。

主にある皆さん、私達の家庭にも色々な問題が起きます。何ら問題がないという家庭を見つけることは難しいことでしょう。私達は家族であるのに、そこに生じる何かしらの互いの確執によってその関係が全く壊れてしまうことがあります。それは滅して珍しいことではありません。

先に申しましたように家族は血縁関係を含むのです。私達の親と私達とは血で繋がっています。子供達も孫達もしかり。夫と妻は「健やかな時も病める時もあなたを愛します」と神と人との前に誓約して結ばれたのです。

しかし、私達が言う愛は不完全なもの、「愛している」と言いながら、時にそれは「あなたが愛するに値する時までね」という条件がつき、子を誰よりも愛しているといいながら、自分の自己実現と見栄のために子供に向き合うことがあるのが私達なのです。

一番、身近な家族を愛することができないのに、どうして他の人達に愛を注ぐことなどできましょうか。富士山に登頂できないのに、どうしてエベレストに登ることができましょうか。なぜ家族が憎しみ合っていますのに、世界の果てに赴き、その破れ口に立ち、それを修復することができますでしょうか。

私達の主イエス・キリストの十字架はまず、あの人、この人ではなく、私達の家庭のために、まず第一に必要なものなのです。イエス様の十字架を最初に携えていく場所は、紛争地帯でも町のスラムでもなく、まず私達の家庭であり、そのただ中にこのキリストの十字架は必要なのです。

ハムが父にとった態度はそこで終わらず、彼がしたことはその子孫にまで暗い影響を落としていったことを聖書は記録しています。そう、聖書はハムの子、カナンを名指しして、ノアの口を通してその行く末について語っています。

「カナンはのろわれよ、彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」(創世記9章25節)。ハムがしたことは父を敬わず、ないがしろにしたこと、「たかがそれだけなのに」と思うかもしれません。しかし、そのことは神の前には大きなことでした。後にモーセを通しても神様は私達にあの十戒を与えられたではありませんか。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20章12節)

主にある皆さん、私達の祝福はどこから始まるのでしょうか。それは見果てぬ地から始まるのではありません。今、皆さんがおります、その家庭から始まるのです。最後のことをお話します。

創世記9章1節から3節を読みましょう。1神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。2地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。

今日は神様が私達に与えてくださった家族の大切さをお話しました。ここで、誤解していただきたくないのですが、聖書は自分の家族以外のことは何も考える必要はないというような利己的な者になりなさいとは言っていません。

そうではなく、私達の人生の最優先をまず神におくこと、そして神から与えられた家族を大切にすることによって、私達は自分達が考えもしなかった祝福を他者に分け与えることができる者とされると聖書は約束しているのです。

主にある兄弟姉妹、ノアが神を恐れかしこみつつ、「家族を救うために」箱舟を造ったということは、ひいては「世界を救うこと」とだったのです。ノアとその家族が神の言葉を受け止め、家族を救うためにその箱舟を完成させることがなければ、私達は今、ここにいないのです。

今日、家族の問題が世界には満ちています。骨肉の争いが絶えません。本来一番、身近にいるはずの家族が一番遠くにいる者のように感じるのはなぜでしょうか。今日、「家になんか帰りたくない、近寄りたくない」と思っている人は私達が考える以上に多いのです。

国の政府は自国をより良き国にするために様々な政策を考えます。それはとても大切なことです。しかし、その政策が国民の隅々にまで行き届き、そのことゆえに状況が目に見えるかたちで改善されてく様を私達が見ることはほとんどありません。

主にある皆さん、私達一人一人はこの世界を昨日よりもよきものにする可能性を持っているのです。その可能性はどこにあるのでしょうか。それは私達がその家庭において、私達が互いに「あなたが私にとってどんなに大切であるか」ということを示し続けることです。私達のコミュニティーとはこの家族の集合体であり、さらにそのコミュニティーが集まったものを私達は国と呼び、その国が集まったものを私達は世界と呼んでいるのです。

なぜ家庭の中に笑いが失われてしまうのでしょうか。なぜ、家族の一人一人がそれぞれてんでバラバラの方向を見るようになってしまったのでしょうか。私達はそのようなことを願っていないのに、こんなに一生懸命なのに、なぜそのようなことになってしまうのでしょうか。私達はどこに本当の家族を見出すことができるのでしょうか。誰がそんなことを教えてくれるのでしょうか。

初めに神は人類最初の男と女を造りました。この男と女から子が生まれ、そこに人類最初の家庭ができあがりました。もし私達が「家族とは何か」、「どんな家族を築くべきか」と問うことができる存在がいるとするのなら、その存在は、家族の始まりに関わったお方を他にしてはありません。

家畜小屋で生まれ、ヨセフとマリアという父母の元、その家庭の中に神の一人子でありながら生きることを受け止めてくださったイエス・キリスト、自らの罪によるのではなく私達のために十字架に磔にされた主イエス・キリストがその最期に、自分を生み育ててくれた家族、そう彼の母の行く末に心を向けた、この主イエスの言葉と生きざまに習い、私達も生きることです。

もう一度、私達の家族観を点検しましょう。神第一、そして家族、それから・・・と私達の人生設計を、主を交えて確認しましょう。その時に神様は私達の想像を超えた祝福を私達に注いでくださるに違いありません。

私達が再び教会に集まる時、私達の家族がそこに集うことができますように。私達の教会が互いに祈り、励まし合って、互いの家庭の祝福を心から願い、サポートをし合っていくことができますことを心より祈り、待ち望んでいます。お祈りしましょう。

 

おもちかえり
2021年5月23日

1)あなたが幼い時の食卓の風景はどんなものでしたか。その時のどんな思い出がありますか。

 

2)「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱船を造り・・・」(へブル11章7節)。ここからノアが箱舟を造ることに導かれたどんな理由を知ることができますか。

 

3)あなたの生活の優先順位は何ですか。このことを知っていることは私達に何をもたらしてくれるでしょうか。

 

4)ノアとその家族が箱船を建造するにあたり、彼らはどんな問題や試練に直面したと想像できますか。そのことを彼らはどのようにして乗り越えていったと思いますか。家族を結ぶ要(かなめ)は何ですか。

 

5)箱船が完成し、いよいよ大雨が降り始め、神様は箱船の戸を自ら閉ざされました(創世記7章16節)。あなたは神様のはたらかれるスペースを確保していますか。あなたは「自分がすべきこと」と「主にお委ねすること」の区別ができていますか。

 

6)創世記9章20節‐23節を読みましょう。ここにはノアの失態とそれに対する息子達の姿が描かれています。家族の間にはどんな問題が起こりますか。なぜその問題は時に家族以外の人達との問題よりも深刻になるのでしょうか。

 

7)セムとヤペテは父ノアの失態を愛のマントで覆い隠しました。あなたは家族の失敗や試みをどのように受け止め、向き合っていますか。このことは後にどのように影響を与えていきましたか。創世記9章25節を読みましょう。

 

8)家族の只中にこそ、なぜ十字架が必要なのでしょうか。

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