大木に車が100マイルでぶつかれば、その被害は甚だ大きいことでしょう。車ももちろんですが、その木も折れ曲がるか無残な姿となるでしょう。しかし、どうでしょうか、その大木がオガクズのように砕かれて、中を舞っているところに車が100マイルでも200マイルでも突っ込んできても、何の被害もないのです。
「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、わたしは高く、聖なる所に住み、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」。聖書:イザヤ57章15節
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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「信じ、委ねる時」は満ちている。
へブル人への手紙11章21節
「信仰によってヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてその杖のかしらに寄りかかって礼拝した」
2010年5月9日
五月となりました。新緑のシーズンだといわれますが、南カリフォルニアではあまりそれを実感しません。しかし、はっきりとした四季のある土地では、まさしく新しい緑が芽生えていることでしょう。
神様はそれがなんであれ、成長というものをよしとされているようです。動植物の成長、そして人間の成長。よくよくそんなものを見ていきます時に、全てとはいいませんが価値あるものほど成長に時間がかかっているようです。檜(ひのき)の成長とタンポポの成長の速さは全く違いますし、犬猫の成長と人間の成長も違います。
人は生まれると、すぐに手厚いケアーを受けます。体温が保たれるように、しっかりと栄養をとることができるように、一日でもそれを怠ると、大変なことになります。子供が一週間で成人となって自立してくれれば、随分と手間や苦労が省けますが、実際は誕生から自立するまで(実際には自立した後にも)、色々なケアーが必要となります。
経済が発展し、人間の体や心について色々な研究究明がなされても、この人間の成長のプロセスはなんら変わりません。どうやら神様は私達、人間が一気に成長すること、一気にゴールのテープを切ることをよしとされずに、そこに至るまでのプロセスを一歩一歩、時間をかけて歩むことをよしとなさっているようです(実際、そのプロセスには前進あり、同時に足踏みや時には後退することもあるのですが)。
なぜ、このようなことを話しているかといいますと、私達が聖書に出てくる人物を見ていて、あらためて驚かされることは、聖書に記録されている多くの人達も皆、この成長のプロセスを歩んでいることに気がつかされるからです。彼らはとても格調の高いことを成し遂げたかと思うと、同じ人間かと思うほどの大失態を演じることがあったり、そんな行きつ戻りつという過程を経て彼らは成長しています。
その一人に今日、見ていきたいヤコブという人がいます。彼には双子であり、先に生まれてきた兄エサウがいました。この兄弟に対して父イサクと母リベカはそれぞれ異なった気持ちをもっていたようです。創世記25章27節にはこう書かれています「さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。イサクは鹿の肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した」(創世記25章27,28節)。
それぞれが父母の偏った愛を受けて育ったということは、彼らの人格にも、また兄弟同士の関係にも大きな影響を与えたことでしょう。それゆえ、弟ヤコブは兄エサウから長男の権利を奪うようになり、これに母も加担しさらにヤコブは父と兄を騙すようになります。そこから兄の憎しみと殺意を受け、命からがら家族を後に逃亡するのです。
ですから、ここで確認したいのですが、ヤコブの始まりは決して祝された家庭ではなかったのです。ある意味、そのスタートから問題があったのです。そして彼はそれを解決することなく、それを引きずったまま一人で家を飛び出したのです。悲しいかな、その後、このヤコブは彼を愛した母と再会することもなかったようです。私達はあまりそこまで思い巡らすことはありませんが、残された彼女はヤコブと共に騙そうとした夫や長男と共に、なんとも気まずい生涯をその後に送ったに違いありません。
そして、その後のヤコブですが、彼は叔父ラバンのもとに身を寄せ、そこでその娘であるラケルと出会い、二人は夫婦となっていくのですが、その時にもこの嫁家族の間で、特に義理の父との間に感情的な問題が起きてきます。結局、彼はそこからも逃げるように出ていこうとするのです。自分を育んだ父親、そして母の胎で育った双子の兄弟との仲たがい、そして、義理の父との仲たがい、ヤコブの人生は行くところ、行くところ、常にそのような問題が続きました。彼は叔父の家から出て行くときに叔父よりも裕福になっていましたが、彼が心に抱える問題は何ら解決されていませんでした。
今日、私達の多くはヤコブと同じような状況にいます。すなわち仕事を得、ある程度の地位を得、安定した生活を送っている。人にはそう見える。しかし、実際のところ、家族の間の交流がない、全くない。欲しいものは大抵、手に入れることができる、立派なダイニングテーブルに、素敵なテーブルクロスと食器を置き、最高の食事を並べることができる。しかし、そこに呼んで座ってくれる家族がいない、仲間がいない。なぜならその関係が色々な理由により途切れてしまっているから。実にヤコブも何度もそのようなところを通ったに違いありません。この席に父や母、兄がいてくれたらという思いが度々、あったことでしょう。
時々、私たちは「時は満ちた」とか「時は熟した」といいます。私達はこの言葉を全ての状況が整った時に使います。「今や資金、人材、プログラム、全てがそろった。いよいよ時が満ちた。さぁ、はじめよう」というように。すなわち、全ての良き物、必要なものはそろったのだから、その時は来たのだということです。
このことについて聖書、マルコ1章15節にもイエス・キリストも、その第一声として「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉を語られています。そして、そのイエス様の言葉による「時は満ちた」ということは、「全ての状況が良い」という意味で整ったということではないようです。
ここでイエス様が言われた「時は満ちた」ということには色々な意味が含まれています。たとえばイエスの時代に生きた人々の生活環境とは政治的にはローマ帝国の圧制の中に人々は苦しみ、貧困と倫理の堕落が顕著な時代であり、それらをまとめていいますならば、「人間の罪がいよいよ手のつけられない、どうしようもないものになった」という時代であったということが上げられるのです。そして、そのような意味において「時は満ち」イエスはそのはたらきを始めたということなのです。
ここで考えてみましょう。今までお話しましたようにヤコブがこれまで通ってきた諸々の出来事は意味のないものだったのか。いいえ、その時は分からずとも、彼が体験した苦々しい過去は、ヤコブが向き合うべき課題というものが明白にされるということにおいてとても意味のあることだったのです。そのような意味においては、彼が通った諸々の負の遺産とも呼ぶことが出来るような体験が全て出揃い、いよいよヤコブの「時も満ち」ようとしていたのです。
皆さん、聖書の希望は常に、私達の危機的状況のすぐ側にあります。ピンチは常にチャンスと隣り合わせなのです。当初、私達はその危機的状況をヤコブがそうしたように、自分なりにあの手この手を尽くして、なんとか乗り越えようとしますが、実際のところ、ヤコブの生涯もそうであったように、それは乗り越えたのではなく、逃げて問題はそのまま保留していることが多いのです。
神様はそのような「時が満ちた」ヤコブの人生に、すなわち彼がまだ叔父のもとにおり、悶々とした思い、苦々しい思いと共に暮らしていた時にこう語りかけます「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいます」(創世記31勝3節)。まさしくこの神様の言葉はヤコブに対して、あなたの時は満ちたということを示す言葉です。
皆さん、彼の生涯に積み重なった問題はどこにあったのでしょうか。彼は当初、その諸々の問題の原因を親兄弟、家族のせいにしたことでしょう。しかし、実際のところ、あくまでもそれらは表面上のことであって、その問題の根底には、「ヤコブが常に自分を正しいとする思い」が原因となっていました。
自分を中心として生きる生き方、そういう生き方をしなければ自分には自由も幸いもないと思っていた、まさしくその生き方が実は、彼を不自由にし、彼から幸いをことごとく奪っていったのです。ヤコブは自分さえよければ、兄はどうでもいいと思ったのです。自分は正しく義理の父は全て間違っているかのように彼は主張しました。しかし、神様はこのヤコブをそのままにはしておかなかったのです。そのために神様はヤコブに故郷に帰るようにというのです。そう、その故郷とはあの自分を殺そうとした兄、エサウがいる土地です。
彼はその神様の言葉に従い、家路につきます。しかし、その彼の方角に兄エサウも向かっているというのです。彼は恐れたに違いありません。あの20年前に別れた時の兄の殺意をまだ心と体が昨日のように覚えていたに違いありません。そして、いよいよ今日明日にでもエサウと向き合うことになるであろうというある晩、彼は一人、ペヌエルという場所で神様の前に出たのです。その時のことが創世記32章22節に記されています。
22彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。23すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。25ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。26その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。 29ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。32そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。
彼はその晩、神と共に格闘したのです。この格闘には色々な解釈がありますが、それは祈りの格闘と言ってもいいのかもしれません。ヤコブはそれまでの自分の人生の苦しみをよくよく知っていましたから、この問題を解決するまでは、すなわちあなたが祝福してくださるまではあなたを去らせませんと必死に神様にしがみついたのです。
その格闘があまりにも激しかったので、彼のもものつがいが外されました。もものつがいとは人間の体の中でも一番、頑丈な骨だといわれています。このことを霊的に解釈する時に、ヤコブはこの神との格闘、それにより彼にとって一番、頑と動かなかったもの、それによって、これまでの諸々の問題が引き起こされたでありましょう、彼の「我」が砕かれたのです。
このところでヤコブはそれまで抱えていた人生の問題に一つの区切りをつけました。そのところで彼は我に寄り頼んでいた人生を神様に委ねる生涯へとスイッチしたのです。もちろん、そこにいたるまでも彼は神に対する信仰をもってはいました。しかし、このところで彼は自らを神に委ねて生きていくという信仰を確固たるものとしたのです。
長い格闘ゆえに夜が開け、彼の上に朝陽がのぼりました。そして、その日のうちにヤコブは兄エサウと会います。その場で何をされてもおかしくない、ここにいたるまで何度夢に出てきただろう、何度、深夜の物音に兄ではなかろうかと恐れたであろう、その兄自らがヤコブのもとに走ってきて、彼を抱き、口づけし、共に泣いたと聖書は記しています(創世記33章)。
聖書の中には一つの揺るぎない法則があります。それは、神様は心砕けた者と共にいてくださるということ。これは揺ぎない事実です。あのイザヤ57章15節にはこう書かれているではありませんか「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」。
詩篇34篇、51篇に書かれているではありませんか!「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれたものを救われる」(詩篇34篇18節)
「あなたはいけにを好まれません。たといわたしがはん祭を捧げても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51篇16-17)
神様は私たちの心が砕かれることを望んでおられる!なぜか?なぜなら、心砕かれた者でないということは、実はそれによって一番苦しむのは自分自身なのです。砕かれずにガンとしたものに何かが衝突すれば、その被害は大きいのです。大木に車が100マイルでぶつかれば、その被害は甚だ大きいことでしょう。車ももちろんですが、その木も折れ曲がるか無残な姿となるでしょう。しかし、どうでしょうか、その大木がオガクズのように砕かれて、中を舞っているところに車が100マイルでも200マイルでも突っ込んできても、何の被害もないのです。
もし、固い心が攻撃されれば、私たちはさらに、次の攻撃に備えなければなりません。もっと心を固くしなければならないでしょう。必要とあらばこちらも反撃することをいつも考えなければなりません。これは、大変な労力であり苦しみです。しかし、もし私たちが主にあって心砕かれていくならば、それらを心配する必要はない。なぜか、神様が全てを知っておられ、私と共にいてくださるから、自分でどうこうする必要がない。ここに、私たちが普段、日常で憧れ、求めているのとは違う真の強さを私たちは知るのです。
今年も修養会があります。行かれた方は分かると思うのですが、修養会での四日間は私達の日常とは異なります。その一日がオフィスワークを中心としたもの、得意先を回る一日、三度の食事や諸々の家事の準備をするというような私達の日常ではなくて、祈ること、聖書を開くこと、メッセージを聞くこと、賛美することを中心に組まれています。
そのような環境に自分なりの課題をもって行かれるということはとても大切なことかと思います。そして、その課題には「あの人をこう変えてくれ。ああしてくれ」という祈りがあるでしょう。しかし、それらよりも先に私達が願い求めるべき祈りは「神様、私の心を照らし、私をあなたの思いのままに変えてください」という祈りであるべきです。特にこのヤコブのぺヌエルの体験のように「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と神様にしがみつくべきです。今年の修養会を通して、私達がそのような祝福を神様からいただくことができたら何と幸いでしょうか。
今日の礼拝でこのヤコブの生涯を全てお話する時間はありません。実際にこの後もヤコブの生涯は波乱万丈です。愛する子ヨセフが(彼については来週、お話します)、兄達によってエジプトに売られてしまうというようなこと、度重なる飢饉の問題、彼の直面する問題は続きます。しかし、明らかに彼がここで体験したペヌエルの体験は、そのヤコブの生涯を最後まで支えるものとなりました。
今日、読みましたへブル人への手紙11章21節にはこう書かれています
「信仰によってヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてその杖のかしらに寄りかかって礼拝した」。
彼はこの地上での最後の時に我が子ヨセフの子達、すなわち彼の孫をひとりひとり祝福して、杖によりかかり神を礼拝したというのです。彼は信仰をもって、次の世代の者達の祝福を神様に祈ったのです。それは、お前たちのこれからの長い人生、ただ神様だけに寄り頼んで生きていくようにという、その祝福があるようにという祈りであったに違いありません。そして、彼が杖によりかかって神様を礼拝したということ、それはもちろん彼が高齢になったこともあるでしょうが、あのペヌエルでもものつがいが外された後に、歩くのが不自由になった時から、彼にはかかせないものとなった杖なのでしょう。そして、彼がその杖によりかかっていたということ、それは彼があの日から信仰をもって神様に全く身を委ねてその生涯を歩み始め、それが今、静かに閉じていくということを示しているのです。
皆さん、今日はヤコブの生涯を駆け足でお話しました。彼には彼の人生がありましたように、私達一人一人にもそれぞれの人生があります。その中でもし、今日、神様からの語りかけを聞いた方がいますなら、どうぞそれを心に留めてください。神様は今も私達にヤコブと同じようにペヌエルの経験をさせてくださるのです。お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
2010年5月9日
1)ネズミと人間の成長の早さは異なります。人間は今も昔も通常10ヶ月、母の胎におり、誕生します。そして、その始まりから長い年月、時間をかけて成長します。神様はなぜこのような“過程:プロセス”を私達に与えていると思いますか。
2)創世記25章27、28節を読みましょう。父母がその子供達に対して偏愛をもつ時に夫婦、親子、そして子供同士の関係にどんな影響が出ると思われますか。親の子達に対する愛は常に平等だと思いますか。ヤコブと兄エサウ、そして父イサクとの関係はどのようなものとなりましたか。
3)ヤコブは兄と父を騙し、兄の殺意を受けながら家から逃亡し、叔父ラバンのもとに留まり、そこでラバンの娘、ラケルを妻としてめとります。しかし、そこでもラバンとの確執があり、逃げるように出て行こうとします(創世記29章‐31章)。このヤコブの姿にはパターンがありますが、その問題の核心は何だったかと思いますか。
4)このヤコブに対して神様は創世記31章3節において「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいます」と言われます。このことは実に20年ぶりにヤコブに対して殺意をもった兄エサウと再会することを意味しました。この時まで、いつも解決すべき状況から逃げていたヤコブにとって、このことは何を意味しますか。神様はなぜこのようなことをヤコブに言われたのでしょうか。
5)いよいよ今日、明日にでもエサウと向き合うことになるであろうというある晩、ヤコブは一人、ペヌエルという場所で神様の前に立ちます。創世記32章22節‐32節を読みましょう。ここに記されている格闘は何を意味しますか。「もものつがい」が外されたということは何を意味しますか。
6)イザヤ57章15節、詩篇34篇18節、詩篇51篇16節-17節の言葉を黙想しましょう。神様があなたに求めていることは何ですか?